Neetel Inside 文芸新都
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      (8)


 柿田淳一は、かすかな焦りと色濃い怒りをもって、上階を見上げた。
 買出しから戻ってきて、部屋に上がる前に用を済ませておこうと思ったのだ。螺旋階段よりさらに奥まった場所に、小さな洗面所があった。しかも、水道局の杜撰な管理をすり抜けるように水が流れるのだった。保奈美がいきたいと言うときには、見張り番として柿田か甘夏のどちらかがついていくことになっていた。
 そこを経由して、さて上ろうかと思った矢先に、ドアの前に二つの小さな影を見つけたのだ。閉めたはずのドアはわずかに開いており、内部を見られたことは明白だった。
「……ガキか。てめえら、そこから動くんじゃねえぞ」
 ふたりを睨みつけながら、柿田は螺旋階段を進む。その途中で気づいたのが、男子のほうは初めて見る顔だったが、片方の女子の健康そうな容姿には見覚えがあることだった。
「おまえ……瑠南か?」
「ちょっと、あんた! これはどういうことなの!」
 ドアのむこうを指さして、瑠南は噛みついてくる。どうして自分の名前を知っているのか、までは頭が回らないらしい。柿田は髪の毛を掻きむしった。目撃者がいるだけでも頭が痛いのに、よりによってこの少女とは。扱いづらいことこの上ない。顔を腫らさせて黙らせるには、少々気分が乗らない。
 とはいえ、ここで話すのもなんだ。
「とりあえず中に入れ」
「きゃっ」
「うわっ」
 柿田は尻を蹴り出すようにして、ふたりを事務所に突っ込む。甘夏は外の会話からある程度感づいていたのだろう、一瞥しただけでなにも言わなかった。
 それと正反対の反応を示したのが保奈美だった。床に転げる同級生を見つめて、大きな瞳をさらに丸くして白黒させた。
「えっ……!? 瑠南ちゃん、どうしてっ?」
「ホナちゃんっ!」
 瑠南は身を起こすとすぐさま駆けていって、保奈美の華奢なからだに飛び込んだ。いまだに困惑顔の保奈美をぎゅうと抱きしめる。ソファのスプリングがぎしぎしと鳴る。
 ――無事でよかった。
「梨元っ」瑠南に遅れて雄大もやってくる。「おまえ、大丈夫か」
「あ……梅村くんも」保奈美が気弱そうに目をむける。
「心配したんだよ? ホナちゃんが誘拐されたって、先生たちが話してて……」
 瑠南は顔を離してそう言うと、後ろに鋭い流し目を送った。
 年齢から雰囲気まで、なにもかもが両極端なふたりの男がそこにいる。
「誰なんだよ、あいつら」雄大が呟くと、保奈美が小さく指さして教えてくれた。
「お兄さんが柿田さんで、おじいさんが甘夏さん」
「『さん』なんかつけなくていいよ」瑠南が唇を尖らせるのと、柿田が声をかけてきたのはほとんど同時だった。柿田の顔は不機嫌さが急に増していた。
「おい、おまえ今、先生たちが話しててっつったな? もう世間にゃばれてんのか?」
「先生たちだけ。私たちはたまたま知っちゃったの。ホナちゃんは病欠扱いになってる」
「……家が警察に連絡したんだ。教師たちは表向きを取り繕うように指示されたんだろう。世間的には、あの子はさらわれたことになってない。私たちを刺激しないためにな」
 ゆっくりと甘夏が言った。あのふたりを除いてだが、と瑠南と雄大を見る。
「あちゃあ。サツにチクッたら殺すぐらいのこと言っときゃよかったか?」
