Neetel Inside 文芸新都
表紙

アハッピーメリーマリークリスマス
このメロディを貧乏神に捧げる

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 四十八人目の失恋。
 相手は、たいそうおっぱいがおっきかったそうな。
「Fはあったんですよ」
「Fはおっきいねぇ」
 周りで酒を飲むサラリーマンの笑い声が耳障りである。
「本音を言えばHくらいが理想でした。でも、そこで妥協点を決めるしかないって思ったんです」
「妥協するのは女の子の方だろうねぇ」
「はは、何をおっしゃるうさぎさん」
 尚(なお)先輩はいつだって辛辣だ。ゆっくりとマイペースで、どこか知的。そんな彼女とこうして飲むのは、何だか習慣みたいな物だった。
 オフィス街を抜けた駅前にある小さなチェーンの焼き鳥屋さん。平たく言えば鳥貴族。ビールが美味い。
「君がフラれる原因を教えて上げようか」
「おっしゃってみなさいな」
「君の『何でも出来る』って信じてるところに女の子は惹かれて、そしてあまりにガチだから女の子に引かれるんだよ」
「はは、上手い事をおっしゃいますな」
「それを上手いって言ってる時点で駄目なんだよ」
「モテる女は手厳しいですな」
 僕が言うと尚先輩はびっくりしたように自分を指差す。
「モテる? 私がかい?」
「たぶん」実は自信がなかった。しかし彼女には関係ない様で。
「ほほう、いい事を聞いたねこれは」
 尚先輩は僕より五年ほどキャリアが上の先輩だ。僕が入社して、初めて付かせてもらったのが彼女だ。
 すごい上品で、気立ても良くて、愛想も良くて、優しくて、美人で、オマケに実家がお金持ちと言う事で周囲からの評判は高い。実際、会社でも彼女を狙っている人は多いと聞く。僕にはただの辛辣な人にしか見えないが、確かに面倒見は良い。こうして僕がフラれる度にわざわざ一緒に飲んでくれる先輩なぞ彼女くらいのものだ。
 一通り酒を楽しんだ後、僕らは店を後にした。いつもの駅に来たところで、尚先輩とは別れることになる。
「そんじゃま、早く次の相手見つけるんだよ。んで飲みに行こう」
 駅の改札口で彼女は言う。毎度言われる次の事がなんだか情けない。
「それって僕がフラれるの前提じゃないですか!」
「あたり前田のクラッカー」死語だ。酷すぎる。
 ウンコを顔に塗りたくられた様な顔で彼女を見つめると、尚先輩はバツが悪そうにササッと改札を抜けて人ごみに消えた。僕はそれを見送り、そっと道を引き返す。
 僕の家は会社から近い場所にある。通勤に駅を挟まない。
 駅から少し歩いたところにある小さな安アパートの一室が僕の家である。開けるとギィィと造りの古いドアが甲高く鳴く。うるさいことこの上ない。しかも何故か内側に開くタイプのドアであり、玄関に靴を脱ぐと激しく引っかかる。構造上の欠陥もはなはだしい。
 くたびれきった体で部屋に入る。電灯をつけ、上着だけ地面に投げ捨て僕はベッドに飛び込んだ。
「四十八人目の失恋か……」
 溜息と同時にそんな呟きが漏れる。
 ダメージがない訳ではない。一応こう見えて一人一人真剣に付き合いを申し出てはいるのだ。でも通じない。
 ちょっと泣こうかな。涙、流せば強くなれるかな。
 何気なくZARDのCDをコンポに入れたところ、何故か銀杏ボーイズの『援助交際』が爆音で流れ出した。最悪だ。止めるのも面倒くさくてそのまま垂れ流していると何故か涙が出てきた。泣く曲じゃないのに無性に心に沁みやがる。畜生め。
 そのとき不意に押入れが開いた。
「なんや、またフラれたんか」
 もそもそと、世にも可愛い生き物が顔を出す。
 ふんわり柔らかそうなマシュマロほっぺ、髪型は坊ちゃん刈りで、着物を着ているその子供。
「兄ちゃんホンマあかんなー。モテよらん」
 とてとてと這い出してベッドにいる僕のところまでそいつは歩いてくる。
 僕はムッとして思わず奴のほっぺをつついた。
「お前が貧乏神だからフラれたんじゃないのか? おっ? どうなんだ?」
「何でもかんでもうちの所為にすんなやぁ! やめんかい!」
 子供はプリプリとのた打ち回る。やだどうしよう、眠ってた母性本能くすぐられちゃう、あたい男子なのに。

 ○

 社会人として初めて一人暮らしをすることになった時、この狭い安アパートに越してきた。
 荷物を運び込み、まず必要だったのが部屋の収納スペースを把握する事。ダンボールが広がる部屋を眺め、これからここで生活する上で荷物の収納と言うのは非常に重要に思えたのだ。
 衣装ケースと、何故か持ってきてしまった来客用の布団も入れておきたい。
 そう思って開いた押入れで、子供が寝ていた。
 どうしてここに子供が? とは思った物の、その疑問はすぐに引っ込んだ。
 子供の向こう、押入れの奥に、来客用の布団などいくらでも入る奇妙な空間が広がっていたからだ。ちなみに何故来客用の布団で換算したのかはいまだにわからない。
 とにかく通常では考えられない異質な空間がそこにあった。奥まで続いているのが分かる。何となく道に見えた。見た瞬間鳥肌が立ちそうな、薄暗い道。
 足を踏み入れるのも怖くてじぃと眺めていると、その空間はやがてサラサラと灰が流されるように霧消し、消えてしまった。残ったのは押入れの簡素な壁と、子供だけ。
 その子供が貧乏神だった。
 よりにもよって貧乏神かよ、とは思ったが悪質なものには見えない。むしろ神と言う響きに納得すらしてしまった。なんだかよく分からないが『徳』の様な物を感じさせられるのである。
 あの道が一体どういう性質を持って我が家に出てきたのかはよく分からないが、貧乏神によると神様や妖怪、それに人間が暮らしている世界がこうして繋がる事がまれにあるらしい。
 貧乏神は知的好奇心からその道に踏み込んだが途中で道が分からなくなってしまい、さまよい歩いているうちに疲れて寝てしまった。
 そしてその寝た場所がたまたま僕の押入れだったと言うわけである。かわゆいやつめ。

 ○

 追い出すのもかわいそうで一緒に生活していくうちに気がつけば二年が経っていた。仲は割と良い。貧乏神と生活するのだからそれなりに酷い目にあうのだろうと思っていたが、女の子にフラれる事以外は今のところ生活に支障はきたしていない。
「兄ちゃん、もう冬やで。いつになったら彼女出来るんや」
「ちみがちゃんとおうちに帰れたら出来るやもしれんなぁ」
「無茶言わんといてくれー」
 ベッドでホッペをぐりぐりするときゃっきゃと喜ぶ貧乏神。
 いい加減子供ではなく女の子とイチャつきたいものである。

