Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 まるで世界が死んでしまったかのような、耳に痛いほどの静寂で目を覚ました。昨夜深酒をしたせいか妙に寝覚めが良い。意識のまどろみもなかった。
「寒っ……」
 室内なのに息が白く染まりそうなほど冷えている。違和感を覚えて窓を開いた。一面綺麗な銀世界。真っ白にさんざめいている。共に佇む無音の中に深々と雪が重なる音だけが響いていた。
 そう言えば今は何時だろう。私は時計に目をやった。
「あぁっ!」
 午前十時! 完全に遅刻じゃないか!
 急いで着替え、部屋を飛び出した。スマホのアプリを使って次の電車までの時間を調べようと思い立つ。きっと部長から怒りの着信も重なっている事だろう。
 と、スマホを見て足を止めた。
 メールはおろか、着信一つない。
 何でだ? 私が部内で空気みたいな存在だから? いや、さすがにそれはないか。
 雪道を足早に進む。雪遊びをするには十分な積雪量だ。例え時間通り駅に着いたとしても電車の遅延は免れないだろう。
 狭い小道から大通りへと出た。ここから道なりに行けばすぐ駅だ。
 まっさらな雪の上を淡々と歩く。街の様子を見て色々と引っかかるものを覚えたが、あまり探らずに先を急ぐ事にした。
 駅前まで走って、初めて違和感の正体に気がついた。
 私はゆっくりと振り返る。
 真っ白な地面に、私の足跡がくっきりと残されていた。全く汚れのない雪の中に、私の足跡だけが一つ。
 道路には、依然として美しい新雪が保たれている。
 私は周囲を見回した。
 そうだ。
 誰も居ないんだ。
 どうして今まで気づかなかったのか自分でも不思議でならない。今日は誰も見なかったし、すれ違いもしなかった。車だってもちろん走っていない。
 雪が降ったっていつもなら道路はすぐに除雪されるし、歩道にある雪は通行人に踏み固められて滑りやすくなっていたはずだ。でもそんなこと、まるでなかった。
 一体どうなっているんだ。心の中に妙な不安が湧き上がる。それでも私は会社に向かうことにした。サラリーマンとは悲しいかな、世界の異質さに気がついていても出社する足を止められない生き物である。それはもう何千回と歩いたこの道を進む事が日課になってしまっているからだし、会社と言う大きな存在がなければ自分はまともに生きていくことすらできないと内心理解してしまってもいるからだ。
 駅に入るがやはり駅員の姿はどこにもなく、もちろん利用客の姿も見当たらない。それでも電気は通っているらしく、改札口に定期を通してみると難なく開いてホームへと進む事が出来た。
 電子掲示板にはいつもの様に電車の到着予定時刻が記されている。不思議な事に、これだけ雪が降っているにもかかわらず遅延している様子はまるでなかった。
 本当に電車など来るのだろうか。一抹の不安を抱えながらも、時間になるのを待つ。一分前になってもホームに放送はかからない。
「来るわけないか……」
 諦めて帰ろうかと踵を返すのと同時にどこか遠くから聞き覚えのあるブレーキ音が鳴り響いた。振り返る。いつもの電車が、さも当たり前かのようにやってきていた。
 なんだ、やっぱりたまたま人が居なかっただけで、ちゃんと交通の便は機能しているじゃないか。安堵の息を吐きかけたが、次に見た光景にギョッとして息を呑んだ。
 電車が目の前を通り過ぎる、その瞬間。運転席に雪が降り積もっていたのを私は確かに視認した。あんな状況では、前方の安全確認はおろか運転など出来るはずがない。
 電車は規定の位置に、正確に停車した。ゆっくりとドアが開く。
 乗るべきかどうか迷った。こんな物に乗って、どこへ連れて行かれるか分かったものではない。ただこれに乗らなければ先に進めない訳で、ろくに運転も出来ない私にはこの雪の中を進む他の選択肢はなかった。
 しばらく待つと発車ベルも無しに電車の扉が静かに閉まった。車両を見渡す。当たり前と言っていいのかわからないが、やはり誰も居ない。運転席がどうなっているのか気になって先頭車両まで行って見たがカーテンが閉まっておりその様子を探る事はできなかった。拍子抜けだ。
 私は近くの椅子に腰掛けると、深く息を吐いた。家を出てからずっと走りっぱなしで、いつの間にか額からは汗が出ている。やがて電車はゆっくりと進みだした。
 電車の揺れる音が響く車内は適度に暖房が効いていた。誰もいない電車にはいつまでも乗っていたくなる不思議な居心地の良さがあった。
「みんなどこに行ったんだろう……」
 向かい側の窓に映る景色を眺め物思いに耽る。
 街に大きな警報が出され、誰も彼もが避難してしまったのではないだろうか。だとすればこの電車は何なのだろう。なにか特殊な緊急用のプログラムで動いているとか? 私は自分の考えを鼻で笑った。随分と非現実的な話だ。あまりに馬鹿馬鹿しい。
「夢かな。これは」
 口に出してみるとストンと腑に落ちた気がした。シンプルな答えほど真理を衝く事はよくある話だ。夢だなこりゃ。そうと決まれば、あまり深く考える必要もないだろう。夢なんだから。いつかは目が覚める。
 電車はゆったりと私の体を揺らす。その感覚に、私の意識は徐々にぼやけていく。

