Neetel Inside 文芸新都
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      (17)


 柿田の超短期的家出から二日後の夜のことだった。
「お風呂に入りたいです」
 保奈美がもじもじしながら言った。しきりに腕だったり髪の毛だったりを気にしている様子だ。可愛らしい鼻を動かして、眉根を寄せる。
「なんだよ、いきなり」柿田は視線を寄越した。
「いきなりじゃないです。どのくらい入ってないと思ってるんですか? ほら、嗅いでみてくださいよ。絶対くさいですよ……」
 言われて、彼女の黒髪をすくいとって鼻先を埋める。確かに、人間である以上は生命ゆえのにおいというのがあるかもしれないが、どちらかというと甘い果実のような香りがした。美月とはまた違った、幼さの残る少女の芳香だ。
「問題ねえな。第一、風呂なんざ贅沢だぜ」
「必要な出費は贅沢って言わないんですよ」
 引っかかる言葉を耳に留める。「出費だと? てめえまさか」
 一度頷いてから、保奈美は言った。
「銭湯にいきましょう、柿田さん」
「おいおいおい。いくらなんでも誘拐犯に言うセリフじゃねえだろ」
「? どうしてですか?」
「人質外に出してどうすんだよ」
「私、別に逃げませんよ。ほら、この前だって」
 そうだった、と柿田は舌を弾いた。この少女は、自分が心配だからという理由で、脱走する絶好のチャンスを惜しげもなくふいにしてしまったのだ。そこには純粋な思いしかなく、そして今も、無垢な表情の裏にはなにも隠されていないのだろう。
「んなこと言ってもな」難しい顔をつくり、煙草を燻らす。「てめえはいいかもしれねえが、こっちにしてみれば一般人に目撃されるリスクは無視しきれねえんだわ」
「そこはたぶん問題ないと思います」
「あん? えらく自信あるじゃねえか」
「実証済みですもん。ね? 甘夏さん」
 保奈美が小首を傾げて見たほうで、甘夏はゆっくりと頷いた。
「確かにちょうど同じ時間帯だが……人なんてまったく会わなかったな」
 実際そのとおりで、街路灯のまばらなこの区域は夜間の人通りなどほとんどない。それはこの町で生活してきた柿田自身がよくわかっていることでもあった。
 保奈美に倣い、腕のにおいを嗅いでみる。生ゴミほどではないが、さすがに浮浪者じみた異臭がまとわりついている。髪も脂っぽい指通りだ。端的に言って、気持ち悪い。
「柿田さんだってやっぱり気にしてるんじゃないですか。いきましょうよ、銭湯」
「彼女の言うとおりかもしれない。たまには悪くないと思うぞ。不快な状態のままだと精神的に支障が出る。計画もうまくいかない可能性がある」
 甘夏は保奈美の味方のようだ。
「てめえら、いつもグルになりやがって……」
 柿田は唸りつつも、今回の外出における利益と危険を脳内の天秤にかける。結果は、僅差で入浴する利益のほうが勝った。正直なところ、溜まった垢を綺麗さっぱり洗い落としたいという個人的願望が力添えを行ったことは、否定できない部分があったが。
「しかたがねえな。あんま長湯はできねえけど、文句ぬかすなよ?」
 喜色満面で保奈美は頷いた。「はいっ。大丈夫です」
「オーライ。じゃあ俺についてきやがれ」
 柿田たちは注意を払いながら、隠密のように外に出た。こっそりと土手を這い上がり左右を見るが、人の姿はなく、夜道は静まり返っている。ひとまずは安心と言ったところか。
「よさそうだな」歩きながら柿田は煙草をくわえた。「てめえら、いくぞ」
「ポイ捨てはやめてくださいね」
「あん? なんだよ――」そう言って、思い出す。保奈美とはじめて言葉を交わした夕暮れ時にこの土手で同じような会話をした。あそこからすべてがはじまり、ずいぶんと長い時間がすぎたように感じるけれど、きっとこの町にも自分たちにもたいした変化はないのだろう。そう思いつつ、柿田は煙草を箱にもどした。「――いい子ぶるのもいい加減にしろよな」
 しばらく歩くと、こじんまりとした銭湯に到着した。『吉の湯』という看板の左右で、男湯と女湯の戸が分けられている。昔ながらという感じの佇まいだ。
