Neetel Inside 文芸新都
表紙

伊豆のホドリゴ
漂流銀河(前編)

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 目を覚ましたら、そこには銀河があった。
 当たり前のことだが、いきなり宇宙空間に放り出されていたわけではなく、天井に、真っ暗な無限の中に浮かぶ銀河のポスターが貼ってあるだけだ。目覚まし時計のスイッチを切って、僕はベッドから寝ぼけたまなこを擦りながら這い出た。
 一階の洗面所に下って、からだに染みついた動作で歯を磨き、顔を洗う。寝巻きから制服に着替えて居間に入ると、テーブルの上でコーンフロスティが牛乳浸しになっている。見慣れた光景だった。それを黙々と胃に流し込んでいると、母さんが「ほれ、ありがたく食え」と弁当を僕の前に置く。タイミングもセリフも、いつもと同じ。
 学生鞄と弁当を持って玄関に立つころには、だいたいいつも七時半だ。いってきます、と引き戸を開けると、かすかに湿った風とともに潮の匂いが鼻先に触れた。といっても、もはや鼻腔に染み込みすぎて、実際の潮の匂いなんて嗅ぎ分けられないけど。夏のぎらついた太陽を恨み言を言うように見てから、視線を正面に下ろす――と、わが家の軒先に、海の香りをいっぱいに含んだ夏服姿の佳純(かすみ)が立っていた。
「おはよ! ドウテイ!」
 …………。
 これもまた、見慣れた光景。
 朝っぱらから元気になに口走ってやがんだ、と思うかもしれないが(僕もたまにそう思う)、そこはちゃんと説明させてもらいたい――ドウテイというのは、僕の学年共通のニックネームだった。みんな、ごく自然に僕のことを恥ずかしげもなくドウテイドウテイと呼んでくる。剛田剛をジャイアンと呼ぶのと同じように。誰がつけたのかなんて、あまり覚えていない。仮に覚えていたとしても、もはや修正がきかないくらいに定着しているから仕方がないけど。
 僕の下の名前は道程(みちのり)と言うのだが、いつかの国語の授業のときに扱われた高村光太郎の『道程(どうてい)』という詩が、すべてのはじまりだったはずだ。きっと、いや絶対、名前と題名をつなげられてしまったのだろう。気づいたときには遅かった。僕はすっかりドウテイになっていた(元からだけどネ!)。……いやしかし、まるっきり浅薄で浅見で浅慮な中学生らしいネーミングセンスだと言わざるをえないな。やれやれまったく、これだから。僕の邪気眼を刺激しないでほしい。ほんとにみんな子どもだなあ!
「なんか今、心ですごい中二病なセリフ吐いてなかった?」
 佳純が思春期ならではの距離感をまるで無視して、ぐっと顔を近づけて覗き込んでくる。僕はチューしてやろうかと思ったけどやめた。
「そんなこと言ってねぇし。つか、おまえは人の心ん中が読めるのか」
 そっちのほうこそ中二じゃないか。
「……フフフ、バレてはしょうがない」佳純は悪役みたいな声をつくって、僕にむかって両の手のひらを開き、深く息を吐き出しながら太極拳の劣化版のような動きを見せた。そしてかっと目を見開いたかと思うと「わかったよ、きみの心の中が」と言い、つづけた。
「可愛い佳純ちゃんと一緒に登校できて、ぼかぁ幸せモンだなぁ」
「バカ言え」
 僕は一言の下にばっさりと斬り捨てて、沿道を歩きはじめた。むろん、学校に通うためだ。後ろから萎れた声を出して、佳純が追いついてくるのがわかった。
