Neetel Inside 文芸新都
表紙

アハッピーメリーマリークリスマス
世界でたった一人のクリスマス

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 賑やかな街の情景を思い浮かべて、私はそっと天を仰ぐ。
 静かに雪が降る深く暗い空。そこから、軽やかな鈴の音が聞こえた気がした。
 まるで、どこか遠い世界の果てから鳴り響いているように。

 人と話すのが億劫に感じ始めたのは、多分二十代後半に差し掛かった頃からだろうか。
 まぁ三十二歳になった今となっては、その頃ですら随分と若く思えるのだけれど。
 閑散期だというのに毎日どたばたしていて、めまぐるしい日々に忙殺される社会人十年目の秋。
 その日もけたたましく電話が、怒号が、鳴り響いていた。
「吉田さん、この間のイベントの書類まだ出されてないんすけど?」
「ああ、ごめん。正確な粗利益額が本部から降りてきたら仕上げるから」
「課長ぉ、野村玩具さんより入電ですぅ」
「ああ、ごめん、いま忙しいから要件だけ伺っといて」
「クレーム対応ですってぇ」
「そういう電話普通いきなり上司に振るかな。大体あそこの管轄柿川君でしょ?」
「えー、だって柿川さん外回りで電話するの悪いしぃ、アタシが代わりに対応してトラブルに発展しても困るしぃ。ねぇ部長ぉ?」
「現場責任者の吉田君に任すのが一番適任だろう」
「そんなぁ……」
 気だるげな空気が漂う営業二課。
 狭い室内にこれでもかと言うほど机がひしめき合い、机上にはパソコンやら商材資料やらが乱雑にぶちまけられている。その中でも最も窓際に位置する一席、まるで備え付けみたいに『課長』と言うプレートが置かれたデスクが私の作業スペースだ。
 都内にある小さな玩具メーカー。売れ筋商品は営業一課、比較的マイナーな商品を扱うのが我が営業二課。
 そんな営業二課では毎度毎度、厄介ごとを託される社員がいる。
「部長ぉ、三番に本社から入電ですぅ」
「うわぁ、お小言かなぁ。吉田君、任せた」
 それが現場責任者という肩書きを担がされた私、吉田士郎だ。
 社歴は今年で十年。十年で課長であれば、それなりに出世コースに乗れていると言えるかもしれない。人並みに修羅場はくぐったつもりだし、人生経験だってした。
 でも何でだろう。いまいち私の人生はパッとしない。自分でそう思えるのだから、きっと周囲からはもっとくすんで見えるはずだ。
「部長、そう言えば四半期の打ち上げ、いつもの日向屋でいいですか?」
 二年目の社員である村瀬が大声で部長に言うと「しっ」と隣に居た事務の中前さんが声を上げた。
「ダメだよぉ、課長の前でそれ言っちゃあ」
「あ、そうか」
 ぎくりとする村瀬の顔。私は電話を耳にあてがって聞いていないフリをした。安堵したように二人が目配せする。
 四半期の打ち上げの話なんて聞いた事がない。きっと呼ぶ気がないのだ。私が飲み会に赴くといつも話し相手がおらず、浮いてしまう。皆、打ち上げの場まで他人に気など使いたくないのだ。だからこうして声すら掛からなくなった。
 この部署で私の存在感などただのトラブル処理要因でしかないのだ。
 もちろん、誰も感謝なんかしない。
 そんな扱いにももう随分と慣れた。
「本社からの電話か。三番だっけか……」静かに呟き、ボタンを押す。
「大変お待たせしました。新都支社営業二課吉田と申します。部長である松崎が不在のため私が代わりに用件を承らせていただきます」
「お疲れ様です。本社人事担当倉治と申します」
 人事と聞いて眉を潜めた。ひょっとして異動や昇進の話だろうか。第一四半期ももうすぐ終わり、節目となるのでそんな話が上がってもおかしくない。私の懸念をよそに、相手は続ける。
「失礼ですが吉田さんは何か役職にお務めでしょうか」
「営業課長です」
「そうですか。なら良かった。いえね、一応人事関係の話題なので一般社員の方に伝達を頼むわけにもいきませんので」
「はぁ」
「今回お電話差し上げたのは中途社員の配属に関してでしてね」
「中途社員?」声が上がりそうになるのを抑えた。「初耳ですが」
「今年に入って二課で三名ほど退職者が出てますよね。それで補填要因を入れる事になりまして」
 確かに二課は現在慢性的な人材不足で苦しい状況にある。それでも三名の抜けに対し補填が一名とは随分少ない事だ。 
「つきましては第二四半期と同時に二週間の研修を受けた中途社員をそちらに当てるわけですが──社員に対するトレーナー制度はご存知ですよね?」
 毎年うちの会社では新入社員に対してある程度の経験を積ませるため、半年感ほど同じ役職の先輩社員がトレーナーとして自分の営業に同行させる事になっている。トレーナーに選ばれた社員は週一度、新入社員への教育内容を社内メールで報告する義務が課せられ、中々に面倒臭い。
「ああ、つまり中途社員のトレーナーを決めて報告しろと……」
「ええ、話が早くて助かります」
「分かりました。とはいえ私の一存では決めかねるので松崎に確認後、折り返しお電話させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ。よろしくお願いします」
 私は電話を切り、フッとため息を漏らす。部長が恐る恐ると言う様子でこちらを伺っていた。
「どうだった? ものすごい爆弾的な内容とか?」
 この場で言うべきじゃ少し迷ったが隠すような内容でもないし別に良いだろう。
「第二四半期から中途社員が来るみたいなんですが、トレーナーを決めて報告しろと」
「あ、なんだそんな事」部長は安堵したように息を吐き出す。
「じゃあ吉田君で決定だな」
「ええっ」
「現場の最高責任者なんだから、君がやるのが一番効率的だろう。任せた」
「まぁ課長が適任ですよね」
「吉田さんで」
 有無を言わせない。
 何が、任せた、だ。
 私は部長を呪