 柿田は、鼻歌を歌いながら女湯に入っていこうとする保奈美を呼び止めた。
「おい、なに当たり前みたいにそっちいこうとしてんだ」
 きょとんとして彼女は言う。「え、だってこっちが女湯で……」
「ふざけんな。てめえは俺たちと一緒にこっちに入るんだよ」
 青い暖簾を指さすと、保奈美の表情が引き気味になった。
「え……柿田さんってそういう趣味が……」
「バーロー。見張りに決まってんだろ。分けて入ってるあいだにトンズラされちゃたまんねえからな」溜息を吐いてつづける。「あと、ガキのはんぺんみてえな裸で勃つかってんだ」
「そんな! でも、店の人が許さないですよっ」
「ここの番頭はモーロクジジイだ。煙突の煙と一緒に天に召されていくのをたびたび目撃されてる。男か女かなんて見えてねえし、犬が入ってきても客だと思うだろうよ」
「ほかのお客さんとかいるかもしれないし……」
「前にきたことあるが、二時間入ってもワンマンライブ状態だったぜ。てめえの言う実証済みってやつだな」ニヤリと笑って保奈美を見る。
「ううう……」彼女はふと甘夏に視線を移し、ぱっと輝かしい顔になって言った。「あっ、甘夏さんはどう思いますか? こんなの非常識ですよねっ?」
「ちっ」
 ジジイに逃げやがったか、と甘夏を見る。彼は九割九分九厘の確率で保奈美に肩入れするから、反論されるのは必須だ――と思っていたのだが。
「ふむ。別に私は若造の言うとおりでいいと思うぞ」
「ですよね柿田さんの言うとおりで……って、えええっ!?」
 思いもよらない返答に保奈美はもちろんのこと、柿田も少々面食らう。とはいえ、障害が消え去ったことは素直に喜ぶべきだろう。放心状態の保奈美の手を引いた。
「決定だな。ほれいくぞ、ガキ」
 予想どおり、番頭は難なくパスできて、脱衣所の籠はひとつも使用されていなかった。シャツを脱ぎ落とした柿田は、保奈美がやけにゆっくりとカーディガンのボタンを外しているのに気がついた。「のろのろすんな。はやく入るぞ」
「こ、こっち見ないでくださいよ……」ためらいがちに言う。
「まだそんなこと言ってんのか。見ねえからさっさとこいや」
 浴場には湯気が立ち込めていた。壁面に描かれた富士山が雰囲気抜群だ。三人は適当な鏡の前に陣取り、とにかくからだの汚れを落とす作業からはじめる。勢いよく泡を流し終えた柿田は、となりがやけに静かなことに気がついた。
「おい、ガキ。なにちまちまやってんだよ。そんなんじゃ終わらねえぞ」
「そんなこと言ったって……」
 保奈美は極限にまでからだを縮めて、細々とボディソープを玉の肌に滑らせていた。赤らめた頬を見るかぎりやはり年相応の意識があるのだろうが、柿田のとってはそんなことは関係なかった。横からシャワーを盛大に浴びせてやる。
「わわっ、なにするんですかっ」逃げていく泡を追うように手を動かす。
「からだは終了だな。次は髪だろ。ほれ、はやく洗え」
 こんどは頭にシャワーヘッドをむける。保奈美は、「もうっ、柿田さんは強引すぎます……」と愚痴りながらもシャンプーを手のひらに伸ばして洗いはじめた。しばらくすると、泡立てすぎて視界を遮られてしまったらしく、手をうろうろと動かし出した。
「なにやってんだよ。ガキじゃあるめえし」
「ガ、ガキって柿田さんは呼んでるじゃないですか」
「まあそれもそうだな。しかたねえ。じっとしてろ」
「なな、なにするんですか?」
「続きをしてやるってんだよ。てめえの髪は長いからな、もっと丹念に洗わねえと」
「あ……頭だけ見てくださいよ」という言葉に生返事を返して、柿田は保奈美の黒髪に五指を入れる。クセがまったくなく、まるで潤いの中を自然に感覚が下っていくようだった。もし自分が美容師だったなら、金を払ってでも扱いたいぐらいかもしれない。
「なんだか思い出しちゃいます」どこかほぐれた声で、保奈美は言った。「前はお母さんと一緒にお風呂に入っていて、よくこうやって髪を洗ってもらってました」
 柿田は少し考えてから返した。「……やっぱり家に帰りてえんじゃねえのか?」
「どうでしょう。私にもよくわかりません。お母さんやお父さんの顔が見たいっていう気持ちもあると思いますけど、きっと居場所はないですから……」
