Neetel Inside 文芸新都
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      (9)


 瑠南たちが帰るころに、ちょうど夕焼け空は色褪せていった。窓から望む河川はきらめきを失っていき、やがて人工の光にあふれた街を映す鏡へと変わっていくのだろう。
 彼女たちには、去り際に、くれぐれも他人に見つからないようにと忠告をしておいたのだが、守ってくれているだろうか――というよりそれ以前に、本当にあの協定は正しかったのだろうか。いまだに明確な判断がつかない。
「きっと大丈夫ですよ。瑠南ちゃんは正直な子ですもん」
 そんな懸念を見透かしたように、保奈美が言ってくる。彼女はにこにこと笑ってすらいた。親友との再会は、どうやら彼女の心に大きな安らぎを与えたみたいだ――しかし依然として、柿田と彼女の間柄が真っ当でないことに変わりはないはずである。それ以上も以下もなく、瑠南たちとの関係もただの利害の一致でしかない。そこを履き違えてもらっては困る。ましてや親近感などお門違いもいいところだ。
 それなのに、笑っている。
 金持ちのくせに能天気というか、こちらの居心地が悪くなるくらいきれいな子どもだ、と柿田は思った。なにが、金持ちのくせに、なのかはわからないが。
「ったく……そうであることを祈るぜ」
 ――こんな感じでこの先大丈夫なのだろうか?
 柿田は胸ポケットから煙草を取り出した。


 翌日の金曜日。
 柿田の心配はあっさりと杞憂に終わった。
 午後四時をすぎたあたり――カンカンと外の螺旋階段を上る音が聞こえて、瑠南と雄大が軽快に入ってきたからだった。まるで、遊ぶ約束をした友人の家にやってきたときみたいだった。ふたりともランドセルを背負っていた。
「瑠南ちゃん。梅村くんも。直接きてくれたんだ」
 保奈美が表情を輝かせて立ち上がる。
「やっほー、ホナちゃん」気さくに手を挙げた瑠南だったが、柿田の視線に気がつくと嫌そうな顔で言った。「なに? キモいんだけど、見ないでよ」
「いや……マジでくるとは」
 柿田は驚きを隠せなかった。彼女たちが宣言どおりに来訪したこともそうだったが、通報されずに、裏切られずに済んで思いのほか安堵している自分がいることに驚いた――裏切られずにだなんて、そんな言葉を使ってしまうほど、彼女たちを信じたいと思っていたのだろうか?
「ふぅん? 疑ってたんだ?」
「……たりめーだろ」
 簡単に信用はできない――正論のはずだと自覚しつつも、柿田はどうしてか目をそらしたくなった。しかし瑠南は特になじってくるようなことはせず、ランドセルから連絡帳のようなファイルを取り出した。一枚のプリントを保奈美に差し出す。
「はい、今日もらったの。一応ホナちゃんにもあげるね」
「あ、もうそんな時期だったね」受け取ったプリントを興味深そうに眺める保奈美。「でも、私の分は配られてなかったんじゃないの?」
「こっそり二枚とっておいたんだよ」雄大がなんでもなさそうに答えた。
 自分を差し置いてなんの話だろう。気になった柿田は三人に近づいていって、保奈美の手からプリントを奪いとった。なにすんのよ、と手を伸ばしてくる瑠南には煙を吐きかけて応戦してから、プリントに目を落とした。
 上部に『第四十五回君鳥小学校運動会のお知らせ』と印刷してあった。どうやら保護者むけのものらしい。簡単なプログラムと日時が記してある。
 柿田は鼻で笑った。「こんなもんいらねえよ。わりいが今年は『病欠』だぜ、ガキ」
 しゅんとする保奈美。しかし、煙を振り払った瑠南が言った。
「それはわかるけどさ、ホナちゃんは毎年楽しみにしてるのっ」
「そんで毎年、徒競走でビリになってやがんの」雄大がまぜ返す。すると、「あんたはちょっと黙っててよ」と瑠南が彼の胸を押して、雄大も反射的に肩を押し返した。ふたりのあいだに、今にも取っ組み合いに発展しかねないぴりぴりとした空気が生まれる。
「うるせえなてめえら。今は内輪揉めしてる場合じゃねえんだよ」柿田はとりあえず近くのテーブルを蹴り上げて、注意を引かせた。
「じゃあ、なにすんのよ」
 瑠南が八つ当たり気味に口を尖らせる。柿田は答えた。
「せっかく協定結んだんだ。まずは作戦会議をはじめようぜ」
 

