Neetel Inside 文芸新都
表紙

伊豆のホドリゴ
二階の右奥(プロット企画)

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 ぼくの家の二階の右奥の部屋について噂が流れはじめたのは、高校受験を遠方にとらえた三年の一学期のころだった。とはいえ、それはクラス内でささやかれる程度の与太話で、いわゆるイジリの領域からは逸脱していなかったと思う。
「なあなあ福沢(ふくざわ)」登校するなり、石部(いしべ)が近づいてきて言った。にやにやと笑っている。「おまえの二階の右奥の部屋、どうなってんだよ」
「べつにどうってことないさ」
「じゃあ、なんで“あんなふう”になってんだよ。教えてくれよ、友だちだろ?」
 ぼくは石部をにらみつけた。よくそんな白々しいことを言えるものだ――確かにやつのことを友人だと錯覚していた時期があったかもしれないが、今はもう嫌悪の対象でしかない。
 なにせ、噂の出所はこいつだからだ。
 以前――石部を含めた三人が、ぼくの家で遊ぶことになった。両親が仕事でまったく家にいないことを、つい口にしてしまったのが元凶だった。気がねなく騒げる場所というのを、いつも連中は探していたのだ。結局、コントローラを持ち寄り、リビングで対戦ゲームに興じる運びとなったのだが、石部が持ってこなかったせいで参加できるのは三人、ひとりがあぶれるといういただけない展開になってしまった。
「トイレってどこよ?」
 負けて一回休みとなっていた石部が、つまらなそうに言った。ゲームに没頭していたぼくは、意識を払わずに「階段の下」とだけ返した――思えばそれが最大の失策で、今でも後悔したりないのだけれど。リビングにもどってきた石部は興奮した様子で言った。
「福沢。二階にある変な部屋、なんだよ」
「えっ」ぼくは驚いて振りむいた。「トイレにいったんじゃなかったのか?」
「いったぜ? でも、ついでにおまえの秘蔵のエロ本でも見つけ出してやろうと思ってさ」
 ぼくは絶句した。同時に、石部の人間性を疑った。家主の了解もなくプライベートな空間に侵入していくだなんて、常識の欠片もない男だと思った。
「エロ本なんてないよ」
「おまえの部屋にはな」石部は意地悪く笑った。「右奥の部屋、あそこにたんまり溜め込んでんだろ? どういうのが好きなんだ? 女子高生か? 陵辱系か?」
 本気でそう考えているのではなく、ふざけて言っているのは明白だったが、ぼくは二階の右奥の部屋を知られたことにひどく動揺していた。「どうでもいいだろ。もう今日は帰ってくれよ」と、そのときは石部たちを無理やり帰らせたのだが、その反応がやつの下衆な心に火をつけてしまったらしい。翌日からすぐに、ぼくの家には呪われた部屋があるという怪談チックな噂が広まっていた。幼稚すぎる。石部は、ぼくの剣幕など気にも留めないで言いふらし回っていた。殺意は湧かなかった。そんな貴重な感情をくだらない存在にむけることは、自らを同列に堕落させることだと思った。
 朝礼のチャイムが鳴り、石部を追い払ったあとは、平穏に一日はすぎていった。
 帰宅すると、ぼくは二階に上がって右奥の部屋にむかった。合板のドアにはネームプレートの名残の釘穴が四つ空いており、ナンバーロックや南京錠に彩られていた。すべてぼくがつけたものだ。計六つの錠前を解いてから、部屋の中に入った。石部はエロ本やAVがあるとかほざいていたが、冒涜もはなはだしい。そんなものより遥かに神聖で、尊厳で、純真な存在がここには息づいているのだ。
 嗅覚に触れるのは、清らかな――汚臭。
「ただいま、生美(いくみ)ちゃん」
 ぼくは、子ども用のベッドに横たわる姉の髪に、そっと手を伸ばした。彼女は閉じていたまぶたを丁寧に開けて、ぼくを見た。「おかえり、哲郎(てつろう)」
