Neetel Inside 文芸新都
表紙

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      (19)


 甘夏の心臓はどうにか夜を越すことに成功した。だが、次の夜はわからない。
 日中、保奈美が彼に寄り添って寝息を立てる中、柿田は今後の作戦について考えたが、瑠南たちがやってくる時間になってもまとまらなかった。
「やっほー。今日もやってきたよ」
 元気よく入ってくる彼女を、柿田は諌める。
「おい、ちったあ黙ってこれねえのか」
「あ、ごめん」保奈美が寝ているのを見て、声をひそめる。
「そっちじゃねえ。……ジジイのほうだ」
「甘夏さん?」瑠南は深く眠っている甘夏の顔色から、すぐになにかあったことを察したらしい。真剣な眼差しで振り返って言った。「どうしたの」
 柿田は、銭湯に出かけたところから現在までの経過を説明した。甘夏が実は保奈美の祖父だったことも含めて。雄大は保奈美と同様に寝耳に水だったみたいだが、瑠南のほうはといえば、意外なほど冷静に事実を受けとめていた。
「あんまし驚かねえのな」柿田は言った。
「まあね……薄々気づいていたっていうか、そんな気はしてたんだ。なんかこのおじいさんはあんたとは違うなって。単純に身代金がほしいわけじゃないんじゃないかなって」
「なに考えてんのかわかんなかったもんな」
「そういう曖昧で消極的な推理じゃないよ。みんな気づかなかったみたいだけど……甘夏さん、ホナちゃんを見るときにとっても優しい目をしてたから」
 まったく気にもしなかったことを言われ、柿田は少し目を伏せる。すると、横で話を聞いていた雄大がだしぬけに口を開いた。「で? どうするんだよ」
「あ? どうするって」
「このままぼんやりしてていいわけじゃないんだろ? おれ、病気とか全然わかんないけど病院につれていったほうがいいんじゃねえの」
「そんなことわかってる。でも」柿田は苦渋を表情ににじませた。「そうすると、なにもかもが終わっちまう。救急車にしろ俺たちで病院に運んでいくにしろ、どうやっても足がつく。もう一度ポリ公にツラが割れてるんだ。うまく捜査網をすり抜けられる気がしねえ」
 つまり――それは二律背反(ジレンマ)だった。
 甘夏の命を助けるという選択は、同時に代償としてこの誘拐を失敗に終わらせる。保奈美は真の意味での救いを得ることができぬまま、また自分や当の甘夏も警察に逮捕されるだろう。反対に保身に回れば、身代金を奪い逃走することを第一に考えれば、自然、甘夏を慮っている余裕などない。彼を見捨て、このまま死んでいくのを観察する結果となる。どちらにせよなにかを失う。天秤は左右に揺れながら、ふるい落とすものを今か今かと待っているのだ。
 体重ではない、人間の重み。それに今、柿田は押しつぶされそうになっていた。
(俺に選ぶことができるのか……? こんな俺に……)
「私はなにも口出ししないよ」柿田の葛藤を読みとって、瑠南は静かに言った。「本音を言うとね、甘夏さん……ホナちゃんのおじいちゃんを助けてあげたいとは思うんだけどね。でも決めるのはきっとあんただと思う。あんたしか決められないんだと思う」
「……俺はバカだぜ。今だって、全然頭が回らねえんだ」
「勉強できるじゃん」
「別モンだ。昔は一緒だって勘違いしてたけどよ」
「だったらそっちのほうがいいじゃないの?」
「は?」
「変に小賢しいこと考えなくて済むから。あんたがあんたのままで動けるから」
 バカで最高じゃん。そう笑う瑠南から視線を外して、柿田は窓の外を見た。
 遠くの山際のあたりが薄紫色に光を残しているだけで、空のほとんどが闇に沈んでいた。目を凝らせば星が見えるほどかもしれない。今日という日が、早くも終わりを迎えようとしている――その前に行動を起こさなければ、本当にすべてが手遅れになるような気がした。
「バカで最高、ね。部外者(てめえ)は黙ってろよ」柿田はおもむろにポケットから携帯電話をとり出して、キーに指を這わせた。「被害者(ガキ)や共犯者(ジジイ)が中心みてえに話が進んでいくのも気に食わねえ。決めるのは俺だ。俺が主犯(ヒーロー)だ」
