Neetel Inside 文芸新都
表紙

無愛そうな結婚
第三話:you

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「何悩んでるですか、先生」と、あっさり見抜かれてしまった。
 少し遅れて頭のなかに入ってきたその言葉に、わたしは慌てて顔をあげる。最後についた「先生」という言葉が、ひどくわたしを現実に引き戻した。どうやらぼっーとしていたらしい。
 不思議そうにわたしの顔を覗いてきた奏ちゃんの黒目がちな大きな瞳と目が合ってしまい、わたしは誤魔化すように下手くそな笑みを浮かべた。「ううん、なんでもないよ」と、安心させるような言葉を並べてはみたけれど、結局奏ちゃんの表情は何ひとつ変わらなかった。それでもきっと、これは彼女にするような話じゃない。そう一人で決めつけて、わたしはいつもの「先生」に戻った。
「はいはい、問題解いて」
 急かすように手をぱんぱんと二度叩く。焦っているのはわたしの方だった。
 まだ6月だというのにその日の空は馬鹿みたいに晴れていて、きっとこのまま雨が降らなければ、いまはもうすでに夏なんだろう。昼下がりにもなると気温とともにわたしの体もぽかぽかと温まってきて、意志に反して脳も体も勝手に寝てしまおうとする。
 土曜日のこの時間は、奏ちゃんが我が家にやって来る。それはもう一年ほど続く日常だった。
 わたしは家庭教師で、彼女はわたしの生徒だ。家庭教師なのにどうしてわざわざ生徒の方から家庭教師の家にやって来るのか。それはやっぱりおかしなことで、他人にこのことを話すといつもよくわからないといった表情を返される。それではまるで塾じゃない。
 けれどわたしにとって、もはやそれはさほど大きな問題ではなくなっていた。奏ちゃんがわたしに質問して、わたしが奏ちゃんに勉強を教える。それだけでわたしたちの関係を言い表すには十分だった。
 わたしはその後も繰り返し繰り返し、まるで教育ママのように勉強の続きをするように奏ちゃんに言い聞かせたけれど、彼女は一向に机に向かおうとはしてくれなかった。
 参ったな。一度肩の力を抜くように息をついた。
 女の勘という類のものなのだろうか。彼女は周りの子よりもずっと他人の感情に敏感な子だった。嘘をつけば怒るし、作り笑いを浮かべたら不機嫌になる。そんなとき彼女はすっーと目を細めるのだ。それでも瞳は大きいのだけれど、睨むような定めるような、そんな眼をする。それは彼女の長所で短所だ。多くのことを知る彼女の心は、良いことにも悪いことにも働く。
 だからこんなことになっているのかもしれない。
 だから彼女は我が家にやって来るのかもしれない。
「じゃあ、先生が何を悩んでるか、わかる?」
 逆に、訊ねてみた。言ったあとで少し意地悪な質問だなと自分でも思った。
 わたしが何を悩んでいるか。
 もしもそれを当てられたら、一番驚くのはおそらく質問したわたし自身だろう。そしたら奏ちゃんはエスパーに違いない。
「んー、わかりません。でも、先生は何か隠してます」
「そうかな」
「そうです」
 強い断定。彼女はわたしが何を悩んでるのかわからないけれど、わたしが悩んでいる、そのことだけは確かにわかっているのだった。
 こうなると彼女がなかなか引かないことはわたしだって知っている。そんな時の対処法だって、いちおう知っている。これでもわたしは彼女の先生だった。
「じゃあ、問題を最後まで解いたら、話そうかな」
 また少し、意地悪な手を使った。
 彼女は勉強に対して、非常に真剣だった。中学2年生の彼女はまだ高校受験というものを本格的に意識しているわけではないし、この1年ほど登校拒否をしている彼女は、高校に行くかさえまだ決めかねている。
 家庭教師を雇う以上真っ当かもしれないが、それでも勉強に一切手を抜かず勉強に取り組む彼女の姿勢は、何よりも学びの場がここだけというのが一番の理由かもしれない。
「今日の範囲って86番までですよね」
「そう、だけど」
「なら、もう終わりましたよ」
「えっ」
 予想外の返答に驚きながらも、彼女から課題のテキストを受け取る。数ページ捲って戻って、また数ページ捲って進む。わたしは思わず首をかしげた。
「こんなところまでやったの?」
 わたしが今日の課題として指定したのは86番の問題までだったけれど、彼女は応用の混ざった90番の問題まですでに埋めてしまっていた。解答の正確な数字を覚えているわけではないけれど、途中式を見るかぎりいい加減に埋めているようにも思えない。
「同じ解き方だと思ったんで」
「やっぱり奏ちゃん、数学得意ね」
「そんなこと、ないです。この範囲はたまたま理解できただけで……」
「じゃあ、数学は嫌い?」
「嫌い、じゃないけど、でも得意じゃないです」
 奏ちゃんはいつもそんな曖昧なことを言う。
 数学は苦手だと言い張るけれど、この範囲に限らず彼女は同級生たちと比べてもずいぶんと要領がいい。しかし彼女はそんなことを実感する場面もないから自信を持つようなことはないようだった。
 勉強において、本人の好き嫌いというのはあまり重要ではない。たとえその科目が嫌いであっても苦手ではなかったら、その子にとってその科目はやればやるほど伸びるものだ。だからわたしはどうしても彼女に自信を持って欲しいのだけれど、なかなか上手くはいかない。そんな時にわたしはこの仕事にやり甲斐よりも難しさを感じる。だいぶ慣れてきたつもりではいるのだけれど。
「最後まで解いたら話してくれるんですよね」
 その奏ちゃんの言葉は少し意地悪だと思った。その表情もまた意地悪だ。だけどわたしもさっき意地悪をしたから、文句を言うわけにもいかない。
 きっと問題を指定したところよりも多く解いたことも、とっくの前にわたしが何か考え事をしていることに気づいていたからなんだろう。ここまでの努力を見せられては次の課題を発表するわけにもいかない。彼女はきっとわたしのそういう甘いところまで見抜いている。
 一度壁にかけてある時計を見る。たしかに終わりの時間までにはまだ余裕があった。だけど勉強を次に進めるには中途半端な時間だ。
「本当に、大した悩みじゃないのよ」
「それでもいいです。だって先生言ってましたよ、悩みごとは人に話すだけでも楽になるって」
「う、うん」
 ああ、どうしてわたしはそんなことを言ったのだろうと後悔した。
 たしかにそれは間違った理屈じゃない。だけど他人に話そうとすると途端に恥ずかしくなるような悩みだってある。
 こんなことになるのなら、ぼーっとなんてしているんじゃなかった。読書でもして気を紛らわせておけばよかったのだ。
「いつもはわたしが相談してるから、たまには先生が話してください」
 そう言う奏ちゃんの表情は、どこか楽しげだった。
 わたしが悩んでいるのを見て、楽しんでいるわけではないのだろう。そんな性の悪い子でもない。ただいつもと立場が入れ替わったことが嬉しいのかもしれない。性は悪くないけれど、意地が悪い。
「変な話をするけど、笑っちゃだめだからね」
「おもしろい話ですか」
「うーん、変な話だけど、先生は本気で悩んでることだから」
「わかりました、笑いません」
 そう断言すると奏ちゃんは緊張したような、少し真面目な表情をした。わたしはそれがなんだかおかしくて笑ってしまいそうになったけれど、他人に笑っちゃだめと言っておきながら自分が笑うのはいけない。自分もちゃんと真剣な表情をつくろうとしたけれど、やはり少し恥ずかしさがおもてに出てしまっていたかもしれない。
「昨日ね……統次さんに好きだって言われたの」
 しばらくの間、奏ちゃんは笑うべきところなのか、判断のつかない顔をしていたけれど、どうやらそれはただ笑いを堪えていただけだったらしい。すぐに吹き出すように笑われてしまった。
「笑わないって言ったでしょ」
「だっておかしいです」
「先生は真剣なの」
「でも、おかしいです」
 まるでずっと脇腹をくすぐられているみたいに、奏ちゃんは笑い続けた。それとともにわたしの恥ずかしさは募っていく。
 きっと彼女の予想していたものよりわたしの悩みはずっと素っ頓狂なものだったのだろう。せっかくわたしは勇気を振り絞ったのに、結局笑われてしまった。何だかとてもつもなく損をした気分だ。
 だから本当は断言したにも関わらず笑った奏ちゃんをもっと怒りたかったけれど、その笑顔を見ているとどうもそれ以上そんな気にはなれなかった。その笑顔はきっと同世代の男の子が目にしたら、一瞬で惚れてしまいそうなとっておきの笑顔だったから。彼女が心の底から楽しいのなら、それでもいいかと思えてしまった。
 そう、おかしいのはきっとわたしだ。

