Neetel Inside 文芸新都
表紙

紅い紅葉の短編集
檸檬の人(恋の一歩手前)

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 おそらくそこまで強い香りではなかったはずだ。
 夕焼けが差す音楽室の片隅。ピアノの前に座りながら、檸檬の香りを嗅ぐ彼女に、俺は目を奪われた。
「乾くん、どうかしました?」
 彼女は、そっと鍵盤のフタの上に檸檬を置いて、俺の名前を呼んだ。その声で意識を取り戻し、俺は慌てて口を開いた。
「どうも、先生。プリント届けにきました」
 俺は机の間を縫うようにして先生の前まで行き、持っていた紙の束を檸檬の横に置いた。先週先生が出した宿題のプリントを届けに来た俺は、その檸檬が気になって、それを見ていた。
「ああ、檸檬ですか? 田舎のおばあちゃんが、いっぱい送ってきたんです。食べきれないから、せめて匂いだけでもと思って」
 そう言って、彼女は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

 俺は、大人だと思っていた先生が見せた子供っぽいしぐさと、檸檬を嗅ぐ優雅な仕草が、俺を魅了した。


  ■

 先生は、いつもワンピーススカートを着ている音楽教師。
 歳は二十五歳。顔はまだまだ女子大生のあどけなさが抜けない顔立ちで、化粧は他の先生に比べてうまいというか自然な仕上がり。髪は黒いストレートで、首もとまで伸びている。身長はさほど高くないし、大人かと問われると頷き難い人だったのだが、俺は檸檬を口元に運ぶ先生を見て、なぜか大人だと感じてしまった。
 夕日の差す音楽室で一人、檸檬の香りを嗅ぐ彼女を、俺は知ってしまったのだ。
 先生に対してそんな感情を抱くのがどういうことか。
 それはもちろん悪いことだろう。
 俺には分別だってあるし、別に悪いことをかっこいいと思うほどガキでもないつもりだ。
「乾くんは、基本的に一匹狼だからね」
 俺は翌日の放課後も、音楽室にいた。
 机に座り、ピアノの前に座る先生と二人きり。
 特に何か用事があったわけでもないのに来たのには、多少首を傾げられたが、俺は檸檬が気になってと言っておいた。
 檸檬を一つもらって、それで帰ってもよかったが、先生に引き留められ、話し込むことになった。断る理由もないので。俺は机に座って、先生との会話を楽しんでいた。
 そんな中、突然先生は俺を指して一匹狼と言ったのだ。
「俺が? 一匹狼ですか」
「そう。乾くんはそんな人だと思ってんです」
「俺、友達はいますよ」
「うん。いるんだけど、乾くんは一人で力及ばないことがあるのは知ってるから、仕方なく作ってるって感じ」
「まさか、そんなことは」
「ふふ。まあ、違うかもしれないのはわかってたんですけどね。私の勝手な想像」
 ごめんね? と言って軽く手を合わせて笑った。
 俺は少し跳ねた心臓を無視して、「いえ」と小さく首を振った。
「先生は、大人の女性ですよね」
 俺は思ったことを素直に言ったつもりだったのだが、先生はなぜか目を丸くして、指で弄んでいた檸檬を落としてしまった。
「それはね。もう二十五だもん。あと五年でおばさんだし」
「そういうことじゃないです。心というか、なんて言っていいか、わからないけど」
「そうかな。――私、まだみんなに名前で呼び捨てられたりするし」
「歳も近いし、親しみ易いんですよ。きっと。……もうちょっと歳食って、威厳が出たらその内先生って呼ばれますよ」
「……今の生徒達が卒業してからじゃ、遅いんじゃないかな」
「教師ってのは何年も続く仕事でしょう? これから先でもぜんぜん遅くはないと思いますけど」
「ふふ。そっか。乾くん、私より若いのに、考え方が大人びてるね」
「そうですかね」
 単純に、歳を重ねれば迫力が出ると思っただけで、言わば思いつきを口にしただけだったのだが、そう思ってくれるならわざわざ弁解する必要もない。
 床に落ちた檸檬を拾う先生を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
「檸檬のさ」
「はい」
 床に落ちた檸檬を軽く手で払いながら、鼻を近づけ、先生はゆっくりと息を吸い込んだ。
「匂いって、記憶力を高めたり、集中力を高めたりしてくれるらしいね」
「田舎のおばあさんが大量に送ってきた、って言ってましたね」
「ふふ。ボケ予防なんだってさ。本当に効果があるかは知らないけど、匂い嗅ぐだけでボケ予防できたら、それは楽でいいでしょ、っておばあちゃんが」
「お茶目な人ですね」
「本当にね」
 そう言って、俺たちは小さく笑いあった。
 まるで秘密でも共有するかのように、こっそりと。

