Neetel Inside ニートノベル
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 気づくと私は、パジャマ姿でへたり込んでいた。自らの両手を何度か引っくり返して良く見てみたが、毛の無いそれは紛れもなく人間の物で、身体も元に戻っている。2つの足で立つ事も出来るようになったけれど、立ち上がる気になれなかった。ただ放心状態のまま寒さにくしゃみをして、今起きた事が現実の出来事であった事を再度確認した。
 そんな私の背中にそっと、上着がかかった。私は驚いて振り向く。するとそこには、知恵お姉ちゃんの姿があった。
「風邪ひくよ」
 知恵お姉ちゃんがそこにいた事も、どことなく嬉しそうなその台詞も、どちらも不自然に思え、だけど今はただありがたかった。元々手の届かなかった存在が更に遠くに行ってしまったように感じて、私には寂しさ以外に何も残らなかったから。あやうく知恵お姉ちゃんに抱きついて大声で泣きそうになるのを、誰かが止めた。
「一部始終、見させてもらったよ」
 それは知恵お姉ちゃんの声ではなかった。私は周りを見回したが、私達以外に人影はない。ややハスキーな女の人の声で、私達より少し年上だろうか、やけに落ち着いている印象を受けた。
「姿はお見せできないけど、敵ではないから安心してね」
 知恵お姉ちゃんはじっと私を見つめている。私は立ち上がって、膝についたほこりを払い、深呼吸して尋ねた。
「何かのドッキリ?」
「あはは、ここまで凝ったドッキリを素人にしたって何の利益も無いでしょう」
 私の質問に答えたのは、知恵お姉ちゃんではなく謎の声だった。怪訝な表情をする私に構わず、声は勝手に続ける。
「あなた自身がたった今経験した事を思い出してごらんなさいな。あれは夢でもなけりゃ幻覚でもありゃしない。紛れも無く、現実世界の出来事よ。あなたはついに目覚めたって訳。変態の世界へ、ようこそ」
 変態の世界? それならとっくに入っている物だと思っていた。
 私はもう1度周りを見て、人の影も形も見えない事を確実に確認した後、その見えない誰かにではなく、あくまでも知恵お姉ちゃんに尋ねた。
「……本当に誰かいるの?」
「いる」
「……誰?」
「私はピーピングトム。愛を込めてトムと呼んでね」
 声は割り込んできて答えた。トム、という割りには、声は確かに女だ。思ってから、そもそも本名な訳が無いだろうと気づいて、ますます疑いは濃くなってくる。
「あ、一瞬本名だと思っちゃった? 違うからね。そんな訳ないからね」
 私は気づいた。私がこの人物を大人と感じたのは、落ち着いているからという訳ではなく、この状況を心から楽しんでいるようだったからだ。私の事と、私の置かれた状況を理解した立場にいるから、余裕があるのだ。


「ピーピングトム、というのは、慣用句で『覗き魔』って意味。私の能力にぴったりの名前じゃない? センスあるでしょ?」
 能力という言葉に引っかかり、センスがあるかないかの判断までは出来ない。とでも答えようものなら、また肩透かしをくらいそうだ。私は無難に答える。
「能力、の意味が分からないんですが」
「え? たった今、あなたも目覚めた奴に決まってるじゃない」
 表情は見えないし、息遣いさえ聞こえなかったが、ただなんとなく、向こう側でトムが静かに笑っているのが分かる。少し怖くなってきた私は、知恵お姉ちゃんの手を掴んで、「帰ろ」と言った。双子とはいえども、家が同じ訳ではない。今思えば、なんとも妙な台詞だ。
 しかし知恵お姉ちゃんは私の提案に賛成しなかった。私の手をぎゅっと握り返し、「聞いて」と言って、雪解けのような細い声でこう繋げた。
「私も、変態だから。安心して」
 ワタシモヘンタイダカラアンシンシテ。
 たった34バイトのその情報に込められた意味は、複雑怪奇に満ちていた。知恵お姉ちゃんが変態。想像した事すらなかったが、同じ遺伝子を持つ人間だと考えると、不自然な事ではないかもしれない。
 私がより多く、より正確に情報を求める前に、実に厄介な、声だけの登場人物トムは饒舌に語りだした。
「命ちゃん。あなたはつい先ほど、長い長い冬眠期間を経て、セミの幼虫が成虫になるように、ついに変態に変態したって訳。超能力、とでも言った方が分かりやすいかも。私が見た所、あなたの能力は『動物に姿を変化させる』って所かな。持続時間は10分くらい、発動条件は自身が絶頂に達する事。まあ経験上、動物なら何でもって訳じゃないだろうね。変身する動物には、何らかの制限があるはずだけど、まあ便利そうな能力だと思うよ」
 言われてからようやく気がついた。犬になる前、私は日課の妄想オナニーをして、気を失うように眠りについたのだ。
「……いつから見ていたの?」
 私は耳を澄まして、正確にどの辺から声がしているのかを聞き取ろうと務めた。少し間を置いて、声は答えた。
「あ、さっきからやたら周りを警戒しているようだけど、私の能力は別に『透明人間になる事』じゃないからね。目と口を飛ばすとでもいうのかな? 千里眼の少し強い奴と思ってくれればOK」
 声は、知恵お姉ちゃんの方からしている。だけどトムの言っている事が本当なら、声の位置が分かった所で意味が無い。
「で、何だっけ? ああそうそう、いつから見ていたかね。答えは、あなたのお姉さんが私を呼んだ時からよ。携帯電話の番号を渡して初めてのコールがあなたの事に関してだったから、私はよっぽど嫌われているのかも。でも仲間は仲間。ねー?」
 私は、知恵お姉ちゃんの顔に目を向けた。
「私も変態だから」
 この台詞を聞くのは2度目になる。だけど1度目よりも重く深く、私は理解した。