 わなかった。ありがとうございます。
「今日からこちらでお世話になる島田さんです」
 私の紹介で隣に居る女性は丁寧に頭を下げた。
「島田です。至らない点もありますが、ご指導ご鞭撻、よろしくお願いします」
 部の人間全員が間抜けに口を開く。
 やってきた島田さんは二十五歳、愛想も良くはきはきと喋る、何より超美人な魅力たっぷりの女性だった。
「部長、本当にトレーナーは吉田さんで良いんですか?」
 焦ったように口を挟んだ村瀬を私は鼻で笑った。
「良いに決まってるだろう。私は現場の最高責任者なんだし、それにもう本部に報告しちゃいましたもんねぇ? 部長ぉ?」
「あ、う、うん、そうだね……」
 部長が頷くのを確認した後、私は表情を正して島田さんの方へ向き直った。
「島田さん、私が君のトレーナーになる課長の吉田です。困ったら何でも相談してください」
「あ、はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
 お礼と挨拶がしっかり出来る子は良い子、決まってんだよね。
 村瀬だけじゃない。部署の男子全員がしまったという顔をしていたのは実に小気味よかった。
 文字通り可愛い部下が出来た事は私の人生に充実を与えてくれた。犬の糞で出来た道を歩くような、最悪に重い会社への出勤ロードが軽い軽い。職場に行くのが毎日楽しみで仕方がなかった。

 そんなこんなで二ヶ月が経った。
「吉田さん、ここ、座っていいですか」
「ああ、構わないよ」
 社員食堂の一番端の席に陣取っている私の向かいには島田さんが座っていた。
 最初こそ先輩社員に誘われるまま課の皆と賑やかに昼食を取る島田さんを傍観しているだけだったが、そこはそれ。狭い社内に咲いたヒマワリを若い男性社員が放っておく訳もなく。

「ねぇ、島田さん、今度二人で飯行こうよ」
「あ、ごめんなさい。休日は用事が……」
「どう? 一緒にドライブとか」
「ちょっと所用で……」
「お勧めの居酒屋があるんだけどさ」
「お酒飲めなくて……」
 
 次から次へとやってくる誘い文句にやがて彼女も嫌気がしたらしくいつの間にか一番無害な私の傍にやってくるようになっていたのだ。さすがに人前で女をくどく馬鹿は居まい。私は遠巻きに悔しそうな視線をよこす男子達にニヤリと笑みを投げかけた。
「あはは、どうしたんですか吉田さん、変な顔しちゃって」
「変なのは元からだろう」
「そんな事ないですよー」
 春だ。
 季節は秋だが春だった。
 春夏秋冬! 最高!