 そんな僕は週一回、休みの日にスタジオに行くのが習慣になっている。電車に乗って二、三駅ほど行くと結構大きなスタジオがあり、またそこが良い機材を置いているのだ。
 そこで大学時代の同期である紅子と竹松の三人で曲作りをするのが唯一の楽しみであった。二人とも、同じ軽音楽部の仲間である。
「秋君、おっそ」
 スタジオの重たい扉を開いて早々、そんな嫌味が飛んできた。紅子だ。黒髪のロングヘアーで、ジャズコーラスの前でテレキャスターを肩から提げふんぞり返っている。ちなみに秋とは僕の事である。秋元秋(あきもとしゅう)。上から読んでも下から読んでも秋元秋。親のセンスを疑う。
「ドラムいないとなんも出来ないんだから早くしてよ」
「すめんすめん」
「反省しろっての。ねぇ、竹松もなんか言ってよ」
 しかしベースの竹松はニヤニヤしながら適当にフレーズを弾いている。それを見て紅子が呆れたように溜息をついた。僕らはいつも、大体こんな感じだ。
 バンドをしきるのは紅子。寡黙な竹松が妙な安心感を与え、僕がムードメーカー。
 危ういバランスで成り立ってそうなこのバンドも、貧乏神との生活と同じく結成して約二年が経とうとしている。皆、それぞれが個人練習でスタジオに入っているところにばったり遭遇したのだ。大学から近いわけでも地元が一緒なわけでもない。偶然で済ます事は出来なかった。
 適当にセッションしながら曲を作ったり、フレーズから発展させたり、そんなこんなで曲数はどんどん増えていき持ち曲はとうに二十を越えた。全員歌うのが嫌いなので何故かインストしか作らない。ライブもしないのにやたらと曲のクオリティだけは上がっていく。勿体無いから今度レコーディングをしようかといってるくらいだ。まさに暇つぶしバンドである。でもバンド名はない。

 練習を終え、休憩室で竹松が紅子のギターを弾いているのをボーッと眺めていると会計を済ませた紅子がやってきた。
「んでさ、何で遅れたのよ。貧ちゃん関係?」
 貧乏神の事は紅子と竹松だけが知っている。何度かスタジオに連れてきた事があるのだ。
「いやね、好きな子がいるわけですよ」
「今回はどこの子」
「会社。事務のまりのちゃん。運命だよアレは。たまたま電車で会ってね。ちょっとお話してたら本当に可愛くて、予想外に盛り上がってね。まぁ乗り過ごしたってわけ」
「殺す」
 ギターを振りかぶる紅子をなんとかなだめた。そんなのロックじゃない。

 貧乏神と暮らしながら、女の子にふられた傷を尚先輩に癒してもらう。
 社会人として仕事でボコボコになったプライドをバンドで回復させる。
 そんな日々が続く、社会人三年目の事であった。
 夏のボーナス、略してナスの使い道は割とすぐに決まった。
 それはとあるスタジオでの休憩時間の事である。いつもの広い休憩室。四つの椅子に囲まれた机がいくつも並び、僕らはその中の一帯を占領する。土日だからか僕らみたいな社会人バンドっぽいのが多い。
「ねぇ秋君」ストレートの髪をクルクルいじり紅子がしゃべる。
「なんじゃいな」僕は竹松のひざで痛くない程度にスティックをポコペコやる。
「ナス出た? ナス」
「ナス? ああ、うんこか」
「ボーナスよ」
「ボーナスか。出たよ」
 我ながら何でうんこに発想が行ったのか理解出来ない。しかし重要なのはそこではなく次の紅子の言葉だった。
「じゃあさ、レコーディングしよう。アルバムの」
「デモじゃなくていきなりアルバム作っちゃうの?」
「デモなんて入れられるのせいぜい二、三曲でしょ? 持ち曲二十もあったら選びきれんでしょうが」
「それもそうか。いいよー」
 そんな軽い会話でレコーディングが決まった。ちなみに竹松に意思確認はしない。してもしゃべらない。

 とにかくそんな訳でアルバム製作に向けてスタジオに入る日々が始まった。
 週一回だった練習は徐々に週二、週三と回数を増し、必然的に貧乏神をスタジオに連れて行く機会も増えた。スタジオに連れてきてもらうと貧乏神は楽しそうで、いつも休憩室できゃっきゃと喜ぶ。紅子と仲が良いのだ。よく懐いている、紅子が。
「貧ちゃんは貧乏神なんだよね」貧乏神のほっぺをつつきながら紅子が言う。
「せや」
「ぜーんぜん見えないね」
「可愛すぎるからな」僕は頷く。
 紅子に甘える貧乏神の姿はまるで天使である。しかしふと不思議に思う。
「でも貧乏神は人を不幸にするって言うのに、変だな。僕はちっとも不幸じゃない」
「秋君は不幸に気づかないタイプって気がする」
「黙らっしゃい」
 すると頬をつつかれていた貧乏神が口を開いた。
「実はなぁ、うちは人を不幸にするんとちゃうねん。不幸な人のとこに寄せられるだけやで。ちいとも金がたまらん人のとこにな」
「なるほど」
 僕と紅子は同時に頷いた。竹松は全く会話には参加せずにベースを弾いている。君、ちょっとは楽器手放したらどうよ。
「つまり僕に財政的な余裕が出来ると貧乏神は出て行ってしまうと」
「せやね」
「やだ! 貧ちゃんがいないなんて考えられない!」
 紅子がギュッと貧乏神を抱きしめる。
「じゃあ僕の家出た後は紅子のとこに行ったら良いんでないの?」
 すると紅子はハッとした。
「そうよ、それが良いわ。貧ちゃんうちにおいで。一緒に暮らそ」
「アカンわ。紅子はちょっと堅実にお金貯めすぎやねん」
「じゃあ闇金に手を出すから」
「やめなさい」ここで止めておかないとこの女、本気で手を出しかねない気がした。
 貧乏神はそっと紅子から逃れると、僕の膝に座り、体を預けてくる。
「うちは兄ちゃんが一番や。お金もないし、適度に運もない」
「かわゆいやつめ」
「秋君、その返しはどうかと思うよ……。ま、そうとなったら冬のナス、秋君には貯金させるわけにはいかんね」
「マジかよ」
「ライブしよう、ライブ。冬には音源も完成してるっしょ。んで君の機材も一新しよう。ついでに打ち上げ代も出しちゃおう。んで私の新しいバッグも買ってくれ」ここぞとばかりに欲望に見舞われる女である。
「何を勝手な。竹松も何か行ってよ」
 竹松は僕を見てそっと肩をすくめた。なんかしゃべってお願い。

 その日のスタジオ終わりに四人で飲みに行った。飲みに、とは言っても貧乏神はもっぱらオレンジジュースだが。
 不思議な事に今までこの和服小僧を誰も奇異の目で見た事がない。僕には分からないが、何か独特な力が働いているみたいだった。存在を当然と錯覚させる何かが。
 スタジオ近くの居酒屋、分かりやすく言うと笑笑の四人席で、ビールとオレンジジュースを飲みながら談笑する。掘りごたつ式の席で、他の客席から少し離れているので居心地が良い。
「しっかしあれだねぇ。僕の人生がこれほどまでに向上しないのは何でなんだろうね」
「それはな、兄ちゃんの人生が今低迷期にはいっとるからやねん。低迷期に入ってもうたらなかなか抜け出せへん」
「じゃあ秋君はずっと独身男か」
「やめて。竹松も何とか言ってやってよ」
「……」
「しゃべって、お願い」
「まぁ兄ちゃん、そんなに落ち込んだらあかへん。何かきっかけになるような悪い事が起こったら運気も治るねん。安心してくれ」
「安心出来る要素が微塵もない……」
「でも貧ちゃん、悪い事って言っても、秋君は今まで女の子に散々フラれたんだから十分悪いこと起こってるんじゃないの?」
「そんなんまだ大したことないで。攻撃で言えばまだジャブしかないんちゃう」
「じゃあ僕にはまだフックとアッパーが待ってるのか。恐ろしいねそりゃ」
「逆にそれを乗り越えたら兄ちゃんの運気はうなぎのぼりや。多分」
「秋君の場合のぼる前に深海まで沈みそうだけどね」
「よし、これより紅子さんの断髪式を行います。この肉切りハサミで」
「やんややんや」
「さわんな糞が!」
 肉切りハサミを持ちながらふと思う。
 僕の人生が向上したら、貧乏神は出て行ってしまうのだろうか。
 この生活を楽しいと思ってしまっている僕には、それはちょっと嫌かもしれない。

