Neetel Inside 文芸新都
表紙

フルーツ・イン・ザ・ルーム
第三章

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      (13)


 高校時代の柿田淳一を知る者なら、みな口をそろえてこう評するだろう。
 クソ真面目。
 あいつほど融通のきかない真面目なやつはいなかった、と。


 柿田の家は、住宅街の区画整理の果てに余ってしまったような狭い土地にあった。夢のマイホームと言うには、夢を詰めるには、物足りない小箱みたいな家だった。小学生のころには、その貧相な見た目をからかわれたりもしたが、柿田にとっては誇れる居場所だった。
 なにより、そこに明かりを灯す家族が自慢だったから。
「淳一? お弁当忘れてるわよ」
「ありがとう、母さん」
「今日は淳一の好きなから揚げだからね」母はにっこりと笑った。
 本当はもうそこまで好きじゃなんだけどな。昔の好みをずっと覚えている母に心中で苦笑しながらも、柿田はありがたく包みを頂戴した。いってきます、と玄関でローファーを履いて外に出る。いってらっしゃい、と優しく背中を押される。その一言で、どんな朝にでも足を踏み出すことができるような気がした。
 柿田の通う高校は、私鉄沿線にある私立校だった。駅から徒歩で校門をくぐる。教室は日常的に喧騒がひどかった。スカート丈が妙に短い女子や、髪を染色した男子がだらしなく談笑している。柿田はそのどの輪にも加わることはなく、自席に座り参考書を広げた。
「よお、柿田。てめえ毎日そんなんで楽しいのかよ」男子のひとりが話しかけてくる。スンと煙草の臭いが鼻先をかすめた。「今日、オレらとカラオケいこーぜ」
 柿田は鉛筆の動きを止めて、男子を見た。その後ろでは数人の男女がヘラヘラと笑っている。誘う気など毛頭なく、柿田の反応を面白がっているのは一目瞭然だった。
「遠慮しとく。俺は暇じゃないんだ」
「暇じゃないんだ、キリッ――だってよ」男子が振り返って真似をすると、男女が爆笑した。似てる似てる。イタすぎ。ウチらのことバカにしてんじゃん? と好き勝手言う。男子は笑いながら柿田の肩に手を置いた。「まあ、せいぜい頑張れや。ガリ勉野郎」
 男子が去ってから、柿田は再び参考書に目を落とした――つくづく偏差値の低い学校に入ってしまったと思う。三年になった今では、もうその環境には慣れたけれど。
 彼は元々、公立の進学校を志望していた。しかし試験前日に凶悪な風邪を患い、実力をまったく発揮できなかったのだ。結果、入学金を支払ったのは、すべりどめのさらに下のクッション程度にしか思っていなかったこの私立高校だった。
 だが、周囲は人生を半分諦めた人間ばかりだったが、柿田は違っていた。ろくな友人もつくらずに――友人になれそうな生徒がいなかったこともあるが――大学受験にむけて黙々と耽々と学力の向上に努めてきた。いい大学に入っていい職につく。学歴神話をよどみなく読み上げてみせる。そして、両親に楽をさせてやるのだ。
 柿田は、精一杯のかたちで恩返しをするつもりだった。
 一日の授業を終え、電車を乗り継いで塾にいき、帰宅するころには夜の十時をすぎていた。廊下は暗かったが、リビングから明かりがもれていた。
