Neetel Inside 文芸新都
表紙

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      (20)


 梨元家との通話が切れるまでの経緯は、柿田にとってとにかく意味不明だった。
 保奈美の母が甘夏の存在になんらかのかたちで思い至ったのだろう、繋がるや否や波濤がごとくまくし立ててきたこと自体は理解できる。甘夏と彼女の因縁を思えばこそ。
 まずは落ち着かせなければと思った。恐喝という少々乱暴なやり口ではあったが、黙らせたところまではよかった――だが、外から破裂音が聞こえた瞬間からすべてが狂った。あれよあれよという間に電波は相手を見失ってしまったのだ。
 携帯を握りしめつつ、柿田は窓に寄る。「なんだってんだ、ちくしょうっ」
 見ると、土手の下の開けた空間で数人の男女が花火をして遊んでいた。高校生くらいだろうか。すぐ隣で決死の戦いが繰り広げられていることなど毫末ほども知らないのだろう。怒りすら湧いてくるが、無意味な感情であることはわかっている。
「どうしたの?」瑠南が訊ねてくる。
「どうもこうも、突然切れやがった。わけわかんねえ」
「……もしかしたら、今の音を銃声と勘違いしたのかもしれんな」横から言われ見ると、甘夏がうっすらと目を開けていた。あいかわらず、正常とは程遠い顔色をしている。
「ジジイ、起きたのか」そう言ったあとで、考え直した。「いや……起きてやがったのか」
 となれば、梨元佐恵子――彼にとっては甘夏佐恵子――と柿田の会話はもれて聞こえていたのかもしれない。彼女はかなり大きな声で叫んでいたから――苦痛と憎悪に彩られた日々の記憶にがんじがらめにされた精神が、悲鳴を上げていたから。
「若造、私は許されようなんて思ってないって言ったな」
「……ああ」
「本当はあれは嘘だ」込み上げるなにかを抑えるように言う。「ひょっとしたら彼女の中で悪い記憶は薄れていたり、たいした思い出じゃなくなっているんじゃないかって、そういう淡い期待をしていたんだ。期待というか、利己的な願望か。……でも、思い違いだった。暴力的なまでの、かつて私がしていたぐらいの、ひどい思い違いだった。あの子の心の傷の深さを私はもっと考えるべきだった。もうなにをしても、私はあの子を傷つけることしかできない。この町にきたことが、すでに間違いだった。いや、生きていること自体が間違いだったんだ……」
 すまない、すまない佐恵子――そうこぼしながら、甘夏は泣いた。慰謝の言葉は誰の口からも出てこなかった。悲しい事実だけれど、『因果応報』であることは確かだからだ。
 保奈美が目を覚ましたのはそのときだった。リアドロ人形のような端整な顔が微動し、ゆっくりとまぶたが光を招いていき、呟く。「おじいちゃん? 泣いてる」
 寝ぼけたゆえの行動だろう、添い寝したまま、指でそっと甘夏の涙をすくう。けれど彼の涙はさらに溢れた。保奈美が佐恵子に瓜二つであることを思えば、その優しさは、むしろ彼の胸を無惨に切り裂いてしまうものだから。もう手に入らないものが目の前にあり、目の前にあるものはもう手に入らないのだから。
「おいガキ。今はほっといてやれ」柿田は手招きする。「こっちこいや」
「なんですか?」
「娘の安否確認作戦、第二弾だ。元気……ていうのもアレだが、無事な声を聞かせてやれ。銃声と間違われて勝手に錯乱されちゃあたまんねえからな。今ここで、交渉のテーブルを蹴飛ばされるわけにはいかねえんだ」
 柿田はリダイヤルを試みる。しかし呼び出し音が単調に続くだけだ。おかしい。まるで家を出払っているみたいだ――とそのとき、夜の無音を押しのけて聞き覚えのある、けれどもっとも聞きたくない音が流れてきた。間違えるはずもない、パトカーのサイレンだ。
「おいおいマジかよ」
 柿田は窓に張りつく。まだ距離はありそうだが、相対的な音量は上がってきている。無人の梨元家という要素が、その音が自分と無関係でないことを教唆してくる。ただ、どういうふうにここに目星をつけたのかわからなかったが、理由探しをする暇は一秒もない。
「ちょっとこれ、かなりヤバイんじゃないの?」瑠南が見上げてくる。