 とは言え。

 私は彼女と恋人同士になりたいだとか、そんな事はまったく考えていなかった。いや、もちろん可能であればそうしたいのは山々だけれども。
 自分みたいな人間と、島田さんとでは住む世界が違う。不釣合いである事は重々承知しているつもりだった。歳だって離れてる。彼女にはもっとふさわしい男性が居るはずなのだ。
 でも、それでよかった。
 私は嬉しかったのだ。
 会社の隅っこにしか居場所がなかった私を、危険から逃れる安息地域に選んでくれた事が。自分がそうなれた事が。たまらなく嬉しかった。
 ただそれだけなのだ。

 日々を過ごすうちに、徐々に肌寒くなり、やがて冬になろうとしていた。
 年末が近づき、我が社も玩具メーカーらしく繁忙期を迎える季節だ。毎年この時期は営業である我々も取引先である大口の量販店に販売応援として赴くのが通例だった。
「今年は忙しくなりそうですね! 吉田さん!」
 外回りで各取引先店舗を伺う道中、忙しさを感じ取ったのか島田さんは興奮した様子で私に声を掛ける。そのテンションの高さは一体どこから来るのだろう。私は思わず苦笑した。
「今年も、だよ。毎年この時期はね、クリスマスが過ぎるまで目が回るんだ」
 私はマフラーに顔を埋めると、チラリと島田さんを見やった。
「すまないね、島田さん。クリスマスくらい彼氏や友達とゆっくり過ごしたいだろうに」
「あはは、彼氏なんか居ませんよ。それに友達だって皆同じように仕事してるか、それこそ彼氏と出かけてるんで仕事してるほうが良いです」
 私はガッツポーズした。密やかに。
 二課に戻った私たちは部内の雰囲気が普段と異なっている事に気がついて、思わず顔を見合わせた。あれだけ散乱していた書類や資料達が束ねられ、記事の内容に沿って綺麗に分類されている。何をしているか大体想像はついたが、とりあえずデスクに座る部長に声を掛けた。
「部長、何やってるんですか、これ」
「何って、見て分からんかね。掃除だよ、掃除」
「それは分かるんですが、何で今?」
「ほら、あれだよ、あれ。年末の」
 言われてから思い出し、思わず「あぁ」と顔をしかめた。
「まさか今年はうちが?」
「そのまさかだ」
 不思議そうな表情で島田さんが尋ねる。
「一体何なんですか?」
「本社の役員が来るんだ」
「えっ?」 
「年末年始は忙しいからって名目で毎年出世頭の若手を現場視察も兼ねて本社が寄越すんだよ。でも何でうちみたいな弱小部署に……」
 本社役員が送られる先は業績が良い支社の一課というのが通例だ。うちの部署に本社役員が来るなんて今まで一度もなかった。
「それがね、先月我が二課は前年の五百パーセントを達成してしまったのだよ」
「えぇっ」
 どうして、と尋ねる前に原因に思い当たる。島田さんの取ってきた大口の案件だ。私と同行する際は既存顧客への営業が主だが、先日は島田さんの勉強も兼ねて新規顧客開拓を二人で何度か行った。尋ねた大口デパートの店長が島田さんをいたく気に入り、新規に我が社の製品を入荷。そのまま系列店もいくつか取り扱ってくれるようになり、一気に売り上げが増加した。十月は一般的に閑散期と言うのもあり、その売り上げのもたらした効果は絶大だった。
「そういうわけで本社の注目をあつめちゃってね。今年はうちに役員がくるって訳」
 運がいいんだか悪いんだか。
 だが一つだけ言える。
 繁忙期のこの時期にやってくる本社役員など腫れ物以外の何でもない。
「それが今年の役員は一味違うんだな」
 私の表情から察したのか、部長が首を振った。
「どういうことですか?」
「今年来るのは二十代にして本社役員の座を勝ち取った、生粋のたたき上げらしいんだよ」
「二十代で本社ってすごいですね……」島田さんも目を丸くする。
「ああ。鬼の様な人って噂でね……。そんな訳で吉田君、頼んだ」
「えっ?」予想はしていたが、嫌な予感しかしない。部長はにっこりと笑みを浮かべる。
「本社役員の現場同行は君についてもらうから。確か一件大口の販売応援入ってたよね? 実績出した島田さんもいるし、君は現場の最高指揮官でもあるからばっちりじゃない」
 何がばっちりだ。
 最悪だ。