 ○

 90分間の授業時間も終わって、奏ちゃんと二人揃って部屋を出ると、まるで待ち構えてたかのように統次さんが廊下に立っていた。
 思わずの出来事にわたしは数歩後退るほど驚いて、それから彼の不思議そうにわたしをみつめる表情を確認する。逃げるようにわたしが視線を下ろすと、ちょうど彼の胸辺りには何かとても甘そうなケーキのようなものが、木目のトレイの上に載せられているのが見えた。
 どうしてこんなところにいるんですかと、彼を無責任に叱ることはできない。さっきまであの部屋でどんな話をしていたのか、彼が知るはずもないからだ。
 そんなわたしと統次さんの状況を見て、思い出したかのようにまた笑いだそうとしている奏ちゃんを今度ばかりは見逃すわけにもいかず、隣にいる彼女を肘で軽く小突いて、統次さんには「どうしたの」とだけ尋ねた。
「ちょうど授業終わったところ?」
「そう、だけど」
「レモンパイ焼いてさ、結構量あるしよかったらどうかなって」
 ああ、これはレモンパイだったのか。
 わたしはトレイの上に載ったそれをもう一度じっくり見る。そういえば甘い香りのなかにレモンの酸っぱい香りも混ざっているような気がする。それはただ思い込みだろうか。何にしてもそれが美味しそうであることに変わりはなかった。
「奏ちゃんも食べる?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「やった!」
 首を伸ばして興味津々にレモンパイを覗いていた奏ちゃんに、統次さんが声をかける。食事は奏ちゃんも一緒だということを確認すると、わたしは途端に緊張がとけたような気がした。
 統次さんがこういうことをするのは、何も珍しいことではない。
 今日がはじめてのお菓子づくりで、「下手くそだけど君のために一生懸命つくったんだ」なんて囁かれでもしたら、間違いなくこのレモンパイには特別な意味がこもっているのだろうけれど、統次さんにとってお菓子づくりは趣味であり、暇つぶしのようなものだった。
 彼はホームページなどのデザインをする仕事をしている。仕事は自宅でもできることばかりらしく、滅多に会社の方へは行かない。もちろん家での仕事なので時間の融通も自由に利くわけで、時間をみつけてはこのようにお菓子や料理をつくる。それがおいしいのだから、女として、妻として、わたしはときどき危機感を感じずにはいられない。
 わたしだって料理に自信がないわけではない。だけど統次さんには何をするにしても明らかに卓越したセンスがあるのだった。いちおうデザイナーという仕事をしているからだろうか。わたしはあまり男の人のこういう面を知らないけれど、少なくとも家庭教師をやっているわたしよりは、ずっと器用な人だった。
「優も食べてくれる?」
「えっ」
「あ、もしかしてあまりお腹空いてないか?」
「ううん、そんなことない。三人で食べましょう」
 わたしは尚もぎこちなく言葉を返した。
 少し前まで、統次さんはわたしのことを下の名前ではなく「橋田さん」と名字で呼んでいた。わたしの方が一つ年下だというのに「さん」まで付けて。それは結婚する前に何度か顔を合わせて話しあったときのまま、いつの間にか定着してしまっていたものだった。わたしもあの時と同じまま「統次さん」と、いまも呼んでいる。
 けれど、わたしはもう「橋田優」ではないわけで、わたしが「橋田さん」はおかしいという話を統次さんにしたのは、ほんの数ヶ月前のことだ。それから統次さんはわたしを下の名前で呼ぶようになった。
 ――優。
 昔から、ときどき思うことがある。みんなわたしの名前を呼んでいるのではなくて、「YOU」と英語で呼んでいるのではないかと。もちろんそんなわけはなくて、中学校のころは何度かそういう風に名前で男の子にいじられたこともあったけれど、確かにそれはわたしの名前だった。
 いまだにわたしは統次さんに名前で呼ばれることに、慣れていない。ずっと橋田さんと名字で呼ばれていたからかもしれないけれど、それよりも結婚して友達や家族と会うことも少なくなって、いまやわたしのことを毎日そんな風に名前呼ぶ存在は彼だけだった。それが妙な感覚として残る。彼はわたしの夫なのだ。家族なのだ。
 周りから「高山さん」と呼ばれることにはもう慣れたのに。
 ――優。
 ほら、また統次さんがわたしの名前を呼んだ。
「優」
「あ、はいっ」
「なにか飲み物用意してくれるか? 僕はこれ切り分けておくから」
「はい」
 いつのまにか奏ちゃんもテーブルに三人分のお皿を並べていて、何もしていないのはわたしだけだった。小さな部屋のなかでわたしだけが取り残されていた。
 レモンパイにはコーヒーと紅茶、どっちが合うだろうかと少し考えたけれど、冷蔵庫につくっておいた水出しコーヒーがあることを思い出して棚から透明なグラスを三つ取りだした。
「いただきます」
「いただきます」
 わたしがテーブルに着く頃には二人はすでに手と声を合わせていた。二人ともそんなにお腹が空いていたのだろうか。これではのんびりしていたわたしがあまりレモンパイに興味がないように思われるかもしれないけれど、わたしだってさっきから部屋中に漂う甘い香りに舌も胃もちゃんと反応している。
「うーん、おいしいです」
「やっぱり焼きたてが一番だね」
「今度これの作り方教えてくれませんか。つくってみたいです」
「いいよ。意外とかんたんにつくれるから奏ちゃんならすぐにマスターできるよ」
 その二人の会話は何だかとても優しくて、聞いていたわたしも思わず笑顔になった。統次さんなら本当に料理教室だって開けるかもしれない。統次さんが料理を教えて、わたしが勉強を教える。そう少し考えてから思った。これ、普通は逆の方がしっくり来る。
「あ、優の分はこれね」
 統次さんがわたしの分をお皿に載っけてくれる。
 すぐにありがとうと言葉を返そうとしたけれど、その前にわたしは「あっ」と、思わず小さな驚きの声だけをあげてしまった。
 レモンパイの上にハートが描かれていた。
 よく見てみれば、それはメレンゲと焼き目が偶然つくりだしたハートのような形に過ぎなかったけれど、一度ハートだと思ってしまうともうそれ以外には見えなかった。
「どうしたの?」
「う、ううん、なんでもない」
 教えてあげようかな。少し迷ったけれど結局繕った。
 そう、なんでもない、なんでもない。不思議と言い聞かせるとそう思えてきた。
「いただきます」
 一人遅れて、手を合わせた。

 ○

「ずいぶんと長居しちゃいました」
 奏ちゃんは申し訳なさと楽しさが混じったような、そんな表情でわたしにそう言った。
 授業終了の時間からすでに30分が過ぎている。レモンパイを食べるだけじゃこんなにも時間はかからなかったのだろうけれど、お皿を片付けたあと、統次さんと奏ちゃんのあいだで料理話が盛り上がってしまったのだった。料理を教えるのは今度だって、最初に二人で話をしていたくせに、結局二人とも我慢できなかったらしい。
 だけどわたしはそんなふたりを無理に止めるようなことはしなかった。
 話を聞く奏ちゃんの表情が真剣だったというのもあるけれど、なによりも少しでも長く奏ちゃんがこの部屋に居てくれた方が、わたしは気楽でいられる気がしたからだった。それは単なるわたしのわがままなのかもしれないけれど。
 奏ちゃんが玄関先で赤のラインが二本入ったスニーカーを履く。わたしの靴より1センチほど小さい靴のサイズ。その隣でわたしも一緒に自分の靴を履いた。
 彼女の家はこの家からとても近い。なんたって向かいのマンションなのだ。わたしのマンションが2号館で、奏ちゃんのマンションは1号館と呼ばれている。そんな距離だからということもあってか、わたしはいつも彼女を家まで送ることにしていた。それは奏ちゃんがわざわざわたしの部屋まで授業を受けに来る理由でもあった。
「いつもより遅くなっちゃったけど、お母さん心配してないかな」
「大丈夫ですよ、家近いし。それにお母さん、たぶんまだ帰ってきてませんから」
「そうなんだ」
「あと、お母さんも甘いもの好きだから、これを見せたらきっとなんにも言ってきませんよ」
 そう言って奏ちゃんは手に持ったレモンパイが入った紙袋を嬉しそうに持ち上げた。
 いくら統次さんがレモンパイをつくりすぎたからと言っても、三人なら十分食べきれる量だったが、無理して食べれば夕飯に響くかもしれない。それに太るんじゃないかということもわたしは多少考えた。なんたって結婚をしてこの仕事をしているとほとんど運動らしい運動は夫婦揃ってしなくなってしまったからだ。それにも関わらず統次さんは暇だと言っては甘いものをつくるのだから、たまったものじゃない。
 だから奏ちゃんが残りを持ち帰ってもいいですかと訊ねてきたとき、少しだけほっとした。よっぽどおいしかったのだろうか、自分で食べるのではなくお母さんにも食べさせたいと言い出すあたり、彼女の純粋な優しさが伝わってくる。
「じゃあ、帰りましょうか」とわたしはドアを開ける。それと同時に開いたドアの向こうで驚くような声が聞こえたので思わずあれっと首を傾げた。
「小山くん?」
「あ、どうも」
 ドアの向こうに居たのは小山くんだった。
 少しだけ伸びてきた一月程前に坊主にした頭と、気慣れた様子の学ラン姿がそこにあった。
 彼もわたしの生徒で、奏ちゃんと同じように我が家で勉強する生徒だった。ちょうど次の時間から――とは言っても授業まではまだ10分ほど時間があるのだけれど、今日はずいぶんと早く来たようだった。部活のグラウンド整備などで遅れることも少なくないというのに。
「なんで俺がいるってわかったんですか」
 超能力者ですかと、小山くんは右肩の大きな鞄をかけ直しながらいつもの調子でそんなことを言う。
「たまたま外に出ようと思っただけよ」
「俺、授業受けに来たんですけど」
「この子を送るだけだから、すぐに帰るわよ」
 そう言ってわたしは小山くんに奏ちゃんを紹介するように、彼女の両肩にぽんと手を置いた。小山くんは奏ちゃんを見て、少しのあいだ驚いた表情をしていたけれど、すぐに自分と同じわたしの生徒なのだと理解したのだろう、また「どうも」と少しだけ頭を下げて奏ちゃんに礼儀正しくお辞儀をした。
 わたしは二人のことをよく知っているから、この場に二人が居合わせることに違和感を感じていなかったけれど、驚くことにこれが二人にとっては初対面だった。まあ、おかしいことでもない気がする。ここは塾ではないのだから生徒同士が顔を合わせることなんて普通は起こるわけがないのだから。
 ひさしぶりに会った同世代の男の子に頭を下げられた奏ちゃんは固くなって、喉の奥から漏れるような声だけを出した。どうやらものすごく緊張しているようだ。さっきまでは笑顔を混ぜながらわたしに話しかけていたというのに、いまは怯える様子でわたしに助けを求めるように視線だけを送る。
「あ、甘い良い匂いする。またなんかつくったんっすか」
「鼻がいいのね」
 そんな奏ちゃんとは対照的に、小山くんはまだかすかに残っているレモンパイの香りいち早く嗅ぎつけた。まるで犬みたいだ。
 もしかするとそれは奏ちゃんの持っている袋のなかのレモンパイから漏れる匂いに気づいたのかもしれない。しかしそんなことを予想もしていない小山くんはてっきりまた統次さんがキッチンでつくっているものばかりと思っているらしい。
「今日はなにつくったんですか」
「レモンパイ。もうないけどね」
「えー」
 小山くんは大袈裟な動作をして、不満を訴える。わたしはその様子がおかしくて笑ったけれど、奏ちゃんはわたしの後ろに隠れるように移動して、申し訳なさそうに声をあげた。
「あ、あの」
 小山くんが来てから初めてはっきりとした声をあげた奏ちゃんに、わたしも小山くんを口を閉じて注目した。しかしそれは逆に彼女に緊張を与えるだけだったのかもしれない。
 それ以降はまたよく聞き取れない声を発しながら少し前まで歩いて、小山くんの胸に押し付けるように手に持っていたレモンパイの入った袋を渡した。
「いいの? それは」
 それはお母さんにあげるための、とわたしが言葉を続ける前に奏ちゃんは振り返って「いいんです」と言った。
「今日は一人で帰ります。じゃあ、また、先生」
 そう言って奏ちゃんは足早にドアを開けて、小山くんの横を通り過ぎていく。肩まで伸びた黒髪がふわりと風に運ばれた。わたしが声をかける間もなく、奏ちゃんはちょうどこの階に来ていたエレベーターに乗って、姿を消した。それはきっと小山くんを運んできたエレベーターだ。
 残された小山くんは手に袋を持ったまま、不思議そうな表情でその行き先をみつめていた。