「ただいま」鞄を自室に置いてから入る。そのまま食卓に座った。
「おかえり、淳一。父さんの残業よりも遅いんじゃないのか」
 テレビを見ていた父が笑う。さえない商社のサラリーマンだったが、柿田は尊敬していた。背丈を軽く追い抜いてしまっても、なおその背中は大きく見えた。
「淳一ったら、そんなに頑張らなくてもいいのにね」母が茶碗にごはんをよそいながら言った。「こんなふうに、みんなで一緒に食べられないもの」
「それじゃ甘いよ。塾のやつらもみんな似たようなもんさ」
「そういえば、淳一はどこの大学を狙ってるのかな」父が言った。
「西央大学」柿田は鮭のソテーをつまみながら答える。熱を失っていて味気ない。「前にも言ったじゃないか。ここからでも通えるし、授業料も私大に比べたら安いしね」
「うちのことは気にしなくていいって言ってるんだけどね」
 母は労わるように言う。けど、そんなはずはなかった。家のローンはまだ残っているし、父の収入も世間の平均レベルだ。パートタイマーの母の稼ぎも雀の涙ほどだった。
「いいんだよ。俺が自分で決めたことなんだから」
「そう。でもあんまり無理しちゃだめよ。私は淳一が元気でいてくれればそれでいいの」
 柿田のむかいに母が座って、頬杖をついて微笑む。嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって、柿田は返事もそこそこに箸を動かした――と、ガチャリとリビングのドアが開かれて、弟の春斗(はると)がまぶたを擦りながら入ってきた。
「あら、起こしちゃった?」母が立ち上がる。
「ママ……おしっこ」と彼女の袖を引っぱって廊下に消えていく。春斗は柿田が小学五年生のときに生まれた、一般的には遅い子だった。かなりの甘えん坊で、いまだに夜中ひとりでトイレにいくのが怖いみたいだった。
 晩飯は食べきらなかった。風呂で一日の垢を落としたあとはベッドに直行せず、デスクライトをつけて机にむかった。塾でやった内容の復習、参考書を使っての演習、センター試験の過去問にも少し手をつける。それらが一区切りつくころには、いつも午前三時に達していた。正味の睡眠時間は四時間もなかったが、柿田は音をあげる気もあげさせてもらう気もなかった。すべては自分のため――家族のためだった。
 そんな生活が一年つづき、柿田は西央大学を受験した。年が明けるころには、大学なんてどこでもいいと言っていた母は神社という神社を駆け回り、お守りを買い漁ってきた。
 試験日当日――白雪が舞い落ちる中で、私鉄の小さなホームまで見送りにきた母は言った。柿田の曲がったマフラーを直しながら。
「頑張ってね。淳一なら絶対できるって、母さん信じてるから」
「そっか。じゃあ百人力かな」
「こんな細腕だけどね。精一杯祈ってあげるわ」
 プレッシャーから神経質になり、彼女に当たったこともあった。けれど、その笑顔の前ではなにもかもが許されるような気がした。「兄ちゃんがんばってね」と兄がどこになにをしにいくのかもよく理解していない春斗にも励まされ、柿田は電車のステップを踏んだ。
 数週間後。
 柿田から電話越しに合格の知らせを聞いた母の声は、涙に濡れていた。


