○3○
今年のクリスマスイブは日曜だ。
だからか、電車の中には驚くほど沢山のカップルが生息していた。
人が人生一世一代の大勝負を仕掛けようとしているのに、皆、呑気な事に顔一杯に笑みを浮かべている。今日と言う一大イベントに、気がはやるとでもいうのか。
「ぐふふ、ぐひへへ、えへぇ」
そうだ、僕の横にも、同じく気がはやっている奴がいた。
彼女は、世にも不気味なだらしない表情で、今にもよだれを垂らさんとばかりに顔を緩めている。
三メートルは離れたい。
それが、僕の本音だ。
僕達は電車に乗って、繁華街へと向かっていた。そこのレストランを予約しておいたのだ。以前仕事の接待で使った店だったが、とても良い雰囲気だったので採用した。
この女にそんな素敵な店などもったいないと思ったが、今日は僕のプロポーズの日なのだ。
三十歳にもなって、ファミレスでプロポーズを行う男になることだけは、避けねばならない。
車内は人が多く、混んでいる。僕達はドアの傍に二人して立っていた。
「うひひひ、うししし」
「そのクソ汚い緩んだ顔を今すぐ畳むんだ。いいな、十数える間にだぞ」
「だってぇ、まさかマスターから『二十四日に食事をしよう』なんて誘ってくれるなんて思わないじゃないですかぁ。毎年私から誘ってばかりだったし、何ならデートも私から誘ってばっかりですし、そりゃあ嬉しくて緩んじゃいますよぉ」
「あれはデートじゃない。付き添いだ。介護の一種なんだよ」
「またまたぁ、照れちゃってぇ、グフヒヒヒ」
こうなってはもう手がつけられない。今日のヒロインとは思えないほど汚い笑みだ。見るに耐えない。この女がこれから僕の人生におけるメインヒロインになるのか。
僕は溜め息を吐いて窓から外を眺めた。
この時期は陽が沈むのがはやい。既に太陽は大分傾いており、真っ赤な夕焼けとなってその光を車内に射し込んでいた。もうすぐ冬の寒空に星が瞬き出すだろう。
僕はそっと、右ポケットに入れた指輪の存在を手で確認した。鞄に入れても良かったが、手元にないとどうにも落ち着かない。ちゃんと入っているな。
「吉田部長、そんなところに乗っけてたら忘れちゃいませんか?」
「いやぁ、意外と重くてね、これ」
「もう、無くしちゃダメですよ? 重要なんですから」
ボーっとしていると、隣に立っているサラリーマンとOLの会話が耳に入ってきた。座席上の棚に大切な書類を置いているらしく、それを部下らしき女性が指摘したのだ。
男性のほうは、何だか頼りなく、いかにもと言った感じのしょぼくれたサラリーマン。
一方で、女性はとても美しい人だった。仕事が出来そうな、しっかり者と言った印象。
あんな女性と一緒に歩くとさぞかし比べられるだろう。気の毒に。会って五秒くらいのサラリーマンに、僕は内心同情した。日曜――しかもクリスマスイブに仕事か。ますます気の毒だ。
「次の現場はどこでしたっけ」
「たしか四越デパートじゃないかな。あそこは六時くらいから込み出すんだよ。僕達みたいに休日出勤したサラリーマンが、帰り際にプレゼントを買うんだ」
「割と何でも揃いますもんね。種類も多いし」
量販店への営業か……。耳にしただけでもゾッとする。営業の外回りとか、販売業とか、接客系は僕が最も苦手とする仕事の部類だ。多分、彼らにとっては今が一年で一番の繁忙期なのだろう。
こうやって頑張っている人がいる一方で、僕の目の前で顔を緩めている人間の屑みたいな女もいる。会社ではそれなりに活躍する経理らしいのだが、とてもそうは見えない。世の中とは本当に、平等に出来ていないものだ。
「君も仕事しろよ」
「えっ!? 何ですか急に」
「もっと現実を見るんだ。明日は仕事だし、きっと忙しい。そのことを自覚するんだ」
「クリスマスくらい夢見させてくださいよ……」
酷い扱いに見えるかもしれないが、この女はこうやってたまに水を差さないと、勝手にヒートアップして暴走し出す傾向にある。これで適正なのだと知った瞬間、いつしか僕の中から遠慮は消えた。
落ち込む彼女の姿をよそに、僕は再び先ほどのサラリーマン達の会話に耳を傾ける。
「そう言えば、今年は豊崎さん、来られないんですね」
「ああ。驚いた事に、彼は来年から本部長になるらしいよ。現場に出ている暇はないんじゃないかな」
「さすが、本社のエリート」
「生粋のたたき上げだからね。実力をガンガン発揮してるんだろう」
「私達も負けてられませんね、吉田部長」
「その部長って言うの、ちょっと落ち着かないね」
「いいじゃないですか、出世したんだから」
「出世しても現場応援は変わらないよ」
その時、車内アナウンスが流れ、次の駅名が読み上げられた。
「そろそろ着きますよ」
「ああ、ちょっと時間押してるな。急がないと」
やがて電車が駅に着き、サラリーマンとOLはそんな感じに仕事の話をしながら降りて行った。その後姿に、内心エールを送る。
あのサラリーマンには、何故か他人とは思えない不思議な繋がりを感じるな。
そう思い、ふと、座席の上に目を向けると、先ほどサラリーマンが置いていた書類の入った茶封筒がそのまま置きっぱなしになっていた。
マジか。
ジリリリ、と発射ベルが鳴る。
どうする?
一瞬考えた後、僕は言った。
「降りよう」
「えっ? でも目的地は次の駅ですよ?」
「時間はある。大丈夫さ」
僕はそう言うと、棚から封筒を取り、彼女の手を引いて電車を降りた。
降りてすぐ、先ほどのサラリーマンとOLの姿を探す。
いた。
階段を上っている。
急いで追いかければ、間に合うはずだ。
歩き出そうとした途端、「ぐへへへ」と背後から不気味な笑い声が聞こえ、僕は振り返った。
彼女が、先ほどの緩んだ表情に、更に輪をかけてだらしない顔をしていた。
「化け物かよ」
「だって……今日のマスター、とってもダ・イ・タ・ン」
「あぁ?」
気でも狂ったかと思っていると、自分がいつの間にか彼女の手を握っている事に気付いた。咄嗟の事だったので無意識にしてしまっていたのだろう。
僕は彼女の手を振りほどくと、ズボンでそっと手を払った。
「ちょっと! それ! 何で手を払うんですか!」
「事故だからだ」
先ほどの階段に目を向ける。下らない茶番をしている間に、もうサラリーマン達の姿は見えなくなっていた。
「君が下らない事を言うから見失っちゃったじゃないか」
「えぇ? 何の話ですか?」
「いいから、行こう。訳は後で話す」
僕が歩き出すと「ちょっと待ってくださいよ、マスター」と彼女は口を開いた。
振り返ると、そっと手を差し出される。
何のつもりだ。怒りに手が震える。
「手、握っとかないと、飛んでっちゃいますよ。風船みたいに」
「火星まで行け」
「あぁ! ちょっとマスター! 待ってくださいよ!」
僕が歩き出すと、彼女は声を上げて追いかけてきた。
手? 繋ぐはずがない。
そんな事したら手汗が出るではないか。