「これで呑気に構えてられるほどバカじゃねえよ」言い返してから、柿田ははっとする。彼女と雄大は避難させなくてはならない。もし誘拐事件に関与していたことが明るみに出れば、将来に暗影を投ずるどころか、真っ暗闇に落とすことになるかもしれない。「……あとな、無関係なガキを巻き込むほどバカでもねえ。てめえらは裏からすぐに逃げろ」
「え、なんで?」
「なんでって……だから、てめえらは無関係で」
「ここまで付き合っておいて『逃げろ』だなんて、カッコつけたいならよそでやってくんない? サムいんだけど」
「残る気かよ。言っとくけどな」
「言われなくてもわかってるって。あんたさ、私にも戦う理由があること忘れてない?」
 保奈美が笑顔でいられるように――だったか。とはいえ、
「いくら親友つっても無茶がすぎるぜ」
「かもね。でも、本気じゃなきゃ無茶もできない」
 そう言った瑠南の瞳は純粋な意志を映していて、この事態を軽く見ているふうでもなかった。すると彼女は、ふいにうしろを振り返ってつづけた。
「梅村もそう思うでしょ?」
 そろそろとドアにむかおうとしていた雄大の肩が跳ねた。汗びっしょりの顔を回す。「あーうんまーそうだな……サッカーの試合でもそういう気分になるときあるな……」
「逃げてんじゃないよ。ホナちゃんにチキンだって思われたいの」
 見るからにむっとした。「誰がチキンだって? おまえ、おれのことナメてるだろ」ずかずかと近づいていって、瑠南の肩を押す。「逃げるかよ。ションベンしたくなっただけだ」
 対して彼女は悪どく笑んだだけだった。
 さしずめ雄大は意地といったところだろう。瑠南とは違い、色恋沙汰めいた不純物が見え隠れしているような気がしないでもなかったし、本音を尊重して帰してやるべきかもしれなかったが、正直なところ、柿田としてはこれ以上ふたりに思慮を割いている余裕などなかった――ついに赤色灯が土手の上に現れたからだった。
(俺も腹をくくるしかなさそうだな……)
 拳をかたく握る。

                  ◇

 月明かりが廃工場を鈍く照らし出している。蒲郡は拡声器を吉見から受けとると、誘拐犯らが潜んでいるであろう上階の事務所にむかって言った。
「そこにいるのはわかっているぞ。種明かしをしてほしいかい?」
 反応はない。念のため内部への侵入を控えさせているが、この正面以外の出入り口および抜け穴にはくまなく捜査員を配置しているため、逃走しようとすれば網にかかる連絡(おと)が入るシステムになっている。よって、彼らはまだ中にいるようだ。
「観念しなくてもいい。とりあえず顔を見せてくれないか。話をしよう」
 少しして窓が開き、髪をブリーチした若い男が出る。特徴は巡査の証言と一致する。
「はじめましてだな。私は蒲郡というんだが、きみは?」
 返答はこなかったが、代わりにジェスチャーを返してきた。口のあたりで両手を数回広げている……となると拡声器を欲しているみたいだ。確かに、意思疎通のツールが公平でないことは、対話にあたって心理的な支障をきたすこともあるだろう。用意するのはやぶさかではなかったが、しかし受け渡す方法に困難は潜んでいた。
「メガホンがほしいようだね。だけど、どうそちらにあげたもんかな」
「――私がいきます」
 背後からの声に振り返ると、佐恵子が立っていた。
 吉見が驚く。「いくって、メガホンを渡しにですか?」
「はい。私が持ってあそこにいきます。そして保奈美の代わりに人質にしてくれるようお願いします。そうすれば、あの子は助かりますよね。それに……」
「それに、アマナツヒロミツと対面することができるから、ですか?」蒲郡が問うと、かすかに止まったあとに「はい」と言った。やはり、どうしても気にかかる。「こんなときに聞くのもなんでしょうが、簡単でいいので彼との関係を教えてくれませんかね」
「それは、言いたくありません」
「どうしてもですか」
「できれば、ですけど……とにかく私にいかせてください」
 一見、佐恵子の案は最善策に見えるが、むしろ最悪の事態になる可能性を孕んでいると蒲郡には感じられた。彼女の目に垣間見える、大きな憎しみの一端がそうさせる。アジトのほうで争いが勃発するのは避けたいところだ。安全は守らなければならない。