 テーブルの周りにソファや長椅子を寄せ集めて、今後の作戦会議がはじまった。
 左に柿田と甘夏、それに対面する形で瑠南と雄大、そしてその中立の位置に保奈美がどぎまぎしながら座っている。
「んで、てめえらはどうするつもりなんだ?」柿田は言った。
「どうするって、どういうこと?」瑠南が足を組んで返す。
「俺らには身代金ゲットっていうわかりやすい終着点がある。でもそっちにはねえだろ」
「……終着点って、なんか難しいけど」
「簡単にいえば、まあ、ゴールだわな。要するに、ガキの親がどんなふうに、どんなレベルにまで仲直りすりゃあいいんだ? 毎晩セックスするくらいにか?」
「セッ……!」瑠南は顔を真っ赤にしてから、ごにょごにょとつづけた。「そんなのわかんないけど……とにかく、ホナちゃんが笑えるようになればそれでいいのっ」
「瑠南ちゃん、ありがとう」保奈美が目を細める。
 その一方で柿田は鼻で笑った――やはり所詮は小学生の浅知恵。具体的な案を求めるほうが間違いだったのかもしれない。それがあったところで、邪魔なだけだけど。
「なによ、悪い?」気に障ったらしく、瑠南が声に棘を立てる。
「別に悪いとは言ってねえだろ。でもまあ、問題は――どういうふうに、だろうな」
「方法ってこと?」
「具体的に仲直りをさせる方法はあんのかよ。それとも、ただ待ってるだけか?」
 考えていなかったのだろう、瑠南はぐっと言葉をつまらせる。
「だったら、この淳一お兄さんが迷える子羊にアドバイスをくれてやってもいいぜ。特別にな」
「ふぅん、なんなの」
 興味薄げな声音とは裏腹に、瑠南が少し身を乗り出してきた。魚が餌に食いついてきた、と柿田は内心で口の端を吊り上げた。「そうだな。まずは敵を知るところからはじめてみたらどうよ? 百聞は一見にしかずってな、話だけじゃあわからねえモンもあんだろ」
 そこで、柿田は甘夏の視線に気づいた。どうやら柿田の意図を察したらしい。柿田は子どもたちに気づかれないように目だけでおどけて返しておいた。
「えっと、つまり?」
「ちょっとガキん家までいって、様子とか見てこいや。とりあえずは動かねえことには、なにもはじまんないんじゃねえのか?」
「まあ、そうかもしんないけど」瑠南は一寸迷ったみたいにからだを揺すってから、雄大のほうを見た。「ねえ、梅村はどう思う?」
「おれは……そいつの言うことは一理あると思う。確かにさ、動かないことにはなにもはじまらないだろうし、あれこれ考えるの得意じゃねえんだよな」
 雄大の言葉がうまく背中を押したみたいだ。瑠南はどこか満足げな顔になって、そうだねと保奈美に向きなおった。
「ホナちゃんにも教えてあげたいし、いってこよっかな!」
 威勢のいい瑠南を眺めながら、柿田は煙草に火を添わした。安い葉を燻らしながら思う。
(これで、うまく機能してくれりゃいいんだけどな)
 柿田のひそかな目論見――それは、瑠南たちを言いくるめて、偵察隊として梨元家に派遣することだった。
 ふつう誘拐犯にとって、警察の動向は喉から手が出るくらいほしい情報だろう。しかし、家のすぐ近くに監視カメラを設置するわけにもいかないし、事前に盗聴器を家の内部に隠すことはもっと難しい。つまるところ、もっとも望んでいてもっとも望み薄なものなのだ。
 それが変則的とはいえ、どうにか手に入れられる経路をつくり出した。疑うことが仕事の警察でも、まさか被害者のクラスメイトがスパイに利用されているなど思わないだろう。理想は千里眼がごとき働きだが、少しでもむこうの様子がわかれば万々歳だった。
「そうと決まれば、さっそく今からいく?」
 瑠南が窓の外を見ながら言った。すでに日が暮れかけている。事務所全体が灯籠の内部のように淡い光の色に染まっていた。
 柿田は口をはさんだ。
「そんなに急ぐなよ。学校帰りに寄ってみましたを装うにしても、今日はもう遅いぜ。できるだけ不自然は生みたくないからな、明日……は土曜で休みか。来週にしろよ」
「んん? なんかあんた本位になってない?」
 ぎくりとした柿田だったが、瑠南はそれ以上追及してくることはなかった。「ま、明日でもいいけどね」と息をついて、帰る意思表示なのだろう、水色のランドセルを羽根みたいに背負った。