 TELボタンに力を込める。


 蒲郡たち捜査班サイドにとって、先日の朗報は砂漠で水を得たようなものだった。
 警邏中の巡査のひとりが、梨元保奈美を連れ回していた二人組の男と接触したというのだ。その場でとり押さえることができなかったのは確かに恥じ入るべき点だが、手がかりがつかめずに堆積する一方だった焦燥感を幾分か和らげられたことのほうが大きかった。捜査員のモチベーションは確実に持ち直しつつある。
(とはいったもののな……)
 蒲郡はソファに腰を下ろしている佐恵子を一瞥した。彼女は、捜査が前進したことを告げても以前みたいに表情を変えなくなっていた。小さく頷いて「お願いします」と頭を下げるだけで、心をどこかに放り投げてしまったみたいだ。やはり、過日の夫との事件が精神に深手を負わせているのだろうと思った。内憂外患とはまさに現在の彼女の状態を指すのかもしれない。
「大丈夫ですかね、佐恵子さん」吉見が耳打ちしてくる。「かなりきてますよ」
「しようがないな」
「あの、ちょっと冷たくないですか? 慰めぐらい」
「俺たちの仕事か? そういう同情は」蒲郡は先輩の目になって吉見を見すえた。「誰も望んじゃいないんだ。たとえばおまえが患者だったとして、医者に同じ病気になってほしいと思うか? 同じ境遇に陥って傷の舐め合いをしたいと思うのか? 違うだろ。唯一求めることは『自分にはできない病の根治』だろう? そういうことだ。医者は積み重ねた医療技術。俺たちは国家機関としての捜査能力。つまりは弱者を救う力。必要なのはそれだけだ。それだけが本当に価値のある行動だ」
「……わかりました」吉見は神妙な面持ちで頷く。
 その後、なればと巡査から聴取した内容を確認することになった。吉見は手帳をとり出すが、蒲郡はすべて頭の中に入っていた。常に第一線で戦ってきた彼だからこそのスタイルと言える。
 容疑者のひとりは中肉中背で、髪をブリーチした若い男。もうひとりは老人という話だった。彼らは土手を徒歩で移動していたという証言から、あまりこの地域から離れていない場所をアジトにしているらしいことが窺知できる。しかし、ふたりの関係性はどうもちぐはぐな感じがして、これまでの経験からも接点は類推できず、疑問を落としていた。
 なので、今日はこれから巡査に赴いてもらい、さらに深い話を聞く手はずになっていた。
「失礼します」少しして、彼はやってきた。ひとまずは既存の情報との記憶違いがないかを確かめたあと、さらに掘り起こすことにした。
「もっとこう、リアルに思い出してみてくれ。目だけじゃなくてもいい。耳とか」
「耳ですか……」困ったようにつぶやいたかと思えば、すぐに顔を上げた。「ああっ! 思い出しましたよ! 確か梨元保奈美が叫んでいました、でも……」
「どうした? 言いにくいことでもないだろう」
「それはまあ、そうなんですけど。果物の名前だったんです」
 意味がわからなかった。それでも、貴重な手がかりだと思い直した。
「彼女はなんて言ったんだ?」
「アマナツ、です」
 ――ガタン! とリビングのほうから物音が聞こえた。
 蒲郡が振りむくと、廊下に出てきた佐恵子がからだをわななかせつつも、はっきりとこちらを凝視していた。さすがに無視できない反応だ。近づき、問いかける。
「佐恵子さん。どうしたんですか、なにか心当たりがあるんですか?」
「アマナツ……そんな……」
 佐恵子は頭を抱えてしまう。知人、というよりは因縁のある相手みたいだ。詳しく聞かせてもらおうと思い、蒲郡は彼女の肩にそっと手を置いた――と。
 固定電話の着信音が響き渡った。
 すばやく蒲郡は時計を確認する。午後七時。誘拐犯が過去に接触してきた時刻と近い。人間は基本的に慣れた行動を好む。先方で間違いなさそうだ。
「犯人だ! 気を引き締めろ!」
「はいっ」吉見や他の捜査員が動き出す。
「佐恵子さん、お願いできますか。あなたの出番です」