「そうは言ってもですね」と返しかけたときだった。捜査員たちが一斉にざわついた。
 なにごとかと反転して見ると――正面入り口の闇から、ひとりの少女が出てきていた。
「杏藤瑠南ちゃんじゃないかっ」吉見が反応する。「ああっ、もしかしてきみも誘拐犯に脅されていたのか! おおかた、警察に通報すれば保奈美ちゃんに危害を加えるとか言われたんだろう? だから彼女を守るためにしかたなく……かわいそうに、恐かったね。でも大丈夫。僕たちが保護してあげるから、さあこっちにおいで!」
「なにひとりでキモい妄想してんの? マジないんですけど」
「ええっ」吉見は傷つき後退する。
「まあ、ホナちゃんを守るためっていうのは間違いじゃないけど? ちょっと私のことナメてかかってるような気がするな。脅されてるとか、ちげえよ、ふざけんなって感じ」
「じゃ、じゃあなにをしにここへ……?」
「そりゃあもちろん――」
「もちろんメガホンを受けとりにきたってところかな」蒲郡がつづきをさえぎると、瑠南はいけすかなそうな顔をすると同時に、不敵に微笑んだようにも見えた。「そしてこれは強制されたわけでもなんでもなくて、きみの意志。そうだろう?」
「百点だね、バカ刑事」
「やっぱり関与してたんだな。嘘までついて、ご苦労様と言いたいが」
「うるさいよ似非ゴルゴ。さっさとブツを渡してよね」
 蒲郡はもうひとつ拡声器を持ってこさせ、差し出す。瑠南はそれを乱暴にひったくると、全身満身渾身のありったけの力を込めてあっかんべーを見舞い、くるりと背をむける。
 直後に呼び止める声があった。「待って、杏藤さん!」
「おばさん」佐恵子を見る。
「全然話がわからないんだけど、どういうことなの。どうしてあなたが……」
 質問には答えず、瑠南は言う。
「ねえ、おばさんにとってホナちゃんってなに?」
「え……なにを言って」
「答えられないの?」
 挑発的に言われ、ぐっと表情が引き締まった。「娘よ」
「ただの?」
「いいえ。私の大切な、ひとり娘。あの子は私の最後の希望。ずっと見てきたわ。保奈美を守るためなら、どんなふうになっても、どんなことをされても構わない」
「ふぅん」瑠南の目が冷たく細められる。「じゃあさ、誘拐される前まで帰りが遅かったことにはなんかコメントはないの? もしかして、気にしてなかった?」
 佐恵子が言葉をつまらせるのがわかった。それでも、特別怒りを覚えることはなかった。すべてが保奈美(ひとり)を中心に回っているわけでもないし、家庭における佐恵子の心理状況を鑑みれば、そういう狭量な考え方は働かないけれど――できれば気づいていてほしかったというのが本音だった。
「まあ、まだこれからなんだろうけどさ……ホナちゃんはおばさんとは別のことを思っていると思うよ。私の口からは、ぜんぶ当て推量にしかならないから、言えないけど」
 そう残し、瑠南は蒲郡たちの前から姿を消す。螺旋階段を上って事務所に帰還し、柿田に拡声器を渡した。「はい、もらってきてあげたよ」
「それはまあ礼を言うけどよ。ガキの母親となに話してやがった」
 どうやら窓から見下ろされていたみたいだ。
「別に? たいしたことないって」
「瑠南ちゃん」保奈美が気弱そうに聞いてきた。「お母さん、どうだった? ずっと心配かけてきたと思うから……私、お母さんがまた泣いちゃったりしてたら……」
 そう言いつつ自分が涙ぐんでいる。瑠南はかける言葉を探しはじめるが、思わぬことに先に雄大が口を開いた。「梨元っ! えっと、とりあえず元気だせよ! 元気があればなんでもできるって言うだろ? 空元気でも全然オッケーだからさ、だから……泣いたりなんかするなよ! おまえの母さんも大丈夫だよ、たぶん!」
 きょとんとする保奈美。その背中に軽く体重が接してくる。瑠南が雄大から引き離すようにして、けれどその反面、優しげな手つきで抱いてきていた。不思議と安らぐ感触だ。
「うわーうわー。絶対クラスのほかの女子には言わないよね、それ」
「うっせーよ! だからなんなんだよ」
「ホナちゃんは渡さないからね」
「はあっ? 意味わかんねーし!」
