Neetel Inside ニートノベル
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 100万円、道端に落ちていて、一瞬の躊躇もなく自らの懐に入れられる人間はそう滅多にいない。誰のお金か、何のお金か分からないし、周りで誰かが見ているかもしれない。何かの罠かと疑ったり、冗談だと思って笑う人もいるかもしれない。ぱっと見たその瞬間に、「俺の物だ!」と飛びつける人間は、よほどの知恵遅れか、絶対にチャンスを逃がさない大物だろう。
 お嬢様からの提案はそれに近かった。超絶平凡人である俺は、ただただ躊躇うのみでまともに言葉も紡げなかった。が、その必要もなかった。
「何かを言おうとしているのなら、無駄よ。これはあくまで私からの命令。柚之原がこの試合に勝った時、あなたは私のおっぱいを、あなたの望むままに10分間だけ弄びなさいと言っているの。分かった?」
「で、ですが……」
「答えは『かしこまりました』だけよ」
「……かしこまりました」
 選択肢の無い事が、こんなに楽な事だとは思わなかった。お嬢様に仕える事は俺の人生そのものだ。今まで何を悩み、何についてあれこれと考えてきたのだろう。凡人だろうと変態だろうと、HVDO能力者だろうとそうでなかろうと、俺はたたお嬢様の命令に従い、お嬢様の幸福を祈り、お嬢様を陰ながら支えられればそれでいい。他の事は所詮瑣末事に過ぎない。
 お嬢様は、俺の「好きなように」と命令なされた。だからもしも柚之原が勝ったら、まずは生でお嬢様のおっぱいを見よう。それから触って、揉んでみて、様子を見つつ大丈夫そうなら吸ってみよう。それが命令なら仕方ないのだ。
 俺の邪な決意が固まった。
 そうこうしている内にも、柚之原の戦況は悪化していた。覆面男は仰向けになった柚之原に跨り、いわゆるマウントポジションの形で柚之原のパンチを軽くあしらっていた。乗られた体勢から繰り出すパンチは、腰も入っておらず当然威力は低い。覆面男の頑強な身体にそんなものが通るはずもなく、覆面男は余裕たっぷりに、ボクサーパンツを脱ぎ、下半身を露出させた。
「噛まれたらたまらないからな。せめて擦りつけさせてもらうぜ」
 覆面男はにやにやと笑いながら、マウントポジションから柚之原の両手を押さえつつ、覆い被さる形になった。腰を浮かせたが、鈍器としても使えるようなふくらはぎで柚之原の両足は自由を奪われている。もちろん柚之原は精一杯抵抗しているが、一向に成果は現れず、ただただ観客達を喜ばせてしまっている。
 覆面男の怒張した一物が、柚之原の真っ白な肌に触れる。腹部、特にへそのあたりを鬼頭が這い、臭いを染みつけるように動いていた。
 やはり柚之原にも勝ち目はないし、俺にはラッキースケベの能力などはない。俺がそう確信した瞬間、事態は急転直下の展開を見せる。
 ラッキースケベ。
 ひょっとするとこれは、「最強」の性質なのではないかと思いながら、俺はお嬢様を押し倒し、その上に被さった。


 それは余りにも唐突で、強大で、実に馬鹿げた衝撃だった。がくん、と地面が抜け落ちるような錯覚。意図しない視界の変化に、肉体も意識もついていけない。続けて観客から歓声の類ではない悲鳴が巻き上がり、俺は振動を認識する。
 地震だ。
 それも途方もなく大きな、「震災」という言葉を使う事を許可されるレベルの巨大地震だった。
 そうか、と俺は気づく。この闘技場は三枝家地下25Fにある。震源がどこかは分からないが、地上よりも近い分、揺れも大きい。下手をすると出られなくなるかもしれない。いや、最悪このまま圧死の可能性もある。
 今、とにかく俺に出来る事は、お嬢様を庇う事しかなかった。覆いかぶさったのはそういう理由で、辛抱たまらなくなった訳ではない。大体30秒ほどだろうか、俺は目を瞑り、お嬢様の上で揺られながら、「失礼します! 失礼します!」と連呼していた。場内は阿鼻叫喚のるつぼだった。
「もう大丈夫だから」
 揺れが収まり、地震発生から1分ほどが経ち、お嬢様が落ち着いた口調で俺に声をかけた。俺は身体を起こし、お嬢様の無事を確認しようと目を開く。すると、気づかぬ内に今の地震で停電していたらしく、周りは真っ暗だった。客席に、ちらほらとライターなどの明かりが瞬いているが、それでも視界はほとんど無く、たった5m先の物も薄ぼんやりとしか見えない。それでもどうにかお嬢様の顔と身体は見えた。
「お嬢様、お怪我はございませんか?」
「ええ。友貴は?」
「大丈夫です」
 お嬢様のご無事に、俺は心から安堵する。だが気を抜いた瞬間、もう1つの心配事が蘇る。
 俺はリングに目を向ける。目を凝らし、その中心で行われていた攻防の続きを探す。
 戦況は、変わっていなかった。もしかしたら、このアクシデントをチャンスに変えて、柚之原が一撃を決めたかもしれないとほんの少しだけ期待したのだが、現実はそう甘くないらしい。柚之原自身も狼狽えて余裕がなかったか、それとも覆面男がいっさい気を抜かなかったのか、詳細は分からないがとにかく、覆面男の身体は柚之原を下に抑えつけ、加えて勃起も収まっていないようだった。
 もう少しすれば副電源からの供給が始まり、明かりが戻る。そしておそらく、この程度のアクシデントでは試合は中止にならず、再び陵辱が開始される。状況は何ら好転していないではないか、と俺が思った瞬間、観客席から誰かが叫んだ。
「落ちるぞ!」
 俺はとっさに天井へと目を向ける。闇に慣れてきた目が、危険を捉える。
 選手紹介やオッズ発表に使われる360度液晶モニター。その支えとなっている支柱が折れ曲がり、非常に不安定な状態になっていた。
 そして余震が起こる。先ほどの地震よりは小さいが、とどめを刺すには十分な衝撃だった。


