(6)
静けさの中にどこか華やかさが漂う住宅街。瀟洒(しょうしゃ)な家から生垣のある古い屋敷まで、新旧様々だが軒並み大きな家が立ち並んでいる。一台のセダンが停まったのは、そのうちの無機質な佇まいの邸宅の前だった。
「これが勝ち組ってやつか。薄給の俺たちとは雲泥の差だな」
全体を舐めまわすように眺めて、セダンから下りてきたひとりの中年男が言った。同様に運転席から出てきた青年が、のんきに同意する。
「そっすねえ。ここの人にしてみれば、独身寮なんて豚箱みたいなもんなんでしょうね」
「おい、吉見(よしみ)。我々にあるまじき発言だぞ」
「ええっ、先輩が言い出したんじゃないですか」
「俺はそんなこと言っとらん。早くいくぞ」
男は吉見を連れ、門扉をのけてポーチへと階段を上っていく。すると玄関口のところでドアが開いて、高級そうなグレーのスーツを着た男性が出てきた。
目が合ったので、中年の男はとりあえず警察手帳を開いて見せた。
「どうも。西津田署の蒲郡(がまごおり)と申します」
「部下の吉見です」
男性はじろりと二人を見やったあと、おはようございますと嫌そうに言った。眼鏡の細いフレームに、知的かつ冷たい印象を受ける。なんだかいけすかないな、と心の中で蒲郡が鼻を鳴らすと、今度は中のほうからパタパタとスリッパで走る音が近づいてきた。
「あなたっ! どこにいく気なの?」
手をつかえて身を乗り出してきたのは、三十代らしき女だった。ブラウスにギャザースカートという出で立ちに、大人の色香を感じる。これで小学生の母親だというのだから、時代は変わったなと蒲郡は思う。自分の小さいころといえば、母親はすべからくトドみたいだった。
「どこって」女の夫が答える。「会社に決まっているじゃないか」
「そんな、なにもこんなときにいかなくたって」
「プロジェクトの重要な時期なんだ。責任者の僕が休むわけにはいかないんだよ」
「でも……」
「それに、僕が家にいてなにかが好転するのかい? そうとは思えないな」
なにか言いかけた妻を無視して、夫は門扉にむかって階段を下りていく。リモコン操作によりガレージが開く機械的な音に混じって、夫の声が聞こえた。
「刑事さん」――娘を頼みます、と願いを込めるのかと思ったが、やってきたのは「このセダン邪魔なんですけど」という迷惑そうな言葉だった。吉見が慌てて乗り込みガレージの前から移動させる。その後ろからレクサスが面長の顔を出し、市街地のほうに加速をつけて走り去っていってしまった。
「勝ち組ってのも、難儀なもんだな」
白い背中を見送った蒲郡はそう口の中で呟いて、妻のほうに振り返った。
彼女は視線に気づき、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。主人のはああいう人で……私は妻の佐恵子(さえこ)です」ドアに背中を張りつけ、玄関へ誘うようにして言った。「どうぞ、中に」
通された梨元邸は開放感のあるつくりだった。入ってすぐ右に階段があり、二階の天井まで吹き抜けている。リビングに足を踏み入れると、すでに数人の同僚がいた。蒲郡は彼らと目配せしてから、ソファに腰を下ろした佐恵子に訊ねた。
「では……奥さん。お手数ですが、昨日のことをもう一度話してくださいませんか」
佐恵子は小さく頷いて、語りはじめた。
「昨日の夜……」
昨日の夜――何者かからの電話を受け、子機を手にとった佐恵子は、最初は怪訝に思った。むこうがなにかを言いかけて、直後に息を呑むような気配を感じたからだ。しかし、かけ間違いだろうかと思ったのも束の間、『おおおたっ、おたくの娘は預かった!』とやけに慌てた男の声が飛び込んできて、一瞬思考が宙をさまよった。
なにを言っているのだろう?
保奈美はちゃんと家に……――いや。
いない?