 そのまま口ゲンカに突入しようとするふたりのあいだで、いつもなら右往左往しているだけだった保奈美は、思わず笑みがこぼれてしまうのを感じた。今回ばかりは、なんだかとても温かくて心地がよかったから。
「瑠南ちゃん、梅村くん。ありがとう」
 意表を突かれたみたいにふたりは赤面して、ぴたりと口論が止む。「……ホナちゃんズルイよ」と瑠南が小声で呟くのが聞こえたが、よくわからなかった。ただ、いちおうは小突き合いへの発展を阻止できたみたいなのでよしとしておく。
 保奈美は柿田をみた。彼はすでに拡声器の調整を完了させていた。スイッチを入れる。
「アーアー、お待ちかねだったか? つうか、声出てるよな?」
 蒲郡が応答する。「問題ないよ。しかしまあ、電話とはまた違って聞こえるね」
「んなこたあどうでもいいだろ、くだらねえ」
「じゃあ、少し真面目な話をしよう――きみの名前は?」
「言いたくねえな。つうか、まずは自分から名乗るってのが礼儀ってやつじゃねえのか?」
「失礼。私は西津田署の蒲郡という者だ」
「まあ、知ってるけどな」
 蒲郡は腹を立てる素振りもなく、苦笑した。「なんだか、たいそうなめられたもんだな。杏藤瑠南から聞いたのかい?」
「そんなところだ」
 もう一度笑ってから、じゃあ話をつづけようと言う。
「仕事はしてるのかな? 前に住んでいたところは?」
「……仕事はねえ。絶賛無職の身だ。前は、このあたりで女と暮らしてたけど、もう縁もゆかりもねえ赤の他人だ。今ごろ馬と仲良くやってるだろうさ」
「へえ? その彼女との日々は幸せだったのかな」
「幸不幸で判断するなら、悪くはなかったと思う。けど、そういうのとはたぶん違うものがあいつとのあいだにはあったんじゃねえかな。生温い泥みたいなものが」
「生温い泥、か。詩人だね」
「ほざけ」
「すまないすまない。こう年をとると、頭がかたくなっちゃうんだ」悪びれるふうでもなく、蒲郡は質問を再開する。「親御さんとか兄弟とか、ご家族はどうしているのかな?」
 ぎしり、と。
 柿田の表情が石化する。それに相反して色褪せたはずの記憶が、捨てたはずの過去が、無意識の中で蠢きはじめる。かろうじてしぼり出した声は、震えていた。
「……そんなもんは、いねえ」
「それは、亡くなってしまったということでいいのかい」
「違う。いねえんだ。だけど、本当は……本当に“いない”のは、俺だ」
 亡霊なんだ――そう呟いた柿田の様子の変化は、遠目からでもわかるものだったのだろう。蒲郡はトーンを和らげた。「言いたくないのなら、強制はしない。代わりといってはなんだが、角度を変えさせてもらうよ。きみはどんな子どもだった?」
「何なんだよ」胸の抉られるような痛みを抑えながら、にらみつける。さすがに我慢ならなかった。「いったいなにがしてえんだよっ。俺のなにが知りてえんだ、てめえはっ」
「“きみのなにか”じゃなくて、“きみ”が知りたいんだよ」
 柿田は、ふいに懐に入り込まれた感じがした。
「私から先に言ったら答えやすいかな? 私……私はそうだな。毎日まいにち外で走り回ってワンパクして、毎日まいにちゲンコツを食らっていたよ」
 そしてそこから言葉が引きずり出される。自然と口が動いてしまう。
「……俺は、昔は今とは百八十度違う人間だった。悪さなんて一切しないし、宿題を忘れたこともなかった。ずっと真面目ないい子どもであろうとしてた」
 そう――すべては両親のためであった。柿田の行動原理はいつもそうだった。あのころ笑っていた少年は、優しい母と気のいい父のことが大好きだったのだ。
「ちなみに得意科目はなんだった?」
「数学だな。揺るぎない答えがあるのが好きだった」少し喉の震えが治まったみたいだった。加えてうっすらと、わからない問題とそれを指さす母の微笑ましそうな顔が浮かんだ。どうしてか振り払うことのできない映像。幸福の残像。
 それからも問答はつづいた。
 本はよく読んでいた?――雑食だったけどそれなりに。
 好きな食べ物は? ――昔はから揚げ、今は特にない。
 楽しかった思い出は? ――誕生日パーティ。ハッピーバースデーディア……って歌。
 運動会ははりきっていた? ――嫌いだった。