 落下していく様が、俺には確かにスローモーションに見えた。電源が落ち、真っ黒になった画面。それは既にモニターではなく、ただの鉄の塊であり、そして処刑用にしては似つかわしくない不格好で歪なギロチンだった。
 見た所、0.5~1t程度の重量がある物が、頭上3mほどから落下し、背中を直撃した時の衝撃など想像もつかないが、結果は何となく察しがつく。
 衝撃音。それに混じり、骨の折れる音と、肉の弾ける音。
 皮肉にも、柚之原を庇った形となった覆面男の口から、鮮血が飛び出る。
 ひしゃげて画面の割れた巨大モニターが、覆面男の背中を伝ってリングの上に転がる。覆面男は微動だにしない。しかし力は抜けたらしく、柚之原は脱出に成功した。
「知恵!」
 お嬢様が声をかけ、それに導かれて柚之原が足を引きずりながら四つん這いで近づいてくる。どこか怪我をしたのだろうか。酷くなければいいが。
 まだ完全に余震が収まった訳ではないが、俺は少し落ち着きを取り戻し、ゆっくりと認識してくる。俺はどうやら「ラッキースケベ」のHVDO能力者という事で間違いないらしい。突然の地震と、モニターの落下。覆面男は再起不能で、柚之原の勝利。つまり、お嬢様のおっぱいは俺の物。俺は内心こみ上げる喜びを抑えきれず振り向き、衝動的にお嬢様に尋ねた。
「お嬢様、俺も少しはお役に立てたでしょうか?」
 お嬢様は微笑み、「ええ」と答えてくれる。……という場面を俺は望んだのだが、そうはならなかった。闇の中にあるお嬢様の顔は恐怖に陰り、何か「あってはならない物」を見てしまったかのように戦慄していた。
 ありえない事が起こっていた。
 都合良く地震が起こり、都合良く敵にモニターが直撃し、都合良く味方だけが逃げられた事も十分「ありえない」が、それはまだHVDO能力の存在によって説明がつく。しかし次に起きた「ありえない事」は、正真正銘、人間の限界という意味で「ありえない」。
 俺はお嬢様の視線を追いかけ、再度リングに目を向ける。
 暗闇の中で、覆面男が立っていた。俺達だけではなく、観客もそれに気づき、歓声があがる。
 口からは血をだらだらと流しながら、左腕はありえない方向に曲がっている。が、堂々と2本の足で立っていたのだ。しかも丸出しのままだった陰茎は、未だ勃起せずむしろ先ほどよりも大きくなっている気がする。覆面男を動かすのは生存本能か生殖本能か。とにかく、人外のタフネスである事は間違いない。
「柚之原! 逃げろ!」
 覆面男が柚之原の背後をとる形になったのを目撃した俺は、思わず叫んだ。だが、俺の指示はてんで的外れだった。
 覆面男は柚之原の存在を無視し(そもそも見えていないのか?)、こちらのほうに近づいてきた。ぶつぶつと何かを言っていたが、それが聞き取れたのは覆面男がロープに手をかけた時だった。
「許さねえ……お前らの陰謀だろ……どっちがボスだ? お前か? 2人ともか?」
 俺はとっさに両手を広げ、お嬢様を庇う形をとる。それがむしろ良くなかった。
「女の方だな。……そいつは好都合だ」
 どうやら覆面男は、モニターの落下がこちらの策だと勘違いしているらしい。となると、地震もそうだと思っているのだろうか。確かに俺のHVDO能力がおそらくの原因なので間違ってはいないが、そこに論理的思考はない。
 柚之原のレイプ禁止という条件と、実力差のありすぎるマッチング、そして採算度外視の賭け金払い戻しは、俺達だけではなく覆面男にも「話がうますぎる」という逆の不信感を与えていたのだろう。そして実際こうして、覆面男は窮地に追い込まれた。そこに陰謀があると確信するには十分な要素が揃っていた。
「止まれ! それ以上近づくな!」
 と、俺は叫んだが、無駄だった。覆面男はロープをくぐり、俺の身体を弾き飛ばした。何という力だ。柚之原はこんな男と戦っていたのかと驚愕する。
 覆面男の、まだ無事な右手がお嬢様に伸びる。
「この代償はお前の身体で払ってもらうぜ! 全身が変形するまでぶん殴って! 孕むまでレイプしてやる! 覚悟しろよ!」
 宣言と同時に、覆面男の手がお嬢様の首を掴んだ。
 その瞬間、覆面男の身体が消失した。
「……間に合いました」
 柚之原のHVDO能力、例の牢獄を思い出す。
 そういえば俺があそこに飛ばされた時も、寝ているお嬢様の唇を無断で奪った時だった。

       

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