「じゃあ、どこにあると思ってんだ」
「それは……」
「どこにもないとか考えてるわけじゃねえのか」
 かすかに自問するようになっているのを、柿田は感じた。経緯は違えど、家庭という大多数の人間にとっての安らぎの地を喪失している点で、やはり共鳴するものがあった。最近ではそれを否定する感情もなくなってきていることもまた、理解していた。
「いえ、居場所がないなんてことは絶対にないと、信じていたいです」
 信じていたい――か。
 どうしてか胸がうずいた。まだそんな痛みを感じられるほどの息が心にあったことに驚きつつも、柿田は言った。「たとえば、そいつはどこにあるんだろうな」
「今は、私にとって瑠南ちゃんはとっても大きな存在です。大好きな友だちです。彼女のそばにいられればいいなって思いますし、それに……」
 ちらりと柿田のほうをむく気配があった。
「もしかして、あの汚ねえ事務所も居場所だと思ってんのか?」
「……いけませんか」保奈美はせつなげに唇を動かす。
「絶対っていう判断基準はねえとは思うけど、正解不正解がないってわけでもねえよな」
 それは――もしかしたら、自分に対しての言葉かもしれなかった。
 ちょうど洗髪に区切りがついたので、柿田は丁寧にシャンプーを落としはじめる。保奈美は黙りこくっていた。どこか重たい空気が漂いかけている気がして、ふと柿田は言った。特に、眼下に広がる小学五年生女子の全国平均よりもいささか控えめらしい起伏を見つつ。
「まあ、じきに成長するから心配するなよ」
「可及的速やかに死んでください」
「ええっ」
 歴史上、類を見ないトーンの低さだった。意外と気にしているらしい。
「どうせ私にはブラなんて一生必要ないですよ」
「そ、そこまでは言ってねえよ。つか、冗談に決まってんだろ。とにかく、その背中から噴出してる犬夜叉の奈落が生む瘴気みたいな黒いオーラをおさめやがれ」
 そう残して、逃げるように湯に入る。一方の保奈美はゆっくりと立ち上がり、別のぬるめに設定された湯船に首まで浸からせた。湯が黒く汚染されていっているのは、目の錯覚であると思いたい。
 と――となりに甘夏が入ってきた。
「まったくきさまは、なにをやっているんだ」
 あきれ気味に言われる。柿田はむっとしつつ、頬を歪めて返した。
「エロジジイに言われる筋合いはねえな」
「どういうことだ?」
「あんだけガキのサイドについてたてめえが、一緒に風呂に入るとなると文句ひとつ垂れねえんだぜ? 正直に白状しろよ。ガキの裸が見たかったんだろ?」
 甘夏は動じた様子もなく、ふっと笑った。「目的が違うな」
「あん? そりゃどういう」
「きさまには関係のないことだ。安心しろ。計画の邪魔はしないさ」
 彼の、なにか自分とは異なるものを見ているみたいな眼差しが引っかかった。
「はあ? なに遠くから言ってんだよ。てめえは共犯者だろうが」
「だからこそだ」甘夏ははぐらかすように言うと、立ち上がりながらつづけた。「私はもうそろそろ出る。老体に長風呂は意外とくるからな。そっちは適当に切り上げてきてくれ」
「わかった」
 甘夏が曇りガラスのむこうに消えるのを見送ってから、柿田は考えた――今さらながらに、彼の素性の知れなさが気にかかりはじめていた。しかし、ただ自分と同じように誘拐を目論んでいたということ以外は有意のピースとして数えられるものはなく、すぐに思惟を諦めて、十分ほど半身浴を堪能したのちに脱衣所にむかった。


 銭湯からの帰り道は、秋の涼気に包まれている。
 土手を歩きながら、柿田は今後のことについて思案した――そろそろ身代金の請求を果たさなければならない。それはつまり、誘拐事件に終止符を打つことを意味する。軍資金は底が見えてきた気配があるし、機は熟していると言っていいだろう。
 甘夏の登場、保奈美の告白、瑠南と雄大の参入と、色々とハプニングが起きすぎて当初の計画からあまりに踏み外した結果、要らぬことを考えてしまったきらいがあるけれど、それでも最終的な目的は忘れていなかった。それ以外のなにかは前にも後ろにもないはずだ。
(あいつらともオサラバできるわけだ)