 昨夜の光景が一瞬だけ脳裏によぎる。豊崎に誘われた島田さん。きっと照れくさそうに笑みを浮かべていたのだろう。そうに違いない。私では絶対に引き出す事の出来ない表情。
 あの時、私の胸をよぎったあの感覚。嫉妬でも、喪失でも、絶望でもない。全てから取り残され、先へ行く人たちの背中を見つめながら一人だけ取り残された様な、そんな感覚。得体の知れない孤独感。
 学生時代、度々抱いていた感情に似ている。馴染めない飲み会で浮いてしまった時、友人の居ない集団での行動を余儀なくされた時、周囲の人間が次々に進路や新しい事にチャレンジして行った時、私は酷い孤独感と不安に襲われた。
 長い間、希薄な人付き合いと大量の仕事に忙殺されいつしかそんな孤独感などすっかり感じなくなっていた。当たり前になっていたのかもしれない。孤独と共に生きる事が、独りでいる事が、当たり前すぎて寂しいなんて思わなくなってしまった。
 私はいつからこうなってしまったのだろう。

 静かなブレーキ音がして、ハッと意識が覚醒した。どうやら電車が駅に到着したらしい。そこはちょうど私の目的地だった。カバンを持って慌てて降りる。
 人気のない大型の駅は随分と異質で、まるで異世界に潜り込んでしまったみたいだ。足早に改札を抜け、街中へと飛び出す。高いビル郡にも人の姿はやはりなく、静けさだけが街中を支配している。この分だと会社に向かっても仕方がないだろう。
 と、どこか遠くから物音が聞こえた気がして私はハッとした。耳を澄ませる。これは、音楽だろうか。聞き覚えのある旋律。
 そうか、クリスマスソングだ。
 私は魅入られるように曲がする方へ足を向けた。
 誰も居ない繁華街。不思議な事に全ての店が開店しており、どこからか流れるクリスマスソングが場景を彩り、店内や外灯には明かりも灯っている。ただそのなかで、人の存在だけがぽっかりと抜き取られたかのように、そこには誰も居ない。
 私はそこで唐突に理解した。
「そうか、クリスマスだよ」
 夢じゃない。私はカバンを投げ出し、大声で笑う。そうか、そうだよ。
「これはきっとクリスマスプレゼントだ」
 私が誰もいない世界を望んだから。
 交通も、電気も、店も、全てそろっていて、それでいて誰も居ない世界。なんて都合のいい世界。
 私に用意された、特大のクリスマスだ。

 かくして、世界に存在する人間は私一人だけとなった。

 ありがとうサンタさん! メリークリスマス!
 私は駆け出すと有名ブランドの店に入り込み、服を着替えた。服はもちろんその店に扱っていた物を拝借した。堅苦しいスーツなど着ていられない。何故なら今日私は全てから解放されたのだから。
 ブランド物の服を着て、無料で映画を見て、行列の出来る店で飯を食べる。
 映画はまるで誰かが操作しているかのように時間通り放映され、出店ではまるで作りたての様に暖かい食品が店内にストックされている。誰が用意しているかなんて重要じゃない。クリスマスプレゼントなのだから。
 一日中街中を見て回り、自由に遊びまわった頃には空もすっかり暗くなっていた。さすがに一日回るともうクタクタだ。私は駅前にある屋根のついた円形のベンチに腰掛けた。最初は冷えた木材の感触に体が縮こまったが、やがて慣れて徐々に弛緩する。
 雪はどこからか止め処なく降り続いており、クリスマスソングも流れていた。来た時は音楽など流れていなかったが、一体いつの間に流れ出したのだろう。まぁ、今更気にする事でもないか。
「はぁ、楽しかった。最高じゃないか、クリスマス」
 私は笑顔でそう呟いたが、徐々にその笑みが重苦しくなっていくのを感じていた。
 むなしい。
 こんな事、無意味だ。
 結局私はどこに行っても、何をやっても、一人ぼっちなのか。
 自分に何もないことはとうに気がついていた。自信を持って取り組んでいる趣味も、苦労して出した実績も、大切な人もいない。英語なんて話せないし、凄い営業力もない。背筋が丸く、顔だってすっかり老け込んで覇気もない。
 私は世界から人が消えることを望んだけれど、ひょっとしたら元の世界では私が消えてしまっているのかもしれない。私が消えたら皆一ヶ月もしないうちに私のことなど忘れ去るだろう。
 私はずっと、変わりたかったのかもしれない。こんな歳まで生きて変わりたいだなんて無理があるだろうけれど。生きるだけでも必死だけれど。それでも、もっとマシな人間になりたいと、ずっとそう思って生きてきた。
「結局私が変わろうとしないから、私は独りなんだ」
 私がずっと感じてきた孤独感。それはきっと、最初の一歩を踏み出せない自分への罰だ。
 今の私にとって誰も居ない世界と言うのは、まるで価値がないものなのだろう。何故ならここは元の世界と何も変わりがないから。形が違うだけで、独りである事はまるで何も変わらないから。人に与えられていた圧力やストレスは、ここでは膨大な時間と孤独に姿を変えて私に襲い掛かってくる。
 環境が変わったって、私が変わらなければ意味がないんだよ。
「神様……いや、サンタさん」
 私はどこか遠い空に向かって、静かに呟く。
「私にとって一人はあまり意味がないみたいだ。良いクリスマスをありがとう。だから、もう、いいんだ。クリスマスは終わりにしよう」
 どこに行っても、一人で、孤独で。
 それでも自分は生きなきゃならない。
 だから、私は。
 つらい現実で生きていこうと思う。
 その中で変わってゆきたいと、そう思う。
 クリスマスソングが鳴り響く中、私の意識は徐々に遠のいていった。

