Neetel Inside 文芸新都
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フルーツ・イン・ザ・ルーム
第二章

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      (0‐5)


 柿田淳一は、煙草の吸殻をうちっぱなしのコンクリートの床の上で潰して、勢いよく立ち上がった。ひとまず誘拐してきた女の子のほうは置いといて、長椅子に座っている老人に視線をぶつける。
 どうしてこんなことになってしまったのか――その答えは、いわずもがなこの老人だ。
 なんとか通報されずに廃工場まで遁走してこれたものの、余計なものまでくっついてきてしまった。彼がランドセルを回収したことに関しては、確かに犯行現場の特定をされる危険の芽は摘みとれたかもしれないが、結果オーライで片づけられるようなことではない。そもそも、この老人がここにいること自体がランドセルうんぬんよりも何倍も重大なのだ。
 計画は出だしからつまづいてしまった。これは完全なイレギュラー。想定の埒外だ。
「おい、てめえ……よくも俺の邪魔してくれやがったな」
 柿田の苦情に、老人は一言も答えなかった。「聞けよクソジジイっ」と柿田は老人の胸倉をつかみ上げる。しかしすぐにつかみ返され、逆に柿田のあごが浮くはめになってしまった。所詮は老いぼれと高をくくっていた柿田は、心の中で舌打ちする――老人の目は、確実に堅気のそれではなかった。瞳の奥に、嫌なものが巣食っている。
「ちくしょうが」柿田は老人から距離をとる。「てめえ、どこのどいつだ」
 老人も手を放して、セーターの下に着たシャツの襟を正しながら、「甘夏(あまなつ)」とだけ言った。それっきり唇を結んで、また長椅子に腰を下ろしてしまう。
「なんの目的であそこにいやがった」
「…………」
「てめえも俺みてえに誘拐するつもりだったんかよ」
「…………」
「その年になって犯罪しようなんざ、ヤキが回ったとしか思えねえな」
 柿田がそこまで言うと、甘夏はようやく唇を開いた。ただ、言い返そうとしたわけではなく、柿田の言葉を無視した形で言った。
「とりあえず、その女の子の口だけでも解放してあげたらどうだ」
「あん? わざわざ自由にするメリットなんかあんのかよ」
「きさまはその子のことをどこまで知っているというんだ?」
 言われてみれば、ほとんど……というよりまったく知らない。標的に彼女を選んだものの、下調べといったものはなに一つしてこなかった。確かに、名前や住所、家の電話番号も知らないのでは話にならない。甘夏は、それを聞き出せと教唆しているのだろう。
「ったく、しょうがねえな」
 女の子に手を伸ばすと、彼女はびくりと目を瞑った。気分的にやりづらいが、ここで躊躇しても仕方がないので、柿田は口を覆うガムテープをべりべりと引き剥がした。涙声で呻いている彼女を尻目に、「これでいいのかよ?」と柿田は甘夏のほうをむく。
 しかし甘夏が首肯するよりも早く、柿田の背にか細い声が触れた。
「……お、お兄さん? どうして、私……」
 恐怖、不安、戸惑い、怯え――そのすべてが女の子の潤んだ黒目に内包されていた。そして、それにもまして裏切られたような感情が深く見てとれた。
「ガキ、俺を恨むんじゃねえぞ」柿田は頭を掻きながら、溜息交じりに言った。「ほかに誰を恨めっつってもできねえかもしんねえけどな」
「……おい、若造」と甘夏の声。
「わかってらあ。情報を聞き出せばいいんだろ? ……おい、ガキ。別におまえをとって食ったりはしねえよ。おとなしくしてりゃ、パパとママんとこに帰してやる。だからそのために、これからする質問に答えろ。正直にな。嘘ついたらただじゃおかねえぞ」
 わきわきと動く柿田の十本の指を見て、太股をすり合わせるようにしてこくこくと頷く少女。おもしろいぐらいの反応のよさだ。柿田は携帯を取り出して、ツールからテキストメモを開きながら机の上にあぐらをかいた。
「じゃあ、おまえの名前から聞こうか」
「…………」
「ああ? 言えねえなら、まずは腋からいくか?」
「なっ! ……梨元、保奈美(なしもとほなみ)です」
「住所は?」ナシモトホナミと打ちつつ、柿田はつづける。彼女はてきぱきと質問に答えていく。思っていたよりも、パニックが解けるのが早いみたいだった。もしかしたらこの事務的なやりとりが、心を少しずつ落ち着かせているのかもしれない。
 得た情報をまとめてみると――彼女の名前は梨元保奈美。市立君鳥小学校第五学年。住所の番地は柿田の予想通り、裕福な家庭が連なる住宅街だった。
「あー、次……家族について」
 いい加減、指が疲れてきた柿田は気だるげに言った。
「私は一人っ子です。お父さんは会社員で、お母さんは主婦です」
「同居は? ジジババとかいんだろ」
「その、してません。お父さんのほうもお母さんのほうも、おばあちゃんは元気ですけど、おじいちゃんはどっちも私が生まれる前に亡くなってしまったそうです」
 最後にためしに父親の勤め先を聞いてみたら、誰もが知っている業界大手の有名企業だった。ゴールデンタイムでコマーシャルを垂れ流しにしているのを知っている。
 柿田は携帯を閉じて首をぱきぽきと鳴らした。
「……よし、一応はこれでオッケーだろ」
 そう甘夏に確認を求めるように振りむいて、ふと、柿田は彼の足元にある鞄に目がいった。革製だが、ランドセルではない。年季のはいったボストンバッグだ。
「それ、てめえの荷物か? ちょっと見せやがれ」
 柿田は机から下りて、ひょいと鞄を持ち上げる。ぼんやりと保奈美のほうを見ていた甘夏は反応が遅れて、腰を浮かしかけただけで奪い返そうとはしなかった。
 鞄の中身は、手帳や透明な小壜、駅前に置いてある地域のパンフレットなどなど、変哲もなかった――だが、妙に小汚い茶色の封筒を発見して、柿田は首をかしげた。
 これだけ時間の重ね方が違う気がした。
 何度も上塗りされた糊を剥がして、中身を覗いてみる。柿田は「うおおっ」と声を上げた。そこに入っていたのは、一万円札の束だった。
「あっ、おい。なにをしているんだっ」
 甘夏が血相を変えるが、柿田は気にせず枚数を数える。
 ちょうど二十枚。二十万円だ。
 柿田は口笛を吹いて、茶封筒を指で弾いた。
「こいつはラッキーだぜ。軍資金が舞い込んできやがった」
「ふざけるんじゃない。その金はだめだっ」
 つかみかかろうとする甘夏に、柿田はずいっと額を寄せた。小悪党の顔で言う。
「俺は今、金がねえんだよ。これを使わねえ手はねえだろうが。このままだったら計画はいき詰まんぞ。俺もてめえもガキも、断食(ラマダーン)することになるんだぜ?」
 甘夏はそこではじめて、うろたえたような顔を見せた。
「同じ誘拐犯じゃねえか? もうこうなっちまったら共同戦線を張るしかねえだろ。てめえがこの金を渡せば、ひとまずは仲間だと認めてやる。稼ぎだって山分けしてやるよ」
 共犯関係になるしかない――それは確かにやむをえない形で思っていたことだったが、「仲間だと認める」だとか「山分けする」だとかは真っ赤な嘘だった。とりあえずは二十万を入手しておいて、そのうちどこかで蹴落とせばいいと柿田は考えていた。
「………………」
 甘夏は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて、わかったともらした。
「よっしゃ、決まりだな。俺は柿田淳一。よろしく頼むぜ、ジジイ」
 柿田は早速、二枚ほど一万円札を引き抜くとジャケットのポケットに突っ込んで、ドアにむかって歩いていく。どこにいく、と訊ねた甘夏に対して必要なものを買出ししてくる旨を告げ、保奈美を見張っているようにと付言してから、事務所を出ていった。
 壁のむこうから、カンカンカンと機嫌よさそうに螺旋階段を下りる足音が響く。それを聞きとげたあとも、柿田が監視を命じたばかりだからだろう、保奈美は口をつぐんで身動き一つとろうともしなかった。初対面の老人――しかも誘拐犯――と二人きりというシチュエーションも、手伝っているのかもしれないが。
 そんな彼女は、甘夏の頬のたるんだ横顔を見る。
 伏せた目の印象をどこかで見たような――そんな気がした。