 僕たちのアルバムは、秋口に完成した。
 十二月の始め。ライブの話は意外とすぐ固まった。
 十二月二十四日。クリスマスイブである。
 話を持ってきてくれたのはなんと竹松だった。公募制の野外コンサートに空きがあり、それに応募したらしい。物販も売れる。寒いけど。
 その話を聞いた僕と紅子は「なんて日をチョイスするんだ!」と叫んだ。クリスマスは二人とも自宅で明石屋サンタを見る予定だったからだ。
 とにかく決まってしまった物は仕方ない。とは言えほとんど曲は完成しているわけであり、今まで通り週一回の練習をダラダラと繰り返すだけで着実にライブの形式は完成していった。
 そんな折、休日出勤が決まった。
 ライブ一週間前だった。
「え、出勤ですか」
 部長の所まで呼び出され、わざわざ宣告された。
 先ほどから同じ部署の人が呼び出しを喰らっていたからもしかしたらとは思っていたのだ。何人かがチラチラとデスクからこちらの様子を伺っている。自分が休日出勤になるかも知れないから気が気じゃないのだろう。
 ショックを隠しきれない僕の顔を見て部長が笑った。
「笑い事じゃないですよ、部長」
「いや、すまんすまん。変な顔だったからつい」
「そのヒゲもぎますよ。それで、いつですか」
 この時期にわざわざ呼び出されて宣言されるのだから日にちは決まった様なものだが、それでも一応確認はしておく。
「二十三、二十四だよ」
 ああ、終わったな。
 とりあえず僕はライブまでにいかにバンドを解散の方向に持って行こうか考えた。出来れば自分のせいで解散と言う形にはしたくない。
『竹松がしゃべらないから』
 そう、竹松が悪い。大体スタジオの雰囲気が悪すぎる。三人が喋れば盛り上がるのに、いつも僕と紅子が喧嘩するだけで終わる。あとこいつは楽器を手放さない。だから手放せるように解散してやるのだ。
『紅子のおっぱいが小さい』
 ヤル気が出ない。そう、色んなヤル気が出ない。だから解散である。僕に彼女が出来ないのもこのバンドのせいである。いいぞ、友情なんてゴミ箱に捨てればよい。
「まぁそう苦い顔をするな。六時には帰れるから。特令で私服出勤も認められてる」
 なるほど。ライブには間に合いそうだ。まぁ解散は考えすぎだよね。やっぱり僕にはバンドがないと。
「年末のこの時期に休日出勤が入るのは初めてじゃないだろう?」
「まぁ、予感はしてましたけどね。……失礼します」
 僕は肩を落としながら自分の席へと戻った。
 この時期はどこも忙しく、発注される商品の量も増える。その分トラブルだって相継ぐ状態だ。酷い時は土壇場で百点以上もの商品キャンセルが生じる時だってある。
 休日出勤を予期していようがしてまいが、どの道面倒臭い事に変わりはない。紅子にもどやされるだろう。急に増えた悩みの種に頭が痛い。
 こういうときは事務のまりのちゃんに会いに行って癒されよう。
 思い立ったらすぐ行動である。僕は立ち上がり、タバコを吸うと言ってオフィスを出た。そそくさと廊下を歩く。
 すると同期の中島が会議室に入ろうとするのが見えた。
 声をかけようかと思っていると続いて事務のまりのちゃんも会議室に入る。中島の影になって見えなかったのだ。
 おかしい。何故二人が会議室に?
 そもそも今日は会議なんてしない。うちの会社では会議室を使用する際、ちゃんと枠を決める事になっているからだ。
 そっとドアに近付いてウンコ座りをしながら耳を寄せる。
 誰にも見られなかった? 大丈夫だよ~、んもうはやくぅ、チュッチュチュッチュ。
 僕は固まった。
「何やってるんだい君はこんな所で」
 不意に声をかけられビクリと肩を跳ねさせる。
 顔を上げると尚先輩が怪訝な顔で立っていた。
 ああ、なんてタイミングですか、あなたは。
 気がつけば僕は言っていた。
「尚先輩、飲みに行きましょう、今夜」