「ふぇえん、待ってよぉ~」
「マタニティ」僕は言う(待たないという意味だ)。
 ……まあ。
 ここまでくればわかると思うが、僕と佳純は、いわゆる幼馴染みだった。異性のそれは、世間一般的には羨ましがられるほうの関係らしいが――けれど僕としては、それは腐れ縁だと表現するほかなく、できるならば彼女をダンボールに入れ電柱の脇に置いて帰りたいくらいである(もちろんメッセージは『拾ってあげてください』だ)。
 僕は、佳純のいちいちじゃれついてくるところが苦手だった。毎朝迎えにくるのも、小さいころならまだしも、このぐらいの年齢になってくるとキツいものがある。人懐っこい笑顔やさらさらの髪の毛、健康的な肌や伸びやかな手足を加味しても、やはり相手するのを面倒くさく感じてしまう。とはいえ、そう感じながらもちゃんと『幼馴染み』をやっているあたり、道程少年の内なる優しさが滲み出ているのであった――なんて、三人称的なモノローグで自分自身をフォローしていると、佳純が言ってきた。
「ね、ドウテイ。あたしすごいもの見つけちゃったんだ」
「ふぅん」佳純がこう言うときは、経験上悪いことしか起きない。幼稚園児のころ、同じセリフで誘われて、一緒に上った岩場から落ちて怪我をした思い出は一色たりとも薄れていない。なかば防衛本能的な感じで、気のない返事を選択しておく。
「今朝もいってきたんだけどね、すごいんだよ」
「泳いできたのか?」僕が問うと、佳純はうんと頷いた。どうりで、会ったときに海の香りがからだに残っていたわけだ。海が間近にあるこの町で生まれ育った彼女は、泳ぐのが好きだった。ジョギング気分で海に潜ることもしばしばある。
「知りたい? 知りたい?」
「いや、別に」
「嘘だぁ。ピノキオだったら『わいの鼻は十三キロメートルや』ってなってるぐらいの嘘だよ。ほんとは知りたいんでしょ?」
「…………」
 面倒事回避のスタンスを崩したくなかったが、これ以上つづけると佳純の残念な部分が色々と露呈しそうな気がした。さすがにそれは忍びなかったし、僕のほうも朝から体力を浪費したくなかったので、話だけでも進ませてみようかと思った。
「……わかったよ。知りたい知りたいシリタイデスー」
「えへへ、秘密ー♪」
 やばい! 超殴りてえ!
 ぎりぎりと拳を握りしめた僕だったが、そこはぐっと押さえ込んで、今歩いている沿道から逆方面に広がる海を見つめることにした。水平線がかすかに揺らめくだけで、海面は穏やかだ。胎内の音と似ているというさざ波の声は、やはり気分が落ち着く。
 ……とはいったものの、近ごろの海は――前とはずいぶんと変わってしまったけれど。
「大丈夫だって。ちゃんと帰り道で教えてあげるよ」
 佳純がそう笑いかけてくるのが聞こえたが、僕はもうどうでもよくなっていた。返事もしない。元々興味なんてなかったし、今はどうしても目の前の光景に意識が吸い寄せられてしまっていた。それについて、考えざるをえなかった。これに関しては、無理もないだろうと言いたい。ある日突然、畑に正真正銘のミステリーサークルができあがっていて、いつもどおりに農作業をはじめられる農家はいないのと同じなのだから。
 ――以前は黒かった海は、ところどころで淡い光を底から放っていた。
 まんまミステリーサークルのように。ミステリアスに。