 果たしてやってきた本部役員の豊崎は噂とは裏腹に好青年だった。溌剌としていて堂々としている。その明るさはまるで真夏の太陽だ。おまけに顔も良い。
 恐らく彼の存在は社内の女性社員達の話題を一瞬でさらっていくだろう。
 二課に姿を現した豊崎を私が迎えると、彼はがっしりと握手を求めてきた。
「初めまして。本部より参りました豊崎と言います」
「営業二課課長の吉田です。短い間ですが私の担当営業先にご同行いただく形になります。よろしくお願いします」
「ええ。若輩者ですがよろしくお願いします」
 ガシリと右腕をつかまれその握力の強さにびくりと体が震えた。ひょええと声が出そうになるのを何とか堪える。
 十二月十九日から二十五日まで。
 こうして私達三人は一緒にクリスマスの販売応援へと赴く事になった。まだ不慣れな島田さんを引き連れての役員接待。私としては非常に気が重い。
 二重の意味で。
「島田さんは入社して何年になるんですか?」
「あ、えっと、私は中途社員でまだ半年なんです」
「ほう、じゃあ現場に販促として入るのは今年が初めてなわけだ。緊張してるでしょう」
「はい、少しは。とは言っても前職は販売職だったのでどちらかと言うとなんだか楽しみが大きいです。古巣に帰る心地と言うか」
「前向きだね。本部の人間もこれくらいの気概があってほしいもんだ。どうです? よかったら本部に来ませんか? あなたなら受付でも十分通用しますよ」
「あはは、ありがとうございます。でも私はもう少し自分が営業でどこまでやれるのか試したいので、いずれまた機会があればおねがいします」
 道すがら、島田さんと豊崎が会話しているのを横目に私は一人歩く。当たり前と言うか何と言うか、話題が私にやってくる事はない。当然といえば当然か。分かってた事だ。
 豊崎と話す島田さんの表情は、まんざらでもなさそう、な気がする。
 真夏の太陽とヒマワリか……。
 お似合いだな。

 私達が販売応援としてやってきたのは人口密度の高い駅前にある大型デパートだった。そこではどのメーカーの販促か分かるように我が社のロゴが入ったダサいベストを着なければならない。豊崎はあくまでも視察。現場で実際に販売するのは私と島田さんの役目……のはずだった。
「ちょ、ちょっと豊崎さん、何故あなたがベストを?」
 背中にロゴの入ったベストを着ている豊崎をみて私は思わず声を上げた。
「何故って、僕も入る以上働きますよ。安心してください。もちろん現場の経験はあります」
「はぁ……」そう言えばこの人はただのエリートじゃなく、たたき上げの実力者だった。それゆえに一緒に入るのは少し恐い。
 この時期、大型デパートの玩具コーナーはカオスとなる。人の圧倒的量に、その波に、喧騒に、呑まれそうになる。
 その中でも豊崎の存在は異彩を放っていた。
「ねぇ、その商品ってどこで製造されてるのよ」
「あ、えぇと……」
 店頭で買い物客に尋ねられ、島田さんが外箱に記載されている仕様を確認している。フォローしたほうがいいかな、と一歩踏み出そうとしたとき、どこからともなく豊崎さんがやってきた。
「それはタイで製造を行っております。ですがご安心ください。部品は日本で製造したものを使っておりますので」
「でも海外の組み立てなんて不安だわ」
「大丈夫です。製造現場では日本人のテスターがおり、一つ一つの工程ごとに動作確認を行っています。我が社の商品の初期不良や早期の故障と言うのは全体の一パーセントもないんです」
「へぇ……。それなら買おうかしら」
「ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます!」
 丁寧にお辞儀をした後、豊崎はこちらにいたずらっぽく笑みを浮かべる。やるじゃないか、たたき上げめ。
 現場に入った豊崎の働きはとにかくめまぐるしかった。とにかく売る。そして丁寧な接客と臨機応変な接客応対で取引先の社員とも良好な関係を築いていた。海外からの来客には流暢な英語と中国語で対応をし、これには隣にいた島田さんも「すごい」と目を丸くしていた。
「たしか彼はまだ二十七歳だったよな……」
 私より五つも下なのに。神様は平等に物を与えない。
 いや、私は首を振った。
 彼はきっと今まで物怖じせずたくさんのチャンスに体当たりで飛び込んだに違いない。もちろん、それに見合う努力だってしてきたはずだ。
 私は、今の私は、自分の人生の結晶なんだ。

 数日間、目まぐるしい忙しさが続いた。
 ピークとなるクリスマスイブは正に目が回る状態。状況を正確に把握する前に次から次へと事案が押し寄せてくる。
 ようやく開放された頃には勤務時間をとうに超過していた。
「疲れましたねぇ」
 ぐっと伸びをする島田さんを見て私は苦笑した。