「無駄だろう。往々にしてそういうものだ」
「はぁん……? で、こいつらどうする?」
 瑠南たちのほうを指して柿田が言う。
「さあ。殺して下の機械の中にでも隠しておくか?」
 瑠南たちはびくりと肩を震わせた。
 一見穏やかそうに見えるけれど、そういう老人にかぎって、腹の中ではなにを抱えているかわからないこともある。突然の猟奇的な提案に、さすがの柿田も顔をしかめた。
 しかし――「冗談だ」と、すぐに甘夏は息をついた。「そういう選択肢もあるにはあるってことだ。私にはわからん。若造、判断はきさまに任せる」
 冗談に聞こえねえんだよ、と柿田が独り言めいて呟くのを見てから、なかば蚊帳の外をくらっていた瑠南は沈黙を縫って口を開いた。
 彼女たちにとっての本題に入るために。
 願望といってもいい。
「あのさ」
「あん?」柿田が応じる。
「このまま帰してくれたり、する? ……ホナちゃんも一緒に」
「………………」柿田の顔が般若みたいになった。
「ああっ、違う違う間違えた! えっと、だったら……質問。聞いたかぎりだと、あんたはこの誘拐犯……甘夏っておじいさんの仲間なんだよね?」
「逆だ。ジジイが俺の共犯者。そこは重要だぜ」
「ふぅん……じゃあ、二つ目。どうしてホナちゃんを誘拐なんかしたの?」
「はあ? そんなん教えてどうすんだよ」
「あ……私も、知りたいです」おずおずと保奈美も手を挙げる。
 柿田は考える仕草をした。
 瑠南はともかく、保奈美については当事者中の当事者なわけだから、知りたいという気持ちはわからなくもない――それに、わが身に降りかかった悲しき失恋の顛末を誰かに語ってみたいという衝動もないわけではなかった。どれだけ理不尽で不条理で無理無体なことか、知ってほしかった。
 柿田は一度、唇をなめた。
 

「かくかくしかじか――……つうわけだ。どうよ、俺ちょー不幸」
 語り終えた柿田は少年少女の顔を見た。
 ドン引きだった。
「……え、マジないわぁ」
「……男として最低だろ」
「……柿田さん、ひどいです」
「はぁっ!? なんだよそのリアクション! 壮絶スペクタクルじゃねえか!」
「いや、ちっさすぎて見てらんない」目をそらす瑠南。
「階段を転げ落ちるところとか、どこのセガール・アクションって感じだろうがよ!」
 必死に熱弁をふるっても、沈黙の事務所である。最終的には柿田が呆然としていると、となりから低く押し殺した笑いがもれてきた。甘夏だった。
「てめっ。笑い話じゃねえぞジジイ」
「いや――似ているな、と思っただけだ」
「…………?」
 誰と――どういうふうに? ――そこがわからなくて、その意味すらつかみあぐねるものだったけれど、それを問いただすのも興味を持ってしまったようでどこか癪だったので、柿田はそれ以上触れないことにした。
 すると、瑠南がうなだれて言った。
「なんかがっかりした。いいやつかと思ったら、こんなダメ男だったなんてさ」
「ストラップくれてやったのに……クソガキ」
「ホナちゃんも運が悪いよね。土手で会わなかったらさらわれずに済んだのに」
 だからこいつが突っかかってきたんだ、と言い返しかけて――柿田ははたと思い出した。確かあのとき、保奈美は別れたあと道を戻っていった。『寄り道』から帰るように。もしあの『寄り道』が、彼女の「家に帰りたくない」という言葉と繋がっていたとしたらどうだろう?