 僕らの通う中学校は、海岸線を見晴らせる小高い丘の上にあった。
「おっはよー!」
 佳純が僕よりさきに教室に入って、みんなに声をかけていく。近ごろ話題の少子化問題のリードオフマンになっているこの地域は、よほどのことがないかぎり、子どもたちは一ヶ所に集められはじめるとそこから高校卒業まで同じ空間ですごすことになる。いわば全員が幼馴染みみたいなもので、その中で育った大人たちの距離も自然と近い。まあ、僕と佳純の関係は隣近所ということもあって特に密だけれど。……やだなあ。
「おはよ、佳純」「おっす佳純」「はよはよー、佳純」
 里穂(りほ)や孝樹(たかき)や比呂子(ひろこ)が佳純を温かく迎えたあとに、
「やっほ、ドウテイ。今日もドウテイくさいね」「ドウテイって、誰よりもドウテイだよな」「むしろこの世にドウテイがドウテイしかいないみたい」
 パーティで主役にクラッカーを浴びせたときみたいに、僕の頭に「ドウテイ」が降り注いできた。奴らのニヤニヤ笑いに腹の虫を掻き立てられていたのは最初のころだけで、今はもうスルーはお手のものだけれど、このネタの消費期限がいつなのかせつに知りたいと願う昨今である。……ちなみに同級生たちは正しい語意で僕をからかってくるのだが、佳純はどこかドウテイを「モテない男」のことだと思っているらしかった。
 以前に、お前だってショジョだろう、と茶化してみたら、
「あたしは別にショジョじゃないもん!」
 とムキになって言い返してきたのだ(この場合はショジョが「モテない女」の意だろう)。そこで彼女の勘違いに気がついたというわけである。なぜそこまで確信的なのかと問われれば、それは、佳純がモノホンの処女であることはこの僕がよく知っているからだ。
 鞄を自分の席に置くと、里穂たちが輪になって談笑しているのが見えた。特に始業時間まですることもないので、その中に混ざり込むことにする。
「なんの話してるんだ?」
「テレビ取材のはなしー」里穂が楽しそうに言ってくる。聞くところによると、どうやら登校途中に比呂子がテレビ局の取材を受けたのだという。
「知ってる? テレビカメラって意外と大きいんだよ」比呂子はなぜか鼻を高くする。
「ええー、すごいすごいっ」
「で、比呂子はなんて答えたんだ?」と孝樹。
「えー? なんかー、得体が知れなくてー、怖いですぅってー」
 地方の港町にテレビ局がきたのがそんなに嬉しいのか、きゃっきゃっと笑い合っている里穂たちは横に置いておくとして、僕としてはうんざりするような内容だった。ここ最近は、テレビをつければその話題ばかりなのだ。
 とはいえ、センセーショナルな殺人事件が起きたわけでも、知事の汚職がうんぬんというわけでもなく――やってきたのは拍子抜けするくらい単純なものだった。
 クラゲだ。
 越前のほうでもクラゲが大量に流れ着くことがあるそうだが、こっちにやってきたのは一味違う「発光するクラゲ」だった。有名なオワンクラゲと似ているが別物で、それは群れの形をつくると、今朝みたいに海面がぼんやりと光って見えるほどの光度を誇る別格だ。専門家でもはじめて見る新種のものらしく、便宜的に「カミナリクラゲ」と呼ばれていた。新発見の光るクラゲ――ワイドショーで流すネタとしては申し分ないだろう。
「……だってさ、佳純。比呂子がテレビに出たらしいよ」
 僕は背後の自席に座っている佳純に話を振ってみた。本人はいたって無関心を装っているみたいだが、漫画的な画で表すならば、片方の耳が大きくこちらに乗り出していた。
「えっ」佳純は大げさに身を引いた。「へぇー、ふぅーん、そー。いや、あたしはちっとも興味なんかないけどね! 今の海とかほんとそそられないわー」
 佳純ほど嘘をつくのが下手なやつはいないと思う。目とかそらすなんてレベルを飛び越えて、もはやほぼ白目を剥いている。汗の量はどこの力士かわからないぐらいだし、仮にも美少女を売りにしているヒロインキャラとしては残念極まりないビジュアルだった。
 というより、朝に潜ってきたっていう話をしたばっかじゃないか――って、あのときはほとんど昔の音声機能つきのおもちゃの人形並みの受け答えの意識だったから深く考えていなかったけれど、突然僕はなんともいえない不安に駆られた。
「…………」佳純を再びじとりと見る。
 完全に白目を剥いていた。とりあえず写メを撮っておいた。


