Neetel Inside ニートノベル
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 正直、逃げたかった。
 目の前の変態紳士は自分は本の中から出てきたと豪語し、チチボンなんて奇妙痛快な名をかたる。不幸三昧。まさにキョウコにとって今日がそう呼べる一日になることは間違いなしだった。
 しかし、兎にも角にもあの本だけは返してもらわなければならない。もう一生開くことはないかもしれないが、帰り道のドブに投げ入れるかもしれないが、きっと内容をみられたら男もバイト店員と同じように嘲笑うに違いない。そう思い、キョウコはそれとなく本を返すよう男に声をかける。
「あの、怪我はないですか。できれば本を返して欲しいんですけど……」
 あの投げつけたエクササイズ本はずっと男が手にしたままだった。顔の上にのっていたのをそのまま拾いあげたのだ。
「ん、別にいいけど僕を呼び出したんだしもう必要ないと思うよ」
「はぁ……」
 男はまだ訳の分からないことを繰り返す。もうこの調子じゃいつまで経っても返してくれそうにない。キョウコは無理矢理にでも取り返そうと本に手を伸ばした、が。
「おっと、もしかしてまだ信じてくれてない? ちゃんと本はじめから読んでないの?」
 そう言って男は本を高く持ち上げてしまった。あの高身長だ、キョウコの背ではジャンプしても届きそうにない。それでもキョウコはなんとか手を伸ばして取ろうとするが、まるでいじめられっ子のような構図になってしまう。こういう時も胸がないので男にあたってしまうことはない。
「いいから返してください!」
「ちょっと待ってね~」
 そう言って男は本を高く持ち上げたまま捲り出した。
 ああ終わった……。世界の終わりだ。バルスされた。キョウコの天空の城が急降下してくるぞ。
 キョウコは絶望モードに陥り、伸ばしていた手をだらんと降ろした。もう私を馬鹿にでも何にでもするがいい。
「あ! あったあった!」
「なにがあったんですか……」
 男は目的のページをみつけたらしく、キョウコとは真逆にテンションMAXだ。
 あぁ、もう本なんてどうでもいいや。とりあえずこの場から去ろう。そうキョウコが思っていた矢先、男が目の前にページをどんと広げ、みせつける。
「これ! 俺! チチボン! 俺!」
 外国人のような名詞連呼にキョウコが仕方なくそのページを目にすると、驚くことにたしかに本のイメージキャラクターのようなものとして「チチボンくん」がそこに載っていた。女性の胸をイメージしたゆるキャラらしきそれは、男が名乗っていたものと同じ名前だ。
 男がこの名前を知っていたことに説明はつかないが、それでも本の中から出てきたなんて……。
「まだ信じられないかい?」
「当たり前です」
 キョウコは踵を返して足早にその場を去ることにした。もう付き合ってられない。どいつもこいつも私をバカにして! どうせあの名前だって本をぶつけた際にたまたま目に入ったに違いない。
「その本ならもういりませんから! 気に入ったんならどうぞあげます! さようなら!」
 キョウコは足を早めた。その言葉をさいごに男とは縁を切りたかったが、しつこいことに男はなおもキョウコの隣を小走りでついてくる。
「呼び出しておいて、それはないよ~。怒ってるなら謝るからさ」
「怒ってるってわかってるならついてこないでくれますか」
 怒りに狂った女の子の顔ほど恐ろしいものはない。さすがの男もその表情には少し怖気付いたが、ここで引き下がるわけにもいかないのだった。少女の使命のためにも。
「いや、君にはおっぱい少女になってもらわないと……」
「セクハラですよ、ケーサツ呼びますよ」
「いや……ちょっと待って、それは」
 そんなところに偶然か、いや必然か、あるいは天誅か。キョウコと男の目の前数十メートル先に警察官二人が姿を現したではないか。
「あ、ちょうどいいところに。あと十秒以内にどっか行ってくれないなら本気で呼びますよ」
 直後、キョウコのカウントダウンが始まった。それは男の社会的死刑までのカウントダウン。
 10
 9
 8……。
「ちょっと話を聞いてくれないか、君にはおっぱい……」
「おまわりさーーーーーん!!!!!!」
「ちょっ!? 十秒経ってない!」
 キョウコのカウントダウンはセクハラ発言で有無を言わさずゼロになるのだ。みんなも覚えておこう。
 しかし、男にとって奇跡か、天の救いか。そのキョウコの声は警察官へと届かなかった。
 
 ――パーンッ!!
 