「そういえばさ」柿田は聞いた。「そいつが家に帰りたくないって言うんだが、どういうことだ? 瑠南、ダチならなんか知ってんだろ?」
 しん、と再び沈黙の幕が下りた。
「ホナちゃん……それって、やっぱり」
 瑠南が保奈美にむかう。やはり彼女だけはなにか知っているらしい。
「だんまり決め込むから、俺らも困ってんだよ。教えてくれや」
「……教えていいの?」瑠南が確かめるように聞く。すると、
「いい」
 保奈美には珍しく力強い声で言った。
 真相を知る者が現れて、観念したのだろうか。
 自分で話すから、いい――彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り、唇を噛むようにした。


 明確なはじまりは、ちょうど一年前の秋だった。
 そのころの梨元家はなんの歪みを持たない、その世代の親子としては理想的な家族像を映していた。父の義孝は幹部候補の真面目な会社員で、母の佐恵子は立ち振る舞いにそつがなく近所でも評判の淑女。そして、子の保奈美は可愛らしく品行方正な一人娘。
 陰口をはさむ隙間もない、それは確かに家族の理想像だった。少なくとも娘の保奈美はそう思い、両親を誇りに感じてもいた――しかし、その『像』はやはりただの『像』でしかなくて虚像だったのかもしれない。歪みは存在し、それはいつから潜みつづけていたのか、ひょっとしたら保奈美が生まれる前からかもしれなかった。
 ある夜、遅くに帰ってきた義孝が温め直された夕食をとっているときだった。テーブルのむかい側に座った佐恵子が、緊張気味に口を開いた。
「あのね、ちょっと相談事があるんだけど」
「なんだい。保奈美の習い事か?」
 ううん、と首を横に振ってから佐恵子はつづけた。
「私、もう一度働いてみようかなって思うの」
 義孝の箸がぴたりと止まった。まるで、佐恵子の言葉が彼の優秀な脳の処理機能を害したみたいだった。「どうして」と遅れて義孝は聞いてきた。
 佐恵子は就職後しばらくして、知人の紹介で義孝と知り合った。成果主義の仕事が楽しくなりはじめたころだったが、義孝は非の打ちどころのない男性だったし、母親や同僚などの強い後押しなどもあって、婚約指輪を受け取った。それから保奈美が生まれ、主婦業に専念してきたが、彼女が小学三年生になりほとんど手をかける必要がなくなったあたりから、また仕事をしたいという意欲が芽生え、葉を広げはじめてきたのだ。それを実現する状況も、友人を通して形をなしつつあった。
 それをかいつまんで話すと、義孝は言った。
「そんな。貯金は十分にあるし、君にはこの家を守っていてほしいな」
「……違うの。その、私が働きたいの」
 また一瞬、義孝の動きが固まり、すぐに薄い笑みを浮かべた。それはどこか妻にむける緩やかなものではなく、冷笑の気配さえ漂わせているような気がした。
「やめろよ、佐恵子。働くなんて、家事はどうするんだ?」
「ちゃんとやる。残さない」表情とは裏腹に高圧的な夫の口ぶりに、少しムキになって彼女は返した。「女性って、家事だけが仕事じゃないと思うわ」
「それは間違いだし、勘違いだよ。近ごろは女の自立自立って、馬鹿な人が多いけど」
「ちょっと……それって差別じゃないの? なんでダメなの?」
「君も馬鹿だな。考えてみろよ。どうしてこの国が、この世界が、そういう男主体の社会になったと思う? 人間がそういうものだからだ。たとえばライオンはメスのほうが狩りを担当するけれど、それはそういう進化の過程の産物だ。人間だって同じさ。長い歴史の中でそういうシステムが必然的にできあがっているだけなんだよ」
「そんな、屁理屈よ。あなたのほうこそ、頭が古臭いんじゃないの」
「……これだから女は。どうしてわからない?」
「わかってないのはそっちでしょっ?」