 結論からさきに言えば、僕の不安はみごと正鵠に突き刺さっていた。
 その日の学校帰りに佳純がいきなり「今朝の秘密をドウテイくんに教えてあげようと思います」と勝ち誇ったような顔をして言ってきたのだが――彼女にとってはサプライズなネタを披露するつもりでも、僕にとっては答え合わせと一緒だった。
「実はあたし、里穂っちたちが話してた海に――」
「潜っているんです、だろ」
 僕が言うと、佳純は大げさにすっころんだ。水色のパンツが丸見えになったが、そこは巷で流行りの少年漫画の純朴な主人公みたいに目をそらすことはせず、むしろ食い入るように熟視しておく。脳(ハードディスク)に名前をつけて画像を保存だ。
 佳純が起き上がって言った。
「えええー! 知ってたのー?」
「いや、僕の名推理だ」
「ほへえ」
 佳純は感心した素振りを見せながら僕に近づいてきた。それから「わかってるんなら話は早いじゃん」と後ろから寄りかかるようにし、肩越しに顔を覗かせて笑った。
「ドウテイ、こんど一緒に潜りにいこうよ」
「やだ」
「なんだよこのいけずぅ。いこうよいこうよー」
「やだ」佳純を振り払った。「絶対にやだ」
 どうして僕がここまでかたくなに拒否するのかと問われれば、理由は三つある。
 僕は海がきらいだった。泳ぎが苦手なわけじゃなく、むしろ遠泳競泳潜水ほかすべての分野において佳純に勝つ自信があるのだが、僕は海がきらいだった。この年ごろになってくると、反抗期の副産物とでもいうべきだろうか、親はもちろんのこと身近にあるものに対してマイナスの感情しか持てなくなるときがある。要するにひねくれるのだ。そしてひねくれた僕は、海とは対極の神秘である宇宙に興味を持つようになった。とりわけ神々しく渦を巻く銀河に心を奪われた。目覚めていの一番に銀河のポスターが目に入る朝を、僕は気に入っている。
「そんなにあたしといくのがいや?」佳純がわざとらしく目を潤ませて見上げてくる。
 ああ、いやだね。僕はそう答えた。できるだけ佳純とは一緒に行動したくなかった。それが二番目の理由だ。くどいようだが、彼女の誘いを受けて僕が得をしたことは今まで一度としてないのだ。君子危うきに近寄らずとはよく言ったものである。
 それに――最後の理由は、佳純にも関わってくる。
「佳純、おまえ知らないわけじゃないだろ」僕は諭すように言った。
「なにを?」
「あのクラゲの危険性をだよ」
 研究によって判明したことらしいのだが、カミナリクラゲはなんと電気を発することができる(そういう点も名前の由来にあるのだろう)。外敵から身を守るための術だ。指先だけでも触れたら最期、電流がその身を駆け抜け麻痺してしまうのだそうだ。もし海の中でそんなことが起きた場合のことを考えてみてほしい。からだの自由がきかなくなって、簡単に海の藻屑になるに違いない。想像しただけでも寒気がする。
 しかし残念なことに、佳純はその想像ができていなかった。
「下手したら死ぬんだぞ」僕は佳純に人差し指をむけた。「それで人生終了してみろ。誰がどう考えても入るべきじゃないとわかる海に潜って溺れ死んだ女子中学生なんて、かっこうの笑いものだ。週刊誌におまえのドヤ顔が載って、ボロクソに書かれるんだよ」
「えー? ついにあたしもフライデーされちゃうのかあ」佳純は空を見上げた。そののんきな性格を改めさせてやるべきか、その偏りすぎた週刊誌についての知識を矯正してやるべきか迷っていた僕だったが、佳純がさきにつづけた。「でも、大丈夫だよ。それに――」
「それに?」
「やっぱり、ドウテイに見せてあげたいものがあるんだ」
 彼女は笑った。僕は少しだけ立ち止まった。
「……本当に死ぬかもしれないんだぞ」
「大丈夫」
「僕は死にたくない」
「あたしがドウテイを守ってあげる」
「無理だ。溺れる。言っておくけど、脅しじゃないよ」
「わかってる」
 いつから佳純はこんなに強情になったのだろうか。僕はじわじわと苛立ちに支配されていった。僕は間違ったことなどなにひとつ言ってない。忠告もちゃんとしているつもりだ。それなのに、佳純には聞き入れる様子がまったく見受けられない。なんだか、駄々をこねる子どもを放置しておもちゃ売り場を去る親の気持ちがわかるような気がした。
「じゃあ勝手にしなよ」僕は佳純を置いて歩き出した。「僕はいかないからな」
 そっか、とだけ背後から聞こえた。

       

表紙

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Neetsha