 年末が近付き、どこも忘年回シーズンへと突入していた。
 行きつけの鳥貴族でもそれは例外ではなく、周囲の席の五月蝿さがいつもの倍くらい。倍デシベルは出てる。
 倍デシベルってなんだろうとビールを飲みながら考えていると、僕の向かい側で頬杖をついた先輩がフフッと笑った。
「通産四十九人目の失恋かぁ。五十人までもうすぐだね」
「縁起でもない。やめてくださいよ。もうクリスマスなんですから」
 僕はビールをあおった。
「そう言えばさ、君はどうするんだい。休日出勤後に迎えるクリスマス」
「ライブですよ」
「ライブ?」先輩は怪訝な顔をする。「見に行くのかい?」
「出るほうですよ」
「君、音楽なんてしていたのか」
 目を丸くした彼女は心底驚いているみたいだった。激しい表情変化をしない人だから、こんな顔は初めて見た。
「言ってませんでしたっけ?」
「初耳だよ。君は掘れば掘るほどなんか出てくる男だねぇ」
 褒められている気がしないのは気のせいだろうか。
 あまりバンドの話を人にするのは嫌だったので、僕の口は重い。何かこう、『俺、音楽やってますよアピール』に思えて鬱陶しいのである。
「どこでやるんだい? ちょっと興味あるかも」
 先輩はずいと身を乗り出す。音楽好きなんだろうか、この人。そんな話今までした事ない。しかし少なくとも、僕のライブを見たがっているのは分かった。でも申し訳ないがここはお断りしておく。
「いいですよ。そんな大した物でもなし。野外ライブだから寒いですし」
「野外なのか」
 しまった。いらない情報を与えてしまった。大体この辺りで野外ライブ出来る場所なんて限られている。クリスマスイベントとして公募のライブなんてやってるのは一つだけだ。
「先輩、申し訳ないですが見に来なくて大丈夫ですよ。そもそもあんまりライブを知り合いに見られるの嫌なんです」
「そっか。じゃあやめとくかな」
 心なしか彼女は少し寂しげだったが、気のせいだろう。ただちょっと強く言いすぎたかもしれない。
 この人がここまでライブ好きだなんて思いもしなかった。
 そう言えば今まで愚痴を多く言った事はあっても互いの事はそこまで話した記憶がない。趣味、嗜好、生い立ち。もっぱら話すのは僕に何故彼女が出来ないのかと言う考察と、会社の話くらいだ。その証拠に、彼女にはまだ貧乏神の事すら話していない。
「そう言えば、貧乏神で思い出したんですけど」
「誰がいつ貧乏神の話をしたよ」
 そうだった。
「思考と会話がごっちゃになってしまったんですよ。稀に良くあります」
「稀なのかよくあるのかどっちさ。フフッ」
 なんだか知らんが相手が笑う。ちょろいな、などとは決して思っていない。ふふひ。
「最近友人に変な事を言われまして」
「変な事?」
「今の僕の運気は下降中で、運気が上昇するには何か酷く悪い事が起こると言われまして」
「その友達は占い師?」
「みたいなものです」
「今度私も見てもらおうかなぁ。それで、悪い事って?」
「具体的には教えてもらってないんですが、僕の同期の中島いるでしょ? アレがまりのちゃんとチュッチュしていた事がそれに当てはまるのではないかと思いまして」
「中島くんそんなのしてたのか。もしかして君が会議室でかがんでたのって……」
「まぁそう言うわけです。衝撃的現場に居合わせる僕。その僕に居合わせる尚先輩」
「君は掘り下げるとなんか出て来るねぇ」
「まぁそんなわけで、今後僕の運気って言うのは上昇気流にのるわけですよね。うなぎのぼりと言う奴です」
「君はすぐ調子に乗るなぁ」そこで彼女は首を傾げた。「それで、なんで貧乏神からその話が出てきたんだい?」
「その友達の名前が貧乏神なんですよ」
「変なあだ名だねぇ」
 あだ名ではないのだが、否定するのも面倒臭かったのでハハハと笑っておいた。
 その時、脳裏にまりのちゃんのおっぱいがリフレインする。大きかった。顔は忘れた。
「はぁ、おっぱいが恋しい……」
「無意識に呟くのやめてくれないかな」
「すいません」近付くクリスマスと、遠退くおっぱいが悪いのである。
 肩を落としていると、尚先輩は「よしっ」と机を叩いた。
「触るかい? おっぱい」
「はっ?」
 驚いて顔を上げると尚先輩はホレホレと胸を張っていた。中くらいのおっぱいがそこにある。形は良い。ロケットおっぱいだ。Dカップ。見りゃ分かる。
「マジですか」
「マジだよ」
 手がふるふると震える。何を考えているのかは理解出来んが、おっぱいが自分から近付いて来たと見て間違いない。
 徐々に手がおっぱいに吸い込まれそうになるが、何とか耐えた。
「いや、やめましょう」
「良いのかい。一揉みくらい良いんだよ。減るもんでもなし」
「僕の神経が磨り減りますよ」
 後に死ぬほど後悔する羽目になるとはこのときはまだ知りもしなかったそうな。

 いつものように二人で駅へ向かう。後は尚先輩を見送って帰るだけだ。
「外は冷えるねぇ」
 尚先輩はポケットに手を突っ込んで体をぶるると震わす。息がすっかり白い。小動物みたいな自然な仕草であり、世の男性がこういう動作にキュン死にするのだろうと思えた。
「染みますね」
「でも今年のクリスマスはちょっと残念になりそうだねぇ。君と過ごせると思ったのに」
「ははは、過ごす男など吐いて捨てるほどおりましょう」
「その鬱陶しい口調やめなし」
 尚先輩はため息を吐いた。一つの仕草が、表情が、何でもかんでも絵になる人だ。
 道を歩く中で、空は透き通って高くそこにあった。透明な空気の中、星空が燦然と輝く。手をぷらぷらさせながら歩いていると、何度も尚先輩の手とぶつかった。この少しロマンティックな状況下で、手を取って上着のポケットに入れてやろうかと思ったが、後が怖いのでやめておくことにする。
 いつもの改札前まで来て、僕はそこで尚先輩と対峙した。
「それじゃあここで」
「ありがとう。あ、そうだ、秋君」
「はい?」先輩に名前を呼ばれるのは珍しいので思わず身構えた。
「私さ、前から言おうと思ってたんだけど……」
「何ですか」
 先輩は一言、二言、何か言おうと口を開きかけて、やがて首を振った。
「いいや、やっぱり」
「気になるじゃないですか」
「いずれ分かるよ」
 そしてそのまま改札を抜ける。人気のない改札口で、阻まれたまま僕らは向かい合う。
「今日はありがとう」
「そりゃこっちのセリフですよ」
「それもそうか。じゃあ、また」
「はい」
 駅のホームへ歩いて行く尚先輩を見送るなか、何か引っかかる物があった。
 二十三日のスタジオにて、僕はようやく休日出勤の旨を紅子達に伝えた。内緒にして誤魔化そうと思っていたのだが、当日にもスタジオに入ろうと紅子が言い出したために白状せざるを得なくなったのだ。
「はぁ? 明日も出勤?」紅子はチューニングしていた手を止めた。「休日出勤今日だけじゃなかったの?」
「すまんこ」
 僕がスティックで鼻くそをほじりながら謝ると紅子はギターを置いて胸倉をつかんできた。
「なんでそんな大事な事黙ってんのよ」
「急に決まったのです。すまんこ」
「まんこまんこうるさいよ。殺すよ?」
「ちんこ」
「殺す」
 紅子の目が獣みたく光る。あ、死んじゃう。
「やめたってくれ紅子ー!」
 まさに紅子がこぶしを振りかぶったその時、世にも可愛い叫び声がスタジオ内に響いた。見ると貧乏神が必死に紅子の服を引っ張っている。
「貧ちゃん……」
 胸倉を掴む力が弱まるのを感じた。
「兄ちゃんは仕事頑張っとんねん。当日もちゃんとライブ出れるって言っとったんや。だから堪忍したってくれぇ」
「ホント?」
「誠でごんす」
 僕が両手をひらひらさせると、紅子は仕方ないなぁと溜め息をついて手を離してくれた。そのままかがんで涙目の貧乏神を撫でる。
「それならそうと早く言いなさいよ」
「ライブに支障はないから大丈夫だと思ってさ」
 まさかいちゃもんつけて解散にまで追い込んでやろうと考えていたなどとはとても言えない。言ったら最後、今度はこぶしではなくギターが飛んでくるだろう。貧乏神を連れてきてよかったと心底思った。
「まぁ当日はリハなしになっちまうからよろしく」
「バリバリ支障きたしてるじゃんよ。大体なんで貧ちゃんがここにいんのよ。この糞寒いのに上着も着せずに、かわいそう。お手てチューチューしてあげんね」やめてあげて。
「うちは寒さ感じひんから大丈夫やで。今日来たんは紅子のとこにお泊りするためや」
 その言葉に紅子の目が輝くのを僕は見逃さなかった。一応補足しておく。
「明日僕は会社帰りに直で会場向かうからさ。貧乏神は紅子に連れて行ってもらおうかと思って」
 前もって頼まなかったのは絶対に了承される自信があったからだ。頼む必要性すらない。
「明日一日貧ちゃんと過ごせるって言うの……?」
「夢みたいだろ」
「うん」
 容易い女である。ときメモで言えばパラメーターを上げるだけで勝手に好感度も上昇する女キャラに似ている。ついでで攻略されるキャラである。
 ちなみにこの騒動の間も竹松君は出来上がった音源を聞きながらベースを弾いていた。もう帰って。