「今日は少し暑かったかな。牛乳の減りがいいね」枕元の魔法瓶を手にとると、ストローが姉の口の端から抜けて透明な糸をひいた。すると、彼女が目で訴えてくるものがあった。ぼくはすぐに思い至った。「ってことは、こっちの出はいいってことだよね」
 タオルケットを剥ぐと、白い裸体が現れる。起伏にとぼしいけれど、それゆえ清浄な印象を与える美しいからだ。ぼくは両の太ももを持ち上げさせると、尿道に挿入されているカテーテルをゆっくりと引き抜いた。恥ずかしそうに押し殺された声が聞こえた。もう何百回だって同じことを繰り返しているのに、慣れないらしい。
「先にこれを洗ってくるよ。おやつはそのあとで、一緒に食べよう?」ぼくはいつもより少し重い尿瓶を持って一階に下り、トイレに姉の尿を捨てていたが、ふと思いついて残りを喉に流し込んだ。むせ返るような酸味があり、アンモニアのにおいが鼻腔を駆けていった――けれどその強烈な風味が、姉が生きていることを実感させてくれる。
 生美ちゃんは、病弱の部類にカテゴライズされる人間だった。もっとも、それは「しいて分類するならば」という前置きつきで、実際のところはさらにひどく、人間の欠陥品と言わざるをえない惨澹たる身体状況だった。とにかく健康なときはなかった。彼女は今年で十七歳になるが、積年のダメージや疾患が複雑に絡み合って、もはや医者ですらよくわからない構造になっているみたいだ。うめくように彼に言われたのは、「極限の省エネ」が彼女を生かす唯一の道だということだった。
 ようするに、可能な限り介護しろという話である。ぼくはその暗黙の命令を忠実に守り、着替え、食事、排泄物の処理、風呂、エトセトラエトセトラ――すべての面倒を見てきた。いつまでたっても赤ん坊が成長しないようなものだ。
 ぼくが彼女を「姉ちゃん」ではなく「生美ちゃん」と呼んでいるのには、そういう事情が関係しているのかもしれない。
「今ちょっと、学校のほうで面倒くさいことになってるんだ」ぼくは、おやつのドーナツを含みながら言った。しかし、それは自分で食べるのではない。噛み砕いたものを口移しで姉にあげるのだ。「生美ちゃんのことが噂になってて……ごめんね」
 唇と唇を接続し、元ドーナツを姉の口内に流す。それを牛乳とともに飲み込んだ彼女は、一拍置いてから言った。
「もしかして石部くん?」
「え、なんで知ってるの?」
「忘れた? 哲郎、彼がきた日に言ってたよ」
 そうかもしれなかった。混乱と憤りで、よく覚えていなかったけれど。
「まあいいよ、学校のことなんて。つまらないしさ。生美ちゃんといるほうがいいや」
「いきたいな」
「えっ?」いきなりの言葉で理解できなかった。「どこに?」
「学校に、いきたい」
 改めて言われても、理解できなかった――いきなりどうして? と思う。彼女のからだでは外出など夢のまた夢だし、この部屋にいるほうがよっぽど安全で安泰だ。完璧な環境がそろっているというのに、外に、よりによって学校にいきたいだなんて、意味がわからない。
「そ――そんな必要はないでしょ? ここが一番だよ」
「私ね、夢があるの」穏やかな声で言った。「制服を着て、学校に通ってみたいの」
「……それは夢じゃなくて、妄想って言うんだよ。間違ってる」
「一度だけでいいのよ」
「そういう話じゃないんだ。なんにもわかってない。ここにいないといけないよ。生美ちゃんはここでぼくといるべきだ。絶対そうだ」ぼくは力説した。
 すると、彼女は、
「哲郎……頭の中だけでも、私の自由にさせてちょうだい」
 少しうんざりした様子で言った。
 それが――引き金だった。
「ちがうだろうがっ」ぼくは姉の肩をつかんだ。骨肉の軋む音が聞こえた気がした。「自由にさせてちょうだいなんて、どの口が言うんだ! ずっと不自由をこうむってるのは、ぼくのほうだろ? そうだろ? 世話焼いて、こんなに大事にしてやってるのに!」
