Neetel Inside 文芸新都
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      (10)


 梨元家のリビングは静まり返っていた。
 蒲郡はソファに浅く腰かけ、テーブルの上に設置された電話機をじっと見つめている。むかい側で吉見があくびを噛み殺していたが、叱咤する気になれなかった。ここ数日は、電話機の前にへばりついているような生活がつづいているのだ。疲れたからだが眠気を断りきれないのも無理なかった。
 台所から陶器が擦れ合うような音が聞こえた。トレイを持った佐恵子が蒲郡たちのもとへやってきて、マイセンらしきカップを置いていく。
「どうぞ、みなさん。少し休んでください」
「ありがとうございます。助かります」蒲郡は淹れたてのコーヒーを口に含んだ。舌の痺れるような感覚のあとに、署にあるインスタントのものでは味わえない高級感あふれる深みが広がっていく。他の刑事もほっと一息ついているのがわかった。
「旦那さんは、今日も遅いんですか」吉見がなにとなしに佐恵子に聞いた。
「ええ、たぶん……」
 佐恵子は申し訳なさそうに答えた。彼女はなにをするにしても、そういう目をする。
 それとは対照的なのが、話題に上がった夫の義孝だった。彼は蒲郡たちと話すときであっても、眉ひとつ動かさなかった。いちおうは捜査に協力してくれているみたいだったが、きっとクライアントを相手にするときのほうが親身なのだろうと思える。出社と退社の時間もふだんどおりらしく、生活サイクルにはなんの変化も見られなかった。一人娘がいないことなど気にも留めていないように――まるで、一人娘などはじめからいないかのように。
「あの、蒲郡さん」佐恵子が言った。「娘は、無事なのでしょうか」
「それは……わかりません。犯人が接触してこないので、なんとも言えんのです」
「いったい、野郎はなにを考えてるんでしょうね」吉見は一口コーヒーを啜った。
 彼の言葉には同意せざるをえなかった。自分たちがここにきてからというもの、犯人からの連絡はない。そこが、解せないといえば解せなかった。
 自分たちの存在に気づかれたのだろうか? はたまたなにかの作戦なのか? どちらにしても、むこうから動いてくれなければ後手ですら打ちようがない。
 蒲郡は腕時計を見た。そろそろ日が落ちる。今日も接触はなしか、と思った。
 そのときだった。
 静寂を切り裂くように、電話機の着信音が響き渡った。
「きたか……!?」蒲郡はヘッドホンを装着した。他の刑事もそれに倣い、みな一様に真剣な面持ちになる。突然張りつめた空気に戸惑いながらも受話器を手にとろうとした佐恵子を、蒲郡は無言で制した。犯人の意思を見極めるためだ。もどかしそうな佐恵子をさらにとどめる。しかし、一定の時間を越えてもコールはつづいている……犯人はこちらと真に対話したがっていると判断していいだろう。蒲郡はゴーサインを出した。
 佐恵子はすばやく深呼吸をしてから受話器を耳に当てた。「……もしもし?」
『あぁ? 誘拐犯だけどさ、梨元さん家であってるか?』
 若い男の声だ。ボイスチェンジャーは使っていない。
「はい……梨元保奈美の母です」
『聞くまでもねえと思うが、もうサツにはちくってんだろ?』
 佐恵子が蒲郡を見やった。彼は首を横に振る。
「そんな、してません」
『嘘つくんじゃねえよ。わかってんだ。どうせ横にゴルゴみてえなオヤジがいんだろ』
「信じてくださいっ。ゴルゴなんていませんっ」佐恵子が必死に否定する。蒲郡は、腹を抱えて笑いをこらえている吉見を拳で沈めてから、少し落ち着くようにと佐恵子にジェスチャーを送った。彼女は胸に手を当てて付加した。「……本当ですから」
『そうだといいんだけどなあ?』