 西央大学の荘厳な門を通り抜けると、桜の花びらが目の前を流れていった。右も左もわからぬままメインストリートを歩けば、気づいたときには部活やサークル勧誘のチラシに両手が埋まっている。柿田はそれらを一読もせずに、ゴミ箱にまとめて押し込んだ。
 くだらない。青春は義務でも押しつけるものでもない。国内トップクラスの大学に入ったところで、そこがゴールではない。夢の第一歩を、ようやく踏み出しただけなのだ。
 とはいえ、目の前の四年間を孤独と戯れるのも味気ないような気がして、柿田は学部内で友人をつくった。石島(いしじま)という、高校にはいなかった話の通じる男だった。
 その石島が、出会って数週間後の五月、大学のカフェテリアでこう言った。
「なあ、おまえってなんかバイトしてるか」
「ん?」柿田はコーヒーにガムシロップを入れながら顔を上げた。「してないけど」
「そっか。じゃあさ、一緒にはじめないか?」
「急な話だな」
「そうでもないだろ。ほかのやつらは結構はじめてるぞ」
 柿田は考えた――正直、大学生活には暇な時間がたくさん転がっている。机にかじりついていたつい数ヶ月前の日々とのギャップが、彼を少し戸惑わせていた。
「バイトといっても、なんの仕事を考えてるんだ? 石島」
「家庭教師だよ。この前から校門でチラシ配ってるだろ」
 柿田は思い出しつつ答えた。「いや、いつも無視するから」
「時給もなかなかいい感じだし、小遣い稼ぎにでも思えばいいんじゃないか」
「そんなもんか」
「俺たち勉強ぐらいしか取り得ないんだからさ、それを活かさない手はないだろ」
「たち、が余計だ」柿田は笑いながら訂正した。
 結局、その日のうちに柿田と石島は家庭教師のアルバイトに登録した。
 その数日後には、さっそく受け持ちの生徒の案内がきた。大学の講義が終わってから一度家に帰っていたのでは、約束の時間に間に合わない。幸い生徒の家は大学から徒歩でいける区域にあったので、柿田は地図を片手に町を歩いた。
 目当ての一戸建てを発見し、インターホンを押す。すぐに母親が出てきて、笑顔で中に通してくれた。大学名の力か、初対面なのにすでに信頼されているような気がした。
 生徒の部屋は二階だと言われた。階段を上り、軽く深呼吸をしてからノックする。ところが声は返ってこなかった。再チャレンジも結果は同じ。迷ったあげく、柿田はゆっくりとドア押し開いていくことにした――そして、合点がいった。
「……あー」
 どうりで返事がなかったはずだ。
 生徒は、ベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。やわらかな斜陽の中、制服から着替えることも後回しにして、小さく胸を上下させている――とはいえ、このままでは授業をはじめられないので、柿田はしかたなく起こすことにした。肩を軽く揺すってやると、長い睫毛が震える。眠たそうにからだを持ち上げて、柿田の顔をぼんやりと眺めながら言った。
「……だれ?」
「いや、今日からきみの家庭教師をすることになったんだけど」
「そうなんだあ」生徒はそう納得したあと、瞬きとともに瞳を大きくして、枕元にあった目覚まし時計を両手でつかみ上げた。「って、ええっ!? もうこんな時間!?」
 あわてふためく生徒に柿田は言った。
「浅岡美月ちゃんだよな?」
「あっ、はい、そうですっ。その、帰ったら時間があったからちょっと休もうと思って! すみませんでしたっ! 俺様のスパルタ受けたいなら寝るなって感じですよね!?」
「いやいや大丈夫だから。少し落ち着こう、な?」
 そう言うと、胸に手を当てて深呼吸をする。なぜかラマーズ法だった。
 柿田が担当することになったのは、女子校に通う高校三年生の少女だった。短大くらいまではいかせてやりたいという両親の意向で、申し込んだらしい。彼女の高校は、エスカレーターが高校までしか伸びていないみたいだった。珍しいほうだ。
「そろそろ大丈夫かい?」
「て、てやんでえ。べらんめえ」美月はうわずった声で言った。
「……まあ、まずは自己紹介だな。俺は柿田淳一。大学一年生だ」
「えっ? じゃあ私よりいっこ上なだけ?」
「そうなるな。でも、いちおう教師としてきている以上は役目を果たすから」
「ふぅん? 別にいいけど。たぶん先生苦労すると思うよ?」
 年が近いとわかったとたんに敬語が消え失せたな、と柿田は心中で苦笑をもらした。
 しかし、苦労するってどういうことだろう――なんてふうに抱いた疑問は、授業をはじめた直後に驚愕に変身した。それは、恐怖すら覚えてしまうものだった。
「ここの確率は……」
「わかった! 丁か半!」
 美月は数学が絶望的だった。
「つまりこの故事が伝えたいことは……」
「ふむふむ。サイオーが実は馬だったっていうオチね」
 美月は国語が壊滅的だった。
「構文を使って訳すと……」
「ジョンはトゥモローはレインが降るとセイした」
 美月は英語がルー大柴だった。
「……きみは高校でいったいなにをしているんだ?」
「え? 友だちと遊んだり、一緒にマンガ読んだりしてるよ」
「勉強はしてないのか?」
「んー、わかんない。でもちゃんと三年生になれたんだからきっと大丈夫だよ」
 オールライト、オールライト。美月はそう言って能天気に笑った。
 柿田は溜息をついた。これから一年間この少女と付き合うのかと思うと、頭痛すらした。しかし、一度引き受けた仕事を投げ出すのも癪だったので、彼は気合を入れなおした。まずは美月の現在的な学力を正確に把握するしかない――話をそれからだ、と思った。
 ちなみに、後日聞かされた話では、石島は男子校レスリング部の部長を担当することになったらしい。常になにか危険な香りが漂うみたいで、「現役女子校生とか勝ち組じゃねーかよ羨ましいふざけんなマジ代わって下さいお願いします」と喚いていた。


