Neetel Inside 文芸新都
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      (14)


 学部の授業を終え、次の講義のためにキャンパスを移動している最中だった。「柿田」と声をかけられ振り返って見ると、リクルートスーツに身を包んだ石島が立っていた。就職活動がはじまっていることは聞いていたが、視覚的に実感するのははじめてだった。
「馬子にも衣装ってやつか」柿田は笑って言った。「今から説明会か?」
「ああ、月島食品だぜ。やっぱ大手は狙わなくちゃな」
「おまえがそれに値する器かどうかは謎だけどな」
「うるせ。大学名でカバーすりゃいいんだよ、そんなもん」
 それから軽く雑談し、石島と別れた。体育会系のクラブに入ったからだろう、一年のころと比べるとたくましくなった背中を眺めながら、柿田は時の流れの確かさを感じていた。
 大学三年生の一月も、下旬にさしかかっていた――同級生はあわただしく動き回り、社会の入り口に立つ準備を余儀なくされていた。さきほどの石島がその典型例だ。一方の柿田はといえば、公務員試験への勉強を昨年からつづけている。模試の結果も上々で、慢心をせずに対策に励めば、高校受験のときのようなヘマでもしないかぎり、合格の目処(めど)はついていた。夢の実現に、着実に近づいているのを感じていた。
 浅岡美月は無事に第一志望の短大に入学し、今年の春に卒業するみたいだった。家庭教師と生徒という関係が解消してからもメールのやりとりはしていたが、ふたりのあいだは進展も後退もしなかった。たまに美月に誘われて会う、といった程度だ。
 最後の講義を終えてから、柿田は図書館にむかった。むろん、公務員試験の勉強のためだ。自室でもできないことはなかったが、ひとつ大きな障害があった。弟の春斗である。生意気盛りな年ごろの彼は、兄の邪魔をするのがブームらしく、頭をたたくくらいしか撃退法はなかった。両親が強く注意しないから、なおのことである。
「ただいま」
 帰宅すると、夜の九時半をすぎていた。リビングに明かりはついていない。父は出張で関東のほうにいってるし、春斗はもう寝たのだろう。母は入浴中みたいだった。シャワーの音が洗面所からもれてきている。柿田は手を洗おうとそこに入った。
 ハンドソープをたっぷり手に延ばし、勢いよく洗い流す――すると、ふと洗面台の隅のほうにリングが置いてあるのが見えた。母の結婚指輪だ。思えば、几帳面なのか習慣になってしまったのか、彼女は洗い物をするときなども外している。
 なんとなしに、柿田は手にとって観察してみた。プラチナのリングを通して世界を見ると、生まれる前の、自分の知らない両親を覗き見しているみたいな気分になる。すると、その内側にならんでいる文字が目に入って――
「えっ?」
 と、こぼした。
『HからYへ』というのはわかる。父の名は広行(ひろゆき)で、母は洋子(ようこ)だ。
 問題は、そのとなりに刻み込まれている年月日が、一九七九年六月七日としか読めないことだった――母が以前、結婚したのは一九八四年だと言っていたのを思い出す。ふたつの情報はまったく一致していないが、現物にそう彫られている以上、指輪のほうが正しいことは疑いようがない。では、母が記憶違いでもしていたのだろうか、とも考えてみたが、そんな大切な思い出をぼやけさせてしまう人とは思えなかった。
 となると、母が嘘をついていると考えるのが自然だった。だが、なぜ偽ることを選択したのかはわからなかったし、その場で問いただすこともできなかった。
 確かな記録の七九年と、自分が生まれる前年の八四年の周辺――その空白の時間になにがあったのか? 懐疑しはじめた心が小さく波打つのを、柿田は感じた。
 とはいえ、日々の生活を営むうちに、しだいに疑念は胸の下層に埋まっていった。ふと思い出すことがあっても、裏表のない母の顔を見ると、話を切り出すことができなかった。


 浅岡美月からメールが届いたのは、それから一ヵ月後の二月下旬だった。
 駅前の映画館でロードショーがはじまった、「絶対に泣ける」という触れ込みのラブストーリーが見たくてたまらないのだが、カップル以外は入場するべきではないという暗黙の了解ができあがっている現状をネットで把握したので、第二のチケットとして柿田についてきてもらいたいという文面を、婉曲な表現を執拗に駆使しながら伝えてきた。