 瑠南たちがいなくなったあとで、柿田は携帯電話を開いた。
「あれ? 柿田さんなにするんですか?」
 親友に会えたことでまた上機嫌になった保奈美が、声を若干弾ませて聞いてくる。
「決まってんだろ。てめえん家だ」柿田はディスプレイを見たまま答えた。
「えっ」
 保奈美が、思いもよらないことを言われたときみたいに顔をこわばらせた。
「二回目の接触だ。ごたごたしたせいで少し間が空いちまったが」
「それって、お母さんとお父さんを脅すってことですよね?」
「犯罪者がお願いしてどうすんだよ」柿田はするどく保奈美を見た。「あのな、勘違いしてんじゃねえぞ。こちとら児童養護施設の真似事をやってるわけじゃねえんだ。猿じゃあるめえし、そんぐらいはわかるだろ」
「あ、はい……」
 さっきの上機嫌はどこへやら、保奈美は悲しそうに目を伏せる。ようやく念を押すことに成功したみたいだった――が、そんな小さな横顔を一瞥してから、柿田は溜息をつきながら言った。「つっても、まあ。ちっとは働いてもらうけどな」
「え?」
「少しだけ代わる。親に声を聞かせてやれ」
「その……いいんですか?」
「だから、勘違いすんじゃねえよ。精神的な揺さぶりをかけるためだ。てめえだって、声も聞きたくねえってほど嫌ってるわけじゃねえんだろ?」
 すると、保奈美の表情に光が差した。やはり親と離れ離れになるのは、どうしたってこたえるものがあるのだろう。別段、この年ごろの子どもにとっては。
「は、はいっ。ありがとうございます、柿田さん」
「ジジイのほうは異論はねえな?」
 柿田は甘夏のほうに視線を逃がす。甘夏は軽く頷くだけだった。本当に誘拐犯としてやる気があるのかよ、と柿田はなじりたくなったが、今はやるべきことをするほうが先だった。電話帳で検索すると、すぐに先日登録したばかりの番号が出てくる。
 瑠南と雄大に即日の行動を思いとどまらせたのは、不自然さを回避するためだけではなかった――もう一つの理由は、今から実行する二度目の接触である。
 きっと、この前後では状況は一変しているだろう。どうせ密偵を遣わすのなら、変わったあとの最新情報を持ってこさせるほうがいい、と柿田は考えていた。ちなみに、このことを瑠南に知らせなかったのは、単に面倒な展開が嫌だったからだ。保奈美のためだとか言って反論してくるのは、予知能力のない柿田でもわかっていた。
「……もうてめえら付き合っちまえよ」
「? なにか言いました?」独り言を拾われ、柿田はなんでもないと手を振った。気を取り直して、ゆっくりと親指をコールのボタンに重ねていく。
 だが、かすかに震えていることに気づいた。
 考えてみれば、一回目はイントロダクションみたいなものだった。今回からは素人の母親が相手じゃない。捜査のプロである警察だ。これからが本当の闘いになっていくのだろうと思うと、緊張感がじわりとにじむ。
 柿田は親指に力を込めた。奇しくも一回目と同じく、九回目のコールで繋がった。

       

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