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HVDO〜変態少女開発機構〜
第三部 第三話「香気の色はまだ仄かに」

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第三部 第三話「香気の色はまだ仄かに」


 憧れだったか、好意だったか、今となってはどちらでもいいが、私が最初、先輩に対して抱いていた感情は、研磨を待つサファイアの原石のような、澄んだ物だったに違いない。もちろんそれを磨き上げ、丁寧にカットしてくれた人物は先輩に他ならないし、これから先、同じ物は2度と出来上がらないだろうと思う。
 2年前も春は春だった。例年より寒かったのか、桜の散るのが遅かったのは覚えている。私は清陽高校に入学したばかりの1年生で、胸の内にはちょっとした野望と、自分を「賢い」と思うちっぽけな自尊心がとぐろを巻いていた。まあ、やる気があった。今よりは。
 中学時代、自分の学力よりも1つ上のレベルの翠郷高校を目指さずに、あえて2つ下の清陽高校を目指したのはその野望とやらによるものだった。担任の先生には、滑り止めを受ける事を家から許されていない為、と説明したが、半分くらいは嘘だった。いや、野望、という単語は少々大げさだったかもしれない。代替するとしたら、人生の試算、あるいはプロット、とでも言うべき漠然とした指標だ。
 たかだか十数年間の人生で、「成功」について私が学んだ事は2つだけ。
 1.女で成功するのは男より難しい。
 男女不平等を今更叫ぶつもりはない。男には出来なくて女には出来る事も確かにあるし、時に周りの男と違う見方が出来るのは強力な武器になる。社会の上に行けば行くほど周囲は男になっていくはずだから、武器はより鋭利になっていくと考えてもいい。だけど「女流棋士」という肩書きが何もつかない「棋士」よりも劣っているのは今更変えようがない事実であるし、肉体的なハンディはわざわざ口にするまでもない。男は強くあるべきで、女は弱くあるべき。この幻想的な金科玉条に異議を唱えれば、ますます面倒くさい事を背負う羽目になるのは、子供の頃から繰り返し学ばされた。本気で喧嘩をしたら勝てないけれど、手をあげられたら誰かに言いつければいい。映画の中で人質に取る場面があれば女子供だけを先に解放しろと刑事が要求する。100メートル走の世界記録は女子が1秒近くも遅く、そもそもあらゆる競技が性別で分かれている。そして生理がやってきて、自らの身体の仕組みをきちんと知ると、様々な理不尽にそれなりの納得がいく。従って、新しい不満も生まれる。どうして、女だけ?
 不満を言っていても何も始まらない。ありがちな励ましの台詞かもしれないけれど、この問題はこうとしか言いようがない。まさか衣替えをするみたいに性別を変えられる訳がないし、ただ不公平だと言う理由だけでそんな事をしても不自然な人間が1人生まれるだけだ。
 後天的な努力で何とか出来るのはむしろ、もう1つの方。
 2.成功するかしないかは、能力よりも「コネ」による。
 コネクション。縁故。聞こえが良く言えば、人と人との繋がり。誰だって、見ず知らずの人よりも、前から知っている人を相手にした方が話が弾む。見た事も聞いた事もない人間に本当の愛情を傾ける事の出来る人間などいない。全く同じ能力の人間が2人いたら、誰かに紹介してもらったお墨付きを選ぶ。分かりきった事だ、「全く同じ能力の人間」なんてありえない仮定をわざわざ持ち出さなくても。
 生まれつき、コネに恵まれている人も確かにいる。政治家に二世が多いのはそのせいだろう。それでも性別の壁よりは遥かに、生まれの良し悪しとやらは乗り越えやすい壁なのだ。人生の中で出会える人の数は限られているけれど、知り合いの知り合いというのに限りはない。「スモールワールド現象」世界は意外と狭く、あなたと私は6人の知り合いを間に挟んで繋がっている。
 そして「コネ」を作るのに、清陽高校は最適の選択だと私は判断した。茶道部のOBは名手ばかりで、後輩を非常にかわいがっているとも聞いていた。学歴なんて、最終的に卒業した大学しか見られないのだから、高校のレベルを上げたとしても長い目で見れば大した得はない。それよりもコネ。私が世間に認められるには、まずはとにかくコネがいる。私は、成功したかった。
 思い返してみれば、なんと甘い考えだろう。私にはもう1つ、学んでおかなければならない事があった。 万物は等価交換。結局の所、生まれ持ったものを覆すには、本人の意志による多大なる努力と、身を削るような我慢が必要なのだ。