     






「女の子から何か貰ったのってひさしぶりだ」
 その日の授業中、終始小山くんはどこか気の抜けた様子で、何もない白い壁を高い空を見上げるように眺めては、ときどき入り口脇に置いたレモンパイのはいった紙袋を思い出したかのようにみつめていた。
 わたしは授業前に「レモンパイを食べるのは勉強をした後で」と、彼と約束をしていた。しかし小山くんの表情の原因がレモンパイひとつではないことは、なんとなくわかっていた。彼にいまそれを食べさせたところで、どうとなるわけではない。
「この部屋で授業を受けるのは、奏ちゃんと小山くんだけね」
「俺だけだと思ってました」
「まあ、彼女は小山くんみたいな理由じゃないけどね」
 わたしは彼をからかうつもりでそう言ったけれど、小山くんは恥ずかしそうな表情をして、なにも文句は言い返してこなかった。
 小山くんが我が家で授業を受ける理由。それは彼が自分の部屋は散らかっているからといってわたしを入れさせてくれないからだった。わたしは別にそんなこと気にしなくていいと思っている。男の子の部屋が多少散らかっているのはなにもおかしいことじゃないし、わたしだって雇われる側の立場なのだからどんな環境でも勉強さえできるのなら教えに行く。そんなことをいつか統次さんに話したとき、「わかってないな」と溜息まじりに小言のようなことを言われた。どうやら年頃の男の子はわたしが思っている以上に難しいものらしい。
「勉強だって、同じ二年生だけど彼女の方がずっと進んでるよ。小山くんがいまやってる範囲なんて、彼女は4ヶ月前に完璧に解いてたんだから」
「えっ、いやでもここさいきん学校で習ってるところなんですけど」
「ふふん、わたしが勉強教える生徒には二種類の人間がいるの」
「二種類?」
「学校の勉強に追いつけないから勉強しにくる子と、学校の勉強が簡単だからもっと先を勉強しにくる子」
 そんなことをわたしが言うと、小山くんは「どうせ自分は前者ですよ」と言った感じわざとらしく不貞腐れた。そういった反応はいつもの小山くんらしかったので、わたしは笑った。
 でもわたしのその言葉にはいくらばかりかの嘘があった。嘘だって、物語ほどの大きさになればそれは真実になるときもあるが、わたしの嘘は本当に小さな嘘だった。それはなにかを守るためだったからかもしれないし、ただの習慣だったのかもしれない。
 わたしは小山くんに奏ちゃんのことをもっと知って欲しかった。きっと彼も知りたがっているからだ。ただわたしにどこまでする権利があるのだろうか。やらなければいけないことは、きっと皆無だ。できること、それはいったいどこまでなのだろうか。
 男の子は難しいのかもしれない。でも、女の子だって難しい。わたしは知っている。人間なんて内容が違うだけで、案外なにも変わりはしないものだ。
 その日の勉強の範囲がすべて終わると、小山くんの視線はすぐにレモンパイの袋へと向かった。統次さんのつくったレモンパイ。奏ちゃんに渡された袋。
 もしかすると部活帰りで本当にお腹が空いてるのかもしれない。彼は学校の野球部に入っている。まだ中学生だから軟式野球だ。彼が部のなかでどれほど上手いのかはわたしはよく知らないけれど、何度かバッドや用具を背負っているのを目にしたことがある。いまは少し伸びてしまったけれどその髪型と少し日に焼けた顔を見ると、ああ、彼は野球少年なんだということが伝わってくる。
「レモンパイ、持って帰ろうかな」
「時間あるしここで食べて帰ったらいいのに。飲み物も出すわよ」
「うーん。じゃあ、やっぱりそうします」
「小山くんはコーヒーだめだよね」
「はい、苦いのはだめです」
「じゃあ、お茶でいい? 烏龍茶だけど」
「はい」ともう一度小山くんは大きく首を縦に振った。
 窓の外、いつのまにかあの夏のような太陽は落ちようとしていた。

 ○

 なんとなくこうなることはわかっていた。
 小山くんがリビングの椅子に座れば、統次さんまでノコノコと仕事部屋を抜けだしてきて同じ席に着く。そうしていつも男ふたりの間では野球話が繰り広げられるのだった。
 そういえば統次さん、さっきは奏ちゃんとこうやって話していたっけ。話の内容は料理と野球でまるで違うけれど、表情はまったく同じだった。
 わたしの教え子を暇つぶしの話相手かなにかと勘違いしているじゃないだろうか。だけどやっぱりわたしはそのふたりの会話を無理には止めなかった。理由は奏ちゃんの時と同じだ。誰か第三者がこの場に居てくれた方が、わたしは気楽でいられる気がした。
 統次さんも学生時代はずっと野球をやっていたという。
 小学校の低学年から始めて、高校卒業なのでかなりの野球歴だった。それだけやっていたのならいまも休みの日などに草野球でもして続けたらいいのに、わたしは彼が野球どころかキャッチボールをしているところさえ見たことがないし、そもそも家のどこかで野球用具らしきものを見つけたことさえない。だからわたしにとってそれはいまもずっと意外な事実で、少し信じられないような話だった。
 ふたりの野球話は、小山くんのやっている野球部の話などではなく、いつももっぱらプロ野球についてであった。
 統次さんは野球はさっぱりやめてしまったらしいけれど、いまもテレビの中継だけは熱心に観るのだ。寝る前にはいくつものスポーツ番組をリモコン片手に行き来する。おんなじ映像なのに、何度観てもおんなじリアクションをする。
 わたしだって、野球のことをまったく知らないわけではない。ある程度のルールやテレビなどでよく取り上げられる有名な選手、名物監督くらいの名前ならわかる。わかるけれど、わたしの知っているのは所詮その程度なのであった。とてもふたりの会話には入れそうにもない。
「野球の話ばかりしてないで、たまにはふたりで外でキャッチボールでもしてきたらいいのに」
 それはちょっとしたわたしの提案だった。
 自分でもなかなか悪くない提案だと、言った後で思った。
 それは聞いていた男ふたりも同じようで、さいしょは驚いたような、虚を突かれたような表情をしていたけれど、自然とふたり顔を合わせて、ついでに声まで合わせて「いいね」と言った。
 そんな光景を見せられたわたしは、ただ呆れた。
 どうして男の人はこうも馬鹿っぽいところがあるのだろうか。自分では一切なにも気づかないのに、他人に言われると「そうだ、そうだ」と宝物でも見つけたかのように喜ぶ。鏡を見たって、彼らには自分の姿が見えてないのではないだろうかとさえ思う。
 対照的に女性は、あまりにも自分をみつめすぎるのだろうか。わたしは自分の悪いところも良いところも、まだ未熟なところも他人よりも優れているところも、だいたい理解しているつもりだ。理解しているのに悪いところを直そうとしないのは、もう直せないからだ。わたしたちは歳を取っていって、そのなかで自分というものを段々と形をつくり、固くなってしまっている。気づいたときにはもう不完全な人間なのだ。それを諦めたように受け入れる。
「でも統次さん、道具持ってましたっけ?」
 いつのまにか「いますぐやろう」という話になっている男ふたりに訊ねると、
「ああ、それなら」と統次さんは落ち着いた足取りで仕事部屋へ行って、すぐにグローブを左手につけて帰ってきた。わたしの目にもわかるほど、それは使い込まれた少し濃い茶色のグローブだった。サイズだって彼の手にはちょうどいいように思える。
「そんなの、どこに置いてたの? はじめて見るけど」
 不思議そうにわたしが訊ねると、統次さんはなぜか自信たっぷりの表情で「宝箱からさ」と口にした。
「かっこいい」と小山くんは古いグローブを見て声をあげる。
 たしかにわたしはあまり彼の仕事部屋に入ったことがない。統次さんに入るなと言われたわけではないけれど、わたしの関わる場所ではない気がしたし、部屋だってそんなに散らかしているわけではないからだ。
 その部屋にあるクローゼットには、服ではなく、たくさんの段ボール箱が積まれているのを何度か見たことがある。しかし、その中身がなんであるかまでは、わたしは知らない。あのどれかが「宝箱」なのだろうか。それともすべてだろうか。
「高校のさいごの試合で使ったやつで、他の道具とかは実家だけどこれだけは持ってきてたんだよ」
 わたしは統次さんの思い出話を聞いて、単に「へえ」と納得をしただけだったけれど、小山くんは違うところに食いついた。
「レギュラーだったんすか?」
 ああ、こういう発想はやっぱり運動部に所属しているからできるんだろうなと、ずっと吹奏楽部だったわたしはさらに納得した。
「まあ、一応ね。田舎の弱小校だけど」
「ポジションは? どこだったんですか?」
「だいたいショートだったかな。打順と背番号は同じで6番だった」
 そう語る統次さんの表情は記憶の彼方の古い映画を思い出して楽しんでるような遠い目をして、どこか魅力的だった。それに惹かれるように、小山くんは一際煌々と輝いた瞳をしていた。
「小山くんのポジションは?」
「いまはセンターです。あ、でも試合はあんま出たことないんすけど」
「まあ、まだ二年生だしね」
 やっぱり男の人は馬鹿だ。そう思った。
 どうしてこの二人はいつもプロ野球の話ばかりしていたのだろうか。自分の野球経験の話をすればこんなにも盛り上がるのに、そこには選手のミスに対する愚痴なんてなく、こんなにも輝きがあるのに。
 