(さすがにここまでくると、直接言うより露骨だよなあ……)
 気長にもほどがある。美月の気持ちにそろそろ回答しなくてはならないのかもしれない。柿田が誘いを受けると、間髪入れずに日時を指定する返事が返ってきた。彼女が携帯の前に張り込んでいる光景が、簡単にイメージできた。
 翌週の日曜日に、柿田は駅前のモニュメントの前にいった。よく待ち合わせに使われる場所だ。十分ほど待つと、美月がブーツを鳴らして小走りでやってきた。ショート丈のコートの上にマフラーを巻いている。スカートが可愛らしく揺れていた。
「ごめんっ、待たせちゃった?」
「いや、今きたところだ」
「えへへ……なんか天ぷらな会話だね」
「それをいうならテンプレだろ」
 まるでカップルみたい、と呟かれた言葉を聞かなかったことにして、柿田は歩き出した。
 映画館の中は、なるほど確かに恋人の聖地みたいになっていた。もう観なくていいんじゃないかと思うほどの、ネタバレ全開のきめ細やかなあらすじを熱心に語る美月を横に座らせて、上映がはじまる。終盤には、暗がりの中からすすり泣きが聞こえてきたが、柿田としては共感できる部分は皆無に等しかった。映画のような劇的な展開など、この世にはない。それまでの自身しか未来の自分をつくっていくことはできない。現実主義的に、そう思っていた。
 映画館を出て駅前を歩いていると、「あっ」と美月が前方を指さして言った。「ねえねえ、あそこで献血の募集しているよ? ちょっといってみない?」
「献血か……やったことないな」
「もしかして、血を抜かれるのがこわいの?」美月はにやにやと笑う。
「そんなわけあるか」ちょっとムキになって答えた。
「だったらいこうよ。昨今はですね、おやつがもらえたりするのですよ」
 結局、美月に押されるかたちで雑居ビルの三階の献血ルームに入った。血液型別にブースが分かれているみたいだ。美月はO型、柿田はA型のブースにむかった。提供の最中は、針を抜く以外はなんでもできて、彼は備えつきの漫画を読みながら時間が経つのを待った。
 そして、美月とともに献血ルームを去ろうとしたときだった――「柿田さん、柿田さん」と声をかけられた。振り返ると、スタッフのひとりが近づいてきていた。
「はい、なんですか?」
「困りますよ。申告された血液型、検出したものと違っていましたよ」
「――えっ?」
 思わず大きな声が出てしまう。スタッフはうるさそうな顔をしてから、一枚の紙をさし出してきた。受けとって凝視すると、検査結果には「B型Rh+」と記されていた。
「次からは気をつけてくださいね」
 スタッフはそう残して、奥のほうに消えていく。柿田は紙を見つめたまま動けなかった。「どうしたの? 先生」と美月が心配そうに聞いてくるが、耳に入ってこない。
 ――そんなはずはない。
「淳一はA型だから、しっかりした子に育つわね」と母に言われて以来、ずっとそう信じて生きてきた。周囲にはA型だと公言してはばからなかった。しかし、現代の医療機器による正確な検査結果をつきつけられた今、その認識が見る間に瓦解していくのを感じた。
 これまでの勉強で得た膨大な知識の中から、適切なものが浮き上がってくる。中学生のときに理科で習ったメンデルの法則が、当時の教師の声をともなって再生される。
『ええ、だから、ちゃんと遺伝には法則があるんですね。家に帰ったら、お父さんとお母さんの血液型を聞いてみなさい。きみたちの血液型とちゃんと関係しているよ――』
 ――両親は、A型とO型だ。
 そのふたつからは、なにをどうあがいてもB型は生まれない。
 もちろん、両親のほうが血液型を間違えている可能性もなくはない。しかし、柿田の中では直感的に結婚指輪の謎と今回のことが繋がった。彼は小さく言った。
「……美月」
「な、なに?」
「悪い。今日はもう終わりだ」
 柿田は駆け出した。


 私鉄で最寄の駅までいき、柿田は自宅にむかって走った。しかし、ろくに運動をしてこなかったせいですぐに息が上がる。情けなくてたまらなかった。
 真っ白な小さな家に帰ってくる。「ただいま」は言わなかった。言えなかった。春斗と父の靴は見当たらない。どうやらふたりで出かけているみたいだ。