 それでも先輩に出会えた事はやはり「幸運」だった。わざわざ6人の知り合いを通さずとも、直接会話を出来た事。つまり先輩が3年生で、私が1年生だった事。具体的には、あの日たまたまあの道を、あのタイミングで私が通りかかった事。それをきっかけに先輩が私を気に入ってくれた事。私には先輩の性格が衝撃的だった事。あえて俗物的に本音を言えば、先輩は実にかわいらしかった事。それらが全て、幸運だった。
 いや、やはり幸運なんて客観的な言い方は訂正しようか。「運命」。この言葉が陳腐に感じるなら、必然でも偶然でもどちらでも構わない。それまで抱いていた人生観をぶっ壊してくれた先輩という存在に、私は何かを感じずにはいられなかったし、あいにく無宗教なのでそこに神の力は介入しなかった。私は私として生きて、先輩として生きる先輩と、単純に出会えたというだけだ。
 あの日の朝、登校途中。道路脇の排水溝、いわゆる側溝に首を突っ込んでいる、私と同じ制服を着た1人の女子生徒を見つけた。気づいていないのか、気にしていないのか、スカートからは水色の下着がちらりと覗いていた。
 声をかけようか、それとも無視して学校へ急ごうか、迷っていると、そのかわいい下着の持ち主は顔をあげて、私に気づくなりまっすぐこう言った。
「手伝ってくれる?」
 不躾とはこの事を言うのだろう。その表情は泥にまみれ、手も汚れている所を見るに、緊急事態なのだろうとは漠然と思った。だけど、新調したばかりの制服を着て、入学2日目で遅刻という汚名を被らない為には、その場は丁重に断るのが正解だった。
 だけど、私はあえて、不正解を選んだ。
 理由は、と問われると、少し解答に困る。大変そうに見えたから、だろうか、それともただ単に、先輩の一所懸命な姿に見惚れてしまったからだろうか。放っておく理由を述べるのは楽だが、放っておけなかった理由を述べるというのは難しい。恥ずかしい、とも言う。
「何を探しているんですか?」
 鞄を立てかけて、側溝の石蓋を開けていく。あっという間に手は先輩と同じように黒くなり、早速後悔は始まっていた。しかしとにかく何をしているのかを聞かなければ、というか、普通は聞いてから手伝うのだろうが、役に立つ事も出来ない。
「あれ見て」
 先輩は突っ込んでいた首を持ち上げ、視線を投げる。その着地点には1つのダンボール箱があった。近づいて上から覗いてみると、中には毛布だけが敷いてあり、そして側面には「誰かもらってください」と太字のマジックで書かれてあった。
「猫?」
 頭の中、ぼんやりと点線に囲われて浮かんだそれを口にしてみる。
「犬かもしれないね」
「え?」驚く私。肩を竦める先輩。
「私もさっきそのダンボールを見つけただけだもん。だけど、もしも親切な誰かが拾った後なら、親切なのだからダンボールも一緒に片付けるはずでしょ。それで、誰かに拾われる前に脱走したと私は見た。野良として無事にやっていけそうならそれもアリだけど、排水溝に落ちてたら可哀想じゃない?」
 見た事も聞いた事もない物に本当の愛情を傾けられる人間がそこにいたのだ。


 その時、私は手伝いをやめる事も出来たはずだ。確かに先輩の言っている事は理に適ってはいる。中の動物だけ拾ってダンボールは放置、なんていかにも不自然だし、この辺りの側溝は割りと大き目の穴があいていて、一晩中放置されて衰弱した子猫か子犬なら、おそらく簡単に落ちてしまいそうだ。
 とはいえ、そこに捨てられた動物が本当にいたという保障すらない。先輩が自分で言っていた通り、野良の仲間入りをした可能性もある。その上、手伝って何か得がある訳じゃない。動物に誰か大物とのコネを期待するほど私の頭はお花畑ではないし、誰かが行いを評価してくれる訳でもない。神様は信じていないから。
 だけど私は手伝いを続けた。こればかりは、不思議というしかないのだけれど、強いて表現すれば「あてられた」という事だろうか。祭囃子に身を投じれば、陽気な気分になるように、人の恋の路程を聞けば、どことなく胸が高鳴るように、先輩の持つ健気さというか、神聖さというか、それが大げさなら馬鹿正直さでもいい。「私はこう信じたからこう行動した」というストレートな想いが、頭の中の電卓にエラーを吐かせた。この人はきっと神様ではないけれど、信じるに値する人だ、私は不覚にもそう思ってしまった。
 それから5分後、先輩は見事に探し物を見つけた。
「君が正解だったね」
 先輩がそう言いながら慎重に抱き上げたのは、小さな小さな猫だった。やはり弱っている様子で、抵抗する素振りさえ見せない。野良でやっていくにはかなり絶望的だ。
 泥と砂に汚れて湿った猫を、同じくらい汚れた先輩が抱き寄せてている光景は、1枚の絵画にしても良いほどに美しかった。
 それから、私と先輩は急いで学校に向かった。遅刻したくないからではない。出来れば朝のホームルームが始まる前に、拾ったばかりの猫の新しい飼い主を探している事をなるべく多くの人に伝えたいのだと先輩は言った。何の権限で? という疑問が頭をかすめたが、学校に到着してすぐそれは解決した。
 先輩は、私が野望の礎にしようと企んでいた茶道部の部長だった。
「そういえば、名前を聞いてなかったね。私は3年の日向。日向 麻紀乃(ひむかいまきの)。あなたは?」
「1年の望月です。望月……ソフィア」
 下の名前を口にする時、いつも少しだけ私は迷う。ハーフだけれど英語は喋れないし、生まれてから今までずっと日本だから外国の事は全然知らない。でも名前を言うと、どこの国で、どんな所で、どんな食べ物がおいしいのか、なんて質問が必ずといっていいほど飛んでくる。それに答えられずに気まずくなるから嫌だったのだ。
「そう。じゃあソフィって呼んでいい?」
「え、はい。いいですけれど……」
 私がにせもの外国人さんである事を知れば、大抵の人が苗字の「望月」で呼んでくる事が多いので、先輩の反応はちょっと意外だった。というか、中身は純正日本人である私からしたら、初対面の人の下の名前をあだ名で呼ぶ行為そのものが、なんというか大陸的だった。
「私はマッキーでいいよ。よろしくね、ソフィ」
 よろしく? 一瞬、言葉の意味がわからなかった。
 差し出された右手を握り返すのに、躊躇う私の手を先輩が強引に握った。
「茶道部に入りなさいソフィ。私はあなたが好きだから」
 今思えば、私はその時恋をしたのだ。埃まみれの優しい笑顔に。先輩の一途で無垢な純粋さに。
 そんな私の気持ちを囃し立てるように、猫がにゃーと鳴いた。

       

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