思い返せば。
思い返せば、今日は朝を最後に娘の声を聞いていない。習い事もない日なので、この時間帯は家にいるはずだった――けれど、実際の家の中は耳が痛くなるほどにしんとしている。ふと振り返ってみれば、明かりは自分のいる台所しかついていなかった。リビングの暗がりの中に、喩えようのない不気味な孤独感を覚える。
――急に呼吸がしづらくなった。どうして気がつかなかったのか。
佐恵子は娘の名前を呼びながら家の中を歩き回った。一階にはいない。階段を上り、奥にある子ども部屋のドアを開いた……そこは、真っ暗だった。震える手で天井の蛍光灯を起こすと、照らし出された勉強机やベッドは朝に見たっきり、なにも動かしていないそのままの状態で娘の姿はなかった。黒のランドセルすらも見当たらない。
娘は――帰っていない。
それを認識したとたん、胸のうずきは焦燥感に変貌し全身に延焼した。かっと内側から熱くなる。佐恵子は思い出したように子機を耳に押し当てて叫んだ。
「あのっ、娘を、保奈美を預かったってどういうっ!」
『オイ聞いてんのか――ってうわ! いきなりるっせえんだよ!』
「保奈美は、保奈美はどこに……」
『だから誘拐したっつってんだろうが!』
誘拐――。佐恵子は言葉を失った。膝から力が抜け、すとんとカーペットにお尻を下ろしてしまう。ときおり茫然とした思考の停滞をはさみながら、娘がさらわれたという事実を頭に飲み込ませていくのに、長い時間を要した。ゆっくりと再び子機を耳に当ててみても、そのころにはすでに通話は切れていた。下ろした手のひらの中から子機が転げ落ちて、そのまま佐恵子は動けなくなってしまったのだった。
それから何分、何時間経っただろうか、いきなり肩をつかまれて振り返ると、夫の義孝(よしたか)が不機嫌そうに立っていた。鍋が噴いて自動で火が止まっていたぞ、と非難する声をさえぎって、佐恵子は彼にすがりついた。しどろもどろになりながらも状況を説明すると、義孝はわずかに驚きの色を見せたものの声音は冷静だった。
「警察には連絡したのか?」
「う、ううん。まだだけど……」
「なにやってるんだ。早くするぞ」
「でも、待って。そんなことしたら保奈美がなにをされるか……」
「だからって、僕らにどうこうできる問題じゃないだろう」
そう言った義孝はすぐさま一階に下りていき、一一〇番を押して――
「――それで、今に至るというわけですね?」
「……はい」
ふむ、と蒲郡は思案する。
誘拐自体はそう珍しいことじゃない。年間の失踪者は十万人にも上るとされている。届出されていないものを含めると、それ以上。すべてがその手の犯罪の被害者というわけではないが、ある一定の割合を占めているのは確かだ。遺体の未発見、人身売買、監禁……色々あるが、犯人のほうから接触してきたということは、少なからず交渉や対話を望んでいる――身代金目的の犯行と考えていいだろう。
それなら、誘拐された娘にクリティカルな危害が及ぶ心配は、少しは薄らぐはず。
「奥さん」蒲郡は血の気の少ない佐恵子に言った。「大丈夫です」
「そんな……本当に?」
「我々の威信にかけて、娘さんは必ず助け出します。信じてください」
信じるもなにも、自分たち以外に頼れる機関は日本にはない。佐恵子が頷くのを待ってから、蒲郡はつづけた。意識して笑顔をつくりながら。
「ありがとうございます……しかしこういう場合、事件が事件ですから、公然と捜査開始とはいきません。ここをその拠点として使わせていただきます。いいですね?」
蒲郡は佐恵子を見つめた。彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り、唇を噛むようにしたあと「よろしくおねがいします。娘を、保奈美を助けてください」と深々と頭を下げた。その動作だけで、彼女がどれぐらい娘を大切に思っているかがわかった。さきほどの夫との奇妙な温度差が、それを際立たせているような気もする。
蒲郡は、ぼんやりと義孝の顔を思い浮かべた。妻が引きとめた理由――娘の安否をもっと深く案じてほしい、という思いもさることながら、少しでもそばで不安を共有できる存在がほしい、という表面には現れない想い――それに気がつくことができなかったのだろうか。いや、気づいていてもなお、わざと無視していたのかもしれない。
(……しかしまあ、そんなこと考えている場合じゃないか)
気を取り直して、蒲郡は吉見に必要な機材の調達を命じた。その日のうちに佐恵子の見たことのない装置が次々と運び込まれ、リビングはだいぶ様変わりしてしまった。観葉植物や薄型テレビだけが、ここが生活の場であることを細々と訴えていた。
そうして――『梨元保奈美誘拐事件捜査本部』はひそかに設置された。
柿田は幾度目かもわからない「どうしてだよ」を言った。
その答えはずっと変わらず、沈黙だ。苛立った柿田が机を蹴っても、保奈美の口は震えはするが開こうとはしない。蛤(はまぐり)みたいにきゅっと薄桃色の唇を結んでいる。
ちなみに、彼女の両手両足はガムテープの縛めから解放されていた。柿田はかなり不承不承だったのだが、甘夏が提案したことだった。それは、野生に戻りたがっている獣から鎖を外すのと同じで、下手をすれば次の瞬間にはどこかへ逃げていってしまうかもしれない。しかしあのままではなにかと不便ではあったし――そもそも保奈美の言葉を信じるならば、彼女にはリードも首輪も必要ないのだった。
なぜなら、彼女は逃げないのだから。
そう、あのとき彼女は確かに言った――家に帰りたくない、と。
戯言や冗談で言っているようにも思えず、かといって状況的に即座に信じることのできることでもなかった。しかし、十全に自由になっても変わらない保奈美のおとなしさは、結果的に彼女の発した言葉の硬度を高めるもので、しだいに「なぜ?」という疑問が湧き上がってきた。両親が迎えてくれる裕福な家よりも、小汚い男と見知らぬ老人のいる狭苦しい部屋のほうがいいとは、どういうことなのだろう――?
だが、その続きを聞こうとしても、保奈美は今みたいにだんまりを貫いていた。つい唇からこぼれてしまったけれど、それより先は話したくないということだろうか……とにかく、このおかしな膠着状態は二日間つづいている。彼女の答えしだいで計画に良かれ悪かれ影響が出てくるのだが、柿田としても手は出し尽くした感じだ。
「…………」
柿田はふと、後ろに座る甘夏のほうに首を回してみた。援護を求めたつもりだったが、考え事をしているらしい彼の眼中にはみごとに入っていなかった。その瞳の奥には、やはり嫌なものが潜んでいる。
ふぅー、と溜息をついて柿田はポケットをまさぐった。しかし取り出したのは、くしゃくしゃになった空の煙草のパッケージだった。舌打ちをして立ち上がる。
「ちょっと買い出しいってくるわ」
そう言い置いて、柿田は乱暴にドアを閉めて出ていった。