 友だちは多いほうだった? ――少なかった。
 その中で親友と呼べるのは? ――大学に、ひとりだけ。
 どれくらい答えていったのか覚えていない。ただ、時間が経つにつれて、柿田はこれまでの人生をゆっくりと指でなぞっているような気持ちになった。その節目節目で、忘却に処されたはずの感情が鮮やかに洗い出され、再生し、想起されていく。顧みることを拒んでいた二十数年間の歩みに近づいていく。たとえその過程が、立てこもり犯に油断を与えて逮捕にこぎつけやすくするための蒲郡の方策だったとしても、不思議と気にならなかった。今このときだけは、対峙しているのは自分自身だと思えた。
 柿田淳一とは何者なのか。なにになりたい人間なのか。
 その問いは、現在の自分にとっては途方もなさすぎて、明確な答えは導き出せそうにない――けれど、美月とすごした生温い泥のような数年間は、実は自覚しないまま生み出した一種の猶予(シンキングタイム)だったのかもしれない。そのためだけに彼女に理不尽な時間の浪費を強いていたのかと考えると、頭はてこでも上がらないが、おそらく自分はそれを望んでいたのだと思う。迷い、立ち止まっていられる時間を。
 大学を去るときの石島の言葉を思い出す。願ったことに変わりはない、自分がそうしたというだけで、それだけで十分じゃないのか――。本心ではそう思えられればいいと感じていて、思いたかったのかもしれない。しかし、それはできなかった。未熟だったと言ってしまえば、それはとてもわかりやすく了然としているが、どれほど年を重ねたところで、きっと同じ場面で同じ選択をしていたはずだ。何度撮り直しても同じで、やり直しは無意味で。
 そして、“やり直し”に価値を見出してはいけないのだろう。
 甘夏博光は、“出直す”ことを誓った。誰もができる選択ではないかもしれない。でも、選択のチャンスは誰にでもあるのだと思う。保奈美にも、佐恵子にも……自分にも。
 きっと、全員にとって今がそのときだ。
(――もう、チャンスはこの夜しかねえんだ)
 そう思った直後だった。
「きみが保奈美ちゃんを誘拐した目的はなんだい」
 蒲郡が事件の核心を狙う問いを投げかけてきた。柿田は、こちらを見ている保奈美と、その奥で弱々しく胸を上下させている甘夏を見やってから口を開く。
「まあ、当然のことながら金だった」
「わかるよ。ないと困るからね――」
「でもな、変わっちまった」
「なに?」はじめてではないだろうか。蒲郡の声に怪訝の色が混じった。
「自分でもバカみてえだとは思うんだけどサ、甘ちゃんのどうしようもなくしょうもねえ都合で変えられちまったんだよ」
 柿田はいったん退き、保奈美の腕を引き寄せて再び窓際にもどる。にわかに下界はざわついた。彼女の登場に驚いたというよりは、安否の確認をとれたことに対する安堵のほうが大きかったのかもしれない。保奈美! と佐恵子の叫ぶ声が上がった。
 保奈美が見上げてくる。「あの、柿田さん? 私は……」
「しゅべり疲れた。俺は少し休憩するから代われ」
「そ、そんなわけには」
「――おまえの願いはなんだ? おまえにしか伝えられないことがあるんじゃねえのか」
 彼女ははっと息をつまらせ、それから神妙に頷いた。なにか言いたそうにしているのは背中で感じていたのだ。拡声器を受けとり、小さな口を近づける前に、その唇は「柿田さん、ありがとう」と動いたように見えた。
 そして彼女は一歩進み出る。
「代わりました。梨元保奈美です」
「……とりあえず確認したい。怪我はないかい?」
「はい、平気です――けど。あの刑事さん、お願いしてもいいですか?」
「? あ、ああ」蒲郡は、調子が狂わされているのを顕著に感じていた。理由は簡単だ。今回の誘拐事件は、過去のどのケースにも当てはまらない側面を併せ持っている、異例中の異例だという認識が強かった。「なんでも言ってごらん?」
「お母さんに代わってくださいませんか……」
 特に奇妙なわけではない。蒲郡はおとなしく佐恵子に拡声器を譲った。
「保奈美っ? 本当に痛いところはないの?」
「うん。お母さんは、本当に優しいんだね……」
「そんなの当たり前じゃないっ」
