Neetel Inside 文芸新都
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      (7)


 木曜日の五年一組の五時間目の授業は体育で、今日はドッジボールだった。
 最後のひとりの必死の抵抗もむなしく、ボールが当たって勝負が決する。勝ったチームの女子がきゃあきゃあと手を叩き合ったのも一寸だけで、すぐに号令がかかって整列した。
 新米教師の若杉(わかすぎ)がぐるりと見渡して言った。
「もうすぐチャイムが鳴るから、これで終わり。みんな早く着替えて、次の時間に遅れないようにしてね。あと、体育委員の人は後片づけ手伝って? じゃあ解散」
 ぞろぞろと二十数名の生徒たちが、校庭を横切って昇降口にむかっていく。
 そんな集団から外れて、杏藤瑠南(あんどうるな)はコートの上に転がっているボールを拾い上げた。白いショートパンツという生徒よりも露出の高い格好をした、若杉のほっそりとした背中を追って体育倉庫へと歩き出す。
 体育委員の仕事はなにかと面倒だ。結構汗をかいてしまったので、早く戻ってデオドランドスプレーのお世話になりたい。ショーツのずれとかも気になるし……などと思いを巡らせていると、後ろから肩を叩かれた。
「杏藤、勝手にボール持ってくなよな。石灰のほうが重いの知ってんだろ」
 係や委員会は、クラスごとに男女ひとりずつで編成される。同じく体育委員の梅村雄大(うめむらゆうだい)がローラーを牽きながらこっちを見てきた。都会的な顔立ちだが、内面の垢抜けなさは他の男子と五十歩百歩だ。
「だったらいいじゃん」瑠南はそっぽをむいて言った。「男が重いほう持つのは常識でしょ」
「ちぇ、こんなときだけ都合よく女を出すんだもんな。今日、何人倒したっけおまえ?」
「えっと、十人?」瑠南はボールを投げる真似をする。「若杉先生も入れると十一かな」
「そうだよ。そんだけやったヤツが女なわけないんだよ。男の仕業だぜ」
 瑠南はとりあえず、手に持ったボールを振り下ろして雄大の頭を陥没させてから、「いってえな!」と怒りをあらわにする彼を無視してつづけた。
「私はただ運動が得意なだけだし」
「杏藤ってなんか部活入ってたか?」
「うん、今はバスケ。夏は水泳やってた」瑠南はシュートを打つようにボールを頭上に放ってから、器用にリフティングをはじめる。「あんたはサッカーだっけ?」
「おう。クラブチームだぜ。部活でぬくぬくやってる暇なんかないね」
「うわ……ウザ。ちょっと女子の前で格好つけれたからって、チョーシこきすぎ」
「今日は面子がよかったんだよ。なんせ、あのウンチがいなかったからな」
 ウンチ――当然ながら運動音痴の略だが――と雄大が呼ぶのは、梨元保奈美という女子のことである。だいたい今日みたいな男女混合のチーム戦になると、なぜかいつも仲間になってしまい、雄大は彼女の危うい動きにやきもきしなければならなかった。手とり足とり教えてやっても、次の授業のときにはすっかり元に戻っているのだ。すると手を焼いてやるのが馬鹿みたいで……とにかく、彼にとってむかっ腹の立つ相手だった、梨元保奈美は。
 それは、瑠南としては呆れるしかないような話だけれど。
 けれど――そんな親友(かのじょ)はこの二日間、学校にきていなかった。