 ■

 俺の音楽室通いは、その後毎日続いた。
 最初に見えた大人な先生を見たかったから通っているはずだったのに、段々と彼女のすべてを知りたいという欲求というか好奇心が湧いてきたのだ。
 言い方は悪いかもしれないが、まるでおもちゃが無限に溢れ出すおもちゃ箱を与えられた子供のように、今の俺は浮かれているかも知れない。
 もうかれこれ一週間程音楽室通いが続いた。友人達の怪訝そうな顔に頭を下げ、軽い足取りで廊下を歩いていた。
 音楽室のドアを開けると、ピアノの旋律が耳に流れ込んできた。
 見れば、先生がピアノを弾いていたのだ。
 どこか優雅で、楽しそうで。でも、悲しそうな顔で。
 いつもは授業で使う曲しか弾かないのに、今日の曲はきいたこともない曲だった。
 少しの間その曲に耳を傾けていると、先生が俺に気づいて演奏をやめた。
「乾くん」
 先生がうれしそうに笑った。俺も、小さく微笑み返す。
 自分で言うのもなんだが、俺は結構無愛想なので、うまく笑えたかは自信がない。
「今の曲はなんですか。あんなの、授業でやらないですよね」
「今のは、ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番。月光」
「ベートーヴェン……」
 一応、有名なクラシックの作曲家だということのみは知っているが、何を作曲したかまでは知らなかった。
「綺麗な曲でしたね」
「うん。ベートーヴェンの三大ピアノソナタだから」
 俺は、曖昧に頷いて机に座った。
「檸檬と月って似てるよね」
「色とか、形ですか」
「うん。それと、神秘的なところとか」
 ああ、なんとなくわかる。
 檸檬は確かに、神秘的だ。
「他の果物とは、なんか違う感じがしますよね」
「あ、乾くんもそう思ってたんだ」
 そういう一致が、なんだか嬉しくて、胸がくすぐったかった。
 それに、これは言わないが、檸檬の匂いを嗅ぐ先生が印象に残っているから、俺の中で檸檬は特別なのだ。
 先生は今日も檸檬を持ち、その匂いを吸い込んでいた。
「あ、これ、乾くんの分」
 そう言って、先生はポケットからもう一つ檸檬を取り出し、俺にくれた。
 受け取って、先生を真似て鼻の前に檸檬を持ってきて、肺いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
 胸の奥がすきっとし、水で体全体を表れた様な気持ちのいい匂いだ。
「すいません。いつも」
「いいよいいよ。家にまだまだいっぱいあるし……。それに、乾くんがそんなに檸檬好きだったなんて、知らなかったし」
 完全に檸檬目当てで来てると思われている。
 ほっとすべきか、それとも落胆すべきか、俺には判断がつかない。
 気づかれたほうが、ある意味救いになるのはなんとなくわかるが。
「先生」
「ん」
「先生は、報われないって思ったら、すぐあきらめる方ですか」
「何の話かな」
「なんでもいいですよ。勉強でもスポーツでも恋愛でも」
「あー……私は一応やるかも」
「一応、ですか」
「諦めたら終わりとか、そういう綺麗事じゃないんだけどね。やった方がすっきりするでしょ。なんでも途中で投げ出すと、そればっか頭に残っちゃってイヤなの」
「なるほど。じゃあ、先生。好きです」
 勢いに任せて言った。
 先生は、目を見開いて俺の顔を見つめる。
「なるほど。さっきの質問はそう言う意味だったんだ」
「はい。俺も、報われないかもならさっさと終わらせたくて」
「諦めがいいんだね」
「意地が悪いだけですよ。できれば、先生に爪痕を残そうとしているっていうか」
「忘れられたくないんだね」
「そうですね」ゆっくりと、だが、しっかり頷いて言った。「先生の中で、ただの生徒として消えるくらいなら。先生に恋愛感情を抱いていた生徒として、長く覚えておいてほしかったんです」
「うん。わかるかな。その気持ち」
「先生にも覚えがあるんですか」
「ふふ。そんなことばっかりだから」
 そこで、先生は押し黙った。俺も口を挟むことができず、先生のように黙っていたのだが、少しして先生はさらに続けた。
「乾くんだから言っちゃうけどね。私、両親がいないの」
「いない?」
「うん。私が中学校の時だったかな。自殺だって言ってた」
「なんで、ですか」
「借金抱えてたんだって。聞いた話じゃ、首が回らなくなってたらしいよ」
 まるで隣の家に住んでいる人のような他人事口調で、先生はそう言った。そして、小さく苦笑しながら、自分の中にある悲しみの波を閉じこめるかのように、かすかに体を震えさせる。
「私はなんにも知らなかったんだ。お父さんとお母さんは、最後の日もその前の日も、変わらずに笑ってた。でも、ある日突然首を吊ってた」
 俺は両親の顔を想像して、二人が首を吊る姿を想像してみた。
 想像力とは偉大で、実際には起こっていないことなのに悲しくなった。それを実際に見た先生の気持ちは、偉大な想像力を持っても到達できない地点にある。
「だから、私には、人を愛する事が報われないことなの。愛して、突然いなくなられたら、辛いよ」
「……つまり、俺はフラれた、ってことですか」
「ごめんね。……それに、生徒と付き合うっていうのも、いけないことだし。乾くんの将来だって、棒に振るかもしれないから」
「そう、ですね。すいません」
 俺はゆっくりと机から立ち上がって、足取りを必死で整えながら、音楽室から出た。
 失恋がこんなにショックだとは、思わなかった。