「それってやっぱり、昔おじいちゃんに優しくしてもらえなかったから、その反動があったりするのかな……」
 佐恵子の表情が不穏げに翳る。「いるの? いるのね、あの人が。保奈美、怪我してないなんて嘘つかなくていいのよ。あの人が暴力を振るわないはずがない。私にはわかるの、ずっとずっとそうだったからっ。いい? そこからもう絶対に近づいちゃ――」
「やめてよ!」
 いつも柔和な娘の怒声など耳にしたのは、はじめてだったかもしれない。ショックを受けているあいだにも彼女はつづける。
「やめて、そんなこと言うのは。おじいちゃんは、私に優しくしてくれたよ? 自分のぶんのパンも分けてくれたし、勉強も見てくれた。私の気づかないところで、ずっと温かくしてくれた。おじいちゃんは、私の味方でいてくれたの」
 でも――と保奈美は言った。
「そのおじいちゃんは今、病気で死んじゃいそうになってる……」
「あの人が……嘘」衝撃に声が揺れていた。腐っても肉親ということなのだろうか。いや、そんなはずはないと思い直す。あれほど凶暴だった男が病ごときで命を落としかけていることに、違和感を否めないだけなのだ、と。
「おじいちゃんを許せない気持ちもわかる。私がお母さんの立場だったら……って思う。けどね、おじいちゃんもいっぱい悲しい思いしてきたんだよ。お母さんやおばあちゃんのことで何十年も悩んできて、お母さんにすまないって、泣いてたの……」
「泣く?」はは、と笑ってしまう。泣きたいのはこっちのほうだ。どうして今さらになって現れて、そんなふうに振舞うのか――父親みたいなことをするのか。
「すべてをなかったことにはできないよね。でも、ちょっとだけでいいから、ちゃんと顔を見せてあげてっ? おじいちゃんを、救ってあげてっ!」
 蒲郡を含め、ほとんど全員が呆気にとられていた。ふだん大声を滅多に出さないからであろう、保奈美はハアハアと息を切らしながらも、拡声器を再び両手で握りしめる。
「おじいちゃんは頑張って頑張ってここまできた。だから、私も頑張りたい」
 ――“寄り道”は、終わりにするの。
「私ね、お父さんがお母さんを殴った夜のことぜんぶ知ってるよ。そのときから、ふたりがどんどん遠くなっていったことも。私はただ怯えるだけだった。でも、今は逃げちゃダメなんだって思えるよ。お母さんたちは“夫婦の問題”だって言うかもしれないけど、きっとこれは私たち“家族の問題”なんだよ……」
「保奈美……」
「私も一緒に考えるから、一生懸命考えるから。私はみんなが笑っていられれば、それ以上望むものはないの。だから――なのに――もう」
 言葉が尻すぼみに消えていく。おそらく、こう話しているあいだにも頭脳は、様々な感情や思いの混雑と錯綜でパンクしそうになっているのだろう。小学五年生の思考・表現能力の限界なのかもしれない――と。
 いきなり彼女は酸素を肺にかき集めて、最後に力のかぎり放った。
「お母さんのばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!」
 脈絡もなにもない。そのHz(ヘルツ)は計り知れなかった。夜空を振動が駆け抜けた。ひょっとすれば、町中の人間に聞こえていたかもしれない。
 この一撃で疲労困憊した保奈美の肩に、柿田は手を置いた。「よくやったじゃねえか」
「あ、ありがとうございます……」
「甘ちゃんっていうの、訂正しねえといけねえかな」
「……だったら、もっと訂正してほしいことがありますよ」
「あん?」
「さっき言ってた、亡霊っていうの」柿田の手に触れる。そしてかたちを確かめるように、可愛らしい指できゅっと力を込めてくる。「柿田さんは生きています。こうやって、私に温度を伝えてきてくれています。昔なにがあったのかはわからないですけど、私は知っていますよ、柿田さんの温かさを」
 彼は、かすかに押し黙ってから返した。「なあ、ストックホルム症候群って知ってるか?」
「? なんです?」
「ちょっとシチュエーションが違うかもしれねえが。監禁する側とされる側のあいだに信頼関係っていうか、妙な親近感が湧いちまうもんらしいぜ。まやかしのな。今のてめえはきっとそれだろうさ」