 ○

 その後の二人の行動は早かった。
 あまりにも早かったので、わたしはそんな二人を褒めるべきなのかどうかさえ、うまく判断がつかなかった。また一人取り残されないように、わたしもできるだけ素早く出かける準備をした。
 統次さんが出るとき手に持っていたのは、本当にキャッチボールをするための道具だけ。たったひとつのグローブ。わたしの知らない彼の過去と記憶が染み込んだ、古いグローブ。
 小山くんはキャッチボールが終わったらそのまま家に帰るらしく、部活帰りで持ってきていた大きな荷物を背負った。キャッチボールに必要なボールと、小山くんのグローブはその荷物のなかにあった。
 わたしも外に出るついでに買い物をしよう。
 そう思って、大したものも入っていない小さな鞄を癖のように手に取った。このローズグレイの革鞄は、半年前の誕生日に統次さんがわたしにプレゼントしてくれたものだ。有名なブランドものなんかじゃないけれど、むしろその方がわたしはありがたかった。
 それになによりも一番嬉しかったのは、ちゃんとクリスマスプレゼントを別で用意してくれていたことだ。
 誕生日とクリスマスが近いわたしは、昔からいつも二つの記念日をまとめて祝られていた。だからいつもプレゼントはひとつだったのだ。ひどい年なんかお年玉もまとめられたことだってある。
 だから統次さんに二つのプレゼントをもらったことは、いまでもわたしのなかで強く印象に残っている。彼はそんな我が家の悪しき慣習を知らないだけだったんだろうけれど、やっぱり嬉しかった。
 いつか彼にもひとつにまとめられるのだろうか。もしかしたら何も貰えなくなるかもしれない。でもそれは、必要がなくなったということなんだよね。
 ちなみにクリスマスプレゼントには膝掛けをもらった。さらさらとして触ると気持ちのいい生地の膝掛け。それは家庭教師をしているわたしのことを考えてのプレゼントだった。いまの時期はもう必要ないけれど、4月くらいまで使っていたっけ。
 わたしが二人にキャッチボールを提案してから30分と経たないうちに、わたしたちは近くの河原に来ていた。
 この辺りでボールを自由に投げられる場所は、ここくらいしかない。さいきんはどこの公園も危険だという理由でボールを使った遊びは禁止されているから。
 土曜日・日曜日の河川敷では、いくつかの少年野球チームが毎週練習や試合をしている。ちょうど終わりそうな頃合いだったけれど、まだ少し練習で使われいる場所もある。統次さんと小山くんは邪魔にならないように空いた場所に移動して、小山くんは重そうな荷物を少し草の生えた地面の上に無造作に下ろした。
「優はやらないのか、キャッチボール」
「えっ」
 思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
 まさかわたしが誘われるなんて思ってもいなかったから。
「優の手でも使えると思うぞ、このグローブ」
「いや、でも、わたしこんな格好だし……」
「別に、それでもできると思うぞ」
 統次さんがわたしの格好を見て笑うように言う。
 たしかにわたしはこの後買い物に行くくらいしか用事がないから、そんなオシャレをしているわけではない。この春に買ったシャツワンピースに下はジーンズだって履いてるから、ある程度なら走ったりの運動もできるだろう。
「いや、わたしはいいよ。二人でやって」
 興味は、少しあった。
 それよりわたしには、自信がなかった。
 普段は家庭教師として「先生」なんて呼ばれているのに、きっとキャッチボールなんかしたら小山くんに格好悪いところを見せてしまうことになる。運動神経が特別悪いわけではない。でもやはり、わたしは女だった。野球経験だってない。
 そんなこと、深く気にすることではないのだろうけれど、気づいたらそういうことばかり気にしてしまっている自分がいる。ああ、なんでだろうな。
 わたしは二人から少し離れた芝生の斜面に腰を下ろして、二人のキャッチボールを見る。
 統次さんは「そんなに離れなくても大丈夫だよ」と笑い交じりに言ったけれど、わたしは場所を動かなかった。わたしだって別に危険だと思って離れているわけではない。ボールは軟球だったし、二人がノーコンだと疑っていたわけでもない。これくらい離れていた方が、同時に二人が視界に入ってボールの動きが見やすいからだ。
 最初はゆっくりと山なりの軌道を描いていたボールが、いつのまにか直線的な軌道を描くようになっていた。
 いったい、いつ変わったのだろう。
 きっと急激な変化はなかったはずだ。それはゆっくりと、段々と変わっていく。
 二人のボールの投げ方を見ていると、わたしはやっぱり参加しなくてよかったと、一人胸をなでおろした。
「ボールはな、肩を使って一番負担のかからない高さで腕を振るんだ。それが一番効率のいい投げ方なんだよ」
 いつか統次さんがテレビで野球を見ながら、そんなことを教えてくれた。わたしはその時、聞き流すように聞いていたから、それがどういうことなのかよく理解ができなかった。しかし、いま、二人の力強い投げ方を見ていると、わたしには到底できないなというのがわかる。
「統次さん、本当に野球やってたんだ……」
 わたしは一人呟いた。
 きっと彼の耳に届いたら「疑ってたのか」って怒るのだろう。
「うん、疑ってた。だって……」
 その言葉の続きは浮かばなかった。わたしは知らなかったのだ。


     





 わたしは二人のキャッチボールが終わらないうちに、一人、河原を抜け出して買い物に行った。
 この近所にはいくつかのスーパーマーケットが点在しているから、夕方のタイムセールの時間でもひとつの店がそこまで混み合うことは滅多にない。今日もわたしは難なくお目当ての牛乳と卵を安くで手に入れることができた。
 我が家ではこの2つを異常にたくさん消費する。
 そのほとんどは統次さんがお菓子づくりなどで使ってしまうからなのだけれど、わたしも昔から毎日牛乳は飲む習慣があるから、こういう買い物は二人で交代交代に行くことにしている。我が家の数少ないルールのひとつだ。
 この2つは世間でも日用的に必要なものだから、一週間に一度くらいの頻度でどこかしらのスーパーマーケットがセールをやる。我が家にとって今日のような日は見逃せないのだ。
 買い物の帰り道。右手に持った買い物袋の中身を、口の隙間から一度確認した。一番上に乗っているのは卵パックだ。
 そういえば、まだ二人はキャッチボールのしてるのかな。
 藍色に染まってきた6月の夕空を見上げながら考える。ちょうどわたしはスーパーとマンションの中間あたりに位置する公園の前で、一度足を止めた。
 どうしよう。
 河原に寄るなら、ここで曲がって坂をのぼるべきだ。そしてこの重い買い物袋を、ほぼ手ぶらの統次さんに持たせて一緒に帰ろう。本当なら、今日は統次さんが買い物の番だったのだ。
 わたしは彼に確認してみようと、鞄のなかのケータイを取り出そうとしたけれど、しばらくしてその動作を諦めた。
「きっと、持って行ってないな」
 家を出る時の統次さんを思い出す。あの様子じゃ確実にケータイどころか、財布だって持って行ってないだろう。なにもそれは今日に限ったことではない。いつも、近くに出かけるくらいの用事では、何もポケットに入れていかないのだ、あの人は。どこに行ったんだろうと心配しても連絡は取れず、ひょっこり帰ってきては「散歩してた」なんて言われる。昔はそうやって何度もひどく呆れさせられた覚えがある。
 先に家に帰っていたのならきっと電話にも出てくれるのだろうけれど、キャッチボールは小山くんと一緒にやってることだし、そんなに遅くまでやったりはしないだろう。まだやっていたとしても、ゆっくりと家で待とう。このまま、まっすぐ帰ろう。
 目の前の公園ではまだ何人かの子どもたちが遊んでいた。そのほとんどは男の子だった。小さな子もいれば、少し大きな子もいる。
 その光景自体には、特に違和感を感じなかったのだけれど、少しだけ「あれ?」と思うようなものを視界の端に見つけてしまった。いつもの公園にはない、ベンチに座ったスーツ姿の若い男の人。
 わたしは彼を見て決して「怪しい」と思ったわけではない。
 むしろわたしは彼のことをよく知っていたし、ひさしぶりに見かけたので懐かしさで頭はいっぱいだった。
 ただその彼の姿はどこか周りの雰囲気から浮いていて、不審者とはいかなくてもリストラされたサラリーマンのようには見えるかもしれない。
「おひさしぶりです」
 あと数歩という距離まで近づいて、そうわたしが声をかけたところで、神藤さんはやっとわたしの存在に気づいてくれた。
「あ、は、橋田さん!」
 彼は突然立ち上がり、おまけに大きな声でわたしを旧姓で呼んだ。わたしは思わず驚いてしまったけれど、すぐに口元をゆるませた。
「いまは高山ですよ」
 少し意地悪を言うように、彼に伝える。
 昔の同級生とかなら仕方がないけれど、彼がわたしを旧姓で呼ぶのはなんだか当たり前のようで、おかしかったからだ。
「そ、そうでした! すみません、いや、本当びっくりして、突然で、ひさしぶりで」
「驚かせてすいません」
「いえいえ」
「本当、ひさしぶりですね」
「はい。そういえばお住まいここらへんでしたね、あの……えっと高山さん」
 神籐さんは躊躇いがちにわたしを「高山さん」と呼んだので、なんだかおかしくて笑った。真面目だけれど、相変わらず不器用な人だ。
 短い髪にすっきりした額に、意思の強そうな口元。いつもどこか慌てている彼を見ているとこちらまで焦燥感を感じてしまう。
 そんな彼の印象はあの時とまったく変わらなかった。わたしが結婚相談所、Cold Marriageにはじめて行った、あの時と変わらず。