 警察官のひとりが放った銃声によって遮られたのだ。キョウコも男もその瞬間、あまりの出来事に身を動かすことが出来なかった。
「えっ……なに、事件?」
 強盗か、あるいは殺人犯か。とにかく警察官が発泡するなんてよっぽどの大事に違いない。キョウコは少し足が震え出し、さっきまで変態としか思ってなかったチチボンと名乗る男さえ、近くにいてくれることがこころ強く思えた。
「近いぞっ」
 チチボンが真剣の表情で、さっきとは聞き違えるような引き締まった声を出す。何も感じられないキョウコはただ慌てることしかできない。
「え? ……なにが?」
「もうあーだこーだ言ってる暇なんかない。君、名前は?」
「こんな時に何言ってるんですか、とにかく逃げないと」
「銃なんて利く相手じゃないよ。あいつらを倒せるのはおっぱい少女、君しかいない」
「あいつらってなんのことよ、私にそんな力ないし、胸だってないし!」
 直後、銃声と違う大きな音が響き、二人は前を振り返った。
「今度はなに!」
 見れば近くの家が破壊され、砂煙がたちこめ、地面には先程までの警察官が無残にも倒れている。
「えっ、嘘……」
 その砂煙のあいだから垣間みえた一人の影。太い鉄柱のようなものが頭から生え、片手で車を一台を持ち上げてるではないか。
「化物……」
「そう呼べる類のものだろうな。マナを与えられた人間が暴走しているのだろう」
 男はなぜか冷静であった。そして、“アレ”の正体知っているかのようだ。
 危険を感じたキョウコはその場をすぐに逃げようとしたが、足がうまく動かない。どうしてこんな時に!
「君……」
 男が声をかけてくる。なんでこんな状況にも関わらずこんなにも落ち着いているのか。キョウコはそれが不気味にも感じた。
「希望のバストサイズは?」
「は?」
 こんな時になにを言ってるんだろう。もしかして死を覚悟でどさくさに紛れて変態するつもりか。なんなんだよ、こいつ!
「何カップになりたいと聞いているっ!」
「ひぃっ!、Hカップ!」
 突然男に大声を出されて驚いたキョウコは思わず答えてしまった。大声でなにを言ってるんだ、この変態紳士は。
「Hか……ずいぶんと高望みだな」
「う、うるさい」
 目の前では車が投げられ、家が破壊され、人々の叫び声が聞こえてくるというのに、なんでこんな会話をしているのだろう。あぁ、こんな会話を最期に死にたくないよ。そんな風にキョウコが項垂れていると、ふいに男から何かを投げ渡され、反射的に両手で受け取ってしまう。
「なに? これ」
 男が投げてきたのは紅く光る宝石のようなものが埋め込まれたネックレスだった。
「選ばれし少女よ、運命の鼓動を感じ、戦え」
「ちょっと何いっ……ッ!」
 その瞬間、キョウコに衝撃が走った。身体全体が揺れた。胸は揺れなかったけど、周りの空間に亀裂がはいったような大きな鼓動を感じたのだ。
「な、に……これ……」
 それは味わったことのない感覚だった。鼓動は心臓の高まりと同調するように、連続して震える。
「何も恐れることはない」
 男のその言葉が現実になるように、キョウコの足の震えは収まっていた。ただただチカラが漲ってくるような気がして、キョウコの全身を支配する。
「レットイットビー! なるがままに唱えよ! おっぱい少女よ!」
 二度と口にするはずがなかった言葉が、キョウコの脳裏を過ぎった。
 この言葉を唱えれば、どうなるのか、よくわからなかった。ただそのことに恐怖は感じなかった。何も怖いものはない。なにかに背中を押されるように、キョウコはその言葉を声にした。
 
「チチクル! ミラクル! 本気を出せばHカップ!」
 

       

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