 ぼくはその後もなにかを喚き散らしつつ、姉を揺すりつづけた。彼女は「ごめんなさい」「ごめんなさい」と繰り返していた――が、突然ぴたりと表情が停止したかと思うと、がくがくと全身をふるわせはじめた。それは、彼女特有の発作だった。くわしいメカニズムは判明していないが、一定以上の負担がかかると起こるみたいだった。ぼくは勝手に、彼女の中の壊れた部分が暴走するようなイメージを描いている。
「ああっ、やっぱりだめなんだ。ごめんよ。ごめんよう」
 そう叫び、細やかな肢体を抱きしめた。
 そして――彼女はやはりぼくがいないとだめなんだ、と思った。だって、聞き分けがないからちょっとだけ注意してあげただけなのに、こんなふうになってしまうのだから。
 生美ちゃんはぼくが守らなければならない。絶対に。永遠に。


 石部が家にやってきたのは、その三日後だった。あいつはにやにや笑っていた。
 いいかげん怒鳴って追い返してやってもよかったのだが、そうすると噂が持つ七十五日間の有効期限を延長させ、なおかつイジリの内容がひどくなりそうだったから、しかたなくリビングに通した。ジュースを出すと、「おかしもほしいなあ」と図々しい態度をとってくる。言うことを聞いて早く帰らせようと思い、ぼくはドーナツを皿に乗せリビングに戻った。
 それから雑談をしていたのだが、ぼくは急におなかが痛くなった。ふつうじゃない。下痢を催したときみたいだった。その様子を見た石部が、「トイレいってこいよ」と言った。
「そうするけど……おとなしくしてろよ? 前みたいなことは」
「しないって! さすがに悪いと思ってるんだ」
 石部は笑っていなかった。ぼくは不安感を抱えつつも、トイレに二十分ほど籠もった。リビングに戻ってみると、やつはひとりでテレビを見ていた。
 小一時間ほどで石部は帰っていった。ぼくは姉の部屋にいった。
「ごめんね、あの低脳石部がきてたんだ」
 なにか変なことはなかった? と聞くと、彼女は首を横に振った。よかった。
「じゃあ、そろそろおしっこのほう片づけようか?」ぼくはいつものように姉の裸を拝みながら、尿道口を見やすくしようとした――だが、なぜだか彼女は太ももを下ろそうとする。まるで嫌がっているみたいで不思議だった。「……どうしたの? あげてよ」
「……いやだ」と姉は小さく呟いた。「いやなの」
「え?」
「もう恥ずかしいよ、こんなこと。変なもの入れられて、なめられて……。哲郎ってふつうじゃない。ぜったいおかしい……変態だよ……」
「――変態って? なに言ってるのさ、生美ちゃん」
 かまわず彼女のひざ裏をつかんで、作業しやすくしようとした。しかし、抵抗される。力を込めると、「いたいっ」という声とともにかかとがぼくの鼻先にぶつかった。痛いのはぼくのほうだった。本当に最近、聞き分けが悪い。おしおきが必要らしかった。
「だからなんなの? 生美ちゃんはそんなことを言う権利があるの?」ぼくは強引に姉のからだを折りたたませ、おしりを叩きまくった。柔肌がみるみる手のかたちに赤くなっていく様は、どこか嗜虐心を刺激されるものだった。「いけない子。いけない子」
 姉は子どものように泣いていたが、ぼくはやめなかった。ふたりにとって必要なことだからだ。最後に思いっきりおしりを叩いてやると、周辺の筋肉が弛緩したのだろう、姉は尿をもらした。黄色い染みがぼくたちのあいだに広がっていった。
 その日を皮切りとして、どうしてか姉は反抗的になっていった。断腸の思いだったが、必然的にしつけを強化しなければならなくなった。
 それと、気になることがもうひとつ――ぼくは、視線のようなものを感じるようになった。主に姉の部屋にいるときに、肌になんともいえないむず痒さを覚えるのだ。嫌な感覚だった。しだいにぼくは、姉に監視されているのではないかと考えるようになった。しかし、その動機はまったくわからなかった。
 ――というふうに、日常に無視できない翳りが見えはじめたころに、ぼくのからだにも異変が起きた……なんて言うと大げさかもしれないが、夏風邪をひいてしまったのだ。症状は重く、一日学校を休んだくらいでは治る気配がしなかった。