 ○

「よ、よろしくお願いします! 担当をさせていただきます、神藤拓生と申します!」
 初めて会った時、わたしはまず彼の声の大きさに驚いた。だけど、それが威圧したり威嚇したりするような類の大声でないことは、ちゃんとわかっていた。むしろ張り切りや緊張、そういった焦りのような感情が素直に声量に表れているようで、わたしは神藤さんの目を思わず確認してしまった。声の印象よりもずいぶんと若い人だ。
「声がでかいぞ、神藤」
「あ、すいません。斉藤さん」
「謝るのは俺じゃないだろ」
「あ、すいません。橋田様」
 すぐに同席していた上司らしき男の人に冷静に注意をされた神藤さんは、さっきよりも焦りを表情に出していた。それは単に先程までの張り切りをなくしてしまって、焦りだけが残ってしまったかたちなのかもしれない。
 その後、神藤さんの上司ような人はどこか不安を拭い難い、心配そうな面持ちのままだったけれど、それでも神藤さんにすべてを任せるように席を立った。そう、わたしは神藤さんにとってはじめてのお客様だったのだ。
 その頃のわたしは、いろいろな結婚紹介所、相談所から資料をもらったり、直接訪ねたりしていた。おかげさまで「きっとあなたの幸せもすぐそこに!」なんて、少し嘘くさいタイトルのメールが毎日のように送られてくる日々だった。
 Cold Marriageも、そういった場所のひとつに、その時のわたしにとってはすぎなかったはずだった。
 こういう来社訪問だって、はじめてだったわけじゃない。ただ、いままでと大きく違ったのは担当者が神藤さんのような若い男性だったということだ。
 わたしがいままで出会った結婚相談所の担当者さんというのは、みんな年上のおばさんかおじさんだった。やはりベテランで慣れているからなのか、落ち着いてわたしの話を丁寧に聞いてくれた。
 しかし、やはりジェネレーションギャップというやつだろうか。わたし自身がそういった先入観を単に拭えないままだったのかもしれないけれど、一回りも離れた年上の人に深く自分の価値観などを伝えたり、また理解してもらえる気がしなかった。
 だからなのか。
 なぜかその時、わたしは神藤さんを見てほっと安心したのだった。
 ここでいい。ここで探そう。
 ここで結婚相手を探そうと。
 きっと中身の違う、同じ感情に、わたしはいつのまにか惹かれていたのだ。

 ○

 25歳の誕生日を迎えた後から、わたしはなぜか毎日のように焦りを感じるようになっていた。
 きっとそれが“25”だったのは、20代の後半が始まったというのもあるだろうけれど、何よりもお母さんが結婚した年齢だったというのが一番大きかったのだと思う。
 それに拍車をかけるように同級生の友人たちは次々と結婚をして、わたしは何人ものウェディングドレス姿をこの目で見た。花嫁というのは泣いているのに、なぜかそれが一番幸せそうなのだ。すごく羨ましいと、式の後ではいつもまだ独身の友人と一緒に話したっけ。
 実家に帰ればお母さんだけではなく、お父さんにまで早く身を固めたらどうだと催促された。普通は娘を手放したくないものじゃないの? もう“25”というのは、そういう年齢でもないのかもしれない。そういった周りの人達の焦りが大きくなって伝播するように、わたしは結婚を意識するようになったのだ。
 それでも、そんなに焦らなくてもよかったのにと、いまでは昔の自分を他人事のように思う。まだ20代じゃない。社会に出てたった数年しか経ってないし、まだまだ働いた方がいいことだってたくさんある。
 そんないまのわたしの声が届くはずもなく、とにかくわたしはあの頃毎日焦っていた。
 友人に頼んで慣れていない合コンなんかに誘ってもらったり、ろくに酒も飲めないのにわたしは笑って男の人と積極的に会話をした。それは明らかにわたしにとってストレスでしかなかったはずなのに、どこか満足感を感じていたわたしは、知らず知らずのうちにそれさえ隠していた。
 そんなことが長く続くわけもなく、半年と経たないうちにわたしはその生活に諦念を感じ始めた。
 そう、わたしは恋愛が極度に下手なのだ。
 それはわたしに男の兄弟がいなかったからかもしれない。学生時代に親しい男友達がいなかったからかもしれない。深く男の人と付き合ったことがなかったからかもしれない。友達の恋愛ばかりを応援していたからかもしれない。
 とにかくわたしは下手だった。
 いつのまにかわたしは大人になっていたのに、いつまでも恋愛ができなかった。

 なぜ夫婦には「恋」よりも「愛」という言葉の方がしっくりと来るのだろうか。
 恋は、あまり好きではなかった。
 その理由は苦手だったというのもあるかもしれないけれど、花火のような輝きしか持てないそれに、わたしはあまり魅力を感じることができなかったのだ。
 もちろんわたしにだって、初恋はある。片思いだって、何度もした。それはたしかに恋のはずだった。そして恋はいつも長続きしなかった。
「お母さんは、お父さんと恋愛結婚したの?」
 25歳になる前の年の正月のことだ。
 実家に帰っていたわたしはお母さんに訊ねた。答えを聞いてひどく驚いた出来事だったから、いまでも印象深く覚えている。それにきっと忘れることはない出来事だ。
 そんな印象深い出来事になってしまったのは、それまでにそういった質問をわたしがしなかっただけなのかもしれない。わたしはお母さんとお父さんがどうやって出会って、どうやって結婚したのかを一切知らなかった。
 別に、両親と仲が悪かったわけじゃない。
 仲は、むしろ良かったとも言える。いまだに正月と盆にはちゃんと実家に帰るのだから、わたし自身なかなかの親孝行娘だと思う。結婚や孫といったそういう孝行はまだできていなかったけれど。
 お母さんたちも、一人娘であるわたしを昔から溺愛して育ててくれた。少なくともわたしはそう思っている。平和が日常のような、そういう家庭で育った自覚は、わたし自身あった。
「お母さんたちの結婚の話? いままで話したことなかったっけ」
「ないよ」
「そうだったかしら」
「ないよ。で、どうやって知り合ったの?」
「ちょっと待ってて」
 そう言って炬燵からごそごそと出たお母さんは、押入れの方になにかを取りに行ってすぐに戻ってきた。
「これ、お父さん」
 お母さんが渡してくれたのは古いアルバムのようなものだった。しかしそれは何ページもあるようなものでなく、見開くとそこには大きな写真が二枚だけ貼ってあった。
 全身を写したものと、椅子に座って上半身だけを写したもの。
 その写真は少し色あせていたけれどカラー写真で、写真の人物がずいぶんと若いのがわかった。スーツを着てびしっとしているけれど、この目はたしかにお父さんだ。
「お母さんのは? ないの?」
「お母さんのは……どこに置いたかしらね。忘れちゃったわ」
 お母さんはいつもそうだった。
 女性というのは普通、昔の自分の写真とかを残したがるものだと思うのだけれど、お母さんはまったくの逆だった。高校の卒業アルバムも、結婚式の写真もわたしは見せてもらったことがない。「見たい」「見せて」とわたしが言うと、いつも「ない」と言う。もしかすると単に恥ずかしがっているだけなのかもしれない。だってお父さんの写真も、わたしの小さい頃からの写真もたくさんあるのに、お母さんだけ昔の写真がないのは少し変だ。
「これって、お見合い写真だよね?」
「そうよ」
「お見合い結婚だったんだ……」
「いままで話したことなかったっけ」
「ないよ」
「そうだったかしら」
 お母さんはなぜかそう言って驚いたような表情をした。そういう表情をしたいのは、わたしの方だっていうのに、お母さんはそのまま何かを考えこむようにずいぶんと長いあいだ驚いた表情をしていた。
「お母さんの時代だともう、好きな人とお付き合いして、それから結婚っていうのが当たり前になってたけど、でも、いまほど珍しいことでもなかったのよ」
「お見合い?」
「そう」
 お母さんたちがお見合い結婚だった。
 その事実はわたしにとって本当に驚くべき事実であった。だって、お母さんたちは昔からすごく仲が良いのだ。いまも毎年2人でどこかには旅行に行っているし、あまり喧嘩らしい喧嘩や、言い合いをしてるところをわたしは小さい頃からほとんど見た覚えがない。
 わたしにとっての理想の夫婦像というのは、ドラマや漫画のなかではなく、お母さんたちに一番身近なモデルとして感じることができたし、またそれはわたしにとっての永遠の疑問のようなものでもあった。
 どうして、いつまでも愛し続けられるのだろう。
「別に、お母さんはお父さんを愛してなんかいないわよ」
 そう返されたので、わたしはさらに驚いた。平衡感覚がなくなる、ショックに近いような驚きだった。何かとんでもないようなことを聞いてしまったような気さえする。自分の記憶がすべて矛盾しているような、とても奇妙な沈んでいく感覚だ。
「えっ、え?」
「だって、そんなに長く愛し続けてたら疲れちゃうでしょ」
「で、でも、ほら毎年旅行とか行ってるじゃない」
「それはお父さんが新婚旅行の時にそんな約束したから。毎年どこかに行こうって、約束は守らないとね」
「じゃあ、お父さんはお母さんのこと愛してるの?」
「どうかしら……まあ、浮気されたことはないけどねえ。そんな勇気がないだけかも知れないけど、お父さん」
 お母さんは楽しそうにからからと笑った。わたしは呆れるしかない。
 旅行の話は、たしかに聞いたことがある。はじめて二人で北海道だったかな、どこかに旅行に行ったときお父さんがそんな約束をしたらしい。だけど、それだってわたしのなかでは夫婦仲睦まじいエピソードのようなもののはずだった。
 それなのに、お母さんは。
 ああ、もうよくわからなくなってきた。
「夫婦なんて好き嫌いを思っているより、一緒にいるのが当たり前なんだから」
「それが夫婦円満のコツ?」
「優もそのうちわかるわよ」
「そのうちって?」
 そんなよくわからないこと、わたしはわかりたくはなかったけれど一応訊いてみた。
「結婚したら、かな」
「ふうん」
「優はきっと、早く結婚するべきなのよ」
「結局、その話?」
「ほら、優は飽き性でしょ。悪い女、ってわけじゃないけど、熱々のフライパンみたいで水をかけたらすぐに“じゅわーっ”なのよ」
「じゅわー?」
「だから、優は早く結婚しなさい」
 変な話だけど、わたしはお母さんにそう言われて本当に早く結婚しようって、あの時思ったんだ。
 お母さんの“じゅわーっ”はいつまで経ってもわからなかったけど、夫婦にとっての愛の存在は、なんとなくわかってきたような気がする。