 ――と、ふたりの応酬はやがて口論にまで発展した。その様子を、パジャマ姿の保奈美は階段の陰からじっと見ていた。どんな言い争いがなされたのかはよく覚えていない。ただ、父が母の意思を快く思っていないことや、母がヒステリーを起こしやすい性格だということがわかった。けれどそれも、次の瞬間に網膜に飛び込んできた映像がショックすぎて、その大波に跡形もなくさらわれてしまった。
 義孝が、佐恵子を殴ったのだ。
 利き手の拳で、ちょうど彼女の左目のあたりを殴りつけた。鈍い音とともに彼女は床に倒れ込み、そのまま動かなくなる。顔の陰からすすり泣きがもれてきて――たぶん、にわかにダイニングに訪れたその静寂は、諍いの終わりを示していたのだろう。義孝がそこから立ち去ろうとする気配を感じて、保奈美は二階の自室に駆け込んだ。
 なにも考えることができなかった。ただでさえはじめて見る夫婦喧嘩なのに、立てつづけに起こる衝撃的な出来事が小さな胸を何度も揺さぶり、十才の、ことさら繊細な保奈美の心は原形を留めるのに必死だった。
 翌日の朝――朝っぱらから、佐恵子は化粧をしていた。左目の下は特に濃く、けれどどこか蒼く膨らんでいた。保奈美が見ていたことはどちらも知らないらしい。いつもどおりに見える食卓は、その実、いたるところに綻びが感じられた。昨夜の事件が家族の肖像にひびを入れたことは明らかだった。
 佐恵子は働くことを諦めたみたいだった。諦めたふりをしていた。表面上は以前と変わらない良妻賢母を演じていたが、やりきれない悲しみと悔しさがふと表情に滲み出ることがあった。それからも、保奈美の知らないところで両親は軋みつづけていたのかもしれない。いつしか義孝と佐恵子のあいだには深い溝が刻まれていて、その中心で保奈美は途方に暮れるしかなくなっていた。
 小学生にとって、親というものは一番身近な世界だ。その軋みは、自身の軋みでもある。そうして、母といるのも父といるのも辛くなった保奈美は、家にいることさえ抑鬱的に感じるようになった。
 ある日、そのことを親友である杏藤瑠南に話すと、だったら一緒に寄り道しよう、と誘ってくれた。家にいるのが嫌なら、家にいる時間を減らしてしまおう、と。
 あてもなく町を歩き、コンビニで買い食いをし、ときには公園のブランコに座っておしゃべりをする――そんな柔らかな時間は、光をかたどって保奈美の胸を優しく包み込んだ。瑠南が部活で一緒に帰れないときでも、ひとりで寄り道をした。真っ赤に染まる町並みや、ちょっとだけ緩んで感じる時の流れや、人々の豊かな表情を見るのが好きだった。そのときばかりは、悲しみの底に沈殿した気持ちを紛らわせることができるのだった。
 

「梨元……」雄大が寂しげに呟く声が残った。
 たどたどしくも語り終えた保奈美にむかって、柿田は紫煙を吐き出した。
 まずはじめに思ったのは――そんなもの、どこの家庭にもあふれている類の傷ではないだろうか、ということだった。無菌の家族なんていない。どこまでもまっすぐな人間がいないのと同じように。ある程度の不和や歪曲はナチュラルでもあるのだ。
 ――その種の問題に一家言ある柿田にしてみれば、保奈美の痛みを推し量ることも、理解することも、できなくもないけれど。投影も、できてしまうけれど。
 なまじ彼女が過ごしてきた理想的な時間を思えば、免疫体のなさを思えば、『家に帰りたくない』という言葉もわからなくはないが――とはいえ、さすがにそれは言いすぎな気がした。一方的な被害者の口にすることにしては、なにかピースが足りていない。
 その疑問を瑠南が代弁した。
「だからってホナちゃん。こんなやつと一緒なんだよ? 男の腐ったやつだよ?」
 私ならやだね、と指されて柿田は歯軋りをする。しかしそんな彼のほうを見て、保奈美はやんわりとした笑みを浮かべて「そんなことないよ」と言った。
「きっと、大丈夫だよ。なんだか私、柿田さんや甘夏さんがそんな悪い人のように思えないもん。こうやって自由にしてくれたし、ごはんも食べさせてくれるから」
 悪い人には思えない――だから大丈夫?