 一時間もかからないうちに、柿田は戻ってきた。
 調達してきたものは、携帯電話の電池式の充電器、二リットルのペットボトルや日持ちするパン類など。ちゃっかり煙草も買ってきている。
 腹が減っては戦はできぬということで、三人はおにぎりを頬張りはじめた。保奈美は両手が使えないので、柿田が口元に差し出してやる。与えられたものを精一杯口に含んでいる様は、どこか小学校の飼育小屋のウサギを思い起こさせた――昔の、少年だったころのことは、柿田としてはあまり思い出したくなかったけれど。
 食事を終えるころには、紫色の空のむこうで日が暮れていた。川の対岸から届く街の外光のおかげで意外と明るかったりしたのだが、柿田はろうそくにライターで火をつけた。お互いの顔が判別できるくらいまで室内が淡く照らされる。
 柿田はそのままくわえた煙草に火を移した。食後の一服の煙を、ゆっくりと虚空に浮かべる。携帯を開いて時間を確認すると、午後八時に引っかかるところだった。
 タイミング的には悪くない。煙草を踏み潰してから、柿田は悠然と宣言した。
「今から、電話をかけるぜ」
 どこに、と問うまでもない――保奈美の家だ。
 三人を囲む空気が研ぎ澄まされる。
 甘夏の視線を受けながら、聞きとったとおりに番号を押していく。柿田は迷わなかった。ププププと電波が繋がる先を探索する。忙しいのか、九回目のコールで運命の回線は開かれた。ただなんとなく、むこうでは夕飯の支度がされているような気がした。
『もしもし? 梨元ですけど』
 軽く鼻にかかった女の声。母親だろう。
 柿田は深く息を吸い込んだ。これから告げるのは、試合開始のホイッスルだ。これが響けば、すべてが終わるまで止まることはできない。定めのない試合時間の中を走りつづけなければならない。けれど、もはやいくしかない。いくしかないのだ。
(――おたくの娘は預かった)
 そう言おうとして、「お」の口をつくったときだった。

「――……家に帰りたくない」

 保奈美がぽつりと呟くのが聞こえた。
 柿田と甘夏は同時に彼女のほうを見る。
 その澄んだ瞳は、寂しげな揺らめきを湛えていた。

       

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