 そして、二日目のことだ。
 灼熱の夢から目を覚ますと、午後四時をすぎていた。姉の排泄物の処理をする時間である。頭痛が意識を刺しつづけ、熱も高かったが、日課だからしかたがない。一度リビングまで下りて鍵束を手にし、ぼくは姉の部屋のドアを開けた。
「いくみちゃ――」
 言葉を失った。
 
 姉がいなかった。
 
 汚臭の染みついたベッドや、血液の付着したタオルケットはそのままで、彼女の姿だけが忽然と消えていたのだ。ぼくはパニックに陥った。なにが起きたのかわからずに、部屋の中をうろうろしていると――きらり、と西日を反射するなにかが目に入った。
 ぼくは本棚にむかった。「ピーターラビット」や「ぐりとぐら」などが並べられている、その隙間に手を伸ばして本を左右に散らすと、奥にはビデオカメラが隠されていた。やはり監視されていたのだ。急いで起動させ、中身を確認しようとしたが、なにもデータは残っていなかった。どうやら別の記憶媒体に転送され、それが持ち出されたらしい。
「……なんだ。なんだこれは。どういうことだよっ」
 ビデオカメラを床に叩きつけて破壊し、憤怒にうなった――と。
 ベッドの下に薬の入った小壜を発見した。拾い上げてラベルを見る。なんてことはない、ふつうに市販で売っている下剤だった。とはいえ問題は、なぜそんなものがこの部屋にあるのか、である。購入した覚えも、使用した心当たりもないのだ。
 それでも――現時点で最優先にすべきことは、姉を見つけ出して保護することだった。彼女は、ぼくがいなくては生きていけない、本当にか弱い虫のような存在なのだ。
 まず家の中を探し回った。クローゼット、食器棚、テレビの裏――隠れられそうな場所はすべてひっくり返した。しかしいなかったため、捜索範囲を一気に拡大しようと玄関から道路に繰り出したところで、はたとぼくは気づいた――本来なら、外にいるはずがない。おんぶでもされなければ移動できない彼女には、ひとりで外出など不可能なのだ。
 そう、ひとりでは――
「福沢」
 ぼくは反射的に振り返った。家の前に、私服姿の石部が立っていた。
 そして――やつが押している車椅子の上には、姉がちょこんと座っていた。なぜか中学の制服に身を包んでいる彼女は言った。
「ただいま、哲郎」
「おかえり、生美ちゃん……」呆然と応答するしかない。どうして姉と石部が一緒にいるのか全然わからなかった――それでも、沈黙では真相をたぐり寄せられないのも事実で、ぼくは声を絞り出した。「なんで中学校の制服なんか着ているの?」
「夢を叶えたの」と姉は言った。うれしそうに微笑んで。「石部くんのお姉さんのおさがりを借りて、哲郎の通っている中学校に連れていってもらったのよ。グラウンドって広いのね。あんなおっきなところ、私見たことないわ。無理なのはわかっているけど、走り回ってみたくなった」
 ぼくには見せない表情――ここ最近は恨みがましい目つきしか見ていない――で、姉は首をひねって石部を見上げる。やつは軽く笑い返した。いつものにやにやしたものではなかった。ぼくは急に腹立たしくなって声を荒げた。
「どういうことだよっ、石部っ」
 すると、石部はぼくを見すえて言った。「説明するよ、福沢。でも、まずは上がらせてもらっていいか? こんなところで話すことでもないからな」
 それには同感だった。「ちょっと散らかってるけど」ふたりをリビングに通すと、皿の破片や家具の倒された光景を見てわずかに黙った。姉は石部に持ち上げられて、ソファに置かれた。ぼくが、ぼくだけが、今までやってきたことだった。
「俺が遊びにいった日のこと、覚えているかよ?」
 三人でゲームをしにきた日だろう。忘れるわけがない。ぼくは首肯し、皮肉を込めて言った。「誰かさんが非常識極まりない行動をとったせいで、変な噂が広まったんだったね」
「実はあのとき、俺は生美さんと話したんだ」