 リビングに入ると、母が台所で食器を洗っていた。とても、とても小さな背中だった。
「淳一? おかえりなさい」柿田に気づいた彼女は、手を拭きながら聞いてくる。「美月ちゃんとのデートはどうだったの? うまくいった?」
「ああ」軽く笑んだままつづける。「そういえば、アルバムってどこにあるっけ?」
「納戸の奥にあるけど」
「ありがとう」
 柿田はすぐさま反転し、迷いなく階段を上って納戸にむかう。言われた場所に薄茶色のアルバムがあった。それを引き出すと同時に、下から声がした。
「淳一っ!」
 柿田の様子と質問から意図を察したのだろう。母が悲鳴のような声を上げて、駆け上がってくる。見たことのない悲愴な表情を浮かべた彼女は、柿田の手からアルバムを奪いとると胸に抱き込んで背をむけた。どうしても見せたくないらしい。
「それをかしてくれよ」
「いやっ、やめて……っ。淳一、部屋にもどってっ」
「ただのアルバムだろうが」母の肩を強引に開かせて、アルバムに手をかける。
「淳一ぃ……やめてえ、やめてえ……! おねがいだからあ!」
「もう手遅れなんだよっ」
 ついにアルバムを奪い返した。母は弾き飛ばされてタンスにぶつかる。「い、たあ……」と肩を押さえる彼女を無視して、柿田は分厚いページを開いた。
 自分の写真がならぶ。幼稚園のお遊戯会、小学校の運動会、中学校の文化祭などなど、枚数は少なくはない。むしろ多いほうかもしれない――だが、決定的に欠落しているものがあった。生まれたばかりの赤ん坊のころの柿田淳一だ。
 次に一気にページを飛び越えると、春斗がいっぱいに現れる。生まれて間もない、子猿みたいにつぶれた顔の弟が何十枚も収められている。ここまで子どもを愛している親が、ことさら記念すべき第一子の写真を一枚も残さないというのは、はたしてありえるのだろうか?
 答えは――否。残さなかったのではなく、残せなかったのだ。
「母さん」柿田は言った。「俺は、あんたらの子じゃないんだろう?」
「そんなっ、そんなことないっ」目を赤くしながら母は叫んだ。
「わかってるんだ」
 柿田は指輪のことと、献血ルームでの出来事を話した。母の顔は歪んでいった。
「教えろよ。本当のことを……」
 母はしゃっくりを上げながら俯いていた。まるで抜け殻みたいだったが、しばらくすると訥々と話しはじめた。要領をえなかったが、柿田は自らの推理を台本に聞くことができた。
 父と母が結婚したのは、一九七九年のことだった。母は若く、円満な家庭がつくれるものと未来を信じて疑わなかった。しかし、一年ほどして彼女は異常を感じるようになる。
 待てども待てども――率直に言えば、どれほど父と濃密な性交をしようとも、妊娠の兆候が表れなかったのである。排卵日にもたくさんしたはずなのに、不発だった。
 彼女は父を連れて、産婦人科にいった。不安は的中した。
 不妊症――子どもを産めないからだだったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。広行さん、ごめんなさい」
 母は泣いて謝った。実家のほうと、父の両親にも残酷な報告をした。「大丈夫だよ」だとか「まだ産めないと完全に決まったわけじゃない」と励ましの言葉を受けとったが、その声には母に対する隠しきれない失意がにじんでいるように思えた。
 自身に絶望しきった彼女は、一二週間ほど放心状態に陥り、ソファに座って窓の外ばかり眺めていた。そんな状態で家事をさせては怪我をするため、父は家庭内外のことをすべて受け持った。テレビは見なかった。どのチャンネルにも子どもが出るからだ。
 そして、ある日のことだった――父が取引先から会社にもどってくると、上司から「きみの奥さんが警察に逮捕されたらしいぞ」と言われた。即刻早退し、現場近くの交番まで急いで駆けつけると、うなだれた母と疲れた顔の警官がむかい合っていた。
「洋子が……妻がなにかしたんですか?」
「落としたんですよ」警官があきれた声で言った。
「えっ?」
「他人の赤ちゃんを」