 柿田の顔に熱がこもった。ふいの保奈美の言葉に気恥ずかしく感じたわけでは間違ってもない。純粋に怒れた。おまえは悪党にもなりきれない半端者だと、そう揶揄されたように感じたのだ。なぜだか美月の叔父の顔が浮かんだ。美月の顔も投げかけられる。前者は蔑むように、後者は哀しむようにこちらを見ていた。たちまち惨めさが湧きかけた。
「ガキ……なめんじゃねえぞ。本気になった俺がどんなもんか、見せてやらあ。てめえの家からがっぽり金を奪いとってやるからな」
 できるかぎり悪質な響きを込めて、柿田は保奈美を見下ろした。本物の悪党になってやろうと思った。ふたりの浅岡を、その表情を振り払ってやるつもりだった。
 けれど。
「そんなんムリムリ」瑠南があっけらかんと手を横に振った。「今どき誘拐なんかしてうまくいくわけがないじゃん。昔のドラマじゃないんだし」
 虚をつかれたように口を閉ざした柿田だったが、すぐに虚勢を張ってみせた。
「おまえも調子に乗ってんじゃねえよ。ジジイは冗談で言っても、俺は違うかもしれねえぜ? 鉄錆くせえ棺桶で我慢できんのかよ」
「もういいよ、そういうのは」
 平らな眼差しをむけて、瑠南は言った。
 どうやら完全に見くびられているらしい。それとも、柿田の中途半端な人間性を見抜いているがゆえの優しさだったのだろうか。いずれにせよ腹の虫の居所が悪くなったが、「そんなことよりさ」と彼女が話を変えたので柿田は反論する機会を失ってしまう。
 瑠南はしたり顔で言った。
「これはひょっとしたらチャンスかもよ、ホナちゃん」
「チャンス?」保奈美が小口を開ける。
「この誘拐でさ、おじさんとおばさんに仲直りしてもらったらどうかな? 娘がさらわれたーってときなら、きっと心も寄り添うだろうし、そこにホナちゃんが帰ってきたら大団円間違いなしだよ。あの事件が家族の絆を取り戻してくれましたってさ、世界まる見えみたいになっちゃうよ」
 すごいと思わない? と保奈美の両手を握る瑠南のシナリオの中には、柿田たちの大団円は含まれていなかった。勝手に書き進めていくのはやめてほしいのだが……。
「私たちも協力するから、ね?」
 瑠南は雄大に目配せをする。彼は保奈美をちらりと見て、照れくさそうに頬を掻いた。
「……まあ、梨元がどうしてもっていうなら手を貸してやってもいいぜ……?」
 そしてすべてが完結したかのように、瑠南が柿田にくるりとからだをむけた。
「んじゃ、そういうことだから。今日は帰るね」
「……つまり、どういうことだってばよ」
 その脚本はあまりに簡単すぎる、だとか。どうしてこんな話になった、だとか。様々な思いが頭上をぐるぐると遊泳していた――けれど、小学生のちゃちな発想に文句を垂れても仕方がない。むしろここは大いに利用させてもらうべきなのかもしれない。
 とはいっても、確認は必要だが。
「そんなこと言って、帰したらまっさきにサツに垂れ込んだりすんじゃねえのか?」
「なに? してほしいの?」瑠南は真顔で言った。「してもいいけど、それじゃホナちゃんが家に帰りたくないままで終わっちゃう。今じゃまだ、なんにも変わらないよ。べつにいいじゃん。目的が違うんだし。私らは私らでこの状況を利用させてもらうだけだから」
 利用――どうやら、瑠南も柿田と同じ考えらしい。
 彼女は、保奈美と両親のための時間の置き場としてここを使う。対して柿田にしてみれば、本来ならば致命的であったはずの目撃者の出現がほとんど無効(チャラ)になり、それだけでも僥倖と言える。しかも彼には、あるひとつの秘計が閃いていた。
「じゃあ……本当にチクらねえんだな?」
「メンドくさいなぁ。そう言ってるじゃん、バカ」
 言葉づかいは脇に置いておくとして、瑠南の真剣そのものの表情は揺るがない。きっと、保奈美を思う気持ちも本物だろう。
 柿田は甘夏に意見を求めた。
「ふうむ」甘夏はあまり思案する様子を見せなかった。「信じてみてもいいんじゃないか? どのみち知られてしまってるわけだし、この子らの措置にしたって妙案があるわけでもないだろう? まあ、なるようになれってところだな」
「はぁん……?」
 捨て鉢――でもないのだろう。
「……わかったぜ。てめえの好きにしろや」柿田は不承不承といった感じで言った。
「はあ、やっと折れた。つかれたぁ」
 息をついた瑠南は、つづいて「……ん」と右手を差し出してくる。
 古典的な儀式だが、仕方なく柿田は小さな手のひらを握ってやった。
 そして――ひとまず柿田誘拐犯一派と瑠南友人一派のあいだに、不思議な同盟が合意される運びとなったのだった。

       

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