 ○

「すっかり奥さんって感じですね」
 夕方の公園。わたしが手に持っている買い物袋を指して、神藤さんはそんなことを言った。
 たしかに、言われてみればそうだ。
 いままで特に意識することはなかったけれど、買い物帰りというだけでも、なんだかとっても主婦という感じがする。実際にわたしは主婦なわけだけれど、そういう意識も自覚もまだ薄いのだ。
 おまけに袋のなかに入っているのは、セール品の卵パックだ。同じように周りでこれを手に取っていた人たちも、どこかの家族の奥様たちだったに違いない。わたしはそういった人たちの一人に、いつのまにか混ざっていたのだ。ずっと気がつかなかったけれど。
「おかげさまで」
 だから、わたしは神藤さんのその言葉に少し照れることにした。そして今度は神藤さんが照れる番だった。
 神藤さんの口からは「いや、はあ……どうも……」とよくわからない短い言葉が途切れるように出る。彼は思っていることがとても表情に出やすい人だ。それはきっと彼の長所なんだと思う。人によっては、それは短所だと言う人もいるだろうけれど、わたしは素晴らしいことだと思う。
 神藤さんはなんだか嬉しそうな表情をしていた。わたしも同じその表情を真似てみる。
「今日は、お仕事ですか。こんなところにいるなんて」
「はい。お客様に説明の方で……」
「忙しいんですね」
「いえいえ、僕みたいな新人は足動かさないといけないんですよ。担当させてもらってる人数もまだあまり多くありませんですし、地道に頑張らないと」
「まあ、でも神藤さん、あまり多くの人を見れそうにもないですしね」
「え」
 神藤さんが驚いた表情をした。それを見てわたしはまたやってしまったなと後悔をした。昔からときどきあるのだ。わたしは他人が気にしていることをそのまんま言ってしまって、相手を傷つけてしまうことが。
 悪い癖だなと思いつつも、ときどき出てしまう。わたしは慌てて繕う言葉を探した。
「あ、悪い意味じゃなくて、その神藤さんって不器用なところあるじゃないですか」
「はあ……」
 あ、ダメだ。これもフォローになってないじゃない。
「その、一人の人に深く考え過ぎちゃうというか。わたしの時もそんな感じだったし、ごめんなさい、言い方が下手くそで」
「いえ。上司にもときどき似たようなことを言われるんです。それで少し驚いただけで……。こんな話するのもあれなんですけど、お客様はたしかに一人ひとり大切なんですけど、あくまで商品として見たほうがいいと言われるんです。全員を人だと思うと、結婚っていうのはその人の人生を大きく変えるわけじゃないですか。そういうところまで深く考えてしまうと、辛いだけだって」
 神藤さんのその話には、なんとなく納得できるものがあった。
 きっと神藤さんはこれからもたくさんの夫婦を結ばせるのだろう。わたしたちはその第一号なわけだ。わたしたちの人生を彼にひとりに背負わせるのは、やはり酷だ。
「でもやっぱり僕はそういう力の抜き方というか、できないんですよね。こうかもしれない、ああかもしれないとかいろいろ考えて、結局空回りみたいになってしまうんです。向いてないんですかね」
「そんなことないです」
 自分でも驚くほど、強い言葉を発していた。
 そんなことない。そんな風にわたしたち一人ひとりのことをちゃんと親身になって考えてくれる。そんな神藤さんが担当だったからこそ、統次さんと出会えたのだ。たしかに神藤さんのやり方は効率が悪いのかもしれない。それでも、神藤さんのような人が絶対に必要なんだ。
「ありがとうございます」
 言いたいことはたくさんあったけれど、先に神藤さんに笑顔でそう感謝をされて、わたしは照れることしかできなかった。でも、きっとわたしの言いたいことは伝わったような、そんな気がした。

 ○

 神藤さんはこの後、会社の方に戻るようだったけれど、まだ時間に余裕があるということで、わたしたちはもう少しの間、公園のベンチで話をすることにした。
 わたしが本当に時間大丈夫なんですかと訊ねたら、「これも仕事の内です」と神藤さんは冗談っぽく言った。
「旦那さんはいま仕事中ですか? 統次さんにも会いたかったですね」
 わたしは神藤さんのその言葉を聞いて、統次さんはいま何をしているのだろうかと考えてみた。きっと家に帰っていたとしても、仕事はしてないだろう。
「もしかしたらまだ、河原でキャッチボールしてるかもしれません」
「キャッチボール?」
 神藤さんは驚いた表情をした。その反応はわたしが思った通りでもあった。
「学生時代、ずっと野球やってたんですよ。知ってます?」
「はあ、それは聞いた覚えもありますが……でもキャッチボールなんて誰とやってるんです?」
 相手を聞かれて、わたしはどう答えるべきか迷ってしまった。
 わたしの家庭教師の教え子で、彼も野球部で……。そこまで説明したとしても、どうしてその二人がキャッチボールをするに至るのかまでは、ちゃんと伝えられる自信がなかった。
「もしかして……」
 わたしが黙ったままでいると、先に神藤さんが口を開いた。少しだけ、不安そうな顔をしていた。
「もしかして、お子さんとですか?」
 わたしは一瞬驚いたけれど、その後は笑いをこらえるのに必死だった。
「違いますよ」
「そ、そうですよね」
「わたしたちに子どもなんていません」
「はい」
「それに、キャッチボールできるくらい大きな子って、いったいいつの子なんですか」
「それもそうですね、いや、すいません。でも、じゃあいったい誰とキャッチボールなんか……会社の同僚とかですか?」
「いえ、相手は子どもは子どもなんです。わたし、いま家庭教師やってて、わたしが教えてる中学生の子と」
「はあ、そうだったんですか」
 神藤さんが心の底から安心したような様子だったので、今度はわたしの方が不安になった。まさか本当に疑っていたとでも言うのだろうか。
「あ、もうこんな時間」
 神藤さんが腕時計を見てそう口にしたので、わたしもケータイを取り出して時刻を確認しようとした。
「ん?」
 時刻を確認しようとして開いたケータイの画面だったけれど、その前に着信ありの知らせに目が行った。誰からだろう。
「あの、すいません。そろそろ行きますね」
「いえ、わたしの方こそ時間がないのに……。ひさしぶりに会えてよかったです」
「はい、僕もです。あっ、そうだ。先日のアンケートの方、よければ回答お願いしますね」
「あんけーと?」
「では」
 そう言って、神藤さんは早歩きで立ち去ってしまった。
 アンケート、とはいったい何のことなんだろう。
 わたしにはまったく覚えがなかった。神藤さんが言ったからにはやっぱり「cold marriage」関係のことなんだろうか。そんなの着てたかな。帰ったら統次さんにも訊いてみよう。
 そう考えて、わたしも公園のベンチから腰をあげた。さっき着ていた着信を確認しようと、もう一度ケータイを開く。その相手は、統次さんだった。


     



