Neetel Inside ニートノベル
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<リボルヴァ⇔エフェクト>
第二十五話 そのときそれがあったから

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 キィ――――ン、と耳鳴りのような音を残して、白球が土手の大空を舞い上がっていった。ユニフォームを着た小学生どもがワァワァ言っている。逆転ホームランらしいが、その代償として、ボールは多摩川によって海へと流刑処分にされてしまった。
 夕方だった。
 おれと蒼葉は肩を並べて、土手から平和なグラウンドを何をするでもなく見下ろしている。非常にアンニュイだ。
 そうやっているとカップルに見えるのかもしれない、通りがかりのウォーカーなどがにやにやしながら歩き去っていくので、おれはぶしつけな視線を浴びるたびに手ごろな石をブン投げて連中を追い払った。
 蒼葉はもうそんな気力もなく、靴をなめる雑草を手当たり次第に引っこ抜いている。
 風止はといえば、おれたちよりも二メートルほど下で、ヴァージニア(ブチ猫)と戯れている。のどをくすぐったりなんて生易しいものではなく、全身で夏の草むらのなかを転がりまわって虫と泥だらけになっている。蒼葉いわく、風止のこういう無邪気さは以前よく見られたものらしい。封印した本人がよく言うものだ。
 蒼葉は、沈んでいく夕日を見つめながら、ぽつんと呟いた。
「なんかさ、探し始めてから、あたしのなかの時間って一日も経ってないから、まだあの日にいるみたいな気がする」
 あの日、とは、おれがとっぴな話をして、風止が信じて蒼葉も渋々信じて、街を歩いて、ブチ猫を見つけた日のこと。おれの時間が終わる間際、エンがこっそりと自分の三時間をくれると無線してきた日のこと。
「そうだな。でも前向きに考えようぜ。ジャンプが一日で読めるし」
 蒼葉はいつになく青ざめた顔をしている。励ますつもりはなかったが、おれは付け足した。
「サンデーもマガジンも待たなくて済むし」
「死んだらいいのに」
 おれは自分が言われたものだと思って深く深く傷ついたのだが、どうも、蒼葉はべつにおれを罵るつもりはなかったらしい。
 ふら、と立ち上がって。
「頑張って探したのに、結局、なにもなかったね」
 そう、何もなかった。
 おれたちはただ、くそ暑い夏の道を練り歩いただけだ。
 猫の散歩にゴミ拾い。それだけだ。奇跡も解決策もなにもない。毎日風止と蒼葉は死ぬし、翌日六時間だけ復活する。
 すっかり夏だと思っていた日差しが、まだまだどんどん暑くなっていく。このままなにもかも焼き尽くすまで暑くなり続けるのかもしれない。秋も来なければ冬も終わり。もう来ない。終わらない夏休み。
「もういい」
 蒼葉がすたすたと土手を歩いていく。それに気づいた風止が慌てて駆け上ってくる。
 おれは寝転んだまま、見えそうで見えない蒼葉のスカートを見上げた。
「探すの、やめるか」
「そうする。無駄だろうし」
「だろうな」
「ちょ、ちょ」
 あわわあわと風止が、おれと蒼葉を交互に見やる。
「そんなことないよ! 頑張って探してたら、いつかきっと……」
「きっと?」
 蒼葉の背中は冷たかった。蒼葉の声だけが、夏を拒否していた。
「いつか終わるって、許してもらえるって、あんたも思ってたわけ、ミィ」
 風止は頷いたが、蒼葉には見えないことに思い当たったらしく、声に出して肯定した。
「そうだよ。いつか、いつか桃ちゃんが昔みたいに戻ってくれるって、思ってた」
「じゃあ」
 振り向いたその顔は色を失っている。人形のように。
「なんで死んだの」
「知らない」
 その答えは予想していなかった。蒼葉もおれも、は? と口を丸くしてしまった。
 風止は、ヴァージニアを胸に抱いて、空いている方の手でスカートの裾を強く強く掴んでいる。
「ほかの五人のわたしが、どうして死んだのかなんて、わからないし、知りたくもない。興味ない。だってわたしは生きてるもの。生きる方にしたんだもん。だから、死んだわたしなんて、わたしじゃないから」
 桃ちゃんだってそうでしょ? と風止は言う。
「罪悪感で死んだほかの五人の桃ちゃんが、どんな気持ちだったかなんて、わからないくせに。桃ちゃん、自分も悲しいんだったら、あんなことしなければよかったのに。桃ちゃんは天邪鬼だよ。だから、きっといまもそうだよ。信じたいのに、諦めたくないのに、無理してそんな風にしてるだけだよ」
「あんたに……」
 蒼葉の顔が、痛みをこらえるようにくしゃっと歪んだ。
「なにがわかるの?」
「じゃあ、あなたには、なにがわかっているの?」
 夕暮れのなか、蒼葉と風止は向かい合って一歩も譲らない。どこかで猫がミャアと鳴いた。
 どうやら出番はなさそうだ。おれは片付けに奔走するガキどもを眺めて、頭上の会話を聞き流した。
 パン、と頬を叩く音がした。一拍置いて、またした。
 どこかで猫が鳴いたらカラスも鳴いて、五時のチャイムまで騒ぎ始めた。