「えっ?」エロ本を探しに二階に上がったじゃなかったのか。そしてぼくの部屋になかったから、姉の部屋に隠してあると思ったのではなかったか。
「トイレを出たあと、二階から小さく声が聞こえた。不思議に思って上ると、鍵のたくさんついた変な部屋があったから近づいていった。そうしたら、中から声がしたんだ。哲郎じゃないよね? って。友人だと答えた。すると、鍵束をおまえの部屋からとってきてほしいと言われた。俺はそれを使ってドアを開錠した。ナンバーロックの番号は、生美さんの誕生日を聞けばすぐにわかったよ」それにしても机に放置しとくなんて無用心すぎじゃないか、と石部は苦笑してつづけた。「部屋に入って、俺は絶句した。あれは人の部屋なんかじゃない。ただの牢獄だ。散らかり放題で、埃は舞い放題。ひどい臭いが充満していた。そんな中に生美さんは横たえられていたんだ」
「……それで、生美ちゃんとなにを話した」姉が石部を招き入れたことは意外だったが、話すようなことはないと思った。だって、彼女は神聖で尊厳で純真な至高の存在で、やつみたいな低俗の典型例とは言語レベルで話が合わないはずだから。
「助けを求められたよ。毎日まいにち辱め――性的虐待を受けて、もう限界だと言われた」
「まてよ」ぼくは驚いて口をはさんだ。「なんだよ虐待って。ぼくがしているのはその対極だよ? 生美ちゃんを慈しんで、世話をしているんだ」
「……そう思い込んでるんじゃ、どうりで俺の鎌かけに反応しないわけだぜ」
 女子高生か? 陵辱系か? ――やつに聞かれたこと思い出す。
「思い込んでるのはおまえのほうだろ。ぼくは事実、愛情をもって接している」
「無理やり膣や尿道やからだを弄くることが、おまえの愛情表現なのか?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。ぼくの純粋な思いだ」
 石部は理解できないといったふうに首を振ってから、再び口を開いた。「とにかく、生美さんの話を聞いているうちに、俺はこの人を助けたいと思うようになっていた」
「好きなったのか」
 ぼくが厳然と聞くと、石部はあろうことか頷いた。
「好きだ。そうじゃなきゃ、ここまでしない」
 姉のほうをうかがってみた。心なしか頬が染まっているように見えた。なんて通俗的な表情をしているのだろう、と思った。まるでそこらへんのバカ女みたいだった。
「俺がひとりでここにきたとき、おまえ下痢になったよな」
「そうだけど」嫌な予感がしていた。
「わりいな、おまえのジュースに下剤を溶かした。効果はてきめんで、時間稼ぎには十分だったよ。テレビを見る時間まであったぐらいだ」石部は引きしまった顔でむかってくる。「俺は前と同じように生美さんの部屋に入り、持ってきたビデオカメラを本棚の中に隠した」
 カメラと薬について合点がいった。すべてこいつが仕組んだことだったのだ。ぼくは、どす黒い感情が肥大していくのを胃の底で感じていた。
「なんの目的でそんなことをした」
「言っただろ。生美さんを助けるためだ」そう言って石部はポケットからSDメモリーカードをとり出し、ぼくに見せつけた。「この中にはあの部屋の記録が入っている。正直、少し見ただけで吐きそうになったが、それでも貴重な証拠だ。おまえが彼女にしてきた所業の数々のな。これでもう白をきることはできないぜ」
「……非合法な方法で入手した物証は、証拠能力を認められない。それは盗撮だ」
「聞きかじりの話はいらねえ。完全になくなるわけじゃないだろう」
 ぼくは寒気を感じつつも、かろうじて質問を重ねる。
「……もうひとつ。噂を広めたのはなんのためだ」
「おまえの腹の中を探りたかった。俺だけが聞いてるんじゃ無視できるかもしれないが、みんなに広まるとなると、意識せざるをえなくなると思った」
「はっ」ぼくは鼻で笑った。それが無意味な強がりであることはわかっていた。「ずいぶんと面倒くさいことをやってくれたね。ばかみたいに走り回っちゃってさ」