 4


 神藤さんと別れた、帰り道。わたしは歩きながら、統次さんに電話をかけた。
 彼がわざわざ電話をかけてくることは、滅多にない。そもそもわたしたち二人は家にいることが大半だから、特別連絡する必要があまりないのだ。メールだって、そんなに頻繁にするわけではない。世間一般の夫婦とは、いったいどれくらいの頻度でするものなんだろうか。テレビに出ているような芸能人のオシドリ夫婦は、ものすごい頻度でしているというのをよく見るけれど、ああいうのはあまり当てにならない。
 電話かけるという行為も、ひどく久しぶりの感覚のように思えた。
 3コール程経って、統次さんが出る。
「統次さん」
『ああ、優か』
「どうしたんですか、電話なんてして来て」
『いや、今晩は優がつくるんだろ』
 そう、今日はわたしが夕飯をつくる番だった。別に日を決めているわけではないけれど、ときどきどちらが食事をつくるか、決める日がわたしたちにはある。本当にそれは、不定期なんだけれど。
「ええ」
『帰り、もう少しかかるなら何か準備しておこうかなって』
「別にいいですよ。もう帰りますし、それにわたしがつくる日ですから」
『そうか』
「もう、帰ってるんですね。いつくらいまでやってたんですか」
『優が行ってから10分くらいだよ。帰ったのは、10分前くらい』
「そう、もう5分もしたら着きますから」
『うん』
「…………」
『なにつくるんだ』
「え」
『今日』
「……内緒です」
 今晩の料理は、いま買ってきたもの使ってつくるから、きっと統次さんにも予想できていないはずだ。だからと言って、あっと驚くような凝った料理をつくるわけではないけれど。
『じゃあ、楽しみにしとくよ』
「はい……あっ」
 不思議と、電話だと自然に話ができた。このまま、何でも話せるような、そんな気さえした。
 通話が終わってしまいそうな雰囲気に、思わず声をあげる。
 どうしたの。統次さんの心配そうな声。
 このままいろいろなことを話したかった。卵の他にも白菜が安かったから買っておいたよとか、さっき公園で神藤さんに会ったことだとか、アンケートってなにか心当たりある? だとか、もうすぐ家に着くけれど、ずっとこのまま話していたい気がした。
 けれど、
「ううん、なんでもない」
 それは帰ってから話そう。
『そうか、じゃあ、気をつけてな』
「はい」
 電話は、ためらいがちに切れた。
 わたしの歩く速度は、少しあがったような気がした。

 ○

 結局、統次さんは夕飯の準備を少しだけ手伝った。
 もちろん、わたしから頼んだわけではない。彼が勝手に台所へ入ってきたのだ。わたしは今日こそ全部一人でやるつもりだったのに。統次さんがやったのはハンバーグをこねて形をつくるだけだったけれど、それでもやはり納得がいかない。
 わたしが不満そうにしていると「待ってるの暇だし」と統次さんは言ったけれど、要はやりたかっただけに決まっている。
 ああ、テレビで野球中継でもやっておいてくれたよかったのに。今日に限ってないのだから、プロ野球の試合の日程というのは、どのようにして決まっているのかよくわからない。
 統次さんが形つくったハンバーグは、やっぱり綺麗だった。

 ○

 二人で夕飯を食べる。
「小山くんはたぶん、奏ちゃんに惚れたんだろうな」
 わたしが小山くんと奏ちゃんが今日玄関ではち合わせたことを話していたら、統次さんがいきなりそんなことを言い切ったのでわたしは思わずお箸を口の端につけたまま動きを止めてしまった。
 たしかに、小山くんにそういう気持ちがあることにはわたしも薄々感づいていた。授業中の様子を見ていれば、いつもと違うのはちゃんとわかった。だけど、あの統次さんがそのことに気づくなんて、わたしのなかでは驚くべきことだった。
「どうしてそう思うんですか」
「ん? それは、キャッチボールをしてたらなんとなくわかるんだよ」
 わたしは呆れてしまった。キャッチボールって、ただボールを投げ合っただけでそんな気持ちまで伝わってくるとでも言うのだろうか。
「疑ってる?」
「はい」
 別に隠すこともないだろうと思って、素直に答えた。
「優も、キャッチボールをしたらわかるよ。本当にわかるんだから」
「わたしは、やりません」
「どうして」
「下手だから」
「下手でもいいのに」
 わたしは何だか悔しいと思ってしまった。
 小山くんの気持ちに気づいているのはわたしだけだという自信がどこかにあったからだ。それがあの鈍感な統次さんまでが理解していたなんて、うまく言葉では言えないけれど、悔しいのだ。
「優も気づいてたんじゃない」
「まあ、なんとなくは」
「いいね、青春だね」
「……でも、奏ちゃんの方は」
 そこで、言葉が止まってしまった。
 統次さんもわたしの言いたいことを察したらしく、手を止めた。
「わたしも、小山くんと会わせたら、奏ちゃんにとって何かのきっかけになるんじゃないかって、心のどこかで思ってたんだけど、なんか余計なことしてしまったような気がして……」
「そんなに深く考えることないんじゃないか。奏ちゃんも、小山くんも、きっと優が思っているよりもずっと強いよ」
 統次さんのその言葉は、夕方の公園での神藤さんの言葉を思い出させた。
 ――深く考えてしまうと、辛いだけだ。
 きっとあの神藤さんの話は、家庭教師というわたしの仕事においても言えることなのだろう。生徒は、人ではなく商品だと思った方が、きっと家庭教師としては優秀になれるのだろう。勉強を教え込ませて、良い学校へ進学させる。そうすれば親だって喜ぶ。「先生、ありがとうございます」って。
「優は十分いい先生だよ」
 優しい言葉。だけど、納得のいかない言葉。
 統次さんは再び手を動かし始めた。焼きたてのハンバーグを器用に切り分ける。統次さんが食べているハンバーグは、わたしが握ったハンバーグだ。わたしのお皿の上のが、統次さんの握ったハンバーグ。見た目は大して変わらない。だけどわたしには違いがわかった。

 ◯

「そういえばね、今日買い物帰り道、神藤さんに会ったの」
「神藤さんって、あの?」
「うん。公園で、偶然」
 統次さんはとても驚いた顔をした。
 神藤なんて名前はあまりない名前だし、他に知り合いがいるわけでもない。もちろんあの神藤さんだ。わたしたちはしばらく懐かしむようにむかしの話をした。
「そうだ、神藤さんに言われたんだけど」
 わたしがずっと訊きたかったことを思い出せたのは、夕飯を食べ終わった頃だった。
「言われたって、何を?」
「アンケート。答えて欲しいみたいなこと言われたんだけど、そんなのあったかなって」
 しばらく返事なかったので、わたしはどうしたんだろうと顔を覗きこんで確認してみた。
「心当たりあるの?」
「あ、えーと……」
「あるんだ」
「まあ」
 断定をしたら、あっさりと肯定された。
 わたしは余計に疑問を抱いてしまう。どうして教えてくれなかったのだろう。わざわざ隠すようなことでもないと思うけれど。
「そんなの、いつ届いてたの?」
「えっーと、昨日」
「郵便?」
「いや、メールでだよ。内容は……まだ見てないんだけど、回答は絶対ってわけでもなかったっぽいから……」
「でもせっかく神藤さんにも言われたんだし、答えましょうよ」
「ああ、うん」
 なんだか統次さんの返事はずっと曖昧だった。
 何かわたしは変なことでも言ってるだろうか。アンケートがどんなものかは知らないけれど、統次さんも詳しいことはまだ見てないと言っているのに。
「部屋、行ってやった方がいい?」
「ああ、そうだな。じゃあ、風呂の後で」
「いまじゃダメなの?」
「ほら、皿も洗わないといけないし、時間かかるかもしれないから」
「……わかりました」
 その後も、統次さんはなんだかそわそわとした感じで、後片付けを手伝ってくれるわけでもなく、しばらくテレビを観た後、自分の部屋へ戻った。

 ◯

 どうしたのだろう。
 浴槽に浸かりながら、何度か考えてみた。統次さんはアンケートの話をしてから、明らかに様子がおかしかった。なにか隠し事でもしていそうだ。けれど、それを無理に聞き出す必要はないような気がした。それでも考えてしまう。答えは見つからない。
 お風呂に入ると一気に1日が終わってしまったような、そんな気分になる。温まった体でお風呂をあがる。髪をかわかして、炊飯の予約をする。ああ、すぐにでも横になって眠りたい。今日はなんだかやけに疲れた気がするのだ。
 ソファに座って、しばらくテレビを観ていると統次さんがお風呂からあがってきた。とても早い。わたしの3分の1くらいの時間しかかけてない。わたしが長すぎるのだろうか。
「まだ起きてたのか」
「まだって、アンケートやるって言ったじゃないですか」
 わたしがそう言うと、なぜか驚いた表情をされた。
「そうだったな」
「そうですよ」
 わたしはひさしぶりに統次さんの部屋に入った。部屋の机の上のパソコンはすでに電源がついていた。わたしも仕事などで使うから自分のノートパソコンは持っているけれど、ウェブデザイナーという仕事をしている統次さんのパソコンはとても大きくて、もちろん性能もいいやつだ。値段もたしか何十万円とする。
「優が風呂入ってるあいだに僕は先にやったから」
「え、そうなの」
 統次さんがマウスを取ってブラウザを立ち上げた。すぐにアンケートのページが出る。そのページのデザインを見て、思わずわたしは「懐かしい」と感じた。いつか見た、「Cold Marriage」のページをよく似ている。そこの会社のアンケートなのだから、当然といえば当然だけれど。
「このメモに書いてる番号を入れたら回答ページに行くから、あとはできるな」
「うん」
「じゃあ、5分もあれば終わると思うから、リビングで待っとくよ」
「わざわざ部屋出なくても……」
「一人の方が答えやすいだろ」
「別にいいよ、見られても。それともそんなに変な質問でもあったの?」
「いや……そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、居てくださいよ」
「いや、こっちが気遣うからさ、やっぱ出とくよ」
 そう言って本当に統次さんはチェアに座ったわたしを一人残して、机から離れていった。
「パソコンの中身とか、勝手に漁らないでくれよ」
 ドアから出る直前、付け足すようにそんなことを言った。そんなに心配なら、やっぱり一緒に居ればいいのに。
「なあに? 変なものでも入ってるの?」少し大きな声で訊く。
「違うよ……仕事のやつとかいっぱいあるから。大丈夫だと思うけど……」
 パソコンの画面をみつめたまま、わたしは笑った。