 起き上がって振り向くと、そこには誰もいなかった。
 おれはてっきり風止が残っているものだと思って、慌てて駆け出した。後にも先にも誰かがいなくてビックリしたなんて初めてだったのは間違いない。おれの家は共働きで、ガキの頃、家にはおれひとりでいるのが普通だった。寂しいなんて言葉はニュートンが生まれる前の重力って概念くらいに意味がなかった。
 だが、いまおれは走っている。人の話はちゃんと聞こうと思った。置いてけぼりにされては敵わない。
 土手から街側に降りて、赤いペンキをぶちまけたような街を駆け回る。どこかからカレーのにおいがする。手作りのカレーだ。そんなもの、おれは食ったことがあるだろうか。ああ、林間学校のときに自分で作ったことがある。それぐらいか。それぐらいだ。
 おれは、奇跡を求めている。
 ひょっとするとそれは、誰かの作ったカレーを食いたいとか、結局そんなものが動機だったのかもしれない。おれは感傷した。干渉せずに生きていくはずだったのに、感傷してしまった。だからおれに待つのは悲劇だけだ。ただのそれだけ。
 こうなることは最初からわかっていた。








 低所得者が住んでいそうなアパートと平屋の群れの中から、きゃっ、という小さな悲鳴が聞こえてきた。
 それこそ猫の通り道のような、アパートの階段と塀の隙間を縫って、おれは声の方へ身体を斜めにして突っ込んでいった。
 空き地に出た。公園というには遊具がなく、更地というには雑草が多すぎる。建設途中の鉄骨ビルの隙間を貫いて降り注ぐ夕日が泣いている。おれは頭痛がした。
 白いスーツを着た若い男が、蒼葉の手を掴んでいる。蒼葉は抵抗したいような、それをできないことを知っているような、屈辱的な表情。相当強く引っ張られているのか、踏み潰したローファーが土をえぐっている。
 悲鳴を上げたのは風止らしい。突き飛ばされたのだろう、しりもちをついて呆然と突如降り注いだ急展開を見上げるばかりだ。ブチ猫のヴァージニアはとっくの昔にトンズラを決め込んでいてどこにもいない。
 おれと蒼葉の目が合った。瞳に一瞬おれが映った、気がする。
「駆郎…………」
「おい、おっさん。拉致監禁はもっとコソコソとやりやがれ」
 白スーツの男はおれをちらっと見て、すぐ興味を失ったらしい。
 蒼葉を捕らえていない方の手をポケットに突っ込み、なにやら地面にぶちまけた。レシートやらガムの包み紙やらに一万円札が混じっているのはシュールだった。
「小僧、これで一晩遊んで来い。それですべて忘れろ。これはうちの、家族の問題なんでね、首を突っ込まないでもらおう」
 おれは、リカが持ってきた別世界の雑談を思い出した。いや、猥談か。
 蒼葉に視線で男の話の真偽を尋ねたが、俯いていて、どんな顔をしているのかよくわからない。ひとつわかるのは、こんなに静かな蒼葉は初めて見るということだけだ。
 おれは万札を踏み潰した。後になって考えてみると、そのときにはもう、今後の運命を予感していた可能性が高い。
 白スーツの男がぎろりと三白眼を向けてくる。
「おまえはなんだ? こいつの男か? ハハハッ! こいつがどんな女かもしらずに、いいねぇ、若いってのは」
 よく見ると男の目尻にはシワが刻まれている。若作りしているだけで三十代か、ひょっとすると四十の坂に足を踏み込んでいたのかもしれない。
 男は、ぎゅっと蒼葉の胸を思い切り掴んだ。