 そんなこんなで二十四日になった。
 朝から仕事に追われ、年末の忙しさはピークに達しようとしている。
 うちの会社は一応二十九日で業務納めのため、今日を越えれば今年の山場はもう終わりだ。
 ろくに昼休憩も挟まずに、皆一様にデスクに向かっている。取引先からの発注依頼と、受注キャンセル、商品のやりくりをどうこなすかが肝だ。
 息もつく暇がなかったが、そのおかげか時間が過ぎるのは妙に早かった。刻一刻と時は流れ、六時になるとどこからか歓声が上がった。意外な事に昼間はあれだけ追われていた業務は、最後の方になると割と余裕で終える事が出来た。
「おう秋元! 飲みに行くぞ!」
「あっ、帰ります!」
「貴様ー!」
 騒々しい中、僕はそそくさと上着を羽織る。正直少し休みたかったがこれ以上ここにいると無理やり飲みに連れられかねない。
 早足にエレベーターホールまでくると、なぜか尚先輩と部長がいた。
「それじゃあ松本さん、お疲れ様」「お世話になりました」そんな会話が耳に入る。
「何やってんですか?」
 怪訝な顔で近寄ると部長がギクリと顔を強張らせた。
「お前か……。もう帰るのか? この後、飲みに行くみたいだが」
「生憎と用事がありますんで」
「明石屋サンタか……」お前もか。
 エレベーターがやってくる。扉が開いた。尚先輩が乗り込む。部長は乗らない。見送るだけか。
「それじゃあ部長、ありがとうございました」
「元気でやるんだよ」
「はは、尚先輩なんか会社辞める人みたいですね」
 僕がエレベーターに乗り込みながら笑うと部長は「月曜まで内緒だぞ」と唇の前に人差し指を立て、そのまま扉が閉まると同時に見えなくなった。
 しばし沈黙が漂う。エレベーターが下降する。
 えっ。
「辞めるんですか?」
「うん」
 えっ。
『えぇ! 本当かい?』とマスオさんのモノマネをしようと思ったがそれはなんだか違う気がしてやめた。
「会社ってそんな急に辞められるもんなんですか」
「実は一ヶ月前から決まっていたのだよ。部長には内緒にしてもらってたんだ」
 驚きもしたが、同時に妙に納得してしまった。うちの会社はそうやって辞めて行く人が多い。猫のように音も立てずに消える人が。気まずいんだろうな、とか騒がれたくないんだろうな、とかそんな憶測が勝手に出てきてしまう。
「実家の家業を手伝うことになってね。辞めるって公言したらまた飲みだのなんだのってうるさくなりそうだから。君にはなんか言っておこうかと思ったんだけど、言えなかったんだよ。ごめんね」
 一週間前飲みに行った時の事を思い出す。

 ──私さ、前から言おうと思ってたんだけど……。

 彼女が言おうとしていた事はこれだったのか。
 何故あの時何か引っかかったのかようやく分かった。『次』の話がでなかったのだ。毎度飲み会終わりに言われる、『次』いつ飲むのかっていう話。
 正直、ショックは隠しきれなかった。呆けてしまい、上手く言葉が出ない。頭が混乱していて何を言えば良いのかわからなかった。
 会社の外へ出る。つめたい風が肌を刺す。外はすっかり暗かった。陽が落ちるのが早い。
 一緒に並んで歩いて、ようやく出た言葉が「短い間ですが、お世話になりました」だった。そんなんで良いのか。何かもっと言うべき事があった気がする。
 そんな僕の姿を見て尚先輩はおかしそうに笑った。
「最後なのに君はいっつもそんなんだなぁ」
「はぁ、すいません」
「私、君が他の女の子に目移りするの、すごく嫌だったんだよ」
「何でですか」
「鈍いなぁ。好きだったからだよ。気づくと思ったんだけどなぁ。普通」
 えっ。
 まさかの衝撃的告白だった。

 ここか。

 ここだったか。

 まさかここだったか!