「はは、お疲れ様。よくがんばったよ。今日を過ぎれば残りは明日だけだけれど、山は越えたと思う。豊崎さんも、お疲れ様でした」
「いえ、お疲れ様です」
「もう遅いし今日は直帰にしましょうか」
 私が言うと島田さんは少し驚いた顔をして私が右手に担いでいる紙袋に目を落とす。販売応援用に今朝会社から持ち出した備品だ。
「えっ? でも備品の返却がまだ……」
「ああ、それはいいよ。私がやっとくから」
 すると島田さんが強く首を振った。
「ダメですよ。上司だけにそんなのやらせられません。私も行きます」
「でも遅くなっちゃうよ」
「構いません」そして島田さんは豊崎の方へ向き直る。
「そんな訳で私たちは一度二課へ帰社致しますので、豊崎さんはこのままお戻りください」
「あぁ、いや、折角なんで僕も一緒に行っていいでしょうか? ここまで来て一人帰宅って言うのも寂しいですし」
「はぁ……」
 随分とまじめな人だ。私は感心して思わず頷いてしまった。
 二課へ戻ると当然の様にもう課には誰も残っていなかった。たいていの社員が出先から直帰している。わざわざ備品を返しに来る生真面目な人間など我々位の物だ。使用した備品を返すともう時刻は十一時を過ぎようとしていた。後は電気を全て消し、鍵を警備に返すだけだ。
 入り口で待っているであろう二人のもとへ若干早足で向かう。すると話し声が聞こえてきた。察するに島田さんと豊崎だ。
「島田さん、今度飲みに行きませんか。打ち上げと言う事で」
「いいですね、三人で打ち上げ。大丈夫ですよ」
「いや、出来れば吉田さんは抜きにして、二人で飲みたいんだ」
「えっ?」
 心臓が、キュッと締め付けられるような嫌な感覚がした。その痛みに、思わずうめき声を上げそうになる。
 頼む、断ってくれ……。
「ええ。構いませんけど……」

 気がつけば私は一人で帰宅していた。あの後二人と合流──したのだろうが、何を話したのかはよく覚えていない。
 結局顔かよ。
 愛想が良くて、能力があって、堂々としていて。
 人生勝ってる奴が結局全部もって行っちまうのかよ!
「くそがぁ!」
 私の叫び声は夜の住宅街によく響いた。
「どうせこんな事だろうと思ったよ! 俺には何もないからな!」
 その時鼻に何か冷たい物が当たった。これは……雪か。皮肉にも今年はホワイトクリスマスらしい。最悪だ。心なしか、どこか遠くから鈴の音も聞こえる気がする。どこぞの学生がクリスマスのつもりだろうか。それすら腹立たしい。
「世界中の奴らが消えちまえばいいんだ! みんな消えちまえ! そうすりゃ平和だ! 平和祭りだよ!」
「おっさんうっさいねん!」
 どこかの住宅からその様な声を投げかけられ、思わずシュンとした。
 そっか、私はもうおっさんか。なんだか情けなくなって、肩を落として歩いた。
 次の日も仕事だというのにその日は馬鹿みたいにビールを空けて目覚ましもかけずに眠りについた。帰りしな聞いた鈴の音が耳に残り、鳴り響いている。
 シャンシャンシャン。
 シャンシャンシャン。
 
 それは波紋の様にずっと遠くまで広がっていく気がした。

     