 揉むなんて生易しいものじゃない、つぶれるかってほどにだ。蒼葉の口から苦痛の声が漏れる。
「こいつとヤリたいのか? へぇ? でもダメだ、これは俺のものだからな」
 胸をまさぐっていた男の手が、蒼葉のブラウスの中へと入っていった。おれは、冷蔵庫の下にゴキブリが逃げ込んだ時の気分になった。
「お子様にはわからんだろうがな、俺はこいつに金を払っている。こいつの母親にも資金を出している。資金ってわかるか? 社会はレース場で、金はガソリン、会社がクルマだ。取引してお互いに損がないようにする。俺はこいつの身体を楽しみ、こいつは高校にいかせてもらえる、というわけだ。なんの問題もないって、その微生物ランクのオツムでもわかるだろう?」
 それまでにやにやと笑っていた白スーツが、突如乱杭歯をむき出しにして怒鳴った。
「わかったらとっとと消えろ、目障りだ!」
 風止の視線を背中に受けながら、おれは言った。
「丁重にお断りする」
「なに?」
 男の口が歪んだまま、眼光だけが一層鋭くなる。
「俺の講義はわかりにくかったか? 俺のバックには権力がある。橋の向こうにカジノがあるのは知ってるか? 俺はな、そこのオーナーなんだよ。オーナー。所有者。わからないか? 俺はこの女のオーナーでもある」
「人間は、モノじゃねえ」
「熱いねえ。大嫌いだ、そういうの」
 スッと。
 それはとても自然な動きで、誰にも止めようがなかったのは間違いない。
 先端についている長いものがサイレンサーだというのは映画で知った。銃声がこんなに澄んでいると知ったのは初めてだった。
 パァン、と高らかな音が響き渡る。風止の息を呑む音。蒼葉が目を見開く。男の釣りあがった笑い。
 肩に電流に似た痛みが走った。
 おれは……なにもできずにその場に倒れこんだ。
 心臓が脈打つたびに血が流れていくのを感じる。
「クロっ!」
 駆け寄ってきた風止の顔がさかさまだ。
 白スーツの声がする。
「ふん、顔は覚えたからな。あとでシークレットサービスの連中に消してもらおう」
「やめて……」
「なんだ、桃子。俺に口出しができると思っているのか? 悪い子だなァ、気に入らないなァ。よし、こいつの一族は皆殺しにしてやろう。根絶やしだ。ははは、子作りしたくておまえを助けようとして血が絶える。面白い冗談だ」
 べつにおれはそんな空想しちゃいなかったが、その誤解を解きほぐすことは、どうやら一生、できないようだ。頭の中に霧がかかった。
 怒りの霧が。
 それはいつだっておれを狂わせるのだ。なにもかも壊れてしまえばいい。そういう破壊衝動が人間には生まれながらにしてある。自殺する細胞のように。
 だが、本当にそのとき、おれの中には撃たれた痛みから来る怒りだけがあったのだろうか。それがおれを突き動かしていたガソリンを構成するすべてだったのだろうか。
 蒼葉の顔がちらつかなかったとは、言えない。
 足音で、男がこちらに背を向けたのがわかった。蒼葉が引きずられていく音。弱りきって声も出ないに違いない。
 おれは閉じていた瞼をぱちっと開けて、風止の口を塞いだ。目を丸くした風止に見守られながら、ゆっくりと起き上がる。見もしないで手を横に伸ばした。
 そのとき、どうしてそれがあったのだろう。
 まるで誰かが使えと言っているようだった。
 かの有名なジャンヌダルクは神から剣を授けられたという。
 なるほど、わかった。
 神様はこのおれにこう仰せなわけだ。