 僕が女の子にフラれて喜んでいたのも、毎度飲んでくれたのも、おっぱいさわらせようとしてくれたのも、クリスマス一緒に居たいとか言ったのも。
 ここだったか! 僕は心で叫んだ。
 しかし今更告白など彼女は何を考えている。僕に一体何を言えと言うのだ。
 ──実は僕も本当は尚先輩が……。
 ──以前から尚先輩の事が気になってて……。
 ──Dカップも悪くない。
 ダメだ。どれも説得力がまるでない上に自分の愚かしさを上塗りするばかりである。
 それでも。
 それでも何か言わなきゃ。
 彼女は僕の言葉を待っていた。何となく、最後の言葉にするつもりなのが読めた。僕はちゃんと選ばなくちゃいけない。絶対に後悔しない、一言を。
 そして僕は口を開いた。
「えぇ! 本当かい?」
 風が吹いた。沈黙が漂う。
 尚先輩は一瞬、ものすごく冷たい目をした後、首を捻った。
「さよなら」
 僕は、彼女の背中を追いかけられずに、そのまま立ちつくした。彼女の姿は、やがて見えなくなる。
 何やってんだろう。
 風が突き刺さるなか、弱々しい力で服の袖をちょいちょいと引っ張られた。表情を変えずにそのまま下を見る。さぞかし僕は間抜けな顔をしていただろう。
 そこにいたのは、貧乏神だった。子供用の防寒着を着せられ、フードをかぶっている。
「迎えに来たで、兄ちゃん」
 手を引っ張ろうとする貧乏神を僕は制した。
「ちょっと待って。今、不運のジャブとアッパーが同時に来たから」
「でもこれから運気は右肩上がりや」
「その防寒着、どうしたの」
「紅子が買ってくれた。クリスマスプレゼントって」
「こんないたいけな子供を着物一枚で放っておくなんて出来ないからね」
 顔を上げる。紅子がにやけ顔で立っていた。
「クリスマスにフラれるとか、ぷーぷぷぷ、だっせ」
「うるさいな……」
 僕は俯いた。するとポン、と肩を叩かれる。竹松だった。居たの。
「なんだよ、竹松」
 竹松は笑みを浮かべる。
「今日は良いドラム叩けよ、秋」
「ばっか、何言ってんだよ」
 僕は肩をすくめると、天を仰いで叫んだ。
「当たり前田のクラッカー」
「キモッ」紅子が顔をしかめた。貧乏神が肩を揺らして笑い、紅子はわぁ可愛いと彼を抱き上げる。
「さ、さっさと行きましょ。あんたの舞台はこっちじゃなくてあっち。フラれんのは予定調和。景気付けに音楽で飛ばすわよ、その陰気と不運。終わったら四人で打ち上げ。最高に上手い酒で完璧」
「ですな」
 僕は手を前に差し出した。竹松がその上に自分の手を乗せる。次に紅子が乗せ、最後に貧乏神が乗せた。
「成功させよう。必ず」竹松が言う。
「ライブ何年ぶりだっけ」僕は首をかしげた。
「三年くらいじゃない」
「全然いけるな、それじゃあ」
「秋君のその意味分からない自信どこから来るんだか」
 僕は胸を叩き「ここ」と指し示す。返ってきたのは「引くわ、その返し」と言う一言。お決まりのやり取りだ。
 僕は皆の顔を見回す。
「よし、行こう」紅子。
「みんな頑張ってええ結果出してくれ」貧乏神。
「当然」僕。
「だな。俺たちの音楽をしてやろう」竹松。
 竹松。
 僕達は互いに頷くと、叫んだ。
「竹松がしゃべった!」
 こいつ口臭ぇ。
 駅前にあるコインロッカーで僕の機材を回収し、そのままタクシーで会場へと向かった。街の中心部からすっかり離れた自然公園がライブの会場である。距離は結構遠い。
 タクシーから雪でも降らないかと空を見上げると、空には燦然と星が輝いていた。
「ホワイトクリスマスには遠いねぇ」紅子がぼやく。
「なってたまるか」
 ようやく公園前に到着し、急いでステージへと向かう。途中、お世辞にもあまり上手とは言えない演奏が聞こえてきた。これはろくなイベントじゃないぞと内心思いながらライブスタッフに平謝りして到着の旨を伝える。
 ステージの様子をそろりと見ると、ライブをしているのはどこぞの高校生みたいだった。はやりのバンドをコピーしている。どうやらこのバンドの次が僕達らしい。ぎりぎりだ。
「リッチな高校生だなぁ。ライブ代どうしたんだろ」
「あれ? 秋君知らないの? ここライブノルマなしだよ。入場料も無料」
「ライブノルマなし?」
 耳を疑った。いいのかそれで。
「当初は僕のボーナスでライブするとか言う話だったと思うんですが、これは貯金しても良い感じですか」
「あなたのボーナスは残念ながら我々の打ち上げ代に消えます」
 打ち上げに何万使わす気だよ。そもそも僕のおごり前提で話が進められているのがおかしい。こんなバンド解散してしまえ。溜め息を吐きながらふと貼り出されているタイムスケジュールを見てみると、僕らの後の出演バンドがいない事に気がついた。
「あれ、僕らトリだっけ?」
「いや、違ったけど、私らの後のバンドがライブ直前に解散したみたい」
「マジかよ」
 ボロボロのイベントである。それでも内心、このバンドにお似合いの初ライブではないかと思えた。とにかく僕達はトリになった。鳥ではない。トリである。
 客席には多くの高校生がおり、全く盛り上がらなさそうな高校生バンドのライブでも割とにぎわいを見せている。みんなライブが好きで、音楽が好きなのだろう。
 紅子と竹松が楽器を弾き出した。ウォーミングアップをしているらしい。この糞寒い日だから弦楽器隊はさぞかし苦労しそうだ。まぁ僕も他人事ではないが。細かい音は指が使えないとスティックがうまく跳ねないので叩き損じが生じたり、不自然に音の粒がばらけたりする。
 近くのベンチに座り、スティックを持って簡単なハンドワークを行う。少しでも体を温めておいた方が良い気がしたのだ。久々のライブに緊張しているのか、ただ寒いだけなのか、それとも武者震いなのか、指が、体が震える。
 パタパタとひざでスティックを叩きながら、なんとなく今日ライブがあってよかったと思った。
 尚先輩の最後の表情を思い出す。心底愛想が尽きたら人間あんな顔をするのだろう。それぐらい冷たい視線だった。向こう三年は忘れられそうにない。
 僕らが一緒に過ごしたのは、二年と八ヶ月くらい。
「あっけないなぁ」
 呟くとなんだか泣きそうになった。
 今日ライブがなかったら、きっと僕は今もあの場所でたたずんでいただろう。気の許したバンド仲間や、不思議な同居人がいてくれたから今、こうしてここにいられる。どうにもなっていないけど、気は紛れている。
 今度の失恋は一度飲んで忘れるとかそんなレベルではないな。一度思考を開始すると後悔やむなしさと言った感情が心をじりじりと侵食して行くのが分かる。
「兄ちゃん」
 いつの間にか、貧乏神が目の前に立っていた。
「どうしたよ」
「兄ちゃん、ホンマにドラム上手いんか?」
 ぷっくりとしたほっぺの子供はいたいけなまなざしをしている。
「当たり前だろ。スタジオで何回も見てただろ?」
「スタジオで見よっても、うちにはよう分からんかったわ」
「そっか、ライブで見た事ないもんな。練習で見るのと、ライブで見るのってまるで違うから、覚悟しとけよ?」
 僕は貧乏神の頭をポンポンと撫でてやる。
「お前、本気出した僕のドラム見たら度肝抜かれるぜ? しっかり見ときな」
「うん」
 虚勢のつもりはなかったが、自分の言葉が気持ちをその気にさせるのが分かった。そうか、そうだよな。こんな感情、吹き飛ばしちまわないとな。
「秋君、そろそろ出番」
 紅子がやってくる。竹松はもうベースを持ってステージに向かっていた。いつの間にか前のライブが終わったらしい。
「貧ちゃんはちゃんと客席にいるんだよ?」
「うん、わかった」
「さぁて、行きますか。……っとその前に」
 僕は立ち上がると鞄から紙袋を取り出した。会社近くにある服屋の袋。おもむろに開けると、中身を取り出してやる。
「貧乏神、僕からのプレゼントだ。若干紅子とかぶったのが嫌だけど」
 シュルシュルとチェックのマフラーを首に巻いてやると、貧乏神の顔が少しうもれる。
「兄ちゃん、でかいわこれ」
「我慢しなさい」
「秋君はマフラーの巻き方が下手すぎるのよ。私がやったげる」
 紅子が少しあまり気味のマフラーを後ろへ逃がしてやると貧乏神のぷっくらほっぺが顔を出す。
「ふかふかや。あったかい」貧乏神は目を細めた。
「寒さは感じないのに、温かさはわかるのな」
「これはマフラーの温かさやない。兄ちゃんの温かさや」
「かわゆいやつめ」
 僕が頭を撫でてやると、貧乏神は嬉しそうに笑みを浮かべた。
 その後ギターケースに貧乏神を入れて持って帰ろうとする紅子の姿があったそうな。