 ――梨元さんは、軽くけっこうな病気を患ってしまって、しばらくお休みになります。

 二日前の朝のホームルームで、若杉がそう言った。ふだんはいかにも学生気分が抜けきっていない感じの口調で話すのが、そのときばかりは教職者らしいかための声だった。軽くけっこうな病気ってどっちなんだよ、と瑠南が思っていると男子のひとりが手を上げた。
「はい。なにかな?」
「しばらくって、どのくらいなんですか?」
「ああ、ええと……」若杉は見るからに狼狽しはじめた。なにかを捻り出そうとするかのように、胸の前で両手を握ったり組んだりした。「ごめんね、先生はわからないの。でも、みんなが応援してあげればすぐによくなると思うわ」
「じゃあ、みんなでホナちゃんを励ましにいきたいです」
「病院ってどこですか?」
 男子とは逆方向から、今度は女子のひとりが挙手して、もうひとりが繋いで言った。すると若杉は完全に墓穴を掘った人間の顔になって、目が縦横無尽に白目の海を泳ぐ。さすがに不審に思って生徒たちがざわめきはじめたとき、教室のドアががらりと開かれた。
 入ってきたのは教頭だった。
「えー、みなさんお静かに。梨元さんはまったくもって命に別状はありませんが、面会謝絶となっております。ご家族の方しか会えないんです。だから、みなさんはここで梨元さんの快復を祈りましょう。そうすれば、きっと願いは届くはずです」
 教頭が落ち着き払ってそう言うと、教室は礼拝堂にも似た静けさに包まれた。それを満足げに見回してから、教頭は縮こまっている若杉に手招きをした。彼女は安堵の表情とともにそそくさと教頭に近づいていって、耳を貸す。何か一言二言交わしたあと、若杉がぺこりと頭を下げて、教頭は教室を出ていった。
 落ち着きを取り戻した若杉は、いつもどおりに授業をはじめた。生徒たちが教科書を机から引っぱり出す中で、しかし、瑠南だけは頬杖をついて若杉の顔を見つめていた。
 ――教頭が事情を聞くまでもなく助け舟を出せたということは、彼はずっとここの様子をうかがっていたということだ。ドアの陰にでも隠れたりして。はたして一生徒の長期病欠の知らせに、そこまで準備するものなのか?
(なーんか変な感じ……)
 と――瑠南はそのときから今日まで、どこか釈然としないものを抱えてきていた。若杉からそれとなく聞き出そうとしてみたのだが、はぐらかされている節があった。
 ならば、ここは動いてみるのも一つの手なのかもしれない。足を使って確かめれば、すぐにわかることだ。彼女は前を歩く若杉に聞こえないように、雄大に囁いた。
「ねえ」
「ん?」
「今日さ、ホナちゃんちにいってみない?」
「はあ? なんでだよ。梨元には会えないんだろ」
「……へえ、会いたいんだ? だよね、心配だもんね」
「会いたくなんかねーしっ。心配なんかしてねーしっ」
 無駄に声を大きくする雄大を見て、釣れたな、と瑠南は目を光らせた――と。
「杏藤さん、梅村くん。こっちだよ」
 体育倉庫に着いたらしい。若杉が鍵の束を揺らしつつ、ふたりを振り返る。そして直後に「あっ」と声をもらした。その視線の先を追って、瑠南と雄大も後ろを見る。口を閉じ忘れたローラーから引かれた白線が、延々とコートから体育倉庫まで描かれていた。足跡を残すように――なんの前触れもなく教室にこなくなった親友とは正反対に。


 傾きかけた日を受けて、廊下の内側に連なる教室の窓ガラスが茜色の光を反射していた。それが直射のものと溶け合って廊下を朱に染めている。
 今日は雄大が日直当番で、学級日誌を若杉に渡すために職員室にむかっている最中だった。瑠南はそれに同伴している。むろん、昼の約束のためだ。
「なあ、やっぱり梨元んちいくのか」雄大が自信なさげに言った。
「当たり前じゃん」
「面会謝絶って言ってたけど」
「だから、ホナちゃんのお母さんに聞くだけだって」
 瑠南がそう答えたところで、職員室が見えてくる。閉めきられたドアに手をかけたときだった。木板のすぐむこう側から先生同士の話し声が聞こえてきた。
「あのときはほんとテンパッちゃいました。教頭先生に助けられましたよお」
 若杉の声だ。二日前のことであろうことがわかって、瑠南は雄大に中指を唇に当てて見せながら、ドアに耳を添える。なんとなく、この会話の内容が先日からつづく違和感を解消させてくれそうな気がした。後ろで雄大も自分に倣うのがわかった。
「若杉先生も大変ね。ふつうは低学年からなのに、初めて受け持ったのがいきなり五年生で、さらにあんなことまで起きちゃうんだものね」
「まったくですよ。森脇先生、今からでも代わって下さいませんか?」
「そんな、いやよお。……にしても、びっくりだわ。まさか梨元さんがね」
「ほんと……誘拐されたなんて、信じられないです」
 梨元保奈美が――誘拐された?
 瑠南は自分の耳を疑った。信じられないのはこっちのほうだと言いたかった。けれど確かに、若杉は『誘拐』という二文字を口にしたのだ。その証拠に、雄大が驚きのあまりぐんと身を乗り出すのが見えた。今にも会話に飛び込んでいきそうな体勢だったので、瑠南は片手で制する。教室で罹病という嘘をついたからには、真実を伝えるわけにはいかない事情があるはずだ。ここで生半可に関わるのは得策ではなかった。
 かすかにくぐもった声で、ふたりの先生の話はつづく。
「事件の性質上、やっぱり公にはできないみたいね」
「だからって刑事さんたち、生徒にはうまくごまかしておいてくれってムチャ振りすぎますよ。アホですよ。私たちにも緘口令が敷かれちゃってるし」
「あ、そうだったわね。じゃあ、この話するのもよくないかも」
「そうですね」と若杉が頷いたあとは自然と週末の女子会についての話題に移っていったので、タイミングを見計らって、たった今やってきましたというふうに瑠南と雄大は学級日誌を若杉に提出した。手の震えが伝わるかと危惧したが、彼女は気にかける気配もなく、にこりと笑う――しかし間近で見て気づいたのが、彼女の目元に化粧で隠しきれない心労の名残があることだった。案外いい先生なのかもしれないな、と瑠南は心の片隅で思った。


