Neetel Inside 文芸新都
表紙

伊豆のホドリゴ
冬の貴方(企画)

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 帝都の片隅、永田町に佇む官舎の偉容さえも届かない、洋灯(ランプ)の暗がりのような通りに小料理店『輪島』はございます。暖簾のすきまから甘橙(オレンジ)色の光が漏れており、ほんのりと食欲をそそる香りが通りに網を張っております。さればそこから感じる温かみは、特に昨今のような寒風すさまじい冬の夜なんかは、抗いようのない安らぎを与えてくれましょう。ふらりふらりと足が伸びてしまうのです。
 そうして硝子(ガラス)の戸を引きますと、厨房のところに割烹着を着た女性がおりまして、「いらっしゃいませえ」と向けられる笑顔には、どんなに凝り固まった胸も解きほぐされてしまうのでございます。客の方々から「妙(たえ)さん」「妙さん」「今日もきれいだね」と言われれば、彼女は照れたようにくすりと俯きまして、その表情もまた愛嬌あふれる仕草なのでございました。


 さて、この割烹にはおかしな客が一人おります。いえいえ、おかしなと言ったらどんなお叱りを受けるか想像もつきませんが、とにかく一風変わった御方なのです。
 その方がはじめて『輪島』にお見えになったのは、確か昨年の秋の晩のことでございました。会社員の方がお帰りになり、店内が静けさに包まれた遅い時分です。妙さんが少し疲れて座ろうとしたら、がらがらと戸が開きましたので、彼女は佇まいを直しました。
 入ってこられましたのは、はじめてお目にかかる男の人でした。帝都は黒い雲に覆われているのでしょう、彼の肩は濡れ、その背後に覗いた土瀝青(アスファルト)も街灯の光にてらてらと照らされておりました。
 妙さんははっと緊張いたしました――彼の外套が軍服で、目深に被った帽子が軍帽であることに気づいたのです。また同時に、近ごろになって囁かれます憲兵の悪い噂も思い出していました。「……いらっしゃいませ。はじめまして、妙と申します」
 すると、彼は妙さんのこわばりを感じとったのか「私は別にどうこうしようときたわけではありません。ただここから漂う匂いに惹かれただけです。夏の虫のようなものですから、どうか肩の力を抜いてください」と軍帽を外しながら、おもむろに言いました。
 ひどく身を削られたような足取りで、彼は厨房の前の席に腰を下ろしました。妙さんが何になさるのかと問いましたら、彼は「鰤の照り焼きはありますでしょうか」と彼女に目をむけました。そして彼女が頷きますと、静かに微笑んだのでした。