 警官と母の話を統合してみると、事実関係はこうだった――母は冷蔵庫になにもないことに気づき、ふらふらと買い物に出かけた。徘徊に近かったかもしれない。すると、その道中で赤ん坊を抱いた母親を見かけたので声をかけた。「かわいいですね、少し抱かせてください」――「いいですよ」というふうな会話だったという。母は、最初こそは目を細めて抱いていたが、いきなり表情を失ったかと思うと、無造作に手を離してアスファルトに赤ん坊を墜落させたらしい。
「幸い赤ちゃんに怪我はなかったんですけどね。親御さんがうるさくて」
「はあ、すみませんでした。よく言って聞かせます。それで、その人の連絡先は……」
 その後、父は相応の手続きを踏み、事態を収束させた。母に動機は聞かなかった。彼女をさらに追いつめることは火を見るより明らかだったし、その心情も痛いほど理解できていた。とはいっても、このまま放置しておくのもふたりの将来にとって危険すぎた。
 彼は言った。「洋子。あきらめるのはまだ早いよ」
「なんのこと……?」
「きみは子どもがほしいんだろ?」
 母はこくりと頷いた。父はその華奢なからだを抱きしめた。
「だったら、めげずに挑戦しよう。何度だって頑張ってみよう。思いは一緒なんだから、きっと実を結ぶはずさ。僕も、僕も……ほしいんだよ……洋子の子どもが」
 父は泣いていた。その背中に、そっと小さな手のひらが添えられた。
 それからふたりは不妊治療に臨むことになった。とはいえ、そのころにはすでに町内ネットワーク全体に柿田洋子の噂は広まっており、ゴミ出しや買い物の際に母が主婦たちから攻撃を受けはじめていることはわかっていたので、父は転職をして住まいも移した。
 その際に購入した、小さいながらも子ども部屋を確保できる一軒家は、ふたりのわずかに残された希望の象徴か、あるいは一種の誓いのようなものだったのかもしれない。
 しかし、不妊治療は困難を極めた。医師の言うがままなすがままに、薬剤を投与したり手術を受けたりしたが、いっこうに効果は表れなかった。欠片ほども進展の実感をつかむことができない虚無感と、茫漠と広がる未来に対する不安感が、徐々にふたりの心身を磨耗させていった。もがきつづけるだけの五年間は、泥水のように流れていった。
 父も母も、けっして強い人間ではなかった。むしろ、四散しようとする心を互いに必死に繋ぎとめるのが精一杯の、弱いふつうの人間だった。だから、一九八六年の出来事が転機になることは、なかば必然的な流れの上にあったのかもしれない。
 同年の秋に、国営放送でとある番組が放送された。日本の孤児施設の窮状を訴えるものだった。その中でとり上げられた施設が近郊にあることを知った母は、休日に父の運転でそこまで出むくことにした。走行中、ふたりはなにも言わなかった。ただ、漠然とした意志の結晶ができあがりつつあるのを感じていた。
 施設には様々な年齢の、一様な瞳の子どもたちがいた。ふたりは彼らの視線を受けながら、事情を飲み込んでくれた職員に案内されてある部屋に入った。施設内の子が書いたのだろう、イチゴやメロンなどの各々の好きな果物のクレヨン絵が壁一面に貼られていた。
 そしてそこに――男の子がいた。一才半ほどだろうか、自分の境遇などまるで理解していないあどけない表情で、陽だまりの中に座っていた。
「広行さん」母はなにかに打たれたかのように言った。「私、この子を大切にしたい」
 父は少し息を呑んだ。「いいのか? あまり急がなくても……」
「いいの……私はこの子を育てたい。ずっと守ってあげたい」
 母はそう言って、男の子を抱き上げた。すると、すぐにきゃっきゃっと笑う。確かな温もりの感触と体重が腕を伝って胸に響いた。彼女は男の子を抱いたまま、その場で泣き崩れた。
 結果として、柿田夫妻は男の子を引きとった。妥協だとは思いたくなかった。自分たちを悪夢の底にたたき落とした無慈悲な神の、新たなる導きだと考えるようにした。
 男の子には淳一という名をつけた。母が考えた名前だった。
 その後の生活はおぼろげながらも柿田の記憶にあるとおりだったが、両親は随所随所で真実を悟られないように努めてきたみたいだった。血液型はもちろんこと、結婚した年についても出生に関して違和感を抱かれないように嘘をついた――けれど、それが仇となったのだ。

       

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