 まるで世界が死んでしまったかのような、耳に痛いほどの静寂で目を覚ました。昨夜深酒をしたせいか妙に寝覚めが良い。意識のまどろみもなかった。
「寒っ……」
 室内なのに息が白く染まりそうなほど冷えている。違和感を覚えて窓を開いた。一面綺麗な銀世界。真っ白にさんざめいている。共に佇む無音の中に深々と雪が重なる音だけが響いていた。
 そう言えば今は何時だろう。私は時計に目をやった。
「あぁっ!」
 午前十時! 完全に遅刻じゃないか!
 急いで着替え、部屋を飛び出した。スマホのアプリを使って次の電車までの時間を調べようと思い立つ。きっと部長から怒りの着信も重なっている事だろう。
 と、スマホを見て足を止めた。
 メールはおろか、着信一つない。
 何でだ? 私が部内で空気みたいな存在だから? いや、さすがにそれはないか。
 雪道を足早に進む。雪遊びをするには十分な積雪量だ。例え時間通り駅に着いたとしても電車の遅延は免れないだろう。
 狭い小道から大通りへと出た。ここから道なりに行けばすぐ駅だ。
 まっさらな雪の上を淡々と歩く。街の様子を見て色々と引っかかるものを覚えたが、あまり探らずに先を急ぐ事にした。
 駅前まで走って、初めて違和感の正体に気がついた。
 私はゆっくりと振り返る。
 真っ白な地面に、私の足跡がくっきりと残されていた。全く汚れのない雪の中に、私の足跡だけが一つ。
 道路には、依然として美しい新雪が保たれている。
 私は周囲を見回した。
 そうだ。
 誰も居ないんだ。
 どうして今まで気づかなかったのか自分でも不思議でならない。今日は誰も見なかったし、すれ違いもしなかった。車だってもちろん走っていない。
 雪が降ったっていつもなら道路はすぐに除雪されるし、歩道にある雪は通行人に踏み固められて滑りやすくなっていたはずだ。でもそんなこと、まるでなかった。
 一体どうなっているんだ。心の中に妙な不安が湧き上がる。それでも私は会社に向かうことにした。サラリーマンとは悲しいかな、世界の異質さに気がついていても出社する足を止められない生き物である。それはもう何千回と歩いたこの道を進む事が日課になってしまっているからだし、会社と言う大きな存在がなければ自分はまともに生きていくことすらできないと内心理解してしまってもいるからだ。
 駅に入るがやはり駅員の姿はどこにもなく、もちろん利用客の姿も見当たらない。それでも電気は通っているらしく、改札口に定期を通してみると難なく開いてホームへと進む事が出来た。
 電子掲示板にはいつもの様に電車の到着予定時刻が記されている。不思議な事に、これだけ雪が降っているにもかかわらず遅延している様子はまるでなかった。
 本当に電車など来るのだろうか。一抹の不安を抱えながらも、時間になるのを待つ。一分前になってもホームに放送はかからない。
「来るわけないか……」
 諦めて帰ろうかと踵を返すのと同時にどこか遠くから聞き覚えのあるブレーキ音が鳴り響いた。振り返る。いつもの電車が、さも当たり前かのようにやってきていた。
 なんだ、やっぱりたまたま人が居なかっただけで、ちゃんと交通の便は機能しているじゃないか。安堵の息を吐きかけたが、次に見た光景にギョッとして息を呑んだ。
 電車が目の前を通り過ぎる、その瞬間。運転席に雪が降り積もっていたのを私は確かに視認した。あんな状況では、前方の安全確認はおろか運転など出来るはずがない。
 電車は規定の位置に、正確に停車した。ゆっくりとドアが開く。
 乗るべきかどうか迷った。こんな物に乗って、どこへ連れて行かれるか分かったものではない。ただこれに乗らなければ先に進めない訳で、ろくに運転も出来ない私にはこの雪の中を進む他の選択肢はなかった。
 しばらく待つと発車ベルも無しに電車の扉が静かに閉まった。車両を見渡す。当たり前と言っていいのかわからないが、やはり誰も居ない。運転席がどうなっているのか気になって先頭車両まで行って見たがカーテンが閉まっておりその様子を探る事はできなかった。拍子抜けだ。
 私は近くの椅子に腰掛けると、深く息を吐いた。家を出てからずっと走りっぱなしで、いつの間にか額からは汗が出ている。やがて電車はゆっくりと進みだした。
 電車の揺れる音が響く車内は適度に暖房が効いていた。誰もいない電車にはいつまでも乗っていたくなる不思議な居心地の良さがあった。
「みんなどこに行ったんだろう……」
 向かい側の窓に映る景色を眺め物思いに耽る。
 街に大きな警報が出され、誰も彼もが避難してしまったのではないだろうか。だとすればこの電車は何なのだろう。なにか特殊な緊急用のプログラムで動いているとか? 私は自分の考えを鼻で笑った。随分と非現実的な話だ。あまりに馬鹿馬鹿しい。
「夢かな。これは」
 口に出してみるとストンと腑に落ちた気がした。シンプルな答えほど真理を衝く事はよくある話だ。夢だなこりゃ。そうと決まれば、あまり深く考える必要もないだろう。夢なんだから。いつかは目が覚める。
 電車はゆったりと私の体を揺らす。その感覚に、私の意識は徐々にぼやけていく。

 昨夜の光景が一瞬だけ脳裏によぎる。豊崎に誘われた島田さん。きっと照れくさそうに笑みを浮かべていたのだろう。そうに違いない。私では絶対に引き出す事の出来ない表情。
 あの時、私の胸をよぎったあの感覚。嫉妬でも、喪失でも、絶望でもない。全てから取り残され、先へ行く人たちの背中を見つめながら一人だけ取り残された様な、そんな感覚。得体の知れない孤独感。
 学生時代、度々抱いていた感情に似ている。馴染めない飲み会で浮いてしまった時、友人の居ない集団での行動を余儀なくされた時、周囲の人間が次々に進路や新しい事にチャレンジして行った時、私は酷い孤独感と不安に襲われた。
 長い間、希薄な人付き合いと大量の仕事に忙殺されいつしかそんな孤独感などすっかり感じなくなっていた。当たり前になっていたのかもしれない。孤独と共に生きる事が、独りでいる事が、当たり前すぎて寂しいなんて思わなくなってしまった。
 私はいつからこうなってしまったのだろう。