 彼は小田育二(おだいくじ)様といいました。陸軍の将校様でした。
 小田様は、常連と呼ぶほど足繁く通うわけではなく、顔を忘れてしまうくらい遠のくわけでもありませんでした。「そういえば、あの人は次はいつきてくれるのだろうか」と思いはじめたときに、決まって他の客が消えてしまったあとでやってくるのです。
 それは――今日も。
「いらっしゃいませ。外は、大変お寒いのでしょうね」白い息を吐きながら入ってこられた小田様に、妙さんは小皿で出汁の味見をしてからゆっくりと話しかけました。
「帝国軍人にとっては、たいしたことではありません」
「でも、熱燗であったまるぐらいのことはよろしいじゃございません?」
「……そう、ですね。いただこうと思います」
 相手が軍人ということで、はじめはどうしても気を張ってしまっていた妙さんでしたが、このころにはもう他の客と同様に、いや、それ以上に親しげに話すようになっておりました。子どものような笑みを浮かべて、冗談を口にすることもあるほどでした。小田様も小田様で、他の軍人なら激憤のままに乱暴してもおかしくないことを言われても、怒るどころか笑ってさえいました。その、鍋から立ち上る湯気をはさんで言葉を交わすお二人の姿は、恋物語(ロマンス)と称しても差し支えない光景だったことでしょう。
「あ、そういえば……小田様は肉桂(シナモン)を知っていますか?」
 妙さんがふろふき大根に箸を通しながら、ふと聞きました。
「しなもん? いえ、いいえ、耳にしたことのない言葉です」
「ふふ、軍人さんは鍛錬ばかりしていて、お勉強をする時間がないんですね」
 いたずらっぽく微笑んで、妙さんは小田様の顔を見ます。さすがの小田様もむっとしました。
「私は書も読みますよ。それで、なんなのですか? それは」
「ちょっと待ってくださいね」妙さんは一度奥の座敷に潜っていったかと思うと、すぐに戻ってきました。その手には胡椒のような山椒のような粉末の詰まった小瓶が収まっています。小田様はそれをじっと見つめました。「それが、しなもんですか? 調味料のような……私はてっきりもっと学術的なものを想像していましたが……」
「女に学を望むのですか? 元より私は小料理屋ですよ」妙さんは不機嫌半分面白半分といったふうに眉をしならせてから、それでも、と続けました。
「少しはあります。知ってますか? 肉桂は世界最古の香辛料だそうですよ? ……まあ、珍しいからとこれを下さったお得意さんが教えてくれたんですけどね」
「ははあ、そうなのですか。だとすると、しなもんは最も人類に馴染んだものなのかもしれない……けれど、私をはじめほとんどの日本人はその存在を知らないでしょう。そう考えると、この国はいかに小さく、世界から離れているのか」
「その小さな島国を大きくしてくれるのが、あなたたち軍人さんや政治家でしょう?」
 またも軽口を叩かれ、ちょっと考え込むようにしたあと、小田様はふっと息を吐きました。
「まったく……あなたがここまで口が達者な方だとは思わなかった」
「私もそう思います」
「え?」
「私もどうしてこんなふうに話ができているのか、わかりません」――もうこんな笑顔を誰かに見せることなんてないと思っていたのに、と妙さんは小さく口を動かしました。
「……そういえば、ご主人は?」形式は問いでしたが、小田様はすでに、実を言うと最初に来店したときから感づいておりました。厨房に立っているのはいつも妙さんだけ。女が一人で商いを営むのはあまり一般的ではありません。小田様はすぐさま後悔の念に駆られましたが、妙さんは簡単に「亡くなりました」と呟きました。
「でも、ここで一人でいるのは寂しくないです。主人が療養所(サナトリウム)にいる頃から、そうでしたから。そのころにいっぱい泣いて、慣れてしまいましたから。元から二人が入るには手狭だったんですよ、この厨房。だから、今はむしろやりやすいです」
「…………」
 小田様の沈黙が、静寂に変わっていきました。くつくつという鍋の煮立つ音だけが、耳朶を透けていきます。しかしそれでも、妙さんは平素と寸分違わずゆったりと菜箸を動かしていました。小田様もその姿をいつものように見つめていました。だから、唇を開く頃合いもそこから生まれる声も、すべていつもと同じでした。
「妙さん」
「なんですか?」
「鰤の照り焼きをいただきたい」
「くす、ほんとうに好きなんですね。いつもお頼みになります」
「ええ、ええ。美味いから、好きです」
 そう言って、二人は少しだけ笑い合いました。


 けれどそれから、小田様は顔を見せなくなりました。もうそろそろくるだろうかと予想しても、あのたくましい腕が暖簾を潜ってくることはありませんでした。毎夜、妙さんは暖簾を下ろすとき、通りを右と左と見回しましたが軍靴の音さえしませんでした。
 そして、ようやく小田様がお見えになられたのは、前回から一ヶ月以上経ったときでした。
 霜の下りた硝子戸のむこうから土緑色の軍服が現れた瞬間、妙さんは胸がきゅんと縮んでしまったような、そんな気を覚えました。しかし――彼にはどこか違和感がありました。もともと口数は少ないほうだったのですが、さらに減り、注文もせずにちびちびとお猪口を往復させているのです。おいそれと世間話を振っていい雰囲気ではありませんでした。……とはいえ、やはりここにきたからには食べるつもりだったのでしょう、やがて「鰤の照り焼きを二切れ、いや三切れ出してほしい」と小田様はこぼしました。
「えっ、三切れですか? 今日はすごい所望されますね」
「ええ……まあ、食べたくて。好きだから、食べたくて」
 少々驚きましたが、妙さんは脂の乗った鰤の照り焼きの三切れを盛り、左手で皿を持った右手の袖をそっと引き上げながら小田様の前に置きます。彼は黙々と食べはじめました。丁寧に身をはがし、隅々まで箸を巡らせて、その召し上がり方には堪能という言葉がぴったり当てはまるようでした。そして、軽く手を合わせてから一寸して、小田様は妙さんの顔をまっすぐに見上げたのです。「妙さん、今日も美味しかった」
「よかった。うれしいです」
「た――妙さん」
「はい?」
「私は、その……あなたが、いえ、あなたを……私は」
 小田様の口からうまく台詞がつづきません。まごまごと軍人にあるまじき優柔さです。しかし、すると、それを何回か重ねたあと――不意に小田様は表情を曇らせて、誰かに背を引っぱり上げられたみたいに席を立ちました。それから軍帽を目深に被り、瞳だけで笑いかけたのでございます。
「ありがとう」
 思えば、彼の口からその言葉を聞くのはこれがはじめてでありました。
 小田様が外に出てから、妙さんははっとして戸に手をかけて通りを望みました。街灯の明かりのあいだを縫うようにしながら、彼の背中は闇に溶けていってしまいます。その様子を、妙さんは眺めつづけておりました。かすかに湿った夜空の匂いがいたしました。


 その翌日のことであります。
 昭和十一年――二月二十六日。
 雪の舞う帝都に、銃声が響いたのでございました。

       

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