 備え付けのドラムセットにペダルとスネアをセットする。ハイハットやシンバルの傾き具合をちょちょいと調整し、簡単にセッティングを済ませた。大まかに合わせたところでスティックを持ち、軽く全体を叩いていく。違和感があるところを少しずつ調整し、自分に馴染んだセッティングへと仕上げて行く。何百回とやってきた作業だ。
 僕のセッティングが終わったところでようやくギターとベースが音を出し始める。この分だと二人ともまだ当分時間が掛かるだろう。
 ふと客席を見ると、先程まであれだけいた観客がほとんどいなくなっていた。
「紅子さん」
「何」チューニングをしながら不機嫌そうなピリピリした声が返ってくる。
「あれだけいたお客様方はどこに行かれたのでせうか」
「さっきの高校生コピバン見て帰りましたけど。多分あの子らの友達でしょ」
 僕は客席を見回す。貧乏神を含めても七人くらいしかいない。すくね。他の出演者まで帰っている。普通のライブでは中々ありえない話だ。
「マジか……」
 なんだか予想外の事ばかり起こる日である。
 でもまぁ、しかし。
「僕等の初ライブって言ったらこんなのだよな」
「演奏は桁が違うってとこ見せるわよ」
 紅子が竹松を睨むと奴はグッと親指を立てた。準備はよさそうだ。竹松の前にあるあのマイクはもしかしなくてもMC用のマイクか。僕等はインストしかしないから歌は入らない。と言う事は竹松さん、こういう時だけしゃべる気なんですね。
 なんとなくグダグダしていると紅子がコードを鳴らしてアンプに向き直った。ハウリングにも似た甲高い共鳴音がアンプから流れる。フィードバックと言うやつらしい。彼女はそのまま片手を上げる。スタッフと僕等への合図でもある。始めるか、そろそろ。
 ハイハットを数回踏み、リズムを取りながら緩やかに入った。最初の曲はゆったりとしている。ずれはない。良い感じだ。
 終わっていく音は、やがて思い出へと変わっていく。余計な事は考えさせない。
 初ライブなのにこれほど安心感があるのも珍しい。長年連れ添ってきたメンバーじゃないとここまで安心して演奏は出来ないだろう。
 紅子のギターはいつもお洒落な音がしている。ファンクとかのギターっぽい。それに対して僕は結構手数が多いジャズやボサノバみたいなドラムを叩く。竹松はゴリゴリの音作りの癖に妙に跳ね上がり、ポップなベースだ。共通してそうで微妙に共通しない僕等は二年以上バンドを続けている。今日が初ライブだなんて全くもって信じられん。
 緩やかに聖夜は過ぎ去って行く。街ではクリスマスだのなんだのと騒々しいのに。
 色んな事があった今日一日を、僕等は音で紡いでいく。
 一曲、二曲、三曲。
 曲を終えるたびに興味のなさそうにしていた観客がこちらに引き付けられてきているのがわかった。拍手の数も徐々に増えていく。
 四曲目が終わり、ようやく次で最後の曲と言う段階で竹松が口を開く。本当にしゃべる気らしい。とんでもない男である。紅子も壮絶な顔でこちらに意見を求めてくる。やめて、笑っちゃう。
「どうも皆さん初めまして」
 どうも? 皆さん? 初めまして? 
 竹松のMCの出だしを聞いた瞬間わかった。
 糞だ。聞く必要性のない、まるで面白みのないMCである。普段しゃべらない奴が張りきるとこういう事になるのである。
 もはやMCをメンバーとして見守る事も放棄した僕は会場にいる貧乏神に視線をやった。
「兄ちゃん、次で最後か」
 何故か貧乏神の声が聞こえる。はっきりと。頭に直接話かけられているみたいに。
 不思議な感覚だった。
「押入れの扉がな、ひらいてん」
 扉?
「うちが初めて兄ちゃんに会ったときの通路や。道がまた出来たんや。妙なざわつきがすんねん。うちがあの道に足を踏み入れた時と同じ感覚や。だから分かんねん。これを逃すと、次はいつになるかわからん」
 えっ?
「兄ちゃんと暮らした二年間、おもろかったで。うち、兄ちゃんも紅子も竹松も大好きや」
 何お別れみたいなこと言ってんだろうと思って、そこでやっとこさこれは別れの挨拶だと気づく。
 待ってくれよ。
 お前まで僕の前から消えてしまうのか?
「大丈夫や。これから兄ちゃんの人生はうなぎのぼりや。うちは貧乏神やけど、人を不幸にする神とちゃう、ずっとそう言われてきた。でも実際、うちと居て楽しそうな人は人であれ妖怪であれ、全然おらんかった。ほんまはうち、人を不幸にするんとちゃうかってずっと思ってた。でも例外がおったんや」
 例外?
「兄ちゃんや。兄ちゃんだけは、貧乏でもお金がなくても女の子にフラれてもなんか楽しそうやった。うちも楽しかったんや。そんな兄ちゃんと一緒にいれてよかった。でも、もうお別れや。これ以上兄ちゃんに甘えるわけにはいかん」
 なんだよ。
 なんだよそれ。
 急すぎるだろ。あまりに。
「すまん。でも兄ちゃんの人生はこれから良くなるはずなんや。兄ちゃんが運勢の底を乗り越えたからな。昇っていく兄ちゃんとうちは一緒にはおれんのや。貧乏神は運気に弱いねん」
 僕は何も言えなかった。ただ、呆然と、先ほど尚先輩を追いかけられなかった時のように、ドラムの前に座っているだけだった。
 また何も出来ないのだろうか。
「兄ちゃん」
 なんだよ。
「最後の曲、ちゃんと聞いとくさかい、カッコええとこ見せてや」
 何言ってんだこいつは。
「当たり前田のクラッカー」呟く。
 そうか。なんとなくわかった。
 去り行くものを無理に追う事は出来ない。
 僕があの時尚先輩を追いかけたって、彼女を抱きしめたって、告白したって、そんなのは寂しさを増幅させるだけの悪あがきでしかないのだ。
 あの時の僕に最良の選択肢なんてなかった。
 でも、今の僕には音楽があるじゃないか。
 やったるしかない。
「貧乏神!」
 僕は叫んだ。紅子が怪訝な顔で振り返る。調子に乗ってしゃべっていた竹松も驚いて黙った。少ない観客が、それまで微塵も目立たなかったドラムに視線を寄せるのがわかる。
 僕はかまわず言う。
「別れは言わんぞ! これは手向けじゃ!」
「何? どうしたの?」紅子が近寄ってくる。
「糞みたいなMCはもういいから!」
 出来る事なんて限られている。
 だから僕は。
「この場にいる奴らに、パンチってやつを見せつけてやろう」
 このメロディを貧乏神に捧げる。
 寒い冬の日に、スティックのカウント音はよく響いた。
 ドラムはいつもより皮が張り、音にしまりがある。
 冷えたシンバルは鋭い高音域で抜けがよかった。難点は、ミュートするのがちょっと辛いくらいだ。
 勢いを出すと、良い感じでぴしぴしとはまった。曲の随所々々で緩急が上手くつけられている。
 掛け声と共に曲を転調させた。体重を乗せ、全身でクラッシュシンバルを叩く。
 ギターのカッティングにエイトビートがはまる。
 振り上げたスティックをシンバルへ逃がし、バスドラムで音を押し出していく。
 押し出した音はベースラインへ乗っかり、普段目立たない低音を浮き彫りにしていく。
 浮き出たベースラインはギターのメロディラインとからみあう。
 そこから生まれる創造。化学現象。
 同じ曲が、全く違うものに見える瞬間。

 貧乏神、見ているだろうか。
 自分で言うのもなんだけど、多分格好良いだろう、僕等。
 まるで手ごたえが違う。客席から、慣れない歓声が上がる。
 紅子と竹松の表情も変わるのが分かった。明らかにノっている。
 紅子がギターを掲げて吠え、激しいカッティングを行う。竹松がベースを抱え込む。僕はシンバルを叩きながら大きく体を揺らして叫んだ。

 不条理とか、辛さとか、むかつきとか、なんかいろんな物を吐き出せるんじゃないだろうか。
 社会的には底辺で、こんなロマンティックな夜に三人してほとんど客のいないイベントに出て、高校生に客を持って行かれ。
 それでもこの瞬間、僕等は無敵だ。
 なんだって出来るよ。だから心配ない。
 最後に見た貧乏神の姿は、ものすごく楽しそうにキャッキャと微笑んでいた。