 前方に視線を伸ばす。十数メートル先を、甘夏と保奈美がならんで歩いている。保奈美は機嫌を直しつつあるらしく、ふたりは柔らかい表情を見せ合っている。その姿を眺めながら、ふいにとある印象が浮かんでくるのを柿田は感じた。
 ――あのふたりは、まるで――
 と。
 暗がりのむこうから、白い自転車をひいた人影がやってくるのが見えた。人と遭うこと自体いただけないのに、それ以上に嫌な予感が全身を駆け抜けた。そして、こんなときだけ高性能で働く第六感を心底呪いたいと柿田は思った。
 警邏中の警官だった。
 彼は、すれ違おうとする甘夏と保奈美を凝視していた。まずい、と思う。当然といえば当然のことであるが、事件はいまだ公になっていなくても、付近の交番勤務者には梨元保奈美の情報は顔写真つきで伝わっているはずなのだ。
 なんとかふたりから意識をそらさせ、その間に逃がさなければならない。柿田は自発的に職務質問のターゲットになることを決めた。これまでも呼び止められた経験は豊富にあったので、自信は持っていた。上半身裸になり、ボトムスも半脱ぎの状態にして、とりあえずダイナミックに三点倒立を披露してみる。
 だが、警官は柿田に見むきもしなかった。スタンドを立て、甘夏たちに声をかける。
「ちょっと待ちなさい!」
「なんだ?」甘夏が凄みのある声で振り返る。
「その女の子、梨元保奈美ちゃんだろう?」そう聞くと、保奈美が甘夏の陰から怯えた顔をのぞかせる。それを見て警官は確信したみたいだった。「やっぱりそうだな! おまえが卑劣な誘拐犯か! おとなしくその子を離しなさい!」
 甘夏と警官は取っ組み合いを開始した。
「なにくそ!」
「甘夏さんっ」保奈美の悲鳴が響く。
 くんずほぐれつの互角の闘いだ。とはいえ、この状態でただ観戦していて許されるわけがなかった。加勢は急務だ。柿田は服を正すと、一呼吸置いてから、雄叫びを上げてふたりのところへと一直線にダッシュした。
「うおおおおおおおおおおおおおあああああああああああっ!」
「抵抗するな――って、なに?」
 気づいたときには遅きに失した。
「積年の恨みだクソ野郎おおおおおおおおおおおおおおおっ!」
 飛ぶ。
 柿田は、渾身のドロップキックを警官の横腹に突き刺した――彼は自転車を巻き込みながら土手を転げ落ちていき、最後に茂みに埋まった。
 起き上がって甘夏たちにむき直る。
「あんだけ落ちたらしばらくは再起不能ははずだ! 今のうちにずらかるぞてめえら!」
「はっ、はいっ」
 三人は全速力で走った。捜査の落とし穴にはまってしまったことを悔やんでいる暇などなかった。とにかく廃工場をめざして足を動かすことしか考えなかった。
 ――その他方で、警官は茂みの中から這い出ると、最後の力を振り絞って無線機を口に当てて言い放った。「応答願います! 梨元保奈美誘拐事件の被害者および容疑者二名と接触! 容疑者二名と接触! しかし、取り逃がしました!」


 柿田は事務所のドアを押し開いて、ソファになだれ込んだ。遅れて保奈美が、甘夏が入ってくる。全員が限界まで息をきらしていた。たいした距離ではなかったかもしれないが、喫煙者と子どもと老人には少々こたえる運動量だった。汗もかなりかいてしまって、銭湯にいった意味をもはや半分ほど失ってしまっている。
「やっべえ……とんでもねえことに、なっちまった……」
 柿田は煙草に火をつける。しかしあわてる肺と吸引が連動せずに咳き込む。
「で、でも……柿田さん、とってもかっこよかったですっ。なんだか本物のプロレスラーさんを見ているみたいでした」保奈美が笑顔を見せてくる。
「だろ? あんな見事に決まるとは思ってなかったけどな!」
 柿田も声を上げて笑った。同時に、こんなふうに笑えたのはいつかたぶりだろうと思った。状況的には確実に悪化したはずなのに、不思議な爽快感があった。
「ジジイも老いぼれのくせによくやったじゃねえか。勲賞モンだぜ?」
 甘夏のほうをむくと、彼は震えるように笑った。
 その――次の瞬間だった。
 呻き声をもらして、冷たい床に老人は崩れ落ちた。

       

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Neetsha