 ◯

 アンケートはとても簡単なものだった。
 ネットでよくあるような、マウスでチェックを入れて答えていく形式で、質問もそんなに多くあるわけではなく、全部で20問ほどだ。
 そう思わない。どちらかといえばそう思わない。わからない。どちらかといえばそう思う。そう思う。そんな5つの選択が左から並んでいる。わたしは順調にアンケートに答えていったが、気づけば「どちらかといえば」という、曖昧な回答ばかりになっていた。

・独身(結婚前)の頃より、いまの生活にメリットを感じている。
 ――どちらかといえばそう思う。

・周りからの対応がよくなった。
 ――どちらかといえばそう思わない。

・自分のしたいことが自由にできている。
 ――どちらかといえばそう思う。

 質問のほとんど結婚前といまの生活の比較だったり、現状の満足度だったり、そういったものばかりだった。
 これならたしかに、統次さんの言ってたとおり、5分もあれば終わりそうだ。わたしはなおも順調にクリックしていく。でも、あと少しというところで思わず手が止まってしまった。

・いま、配偶者(妻・夫)に対して、恋愛感情がある。

 変な質問だな、と思った。
 けれど、いざ答えようとすると、わたしはその答えに迷った。いままでの質問のように流すように答えてもよかったはずなのに、どうしてだろうか。どうしてこんなに考えしまうのだろうか。
 わたしはふと、昨日のことを思い出していた。
「わたしは…………」
 愛している。愛していない。そんなことをはっきりと決める勇気を、わたしは持っていなかった。それは、ずっと避けてきたものだったのかもしれない。
 逃げるように一度ブラウザを最小化して、デスクトップの画面にする。壁紙はなぜかイルカの泳いでる写真だった。
「統次さん、イルカ好きだったけ」
 そんな話は聞いたことない。でも、綺麗だなと思った。

 ◯

 昨日の晩、わたしは統次さんに告白された。
 その日の夕食はとてもシンプルで、イサキとスズキの二種類の焼き魚と、ご飯に味噌汁。「あんまり食べないけれどイサキっておいしいね」なんて、わたしが話していると統次さんは突然真剣な表情になった。
「優、話したいことがある。……変な話かもしれないけど」
「ん、なに」
「僕たちはああいう、結婚だったし、その……優がいまどんな考え方で僕と暮らしているか、僕にはわからないけど、やっぱり言っておこうと思ったんだ」
「どうしたのよ」
 統次さんがそんな真剣な感じで話すことはあまりなかったので、わたしは少しだけおかしかった。けれど、統次さんの表情は変わらなかった。
「優、僕はたぶん君のことが好きだ。愛してる。もちろん、その……女性として」
 統次さんはそう言い切って俯いた。たぶん照れた顔を隠している。
 わたしはそんな突然のことに、なんて言葉を返せばいいのか、まったくわからなかった。
 ――告白。
 そう、これは告白だ。わたしは少し遅れてようやく理解した。わたしは統次さんにいま、告白された。イサキを暢気に食べていたら、突然告白された。
 何も言葉が出なかったのは、その言葉に驚いたからかもしれない。予想もしていなかった言葉だ。けれど嬉しいとか、恥ずかしいとか、おかしいとか、そんなことを考えることなんてできないくらいに、その時わたしは頭が真っ白になった。
「ごめん、いきなり」
 わたしが何も言わないままでいると、統次さんは申し訳なさそうに謝った。
 統次さんに謝られて、わたしは余計に困った。こんなこと、初めてなのだ。男の人にこんなことを言われたことなんて、いままでなかった。そりゃ、何人かのひととは付き合ったこともある。デートも、キスも、一緒に寝ることだってあった。けれど、こんなに真っ直ぐな告白なんて、初めてだった。
 いまどきドラマの主人公だってこんな告白しやしない。まるで初恋の中学生みたいな、緊張と恥ずかしさの混ざった、真っ直ぐな純粋な言葉。
「あ……」
 ありがとう、と本当は言いたかった。けれど、途中でやめた。何だかそれは上からな感じがしたし、そんな言葉よりわたしはすぐにでも返事をするべきだったのだ。その答えを、わたしはきっとわかっていた。けれど言葉に出なかった。
「迷惑だったら、さっきの言葉は忘れてくれてもいい。でも、それでも言っておきたかったんだ……」
「いえ……」
 迷惑なんかじゃない。忘れられるはずなんかない。さっきまでおいしいと言って食べていたイサキの味さえ忘れてしまうくらいに、わたしはあなたの言葉で頭がいっぱいだった。
 思い出すように、誤魔化すように、わたしはもう一度箸をのばした。
「そんなにおいしいか、その魚?」
「……はい」
 それが、昨日の晩のことだ。

 ◯

 アンケートを終わらしたわたしがリビングへ行くと、統次さんはいつものようにテレビでスポーツニュースを観ていた。ちょうどいまは、統次さんの好きなプロ野球のニュースだった。
「終わった?」
「うん。パソコンはつけたままでよかった?」
「ああ」
 わたしはいまになって統次さんがわたしをひとりにした理由がわかったような気がした。きっと統次さんはアンケートの内容を知っていたからこそ、一緒にいるのが気まずかったのだろう。けれど、このタイミングで感謝を言うのもなんだかおかしい気がしたので、わたしはそのまま黙って統次さんの横に座った。
「ねえ、統次さん」
 もたれるように、肩をくっつけた。風呂あがりのせいか、まだ統次さんの体は温かった。
「ん、なに」
「統次さんがアンケート答えたのって、本当にわたしがさっきお風呂入ってるあいだだったんですか?」
「……どうしてそんなこと」
「本当は昨日だったんじゃないんですか」
 口を閉じた統次さん。そんなことをすれば、認めたようなものだった。わたしもしばらく口を閉じる。テレビの音だけが部屋に響いた。
「わたしは……」
 わたしの言葉は一度そこで途切れた。それでも統次さんの視線はテレビからわたしの方へちゃんと移った。少しだけ緊張する。
「わたしは、統次さんのこと好きです」
 統次さんは目を大きくして驚いた。なんだかおもしろい表情だ。わたしの緊張は一気に吹き飛んだ。
「アンケートにも、ちゃんとそう書きました」
「……僕もだ」
 統次さんは耳まで真っ赤だ。とうとうわたしは堪えきれずに笑ったけれど、きっとわたしも同じような色に染まっていたのだろう。なんだかさっきからやけに顔があついのだ。
 本当はこんなこと、わたしたちみたいな大人がやるようなことなんかじゃないんだろう。まるで青春小説みたいな緊張感と幸福。けれど、わたしも統次さんも、ずっと知らなかったのだ。ずっと避けるようにして生きてきたのだ。だから、こうして二人でいるのかもしれないけれど。
 わたしたちは一度だけキスをした。
 テレビの音はそのあいだもずっと響いていた。野球のニュースはいつのまにか終わっている。けれどチャンネルは変えられることなく、そのままテレビは消された。



     


 ◯

 次の土曜日。いつものように奏ちゃんは我が家にやってきた。
「先生、またぼっーとしてますね」
 授業中、窓の外を見ていると先週と同じようにわたしは奏ちゃんにそんなことを言われた。
「今日はいいお天気だから」
 自分でもそう言った後でこの発言は教師としてどうなんだろうかと思ったが、暇なのはたしかだった。いまはわたしが奏ちゃんに何かを教えるというより、奏ちゃん自身が問題をたくさん解いて慣れるという時間だった。もちろん質問をされればちゃんと教えるけれど、奏ちゃんの場合はそんなこと滅多になく、すいすいと問題を解いていく。ときどき机に向かっている奏ちゃんを見ていると手を止める時はあるが、20秒もすれば再び取り掛かる。彼女は自分で考えるということもちゃんとしているのだ。生徒が出来るほど、家庭教師というのは暇になる仕事だった。
「夜からは雨ですけどね」
「そうなの?」
「今日の夜からまたしばらく長い雨が続くって、天気予報で言ってましたよ」
「そうなんだ、梅雨だもんね」
「でも、次の雨が終われば、もう夏になるとも言ってました」
「夏か……早いわね」
「先生、そんなこと言ってるとなんかおばさんみたい」
「やめてよ」
 奏ちゃんは笑った。けれどわたしはそんなにおばさんっぽいことを言っただろうかと、少し心配になった。自分でもさいきん歳を取るということが怖くなってきているのだ。わたしはもう確実にヤングではない。
 梅雨が終われば、季節はもう夏なのだ。夏のあいだに、わたしは統次さんとどこか旅行に行こうという話をしている。お互いに休みを取ることはそんなに難しいことじゃないし、海外はさすがに難しいけれど、泊まりで行くならどこか温泉などがあるのんびりできる観光地がいい。わたしも統次さんも、あまり海は好きじゃないのだ。
 お母さんたちみたいに、この旅行が毎年続くことになるのかは、まだわからない。5年くらいなら続くかもしれない。けれど、やっぱりお母さんの年くらいまで毎年欠かさず続けるのは、難しいことだ。それでも、わたしはいまが楽しかった。統次さんと二人でいることが何よりも楽しい。
「奏ちゃんは、恋したことある?」
「え、えっ、なんですか、いきなり」
 たしかにいきなりだ。彼女の勉強を邪魔するだけかもしれない。そんなの教師がすることじゃない。それでもわたしは続けた。
「やっぱり恋は若いうちにしとくべきよ。うん、絶対にそう思う」
「……今日の先生なんか変ですよ。それにやっぱり言ってることがおばさん……」
「そ、そんなことないって」
 自分で言ってても説得力がないな、と感じた。たしかに奏ちゃんから見たらわたしはもうおばさんなのかな。でも、まあ、それでもいいや。いまはそんな風に思えた。



       

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