Neetel Inside 文芸新都
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箱庭シンドローム
箱庭シンドローム

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 カナカナ蝉の鳴き声で目を覚ました。時計の針は5時を回っている。大きな欠伸を一つしてのそりと起き上がった。8月ももう終わりだというのに今日も茹だるような熱気が肌に絡みつく。これといってやることが無いとはいえこんな時間に起きる生活もいかがなものか。よし、と頷いて生暖かい水道水を一気に飲み干した。

 * * *

 カメの湯はアパートのちょうど裏手にある。トイレ共同、風呂無しのこの貧乏アパートの住人くらいしか訪れないであろうボロ銭湯は相変わらず貸切状態だった。壁に描かれた不釣合いに立派な富士山が空々しい。
 そういえば小さい頃よく祖父に連れられて行った銭湯にも似たような絵があった。祖父はその絵をえらく気に入っていたようで、銭湯に行くたびに風呂にはやっぱり富士山だなと一人ごちた。あるときウルトラマンのほうがいいと言い返すと、お前にはまだ分かるめえよと祖父は笑った。そんなものかとつまらなく思ったのを覚えている。
 ウルトラマンは無いだろ、記憶の中の自分に言い聞かせるように呟いてもう一度富士山を見上げた。ぼんやりと色あせた湯気の隙間から嘘臭い青が鮮やかにこちらを覗く。
「別にどっちでもいいか。」
 口からお湯を垂れ流すカメをポンと叩いて湯船を出た。

 ヨレヨレのジャージに着替えて男湯を出るとマッサージチェアが気だるそうに揺れていた。どうやら貸切じゃなかったらしい。冷蔵庫の脇に無造作に置かれた空き箱に100円玉を入れ牛乳ビンに手を伸ばした。が、すぐに思い直して100円玉をもう1枚投げ入れた。
「いいご身分ですねぇ。」
 不意に掛けられた声に振り向くと、よっと左手をあげる見慣れた顔があった。なんだ京子かと悪態をついて右手でぐいと缶ビールを流し込んだ。チリチリとした冷たさが喉から全身に広がる。
「飲むか?」
「いらない、ビールなんて邪道よ。」
 そう言うと差し出した缶を押しのけて冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出した。風呂あがりはやっぱりコレよね、と腰に手を当てたポーズはいつもよりも幼く見えた。
「ウルトラマンと富士山、どっちがいいと思う?」
「何が?」
 怪訝そうな表情で覗き込む顔に真顔で答えた。
「銭湯の壁。」
 一瞬きょとんとした後、「なにそれ」と彼女は短く笑った。

 * * *

       

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