「私と知恵さんは、ある組織に所属しているのよ。その組織の名前は、今は伏せておくけど、簡単に言ってしまえば、世界中の変態を統べる組織とでも言うのかね。あなたや、私や、知恵さんみたいな、能力に目覚めた人間を集めて、ある目的の為に動く秘密結社」
「ある目的?」
「聞きたい?」
 聞けば、戻れなくなるような気がして、私は返答に困った。
 確かに、私が変態な事は認める。一般的な、人間の女子の恋愛対象というのは、言うまでもなく人間の男子であるにも関わらず、私の対象は、女子と動物のまぐわいにある。異常、と罵られても、私には反論もない。
 しかし変態にも人権はある。この性癖を隠し続け、もう2度と先ほどみたいな暴走をしないと心に誓い、トムの言った「能力」についても忘れる事が出来るなら、私は今まで通りの生活を送れるかもしれない。だけど、もしここで私が聞き返してしまったら……。そうと分かっている底なし沼に1歩を踏み出すような物だ。
 黙ったままの私に、驚かすようでもなく背中を押すようでもなく、ただあるがままの事実を掲示するようにトムは言った。
「あなたみたいに自力で能力に目覚める人の事を、私達の間では『天然の能力者』と呼んでいる。元々変態の才能がある人が、よっぽど自分の性癖に対して悩んでようやく発現する訳だから、非常に珍しいのよねえ。あ、ちなみに私と知恵さんは、今の組織に触れる事によって目覚めたタイプだから、同じ変態といえどもあなたとは少し格が違う」
 変態から変態呼ばわりされるのは良い気分じゃない。
「天然じゃない能力者は、私達の組織名を目や耳にすると能力に目覚めるように出来ている。そして自動的に私達の管理下に置かれ、能力に対してある制限を持つ事になる」
「制限?」
「ごめんねー。これも言えないんだわ」
 私は皮肉を込めて言う。
「肝心な事は何も教えてくれないのに、仲間になれと言うんですか?」
 トムがまた、向こう側で笑っているのが分かった。無性にイラついたが、私はそれを伏せた。
「別に強制じゃないからね。あなたが自分で開発するなら、それはそれで良いと思っているし」
 呆気なく突き放すような言葉。おそらくはトムの狙い通りに、簡単に私の心は揺らいだ。私は再び知恵お姉ちゃんを見つめる。
「私は……どうしたらいいの?」
 知恵お姉ちゃんは答える。
「……命のしたいようにしたら良いと思う」
 そして私は、HVDOに入る事を決めた。


「……という訳です」
 告白を終えた私は、彼女の返事を待った。
 ゴリラに変身して、彼女をあの五十妻という男の手から奪還したまでは良かったが、そこから先、どうすれば良いかなんて事は考えていなかった。ただ、彼女が人の物になるのが嫌だった。ただの醜いエゴイズムでしかない。だけど、私にはどうしても許せないのだ。彼女の処女を人間にとられてしまう事が。
 彼女は黙ったまま、目を閉じて何かを考えいるようだった。私は意思を固め、言葉にする。
「瑞樹さん。五十妻元樹と、別れてください」
 ゆっくりと目を開けた彼女を、私は視線を逸らさずに見続けた。
 それを一触即発の空気、と感じたのは、どうやら私だけだったようだ。
 彼女は微笑む。後光がさしてる。更にその後ろに菩提樹が見えた。
「初めて名前で呼んでくれたわね」
 瑞樹さんは平然と冷めた紅茶を飲んだ。それから、涙が零れそうになっているのを、必死に堪えている私に、こう言い放った。
「私は別に、五十妻君と付き合ってはいないわ。ただ、性奴隷になっただけ」
 首を絞められたように苦しいと感じながらも、私は抗う。
「な、ならそれをやめてください」
「残念だけどやめれないわね」彼女は眉を下げて、「あなたの気持ちに答えられなくて、ごめんなさい」
 途端、全身の力が抜けたように感じて、私は椅子に座りなおす。
 フラれるって、思っていたよりもあっけない事だな。なんて、やけに冷静に思う。
 だけど私は諦めない。
 私は変態で、彼女も変態だった。今ここにある障害は、あの五十妻という男だけ。なら、そんな物、ぶち壊してやる。そしてHVDOの名の下に、私達は1つになるのだ。
「瑞樹さん、残念だけど、あなたがそうでも彼は違うわ」
 彼女は首を傾げる。そして、部屋を見渡す。
「そういえば、五十妻君と柚之原はどこに?」
 私はあえて作り笑いをして答える。
「知恵お姉ちゃんの性癖は『拷問』。今頃、五十妻元樹は拷問部屋で痛くて痛くて死にたくなるような拷問を受けてるはずです」

       

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