 そこで、刑事のひとりがフリップで指示を出した――佐恵子は目で頷いて、再び受話器に意識をむかわせ、読み上げる。「あの……貴方たちの目的はなんですか?」
『知ってどうすんだよ。黙って言うこと聞いてろや』
 刑事がすばやく「犯人はふたり以上」と書く。“たち”を否定しなかったからだ。
「その……娘は、保奈美は無事なんですか?」
『知りてえか?』
「はい、保奈美さえ返してくれれば、なんでもしますから。保奈美だけはっ」
『それは自分で確かめるんだな』
 すると、かすかに物音が混じってから、薄い吐息がマイクににじんできた。
『……お母さん?』明らかに先ほどの男の声とは違う、小学生くらいの女の子の声。それは紛れもなく、無事を祈ってやまなかった娘のものだった。
「ほなみ? 保奈美なの?」佐恵子はよりいっそう、受話器を耳に押し当てた。
『うん、お母さんだね。そっちは大丈夫?』
「なに言ってるのっ? あなたこそ殴られたり、変なこととかされてない?」
『されてない』
「食事とかは……」
『ちゃんともらってるよ。今日はお昼にコロッケサンド食べたの。ちょっと物足りなかったけど、学校の給食よりもおいしかったよ』
 梨元保奈美は、蒲郡の予想よりもずっと冷静だった。声質は刃物をあてがわれているふうでもなく、特に衰弱しているような気配もない。不安を隠しきれない佐恵子とどちらが母親なのかわからなくなるほどだった。この精神状態は、いったいどこからくるのか?
「……保奈美」佐恵子は姿勢を正した。「お母さんが絶対、助けてあげるからね」
 その言葉には、一寸の揺らぎもなかった。しかし、
『はいはいどーもぉ? ママのこと信じてるからねぇー?』
「っ!?」
 佐恵子が表情を歪めた。最初の男の声だ。タイミング悪く交代されてしまったらしい。軽薄な口前に思わず怒鳴りたくなったが、ぐっとこらえた。下手に相手を刺激したくない。自分の言動の正否は、そのまま娘の運命に直結するのだから。
「あの、娘は本当に――」
 プツリ、と。そこで唐突に通話が切れた。
 二回目の接触が終了した――その事実を認識するのに数秒かかった。
 脱力してしまう佐恵子に「おつかれさまです」と言ってから、蒲郡はノートパソコンにむかっている吉見を見た。「逆探知のほうはどうだ?」
「だめです。でも、声紋データは取れました。回しておきます」
「ふざけた野郎ですね」刑事のひとりが苦々しそうに口を開いた。
 蒲郡は大きく頷く。慌てふためく被害者家族を小ばかにした態度、わざわざ娘に受話器を握らせる手法、そして追いすがる佐恵子の気持ちを振り払う引き際――どこかこの状況を、梨元親子の生殺与奪の権を自分が有していることを楽しんでいるふうに思えなくもない。身代金目的の犯行だと踏んでいたが、視野を狭くしていただけなのかもしれなかった。
「愉快犯の線も考えなくちゃなりませんかね」
「ああ、そうだな」蒲郡は頭を掻きむしった。「厄介な野郎だ。ちくしょうが」


「あっ、ちくしょう。ミスったぜこりゃあ」
 柿田はいきなり通話の途切れた携帯電話を見て、舌打ちを鳴らした。
「どうしたんですか?」となりの保奈美が、手元を覗き込んでくる。あっと声を出した。「『充電してください』……電池が切れちゃったんですね」
「ちゃんと満タンにしとけばよかったな」
「それより、柿田さんひどいです」保奈美は頬を膨らませた。「いきなり取り上げるなんて。もう少し話させてくれてもよかったじゃないですか」
「なんだよ。ホームシックか?」
「……いえ、ただお母さんを安心させてあげたかったなって」
「はっ、仲のいいこった」
 皮肉のつもりで柿田は言った。机の上にある携帯充電器を引き寄せて携帯に挿す。