 闘え。

 欲しいなら奪え。

 徹底的に、逃げ場はない。





 オーケー。でもいまさら言わなくてもいい。
 知っていたんだ、最初から。
 走った。
 男が振り向きかけるのがぼやけて見えた。
 おれは握り締めたビール瓶で、白スーツの男を殴り倒した。瓶が割れ、わずかに残っていた酒の飛沫が夕焼けに消えた。血を噴出してどさりと倒れこむ男。解放されてよろける蒼葉。短くなったビール瓶。きらめく血とガラス。おれ。おれ?
 おれは人を殺した。





 ぎゅっと袖を掴まれて我に返った。
 いつの間に近づいてきたのか、風止が震えながらおれの側にいた。風止は何も言わずに首を振っている。
「なんで」
 言ったのは、蒼葉だ。動かなくなった白スーツの男を呆、とした顔で見下ろしている。
「こんなこと、して欲しいなんて言ってないのに」
「べつに」
 おれは自分の声がまだ出ることにちょっと感心した。
「おまえに頼まれてないなんて百も承知だ。おれは好きで殺ったんだ。おまえなんか関係ねえ。こいつが気に食わなかった、それだけだ」
 おれたちは、死体の前で途方に暮れていた。
 おれは自分の未来を思った。投獄は免れまい。だが、おれのこの体質では投獄されても、檻の暮らしは三時間だけか。あっけない。いや、その前にもうこの世界にカツミが入れてくれないだろう。仲間はずれには慣れている。べつにいい。
 だが、おれがここにいなくては、二人ほど死ぬやつらがいる。それが困る。それだけが困る……。
 そのとき、悲鳴が上がった。
 見ると空き地の入り口で、買い物帰りと思しきおばさんが口を手で押さえて、バケモノでも見るような目をおれたちに向けていた。ああ、これでようやく本当に逃げ場がない。お誂え向きだ。このおれに。
 誰が悪いのか。まァあんなところにビール瓶を置いておいた神様ってやつの演出能力を恨むだけだ。責任転嫁。犯罪者の典型的思考回路。
 だがおれは、状況はおれのせいではないが、決断の責任が自分にあることくらいはわかっている。
 ウーンと背伸びをした。なんでもないように。
「それじゃ、ま、一発捕まってくるとするかァ」
 なにもかも終わったな、と歩き出しかけたが、風止がおれの袖をまだ離していないことに気がついた。
「なんだよ風止。仕方ないだろ。おまえらも、運が悪かったんだと思って諦めるんだな」
「クロは」
 風止の目はまっすぐだった。怖いくらいに。
「それでいいの? このまま負けて、それでいいの?」
「終わったことは気にしないタチだ」
 風止はぶんぶんと首を振る。
「わたしは、死にたくない。このままクロが捕まったら、わたしたちの人生も、終わりだもん。絶対にイヤだよ」
 おれは思わず笑ってしまった。愉快だった。足元の死体が気にならないくらいには。
「風止、おまえ、わがままになったな」
「く、クロのせいだよっ! クロが……そんなだから……いつも……そんなだったから!」
 だから、
「生きてみるのもいいかな、って、思ったんだから……」
 風止は鞄の中から、手鏡を取り出した。おれはそれでやつの言いたいことがわかった。
 どうやら責任を取らなくてはいけないらしい。
 もっとも卑劣で、もっとも悪逆な方法で。
 おれは鏡に映った自分の顔を見た。やつれているのは夏の暑さのせいだけじゃないだろう。
 腰に手を回す。硬いグリップの感触。薬莢のにおい。傷の痛み。
 おれは風止を見た。風止もおれを見た。その眼差しに揺らぎはない。
 銃口を、偽者のおれの額に照準する。
 撃った。割れた。溶けた。
 風止がなにか言った。聞こえなかった。
 溶けて溶けて溶けて。










 おれは逃げた。
 シマウマのように。

       

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