 静かなブレーキ音がして、ハッと意識が覚醒した。どうやら電車が駅に到着したらしい。そこはちょうど私の目的地だった。カバンを持って慌てて降りる。
 人気のない大型の駅は随分と異質で、まるで異世界に潜り込んでしまったみたいだ。足早に改札を抜け、街中へと飛び出す。高いビル郡にも人の姿はやはりなく、静けさだけが街中を支配している。この分だと会社に向かっても仕方がないだろう。
 と、どこか遠くから物音が聞こえた気がして私はハッとした。耳を澄ませる。これは、音楽だろうか。聞き覚えのある旋律。
 そうか、クリスマスソングだ。
 私は魅入られるように曲がする方へ足を向けた。
 誰も居ない繁華街。不思議な事に全ての店が開店しており、どこからか流れるクリスマスソングが場景を彩り、店内や外灯には明かりも灯っている。ただそのなかで、人の存在だけがぽっかりと抜き取られたかのように、そこには誰も居ない。
 私はそこで唐突に理解した。
「そうか、クリスマスだよ」
 夢じゃない。私はカバンを投げ出し、大声で笑う。そうか、そうだよ。
「これはきっとクリスマスプレゼントだ」
 私が誰もいない世界を望んだから。
 交通も、電気も、店も、全てそろっていて、それでいて誰も居ない世界。なんて都合のいい世界。
 私に用意された、特大のクリスマスだ。

 かくして、世界に存在する人間は私一人だけとなった。

 ありがとうサンタさん! メリークリスマス!
 私は駆け出すと有名ブランドの店に入り込み、服を着替えた。服はもちろんその店に扱っていた物を拝借した。堅苦しいスーツなど着ていられない。何故なら今日私は全てから解放されたのだから。
 ブランド物の服を着て、無料で映画を見て、行列の出来る店で飯を食べる。
 映画はまるで誰かが操作しているかのように時間通り放映され、出店ではまるで作りたての様に暖かい食品が店内にストックされている。誰が用意しているかなんて重要じゃない。クリスマスプレゼントなのだから。
 一日中街中を見て回り、自由に遊びまわった頃には空もすっかり暗くなっていた。さすがに一日回るともうクタクタだ。私は駅前にある屋根のついた円形のベンチに腰掛けた。最初は冷えた木材の感触に体が縮こまったが、やがて慣れて徐々に弛緩する。
 雪はどこからか止め処なく降り続いており、クリスマスソングも流れていた。来た時は音楽など流れていなかったが、一体いつの間に流れ出したのだろう。まぁ、今更気にする事でもないか。
「はぁ、楽しかった。最高じゃないか、クリスマス」
 私は笑顔でそう呟いたが、徐々にその笑みが重苦しくなっていくのを感じていた。
 むなしい。
 こんな事、無意味だ。
 結局私はどこに行っても、何をやっても、一人ぼっちなのか。
 自分に何もないことはとうに気がついていた。自信を持って取り組んでいる趣味も、苦労して出した実績も、大切な人もいない。英語なんて話せないし、凄い営業力もない。背筋が丸く、顔だってすっかり老け込んで覇気もない。
 私は世界から人が消えることを望んだけれど、ひょっとしたら元の世界では私が消えてしまっているのかもしれない。私が消えたら皆一ヶ月もしないうちに私のことなど忘れ去るだろう。
 私はずっと、変わりたかったのかもしれない。こんな歳まで生きて変わりたいだなんて無理があるだろうけれど。生きるだけでも必死だけれど。それでも、もっとマシな人間になりたいと、ずっとそう思って生きてきた。
「結局私が変わろうとしないから、私は独りなんだ」
 私がずっと感じてきた孤独感。それはきっと、最初の一歩を踏み出せない自分への罰だ。
 今の私にとって誰も居ない世界と言うのは、まるで価値がないものなのだろう。何故ならここは元の世界と何も変わりがないから。形が違うだけで、独りである事はまるで何も変わらないから。人に与えられていた圧力やストレスは、ここでは膨大な時間と孤独に姿を変えて私に襲い掛かってくる。
 環境が変わったって、私が変わらなければ意味がないんだよ。
「神様……いや、サンタさん」
 私はどこか遠い空に向かって、静かに呟く。
「私にとって一人はあまり意味がないみたいだ。良いクリスマスをありがとう。だから、もう、いいんだ。クリスマスは終わりにしよう」
 どこに行っても、一人で、孤独で。
 それでも自分は生きなきゃならない。
 だから、私は。
 つらい現実で生きていこうと思う。
 その中で変わってゆきたいと、そう思う。
 クリスマスソングが鳴り響く中、私の意識は徐々に遠のいていった。