 昼の約束は叶わず、代わりに新しい約束がふたりのあいだで交わされた。
 ――梨元保奈美のことは、決して誰にも話さない。
 他言無用ということは先生たちが言っていた。ならば自分たちに例外が認められるはずがない。疑問が消え、真実を知ってしまったからといっても、かえってなにかが進展することはなくなってしまった。これならまだ嘘と知らずに受け入れていたほうがましだったかもしれない。病気なんかより、よっぽど未熟な心に重くのしかかってくる。
 瑠南と雄大は土手の上を下校していた。とぼとぼと、悄然と。
「……梨元のやつ、今ころどうしてるんだろ」
「そんなの知らないよ。無事を祈るしかないでしょ……」
「警察とか、ちゃんと助けてくれるんかな」
「だから……私たちには祈ることしかできないんだってば」
 いささか耳に押し込めるように言うと、雄大は黙ってしまう。瑠南もこれ以上は言葉にしたくなくて、彼から顔をそらして――ふと、前方を望んだときだった。
「あ……」
 遠くのほうで、土手へと伸びる石段を上ってくる人影を発見した。
 ブリーチしすぎた髪とやや猫背の姿は、記憶の浅いところから浮かび上がってくる。ついこのあいだストラップをくれた男と重なった。
 男の手には、スーパーの袋がぶら下がっていた。彼は周囲をちらちらと気にしながら、土手を横断していく。こちらには気づいていないみたいだったが、まるで人目を警戒しているような仕草に、瑠南はかすかに首をかしげた。
「なんだ?」目で追っているのに気づいたのか、雄大が訊ねてきた。「おまえ、あれのこと知ってるの?」
「うん。まあね」
 川のほうに土手を下りていった男は、そのまま奥の建物……というより廃墟に這入っていく。そこは近所でも有名な、おばけの出るらしい廃工場だった。二階の事務所に、真綿で首を絞められるように借金に苦しめられ、しまいには本当に首を吊ってしまった社長の霊が出るのだという噂だった。今じゃ誰も近寄らない――そんなところに入っていく、あの男はなんなのだろう?
「ね、梅村」瑠南は廃工場を見つめたまま言った。「あいつのあと、つけてみよっか」
 えっ、と雄大はのけぞった。
「ふざけんな。なんでそんなことしなきゃなんないんだよ」
 なんで――なんでだろう? 突然あの男に興味が湧いた、と言えればいいのだろうけど、その本質的な部分は、その発想に根を張る原因自体は、もっと別のところにあると思う。たとえば、そう――気を紛らわしたかったりするのだ。大事な親友が誰かにさらわれたことは、どうしたって深刻で心配で胸がひしゃげるようだけれど、だからこそ、その痛みにまともに立ちむかって耐えきれるとは胸を張って言えなかった。
「つか、二重に怖いんだけど。幽霊も、あんなヤンキーも」雄大が怒ったように呟く。
 瑠南は身をよじって、ランドセルの側面の金具を軸に揺れているストラップを見てから、小さく笑って彼にむき直った。
「大丈夫だって。あいつ、意外といいやつだと思うよ」


 天窓からぼんやりと光の筋が差し込んでいた。人工の天使の梯子だ。
 廃工場の中に、あの男の姿はなかった。そろりそろりと瑠南と雄大は進んでいく。鉄錆の臭いが足元から忍び寄ってくる。どこを触っても手が真っ黒になりそうだった。
 奥に螺旋階段を見つけた。二階のくだんの事務所へと繋がっているみたいだ。彼がいるとしたら、あそこだろうか。忍者めいた足取りで上っていき、ドアノブに手をかけたころには、心臓がばくばくと鼓動を早めていた。
 隙間程度にドアを開いて、中の様子を覗く。
 すぐに老いた人影が見えて、ふたりは飛び上がりそうになった。自殺したという経営者の幽霊だと思ったのだ。だがよく見てみると、彼のからだは透けてはおらず、ちゃんと床に足をついて長椅子に座っていた。それでも、ほっと息をついたのも束の間――今度は彼の対面方向を見て、さっきとは違う意味で飛び上がりそうになった。
(えっ……ホナちゃん!?)
 奥のソファの上に、梨元保奈美がいた。
 彼女はいずこかに絶賛拘束中だったはず。ということは、そのいずこかはこの廃工場で、あの老人は憎き誘拐犯ということになる。とりあえずふたりは隙間から一歩下がり、しゃがみこんで、最小限の声量で作戦会議をはじめた。
「おい、どうすんだよ杏藤! 梨元のいどころつかんじゃったぞ!」
「えっと、えっと……どうする? 助けちゃう?」
「どうやってだよっ」
「ほら、名探偵コナンみたいにさ、ボール蹴って相手を倒すとか」
「おれのスニーカーは市販品だ!」
「でも、あんたクラブチームでやってんでしょっ。そんぐらいやれよ!」
「ムリムリムリ! 第一、サッカーボールがない!」
「あんたの靴飛ばせばいいじゃんっ」
「一気にダサくなったな!? 絵面を考えろ、絵面を!」
 ――と議論を白熱させていた、そのときだった。
「オイ、そんなとこでなにやってやがんだ、てめえら」
 階下から男の声が聞こえた。

       

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