 足元の佐恵子に言う。すると彼女は、さっきまでの無気力さが嘘のように、ばたばたと四つん這いで電話に突進した。こちらの指示も待たずに受話器をとる。
 そして叫ぶ。
「やめてよ! もうやめてよ! どうしてこんなことするの? どれだけ私を苦しめれば気が済むのよ! そんな卑怯な手を使ってまで私を虐めないでよおぅ!」
 半狂乱になっている。まずいと感じた。「佐恵子さんっ」
「謝るからあ、もう許してくださいぃ……! 虐めないで、虐めないで……」
 こんどは涙を流しはじめる。そうして生まれた無言のあいだに、むこう側で唇を開く気配があった。ちなみに、すでに蒲郡らはヘッドホンを装着し終えている。
『……残念だがよ。俺はアマナツヒロミツじゃないぜ』
 前例通り、若い男の声だ。しかし、その声音には憐れむような優しげな余韻がある。非道な犯人像とは違う。……正直、蒲郡は混乱しかけているのを否めなかった。知らない事情が裏で複雑に絡み合っている。だが、全容がまったく把握できないのだ。
『あんたの気持ちはわからないでもねえ。でもな、そいつの気持ちも結構なモンなんだ』
 佐恵子が再び声を荒げた。「わけわからないこと言わないで! いいから早くあの人に代わってちょうだい! 直接、問いたださなくちゃ……」
『……そりゃ無理な相談だな』
「突っぱねてるのね? お願いだから代わってっ」
『落ち着けよ。まずは俺の話が先だろうが』
 かすかに声に苛立ちが混じる。蒲郡の中の危険信号が薄く灯る。
「私はあの人と話がしたいの!」
『――娘がどうなってもいいのか』
「……っ」
 その言葉に正気に引き戻された佐恵子が息をつまらせた――直後だった。
 パアァン、と。
「なっ……!」
 マイクの奥で、火薬の炸裂する音が木霊した。それは、現在の状況下ではどうしても最悪の展開――つまり、誘拐犯はどういうルートか拳銃を入手していて、弾み、もしくは意図して発砲したということを想像させるものだった。おそらく、取引の前提的なカードである保奈美には命中させていないだろうとは思えるが、そうとしても危険度が一気に増したことは不動の事実だ。
「ほなみっ? 保奈美を殺さないでえっ」
 佐恵子が悲鳴を上げる。もう一度、似た破裂音が鼓膜を撃ち抜く。ひあっ、と佐恵子の全身が跳ね、その拍子に手から受話器が滑り出る。そして落下したそれが、不運にも安置枠内の通話終了ボタンを押してしまう。あわてて拾い直すがもはや遅く、回線は途切れていた。彼女のミスに起因するとはいえ、信じがたいほどの、あまりにも残酷な偶然。
 捜査員たちの中にはうなだれてしまう者もいた。そうでなくとも、大半が表情を苦悶に歪ませている。絶望の二文字が脳裏をよぎってしまっていた。
 ただひとり――蒲郡を除いて。
 彼は呟いた。
「待て」
「えっ?」吉見が見る。
「今の――なにかおかしくないか」
「おかしいって、確かに銃声が……」
「いや、おかしい」
 蒲郡は考える。警察官を生業としている以上、やはり凶悪な犯罪者と対峙しなければならないときがあるわけで、その際に最大の牽制となってくるのが、いわずもがな拳銃だ。当然それを的確に扱うためには訓練を要し、防音具をつけていることを差し引いても、ベテランの彼の耳は銃声の特徴を知悉している。変な表現ではあるが、その耳がささやいてくる――これは銃声ではない。もちろん拳銃にだって種類があり、音に差異は存在するが、さきほどのものは根本的に別のカテゴリに入るものだ。高く響くこと目的としているように、まるで殺傷能力を考慮していないように弱く、そんなふうに火薬を使うものといえば――
「そうか」蒲郡はすくっと立ち上がった。「やつらの居場所がわかった」
「えっ、それってほんとですか?」
「いや……確証はないが」
 しかし、巡査の話と破裂音、そしてもうひとつ自分だけが持っているとある断片を集めれば、思い当たる場所はそこに限られてくる――というより、そう思えてしかたがない。ドラマに出てくる名探偵のような推理ではなく、一介の刑事として磨き上げた勘だった。
「いくしかない気がするな」
「? いくってどこに……」