 しかし、石部は歯牙にもかけずにつづけた。
「福沢、俺はおまえのしていることを見すごすわけにはいかない。なにより、好きな人をこれ以上苦しめたくないんだよ。だから、俺は今から警察にいこうと思う。どんな結果になるのかはわからないが、この最悪の状況を変える助けにはなるはずだ」――ちなみに、先に生美さんを連れ出したのは、警察沙汰になればもうチャンスがこないこもしれないと思ったからだ、と石部はつけ足した。家に入れたのは、たぶん姉が鍵を貸与したのだろう。
 しかし、警察にいく――その言葉はぼくを焦らせた。そんなことをされたら、姉と紡ぐこの幸福な日常が壊されてしまう。立ち上がって言った。
「なに言ってんだよっ。そんなのぜんぶおまえの妄想だろ? 生美ちゃんが助けを求めたなんて嘘だ。生美ちゃんはぼくを必要としているんだ。人の姉をだますなよっ」
 石部は冷たい表情で、ぼくが唾を飛ばすさまを見つめていた。やめろ。やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ。
「ね? 生美ちゃん? ぼくらは愛し合っているよね? ね?」
 姉のほうをむいて確認を求める。だが――彼女が唇を震わせながらも、なにかに立ちむかうかのように発した言葉は、ぼくの耳をえぐった。
「……私はこわいの……哲郎が、こわい。一緒になんかいたくないのっ」
 どうして――どうしてそんなことを言うの? ぼくはただ、両親に『お姉ちゃんを守ってあげてね』と言われて、がんばってきただけなのに。それだけなのに。
「福沢」石部が言い聞かせるように追撃してくる。「おまえがしているのは監禁だ。まともじゃないぜ。頭がおかしくなってるんだよ――」
 ――と、その後もなにか言っているようだったが、ぼくはすべての情報の受信を拒否していた。たぶん、夏風邪のせいだろう。思考が砂嵐に潰されていき、からだが熱くなる。
 そんな中でもぼくはただ、素晴らしい日常が無事につづくことを願っていた。そうして、ひたすら祈りつづけていたら――気がつけば、石部が血まみれでフローリングの上に倒れていた。なぜかぼくの手には包丁が握られていた。気味が悪くなって捨てる。
 ぼくは姉に近づいた。怯えたように、小刻みにひくつくからだを抱きしめる――きっと、生美ちゃんはぼくの愛を試していたんだと思う。石部というゴミを利用して、真実の絆を確かめさせようとしたのだろう。絶対そうだ。姉弟だからこそ、以心伝心でわかるのだ。
 ――やはり姉は、ぼくを必要としている。
 その思いの強さは、依存の域を軽く飛び越え、あの部屋にぼくを精神的に監禁した。だから、これまで以上に姉を愛すことでそれに応えようと思った。彼女の骨盤はもろく、突き上げるたびに壊れそうな感触があった。浮き出たあばらを舌でなぞり、可愛らしい乳房を口に含む過程が好きだった。ずっと学校にはいかず、朝から晩までぼくは生美ちゃんを抱き、膣内に射精しつづけた。もちろん食事は口移しだ。室内にこもった汗や体液や尿の混合液のにおいは、あたかも聖域にいるような神々しさがあった。
 そういう一体となる経験を積んでいったからか、ついぞ生美ちゃんは動かなくなった。つまるところ、彼女の幽体や魂といった観念的な存在がすべてぼくの中に移送されたということだが、その理論に関しては、ぼくははじめから予想していて納得もしていた――なぜならぼくはずっと姉の世話をし、命を支えてきた。彼女の手足はぼくの手足であり、ぼくの手足は彼女の手足だった――簡単に表現するならば、『同一』だったのだ。それが、実際に目に見えるかたちへとシフトしただけだった。
 福沢哲郎と福沢生美は、ひとつの存在となったのだ。
 ぼくは今、最高の幸せを感じている。つまり、姉も最高の幸せを感じている。
 インターホンが鳴る。

       

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Neetsha