 今回は不意に通話が切れたために、話を進め足りない部分はあったが、かといってもう一度接触を試みるのも危険なにおいがする。今のところは、来週あたりに瑠南たちが持ってくるであろう梨元家の情報を待つくらいしかすることはないだろう。


 チャイムが鳴る。週末は秋雨が降っていたが、週明けの月曜日には青空が広がっていた。グラウンドの乾き具合は上々と言っていいものだろう。給食をかけ込み終えると、五年一組の男子生徒たちは自宅待機をしいられていた週末の鬱憤を晴らすかのように喚声を上げながら、サッカーボールを持って外へと繰り出していく。
「待てよ! おれがいなくちゃはじまんねえだろ!」
 梅村雄大もそれにつづこうとして、いきなり服の襟首を誰かに引っつかまれて転び、尾てい骨を床に強打した。涙目で振り返ると、そこには瑠南がいた。
「杏藤! おまえ、ふざけんな!」
「ちょっと梅村」瑠南はずいっと雄大に顔を近づける。額を人差し指で小突いた。「あんたなんか新規のモブキャラみたいな言動してるけど、忘れていないでしょーね?」
「なにをだよ。宿題なら出したぞ」
「バカ。ホナちゃん家の様子を教えてあげるミッションのこと」
「ああ……今日いくのか?」雄大は声をひそめた。
「うん」瑠南は雄大を引っぱり上げつつ首肯した。「やっぱり早いほうがいいもんね」
「そっか。ていうか、おまえ梨元の住所知ってんの?」
「遊びにいったことあるから。まかせなよ」
 そう言ったあとは、雄大にそのままサッカーに誘われたので、瑠南も参加した。そこでハットトリックの活躍を見せたおかげか、満腹感にほどよい疲労が重なってきたために最後の五時間目は夢の中だったので、放課後は目を覚ますと同時にやってきた。
 ふたりは一度ばらけたあと、学校近くのコンビニで落ち合うことにした。
「誰にも変に思われてないよな」先に着いて待っていた雄大が言う。
「たぶん大丈夫。さっ、いこ?」
 瑠南の案内で二十分ほど歩くと、高級感の漂う住宅街に入る。梨元と刻まれた表札の家はすぐに見つかった。近代的なつくりの二階建て。冷たい家だ、と瑠南は思った。前にきたときも思ったことだけれど、今はさらにそういう印象が強い。
 とりあえずは電柱の陰から全体をうかがうことにする。さすがにパトカーが何台もとまっていたりだとか、物々しくキープアウトされていたりだとか、いかにも事件発生中という感じの様相は呈していない。しいて違和感があるとすれば、カーテンが閉めきってあることぐらいか。それもプライバシーのことを考えれば、ふつうなのかもしれない。
 しかしこれでは、保奈美に報告する内容が空っぽになりそうだった。
「うーん。梨元に家の様子を伝えるなんて、ハナから無理だったんじゃね?」雄大が腕組みをしながら唸った。「中に入るわけにもいかないしな」
「というより、おばさんにうまく嘘をつかれて帰されると思う」
「梨元の母さんか……やっぱあいつと似てるん?」
「似てる似てる。梅村好みの」
「誰がおれの好みだよ! おれはもっとなあ、あんなトロくさいやつじゃなくて……!」雄大は顔を赤くしてから、強引に話をもどした。「とにかく、どうするんだ?」
「もうちょっと近づいてみてもいいんじゃない?」
 ふたりは門扉のところまで歩いていった。
 ――そのとき。
 玄関からガチャリと、見知らぬ中年男が出てきた。
 塀の裏側のほうから、見知らぬ青年が小走りでやってきた。
 ちょうど玄関と道路という位置から、門扉の前にいる瑠南と雄大ははさまれる形になる。しかし青年のほうは手元のメモに目がいっていて、ふたりの小学生に気がつかないまま――あるいは認知と発言が同時に起きて――ポーチにいる男に言った。
「先輩。梨元保奈美は学校が終わってから誘拐されるまでの姿が知られていませんね」
「吉見っ」
 瞬間的に――四人の中に緊張が走った。