  ■

 翌日。
 先生の背中、横顔、手。
 遠くからそれを眺めて、俺は初めて先生が檸檬の匂いを嗅いでいた日を思い出していた。
 夕日に照らされ、目を閉じて檸檬の匂いを嗅ぐあの時の先生は、酷く魅力的だった。
 いつもの先生とは違う顔に、俺は不覚にもくらりと来た。
 そして先生と話す内に、先生の奥深くを知って、俺は何かの感情を抱いた。
 それがどういうものなのか、わからない。
 放課後になって、俺はまた音楽室の前にいた。
 合わせる顔がないことも、格好悪いことも重々承知していたのに、足が勝手に音楽室へと向かってしまった。
 そして、バレない様に、こっそりとドアを開き、片目だけを出して室内を覗く。探せば、先生はピアノを弾いていた。
 でもその表情は、以前の様に複雑なものではなかった。
 悲しみ一色で、俺はすぐに目を反らしてしまう。
 なんどもなんども約束を破られた子供の様に、悲しそうな表情。
 俺はあくまで自然を心がけ、音楽室の中に入った。
 ドアのローラーが転がった音で気づいたのか、先生の視線が俺を捉える。
「い、ぬいくん」
 先生は目を擦り、無理して笑った。
 遠目で見えなかったが、泣いていたのか。
「どうしたの? もう来ないと思ってたんだけど……」
「そのつもりだったんですけど、やめました」
「え?」
「俺、嫌がられてもずっと先生のそばにいることにしたんです」
 俺は先生が好きだし、あの顔をもう二度とさせたくないと感じた。
「やめときなよ。乾くん。私よりもいい人、見つかると思うよ?」
「そんなのわからない。先生が最高かもしれない」
「……先生と付き合ってるなんて、バレたら大変なんだよ?」
「誰にも言いません。大丈夫です。……本気でイヤだったら、俺は二度と先生の前に現れません」
「……イヤじゃないの」
「え?」
「イヤじゃないの。でも、私はダメ。きっと不安になるよ。デメリットの方が多いし、いつ見捨てられるかって考えたらおかしくなる」
「それは俺の台詞ですよ」
「私は、一回捨てられてるから。痛さを知ってるの。それをもう一回味わうくらいなら、死んだ方がいい」
「教師がそんなこと言っちゃ、ダメですよ」
 そう言いながら、俺は先生の前に立った。
「これから乗り越えましょうよ。そのトラウマを。俺も手伝いますから」
 先生は、そっと俺の手を取って、それを額につけた。
 初めて触った先生の体は、予想よりも細く暖かだった。
 そしてなにより、初めて触れた先生の心は、確かにしっかりと大人で、根っこの部分がどこか頼りなくて、酷く可愛らしかった。
「ごめんね、乾くん」
 俺の手を額から離し、先生はまっすぐ俺の目を見た。
 潤んだ目からは今にも涙がこぼれそうで、俺はそっと空いている手を先生の頬に添えた。
「大人って言ってもらったのに、なんか子供っぽいね」
 先生が手を離したので、俺は先生の座るちょっと大きめなピアノ椅子の半分に座った。
 背中をくっつけて、俺たちは口を閉ざす。
 音楽室の性質の所為か、音はない。今あるのは、背中に感じる先生の温もりだけ。
 それはとても甘美で、安心できて、体の中に染み込んでくる。人と人は支え合う。なんてよく聞くが、そうじゃない。温もりを分け合うのが、人と人なのかもしれない。
 俺は先生の手を取って、じっと黙る。
 ふと、窓の外を見た。
 紫になった空にぽつりと満月が浮かんでいて、それが檸檬の様に見えた。

     

檸檬の人のあとがき

これは年上に惚れたはいいけど、相手はトラウマ持ちだったでござるの巻。
短編と言えば含みを持たせた終わり方だろう、と勝手に思っていた(今でもだけど)の作品でした。

梶井基次郎の檸檬を学校でやっていたのも影響の一つですが、僕は檸檬という作品が好きなので、なんとなく影響された一品。先生はピアノをやっているということで、もっと指先の描写を丁寧にすればよかったかな、と思うこの頃。現在コミックニートで連載中の箱庭がこれのリボーン要素を受け継いでいます。向こうは恋愛というよりも人情劇なのか。自分で書いてるのに、向こうはジャンルがよくわからないんです。

終わって、読者に彼らがこれからどうなるのかを想像させたかったけど、それが上手くいってない様な気がする。
どうしても、結ばれないまま終わる小説が書きたかったというのも、これを書いた一つの理由。テーマの、恋の一歩手前はそれを示しています。これからどうなるのか、がエンディングには大事だと思ったんです。はい。

       

表紙

七瀬楓 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha