「アンタ、今彼女とかいないわよね?」
母親は開口一番、受話器越しに俺の心を引き裂いた。
『いる?』ではなく『いないわよね?』と聞く辺り、彼女がいないことを前提に話を進めたいようだ。
「……いませんが」
「ああ、やっぱり。ちょうど良かったわ」
何がやっぱりだ。何が良いんだ。畜生。
俺は受話器を叩きつけたくなるのを堪えて、次の句を待つ。
「親戚の忍くん、前遊んであげたことあったでしょ。あの子ね、そっちで引き取ってあげてくれない?」
「は? 引き取る?」
「あの子の家、ひっどい状況なのよ。元々貧乏だったけど、父親が失業したせいでアル中になって母と子供を殴り、それでノイローゼになった母親が息子を殴りって。
さらに借金まみれでロクに給食費も払えない始末って言うのよ」
「そいつは災難だな」
「で、親が逮捕されてね、息子の忍くんを誰かが引き取るか施設に預けるかって話になったんだけど、そんな余裕があるのはうちくらいしかいないのよ」
「じゃあ引き取ればいいじゃないの」
「そうしたいのは山々なんだけど、今年優衣ちゃん受験でしょ? できれば我が家は静かにしてあげたいのよ」
「はぁ……それで俺、ってか」
「いいでしょ、どうせあんた一人で立派なマンションに住んでるんだし。弟が出来たと思って可愛がってちょうだい」
「つーかさ……その言い草だと、もうこっちに来る事は決定してるんだろ?」
「物わかりが早くて助かるわ、さすが私の息子ね。今日の昼には到着するはずだから、美味しい物でも食べさせてあげてね」
「は、今日かよ!? おい待て、ちょ」
俺が文句を言う前に既に母は電話を切っていた。
こうなってはかけ直しても携帯の方に連絡を入れても無駄だ。
……うちの女ってのは、なんでこう一方的なんだ。
愚痴を言っても仕方無い。
今日来ると言うからにはとりあえず部屋の用意もしなくてはならないだろう。
ため息と共に立ち上がり、物置代わりにしていた一室を片付け始める。
俺、真田 利明(さなだ としあき)は中々上等なマンションの一室、3LDKの部屋に一人で住んでいる。
何故そんな贅沢な真似ができるのかと言われれば、冗談半分で手を出したFXで5000万円を手にしてしまったから、と言うほかあるまい。俺自身も何かの詐欺かと思ったくらいだ。
貯まったDVDや漫画小説、フィギュアにプラモ、ゲームに楽器などを保管する場所が自宅には無かったので、こうしてマンションを倉庫兼住居に利用しているわけである。
仕事はしていない。所謂ニートと言うものだが、親の脛をかじってないだけマシだと思って頂きたい。
そして、日下部 忍(くさかべ しのぶ)。俺のばーちゃんの兄弟の孫、はとこにあたる子だ。
昔何回か遊んでやった事ははあるはずだが、正直あまり記憶に残っていない。
確か俺とは10歳差、今は小学6年生か中学1年生のはず。
そんな歳で悲惨な境遇にあった事は同情する。
が、俺には関係無い話。
ここは俺の天国(ヘブン)。
俺の聖域(サンクチュアリ)。
俺の楽園(エデン)。
俺だけのホーリーランド。
それを侵害するのは例え女子供でも年寄りでも国家暴力でも許されない。それがここのルールだ。
傷心して流れついたところ悪いが、使えないガキを置いておく理由が見あたらない。早めに追い出す心算である。
まあ、俺の物に手を触れず、我が儘を一切言わず、家事を全部やると言うのなら特別に置いてやってもよろしいが。
働かざる者食うべからずとはよく言ったものだな。
物置を部屋に戻した辺りで、インターホンが来客を告げる。
画面に映し出される頭頂部。俺は受話器を取らずに扉を開いた。
「おう、話は聞いている。正直何人たりとも入れたくな……いが……」
肩まで伸びる、細く荒れた髪。
痩せ細った体によれたジャンパー。
光を失った大きい瞳。
吐く息と同じくらい、白く消え入りそうな肌。
「どうも……よろしく、お願いします」
たった今堕天したばかりの天使が、扉の前に立っていた。