「吉田さん、吉田さん」
 誰かに肩を揺さぶられて目を覚ました。顔を上げると、目の前に島田さんが立ってこちらを見下ろしている。それと同時に聞き覚えのある人のざわめきが蘇ってきた。
 私は先ほどと同じく駅のベンチに座っていた。ただ違うのは、着ているのがスーツであるという事、捨てたはずのビジネスバッグが傍らに置かれていると言う事だけだ。
「こんなところで眠ってたら死んじゃいますよ」
「えっと……」
 どうなっているのだろう。そう考える前に、私の体に奇妙な疲労感が沸きあがってきた。それと同時に、覚えのない仕事の記憶も。
 十二月二十五日。三人で取引先の応援に入り、年末の販売応援最終日の仕事を無事に終えた。時間も遅かったのでとりあえずはその場で直帰にし、私は一人報告書作成の為に会社に戻ったのだ。恐らく二人はこの後飲みに行くのだろう。そう思っていた際、島田さんから大事な用事があるからとメールがあり、駅まで呼び出された。
「報告書作成、お疲れ様です」
「え?」
「気づいてないとでも思ってました? 仮にも半年間一緒に営業周りさせてもらったんです。流れくらいはもう読んでますよ」
「そうか、気づいていたのか」
 私の脳裏には先ほどまで居た奇妙な世界の記憶があった。だが、それも存在感を増す現実の感覚に徐々に薄くなっていく。
「それで、大事な用事というのは」
「飲みに行きましょう、吉田さん」
「……えっ?」
 きっと私は、随分と間抜けな顔をしていたに違いない。
「豊崎さんが奢ってくれるそうです。打ち上げですよ」
「だって、打ち上げは二人で行くんじゃあ……」
「えっ? なんでそんな事知ってるんですか?」
「いや、以前、偶然二人が話しているのを聞いてしまってね。だから今日もそのつもりで直帰にしたんだけど」
「もう、吉田さん……」彼女はあきれた様な笑みを浮かべる。「確かに二人でって誘われましたし、本社の方のお誘いだから断りきれなかったんですけれど、それなら吉田さんも呼ばないと行かないって言ったんです」
「どうして?」
「あれだけ三人でがんばったじゃないですか。二人で打ち上げなんておかしいでしょ。それに、私、吉田さんがいないと安心して飲み会なんて行けませんよ。何ていうか、失礼かもしれないですけれど吉田さんって私にとってのお父さんみたいなもんですから」
 はは。
 なんだ、それ。
「君みたいに大きな娘を持つ歳じゃないよ」
「やだなぁ。あくまで例えですよ……って吉田さん、何で泣いてるんですか?」
「えっ?」
 私は頬に手を当てる。知らない間に、目からは涙が流れていた。
「ひょっとして、お父さんって言われたの泣くほど嫌でした?」
 私は慌てて首を振った。
「ああ、いや、違うんだ。これは」
 これは、ただ嬉しかっただけなんだ。
「これは、ちょっと目に雪が入ったんだ」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
「本当に?」
「本当さ」
「じゃあそう言う事にしておきましょう。でもさっきのは決して悪い意味じゃないんです。それだけ吉田さんが父性的って事ですよ」
 島田さんはそう言うと私の手をぐいと引っ張って立ち上がらせた。
「さぁさ、行きましょう吉田さん。報告書なんて明日で大丈夫です。私ももちろん手伝います。だから今日はパァッとやりましょうよ。きっと今頃豊崎さん一人で飲んじゃってますよ」
「そりゃいけない。本部の出世頭だからな。気を使わんと」
 島田さんに手を引かれ、私達は雪の中を小走りで駆けた。
 小さな一歩でもいい。
 明日から、もう少しだけがんばって行こうと思う。
 まだ自分は変わってゆける。
 焦らなくていい。
 ゆっくり、少しずつ。
 人生は、それくらいで丁度いい。
 そう信じられる気がした。
 どこか遠くから、鈴の音が聞こえた気がした。

 ──了

       

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Neetsha