 かくして、高層ビルに立てこもったテロリストに挑むマックレーン刑事がごとき勇気と覚悟とともにはじまった浅岡美月の指導だったが、結果的にはそれを果てさせるまでに至らなかったことを、柿田は認めなければならなかった。
 最初こそ授業は難航し、美月がベッドに逃げ込んだり、美月がトイレに逃げ込んだり、美月が雑談に無理やり引っぱり込むことはあったが、回を重ねて慣れてくると彼女のほうにも意識が芽生えたらしく、桃色の唇から出てくるのは質問がほとんどを占めるようになっていた。彼女の吸収力は新品のスポンジみたいで、目を瞠るものがあった。学力は飛躍的に伸びていった。「先生の教え方がうまいからだよ」と彼女は笑っていたが、それだけではないことは柿田自身がよくわかっていた。
 とはいえ、精神的な苦労は絶えなかった。ふとした瞬間に美月からあどけなさが消え、女の顔が覗くことがあったからだ。たぶん彼女は無意識なのだろうが、柿田としては調子を狂わされることが多々あった。石島は羨んでいたけれど、そんなことはない。同性のほうがはるかに相手しやすいと柿田は思う……そういえば、彼はある日突然「穢れを落としに旅に出てきます」というメールを残し一週間ほど大学にこなかったけれど、当事者以外が考えてもしかたがないことなのかもしれない。
「お母さんたち、明日アウトレットにいくけど、淳一はどうする?」
 十一月の第二土曜日だった。母が、部屋から出てきた柿田に言った。
「ああ、ちょっと待って」柿田はすばやく携帯の受信フォルダを開いた。浅岡美月の名前が先頭に出てくる。件名は「日曜のこと」とあった。ふたりはアドレスを交換していた。家庭教師の規約では、生徒と私的な繋がりを持つことは禁じられていたが、美月にねだられてしかたなくしたことだった。勉強に関する質問がしたいから、と彼女は説明していたが、もちろんそれだけが理由ではないだろう。「やめておくよ。明日は先約があるんだ」
「石島くん?」
「いや、バイトの……」言ってから、しまった、と思った。
「美月ちゃんって子ね?」母は面白そうに目を細めた。「勉強ばっかりしてたから、女の子に興味がないのかなって心配だったけど、よけいなお世話だったみたいね」
「言っておくけど、デートとかじゃないからな」
「ちがうの?」
「参考書を買うのに付き合ってほしいんだと。オススメ頼むってさ」
「なぁんだ」母の表情がさらによくなった。「淳一ってけっこう朴念仁なのかもね」
 いくらなんでも、母の言いたいことはわかった。柿田自身、どうやら美月に好意を寄せられているらしいということは薄々感じてもいた。言葉や仕草の端々にそれは見てとれた。しかし、柿田はあしらうかたちで対応するしかなかった。規約をこれ以上破ることはできなかったし、ほかの応え方がわからないというのもある。
 とはいえ、一方的に茶化されるのは趣味じゃない。柿田は反撃に出ることにした。
「それをいうなら、父さんも鈍感っぽいけどな。どうやって結婚までこぎつけたんだ?」
 両親が恋愛結婚であることは知っていた。母は思い出すそぶりをしたが、返ってきたのは簡単な答えだった。「がんばったのよ。私が。ええと、確か……八四年だったかなあ」
「その苦労のすえに生まれたのが俺ってわけか。なんか感慨深いな」
「思ってもいないくせに」くすりと笑う。
 そうでもないよ――柿田は心の中で返しながら、母の薬指を見た。結婚指輪が、年月を感じさせる光の弾き方をしていた。

       

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