 我が家の近くにある居酒屋で打ち上げを行った。まるで葬式状態だったそうな。
「そんな、貧ちゃんが帰ったなんて……。それもこの万年チェリーボーイだけに挨拶して」
「誰がチェリーボーイじゃい。……はぁ、まったく。竹松も何か言ってよ」
 竹松は机におでこをつけたまま動かない。こいつの場合はMCがだだすべりの上、メンバーから自分の喋りを糞呼ばわりされた事で気を病んでいるのである。
 ライブ中はよいがその後がヤバイ。祭りのあととはこの事で、現実から目を背けた結果色々な物が投げっぱなしになっている状態である。まさに最悪のクリスマスだ。ビールだけがやたらと進む。
 ほとんど会話もなく三人とも黙々とビールを煽った。
 考えてみれば今日僕は大切な先輩を失い、飲み友達を失い、おまけに五十人目の失恋を果たしたのである。
 貧乏神さん、これのどこが運気回復なんでせうか。
 下らぬ飲み会でも意外と時間は潰せるもので、気がつけば終電もなくなり紅子と竹松はうちで泊まる事になった。
 狭い室内に暗澹とした空気が満たされ、更に運ばれてきた楽器で部屋は狭くなる。
 二次会用に三十本ほど買ってきたビールも「貧ちゅわぁん、帰ってきてぇん」と泣き叫ぶ紅子に八割ほど飲まれた。
 何か景気付けにBGMでも、とコンポをつけると大分前に聞いていた銀杏ボーイズの『援助交際』が流れ出す。最悪だ。
 気がつけば竹松がコタツに足を突っ込んだまま倒れ、紅子も僕のベッドに横たわって眠りの儀に入っている。
 竹松に布団でもかけてやるかとフラフラしながら押入れを開こうかと思ったが、空気の漏れる音がしたのでやめた。『道』はまだ開いている。紅子に気付かれたら貧乏神を追いに行きかねない。
「秋君、私寝るから襲わないでよ」
「僕、紳士だから女の子を襲ったりするような野暮な真似はしないよ?」
「顔がきしょい」
 その言葉で力尽きて僕はコタツの中に沈んだ。

 電気を消し、うつらうつらとしている中。
 どこからか鈴の音が聞こえる気がした。

 シャンシャンシャン、シャンシャンシャン。

 サンタクロースかと思って目を開く。
 すると押入れがガタガタと揺れ、静かに開いた。
 風の音が、ピタリと止む。
 そっと、見覚えのあるシルエットが顔を出す。部屋が暗くてわからない。
 僕はのっそり立ち上がると、部屋の電気をつけた。
「うわぁ」
 急に明るくなった部屋に訪問者は目をくらませる。
 子供用の防寒具にマフラー。
「貧乏神!」
「兄ちゃん!」
 僕が手を広げると貧乏神は竹松の顔面を踏んで僕の胸に飛び込んできた。ぐええと言う声が聞こえる。
「お前どうしたんだよ」
「道に迷ってもうてん! また戻ってきてもうたわ!」
「僕の運気がよくなるから一緒に暮らせないって」
「考えたら兄ちゃんの運気元からそうよくなかったわ! 回復しても知れとるしな!」
「こやつめぇー!」
 僕がホッペをぐりぐりしてやると「やめろやぁ」と嬉しそうな顔で貧乏神がキャッキャとはしゃぐ。何気にすごくショックな事実を言われた気がしたが、もうこの際気にしてなどいられない。
 はしゃぐうちに「うぅん? 貧ちゃん?」と紅子が目を覚ました。彼女は貧乏神を視認するとがばりと起き上がる。
「貧ちゃん!」
「紅子ぉ!」
 貧乏神と紅子は抱き合う。竹松を下敷きにして。そろそろやめて彼死んじゃう。
「うそぉ! 本当に貧ちゃんだよね? 帰ってないんだよね?」
「まだ当分おるわぁ!」
 部屋はわっと盛り上がりを見せる。見ると深夜四時である。
「もうこうなったら寝てられないな」
「秋君、これはお祝いしかないっしょ!」
「せやで兄ちゃん!」
「仕方ない! 今夜は祭りじゃ! 祭りをおこなうぞ! 酒を調達してまいる! 皆の者つづけぇ!」
 どっせいどっせいと不可解なダンスを踊りながら僕等は玄関へと向かう。何故か外側ではなく内側へと開く謎の扉を開く。構造上の欠陥も甚だしい。
 ぎぃぃと軋む扉の先には、尚先輩が立っていた。
 どう見ても幻覚である。そうに違いない。尚先輩がここにいるというだけでもおかしな話なのに、今は午前四時なのである。
 とりあえず僕はスリッパをはくと、そのまま廊下に出た。家の中から紅子と貧乏神が何事かと事態を探る。
「や、やぁ」先輩は一瞬ビクっとした後、たどたどしく口を開く。「やっぱり、あのまま別れるのはどうかと思って引っ越す前に挨拶だけしに来たんだよ。この時間に非常識かと思ったんだけど、六時にはもう発っちゃうから」
「どうやってここに?」
「タクシーだよ」
「そうじゃなくて、何でうちが分かったんですか? 教えてないのに」
「実は以前内緒で後を追いかけた時があってね。急に遊びに行こうとか、そんな女の子っぽい事を考えてしまったんだよ」
 幻覚の割にはちゃんとした設定が成されている。どういうことだ。
 何か言おうと思ったが上手く言葉に出来ない。ほおを撫でる風の冷たさも相まって、ひょっとして彼女は幻覚ではないのだろうかと思えてくる。
 彼女はそっと寂しげな表情で玄関に立つ紅子と貧乏神を見た。
「そうか、だから君は私の気持ちには気づかないふりをしていたんだね……」
「はっ?」
「妻子が……いたんだね」
 何か重要な誤解が生じている。
「そんな」わけねーだろと突っ込む前に「馬鹿ぁ!」と言う声と鋭いビンタが頬を弾いた。
 吹っ飛ばされ、僕は廊下に倒れ込む。僕の脇を抜けて尚先輩は駆けて行くと、待ってもらっていたであろうタクシーに乗り込んで姿を消した。
 頬が痛い。夢ではなかった。幻覚でも。僕は横たわったまま空を見上げた。
「良いフラれっぷりでしたな、旦那」
 アパートの廊下から空を仰ぐ僕の視界に、にゅっと紅子が入り込んでくる。
「兄ちゃんのホッペ、もみじさんが出来とる」
 貧乏神が僕の頬を撫でてくれる。
 しかし僕の視線はそんな所には行っていなかった。
 空から落ちてくる、一粒の白い欠片。
 それはゆらりと舞い、ひらひらと僕の鼻に落ちた。ちめたい。雪である。
「うわぁ、ホワイトクリスマスになっちったねぇ」紅子も雪に気づいたのか空を見上げた。
 僕は腕を振ると反動で上体を起こす。そしてグッと伸びをした。立ち上がり、ポケットに手を突っ込む。
「五十人目は二度失恋する」
 そっと呟くと僕の肩を竹松が叩いた。
「新しい曲に使えそうだな」
 何を考えているのかてんで理解出来ないその口を右フックで黙らすと、倒れた竹松の足を引っつかんで僕は引きずった。
「どこ行くんや? 兄ちゃん」
「決まってるだろ」
 僕はビッと親指を立てる。
「祭りの酒を買いに行くんだよ!」
 貧乏神と紅子がわっと歓声を上げ、竹松の両腕を持って掲げる。
 僕等はクリスマスに似つかわしくない銀杏ボーイズの『援助交際』を歌いながらコンビニへと向かった。
 確かに僕の運気は良くなかったかもしれない。
 それでも、こんな愛すべき仲間がいるじゃないか。
 彼等がいるうちは、まだ僕は人生に挫けるわけには行かないのである。
 もうちょっとだけ、もう少しだけ。
 そう言っているうちに、少し先が見えてくる気がするのだ。
 僕達は雪の中を駆け出す。
 見えないけれど、きっと確かにある未来を探るように。

 ──了

       

表紙

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Neetsha