「吉田さん、吉田さん」
 誰かに肩を揺さぶられて目を覚ました。顔を上げると、目の前に島田さんが立ってこちらを見下ろしている。それと同時に聞き覚えのある人のざわめきが蘇ってきた。
 私は先ほどと同じく駅のベンチに座っていた。ただ違うのは、着ているのがスーツであるという事、捨てたはずのビジネスバッグが傍らに置かれていると言う事だけだ。
「こんなところで眠ってたら死んじゃいますよ」
「えっと……」
 どうなっているのだろう。そう考える前に、私の体に奇妙な疲労感が沸きあがってきた。それと同時に、覚えのない仕事の記憶も。
 十二月二十五日。三人で取引先の応援に入り、年末の販売応援最終日の仕事を無事に終えた。時間も遅かったのでとりあえずはその場で直帰にし、私は一人報告書作成の為に会社に戻ったのだ。恐らく二人はこの後飲みに行くのだろう。そう思っていた際、島田さんから大事な用事があるからとメールがあり、駅まで呼び出された。
「報告書作成、お疲れ様です」
「え?」
「気づいてないとでも思ってました? 仮にも半年間一緒に営業周りさせてもらったんです。流れくらいはもう読んでますよ」
「そうか、気づいていたのか」
 私の脳裏には先ほどまで居た奇妙な世界の記憶があった。だが、それも存在感を増す現実の感覚に徐々に薄くなっていく。
「それで、大事な用事というのは」
「飲みに行きましょう、吉田さん」
「……えっ?」
 きっと私は、随分と間抜けな顔をしていたに違いない。
「豊崎さんが奢ってくれるそうです。打ち上げですよ」
「だって、打ち上げは二人で行くんじゃあ……」
「えっ? なんでそんな事知ってるんですか?」
「いや、以前、偶然二人が話しているのを聞いてしまってね。だから今日もそのつもりで直帰にしたんだけど」
「もう、吉田さん……」彼女はあきれた様な笑みを浮かべる。「確かに二人でって誘われましたし、本社の方のお誘いだから断りきれなかったんですけれど、それなら吉田さんも呼ばないと行かないって言ったんです」
「どうして?」
「あれだけ三人でがんばったじゃないですか。二人で打ち上げなんておかしいでしょ。それに、私、吉田さんがいないと安心して飲み会なんて行けませんよ。何ていうか、失礼かもしれないですけれど吉田さんって私にとってのお父さんみたいなもんですから」
 はは。
 なんだ、それ。
「君みたいに大きな娘を持つ歳じゃないよ」
「やだなぁ。あくまで例えですよ……って吉田さん、何で泣いてるんですか?」
「えっ?」
 私は頬に手を当てる。知らない間に、目からは涙が流れていた。
「ひょっとして、お父さんって言われたの泣くほど嫌でした?」
 私は慌てて首を振った。
「ああ、いや、違うんだ。これは」
 これは、ただ嬉しかっただけなんだ。
「これは、ちょっと目に雪が入ったんだ」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
「本当に?」
「本当さ」
「じゃあそう言う事にしておきましょう。でもさっきのは決して悪い意味じゃないんです。それだけ吉田さんが父性的って事ですよ」
 島田さんはそう言うと私の手をぐいと引っ張って立ち上がらせた。
「さぁさ、行きましょう吉田さん。報告書なんて明日で大丈夫です。私ももちろん手伝います。だから今日はパァッとやりましょうよ。きっと今頃豊崎さん一人で飲んじゃってますよ」
「そりゃいけない。本部の出世頭だからな。気を使わんと」
 島田さんに手を引かれ、私達は雪の中を小走りで駆けた。
 小さな一歩でもいい。
 明日から、もう少しだけがんばって行こうと思う。
 まだ自分は変わってゆける。
 焦らなくていい。
 ゆっくり、少しずつ。
 人生は、それくらいで丁度いい。
 そう信じられる気がした。
 どこか遠くから、鈴の音が聞こえた気がした。

 ──了

       

表紙
Tweet

Neetsha