 面倒くさいことになった、と瑠南は内心で大きく舌を弾いた。おそらくこのふたりは刑事だろうが、よりによって『誘拐』という核心的なワードを聞かされてしまったのはよくない。自分たちがこっそりと情報を集めるためには、事件に関してまったくの無関係という立ち位置が肝要なのだ。だが、これだと表向きにも事件に引きずり込まれて、動きづらくなる。確実にその可能性は跳ね上がる。
 とはいっても、ここで変な対応を見せてもメリットはないので、瑠南としてはできるだけはじめて知ったふうを装うしかない。目を丸めて、心の底から驚いたように。
「え……っと、誘拐ってなんですか?」
「そ、それは」吉見というらしい刑事が動揺する。
「梨元保奈美って、ホナちゃんのことじゃないんですか?」
「ホナちゃん? きみらは彼女の友だちかい?」中年刑事が寄ってくる。
 瑠南がはいと答えると、彼はゆっくりと嘆息をもらした。それから膝を折って目線を合わせると、言い聞かすように、ともすれば有無を言わせぬ声で言った。
「よく聞いてくれよ。その……梨元保奈美ちゃんは、病欠だって言われているかもしれないが、本当は違う。彼女は誘拐されてしまったんだ。私たちは刑事で、犯人を追っているところなんだよ。今日、君たちはたまたま本当のことを知ってしまったが、どうか他の人には言わないでほしい。きみが友だちのことを思うのなら、彼女を無事に助け出したいと思うのなら、黙っていてくれるね?」
 ごまかしは効きそうにないと判断したのだろう、あえて真正面から攻めてきた。妙な迫力に瑠南は頷かざるをえない――それでも、手ぶらで保奈美のところへ帰りたくはなかった。たったひとつでも、たいして有益でなくてもいいから、なにかしらの情報を入手しなければ。
「あの」瑠南は口を開いた。「お母さんとお父さんはどうしているんでしょうか」
「梨元保奈美ちゃんの?」
「はい、友だちとして心配なんです」
 中年刑事は困ったみたいに唇を曲げた。吉見のほうを見る。「佐恵子さんは本当に心配しているよなあ? やはり保奈美ちゃんのことが大事なんだろうね」
「そうですね」吉見が引き継ぐ。「でも、義孝さんのほうはあんまり熱が入っていないっていうか、僕たちに丸投げっていうか……なんだか意識が噛み合ってないっすよね。まあ、それが捜査の進んでいない原因ってわけじゃないっすけど」
「ふぅん……聞いてた以上かも」
「ん? なにか言ったかい?」
「あっ、なんでもないです」瑠南は慌てて言った。口元が緩くなっていたことを反省しつつ後ろの雄大に「私なにか言った?」と話を振るが、彼は液晶の中の虚構ではない刑事を前にしてかたまってしまっていて、ぶんぶんと首を横に振るだけだった。
 最後に中年刑事は蒲郡と名乗ってから、瑠南の肩に手を置いた。
「さあ、もう安心して帰っていいよ。保奈美ちゃんのことは私たちに任せなさい。必ず教室にいけるようにしてあげるから。その代わり、今日のことは本当に誰にも言ってはいけないよ。約束だ」
 やわらかな口調のわりに低い声には、ここから先の関与をはねのける厚みと、許さない重みがあった。ほとんど命令のようなニュアンスをひしひしと感じた。
 もうこれ以上は望めそうにない――。
 瑠南と雄大は、追い返されるように梨元邸から離れた。振りむけば、すでにふたりの刑事の姿は梨元邸の中に消えようとしていたので、瑠南は「バーカ」と中指をそちらにむけて天を突く勢いで立ててやった。
「やめろよ、見つかんぞ」雄大が疲れた顔をむけてくる。
 瑠南はふんと鼻を鳴らした――誰を助けるだって? と刑事に問いただしたかった。ホナちゃんの救いがどこにあるのか知らないくせに、よく言うよ。彼女はきびすを返して大またで歩き出した。日暮れには、まだ時間がありそうだ。

       

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