 すると突然、蒲郡は全員に聞こえるように声を張った。「おまえたち! これから俺がむかうところについてきてくれ! あと、誰か応援の要請も頼む!」
「――はいっ!」
 蒲郡を微塵も疑いもしない。捜査員らはすばやく玄関にむかう。
 背後から放たれる声があった。
「待って! 私も連れていってください!」
 茫然自失としていた佐恵子が追ってくる。吉見が迷いつつも返した。
「しかし、危険を伴うかもしれませんよ」
「構いません! 私は、私は……」
「本当にいきたいんですね?」蒲郡が横から言う。彼女が即座に首を縦に振ると、はじめから予期していたようにつづけた。「ならいいでしょう。容疑者と関係があるようですし」
 外に出てセダンに乗り込んだ。ドライバーは蒲郡。助手席に佐恵子、後ろに吉見だ。赤色灯をルーフにとりつけ発進させると、ほかの捜査員の車もしっかりと追尾してくる。彼らは住宅地を脱し、一般車を退けながら大通りを走り抜ける。そのころには応援のパトカーが合流し、計五台の大名行列になっていた。
 河川にかかる鉄橋の手前で右折し、土手を進む。夜の闇の奥のほうに小さな光が舞っているのを発見すると同時に、ついさっき聞いたばかりの破裂音が飛んでくる。
 吉見が声を上げる。「あっ! この音っ」
 そうだ、と確信めいたものを蒲郡は感じた。
 そう――あの破裂音は銃声なんかじゃない、花火の音だ。
 蒲郡が思い出すのはいつかの夕方。杏藤瑠南と梅村雄大を追いかけ見失い、辿り着いたこの土手で男子高校生の話を聞いた。ここで花火をしようという談笑に水を差したのは蒲郡で、彼らはぶつくさと反省の色も見せずに去っていった――それは逆に考えれば、彼らは忠告を無視して予定通りに花火をはじめる可能性が高いということ。
 読みは的中した。受話器越しにはっきりと聞こえるのなら、音源とアジトはほとんど隣接していると言っていい。実は遥か遠方の地で同じように花火をしている輩がいるのかもしれないが、巡査の話からアジトは周辺地域にあるとされているため、その説は棄却される。
 そして、このあたりでアジトに仕立てられそうな建物はひとつしかない。
 幽霊が出ると噂され、誰も近づかない――あの廃工場だ。
 土手の脇から下っていくと、ようやく花火を楽しんでいた者たちはパトカーに気がついたようだ。サイレンを鳴らしていたことを考えると、よっぽど青春に没頭していたらしい。
 蒲郡たちはドリフトをしながら次々と停車していく。運転席から出て見ると、思ったとおり先日の男子高校生らに加えて数人の女子がぽかんと口を開けていた。五台の検挙する気満々のパトカーに突如として囲まれたわけだから、無理もない反応ではあったけれど。
 高校生のひとりが言う。脂汗を流し、ぱくぱくと鯉みたいに。
「なななななんすか? おおお俺たちなにもしてないっスよ?」
「そそそそうだよねヨシくん? わわわたしたち別に花火とかしししてないよね?」
「ばばばっかおめ! そそそそそんなわけねえだろっ?」
「吉見」蒲郡は冷静に言った。「むこうの川辺」
 すたすたと吉見はそこにいって帰ってくる。手には川水に捨てたと見られる花火――手持ちや筒型のもの――が証拠品として持たれていた。
「……まあ、どう考えてもしてましたね、花火。そもそも、見えてましたし」
 男子高校生が震える。「ちょちょちょ、俺たちやややばいんスか?」
「本当ならこっぴどく絞ってやるところなんだがな」蒲郡はにやにやと笑い、言う。「今はきみたちに構っているヒマはないんだ。……というかね、今回に限ってだけど、きみたちには感謝状を贈りたいぐらいだよ」
 これに懲りたら早く帰りなさい。そう告げると、
「さーせんしたああああああ!」
「もうヨシくんのばかあああ!」
 高校生たちは逃げていく。彼らが土手のむこう側に消えてから、蒲郡は目の前にそびえ立つ廃工場をにらみつけた。「ついに追いつめたぞ。どちらにとっても正念場だ」

       

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Neetsha