「違います」即答だった。春の陽光のような眼差しが覗く。「この気持ちは本物です」
「はっ」柿田は笑った。笑うしかなかった。「まあ、ガキに慰められるのも悪くねえか」
 そっと保奈美から拡声器を奪い、窓のアルミサッシに片足を叩きつけ、身を乗り出す。
「よう、ポリ公。さっきの話のつづきをしようぜ。なんだったっけか」
 拡声器は蒲郡に返還されていた。「誘拐の目的だが」
「いいぜ? 教えてやるよ」
 片頬を吊り上げつつ、保奈美のからだを抱き寄せる。「きゃ」という声は相手にしない。
 そして声帯に鞭を打つ。
「極悪非道にして悪逆無道っ! 元ヒモのクズ野郎にして稀代のダメ人間っ! 計画はハプニングだらけの、今世紀最悪の誘拐犯が要求するのはァ――」
 一呼吸。次の瞬間にすべてを懸けた。
「――梨元保奈美の幸せだぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああっ!!」
 彼女を見捨てられなくなったのは、いつからだろう――。最初からだったのかもしれないし、つい最近が始点なのかもしれない。けれど確かなのは、彼女にかつての自分を重ね合わせていたこと。たとえ傷の形状や深さは違っても、透けて交わる遠い日の影が見えていたのだ。助けてやりたいというのには、自己救済の意味もあったのだろう。
 拡声器を土手にむかって放り投げ、柿田は間髪入れず叫ぶ。地声でも強烈に響いた。
「能無しどもっ、逮捕してえなら上がってこいよ! 俺は逃げも隠れもしねえ! ただな、これだけは覚えておきやがれ! てめえらは事件を解決したんじゃねえ! 俺や保奈美を新たなスタートラインに、出直すためのポジションに、希望を見つける未来の記念すべき第一日目に連れていくだけなんだからな!? いいか、絶対に忘れるんじゃねえぞ!」
 その口上は、保奈美に、佐恵子に、甘夏に――そして自分にむけたようでもあった。余韻が長く尾を引いていく。この夜のむこう側へと。
(……そうだ)
 果物は出るのだ。腐るのを待つだけの部屋(はこ)から。
 出直すのだ。それぞれが笑っていられるように。
(そうなんだ)

 ――――俺たちはみんな、“家族”になりたいんだ。

 と。
 誰よりも早く動いたのは蒲郡だった。トランシーバーに唾を飛ばす。
「総員、突入しろおっ! 犯人確保! 犯人確保だ!」
 吉見や廃工場の周囲に隠れていた捜査員たちが、一斉に内部へと走り出す。螺旋階段が折れてしまうじゃないかと思うくらいの人数が、雄叫びとともに事務所に雪崩れ込む。
 そのあとのことはよく記憶していない。まっさきに柿田はうつ伏せに取り押さえられ、もみくちゃにされたからだ。甘夏は危殆ということで、ひとまず外に搬送されていった。付き添っていたのは佐恵子だったように思う。瑠南と雄大には、いちおう保護というかたちがとられたみたいだった。意外なのは、保奈美が微々ながらも抵抗したことだった。
「そんな、柿田さんだけ……!」
「ダメだよっ」吉見があわてて距離をとらせる。
「なぁ、ポリ公さんよ」柿田は軽薄に言った。「俺のズボンの右ポケットにあるもんとってくんねえか。見てのとおり、自由なんざてんで利かねえからよ」
「ど、どういうつもりだ? 危険なものじゃないだろうな」
「疑り深いな。別にこんぐらい融通利かしてもいいだろ」
 吉見は溜息をつくと、ゆっくりとポケットをまさぐる。
 出てきたのは――小さなぬいぐるみだった。
「保奈美」柿田はあごをしゃくって見せた。「約束を果たすぜ。瑠南とおそろのイラックマのストラップだ。受けとれよ」
 不承不承といった感じの吉見から、小さな手のひらに渡る。
「そういえば、やっと名前で呼んでくれましたね」保奈美は、ストラップを大事そうに抱えてから、花咲くような笑顔を浮かべて言ったのだった。「はい、一生の宝物にします」
「まあ……勝手にしろよ」
 柿田はニヤリと笑った。そのとき、上の捜査員たちからかけられる圧力が妬ましそうに強くなったのは、気のせいではないだろう。

       

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