Neetel Inside 文芸新都
表紙

アハッピーメリーマリークリスマス
あの鈴の音を鳴らすのはあなた

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 クリスマスはプレゼントされるやつと、プレゼントする奴が両立して初めて成しえる物である。片方だけでは決してエンターテイメントと言うのは成立しない。
「そうは思わんかね、みことくん」
「いいからさっさと仕事しろってんすよ」
 十二月二十四日、クリスマスイブ。
 俺は後輩である神野みことくんとアルバイトに勤しんでいた。みことくんと呼んではいるが立派な女性だ。同じケーキ屋さんで勤めており、かれこれ三年の付き合いになる。
 俺達は路上でケーキを売っていた。中途半端に店から離れた商店街の道端。長机にホールケーキを幾許か置いて。糞寒い夜空の下。
 この時期外でケーキを売らされると言うだけでもえげつないが、さらに輪をかけて酷いのがこの服装だ。
「あ、サンタだ、サンタさんがいる!」少女に指をさされる。
 そう、俺とみことくんは防寒着と称したサンタクロースの衣装に身を包んでいた。
 みことくんは下にタイツを着たかわいらしいミニスカサンタ。
 俺は白ひげを顔面下半分に瞬間接着剤で固定したガチサンタ。
 割に合わねぇと言いたかったが自給二千円プラス販売個数一個につき百円プラスと言った歩合制で割に合いまくっているなかなかええ塩梅のバイトであった。
「あぁ、くそさみぃ。どっかから聞こえるクリスマスソングもだりぃ、死ねよ」
 みことくんは非常に口が悪い。顔もスタイルも良いがショートヘアの髪型に赤毛は結構迫力がある。三年の付き合いである俺が恐いと思うのだから誰の目に見ても恐いことは確実だ。
「そんなんだから彼氏出来ずにイヴにバイトなんてする羽目になるんだ」
「彼女にフられてバイト入れる奴よりマシでしょ」
「ふぅっ」辛辣な物言いに胸を痛めた。
 先日三年半も付き合った彼女と別れた。特にこれと言った原因はない。物言いが嫌味っぽいとか、メールの返信が遅いとか、束縛がきついとか、手が冷たいとか、時々口が臭いとか、黒眼がブラックホールみたいで恐いとか、お互いが持っていた小さな不満が徐々に積み重なってとうとう爆発したと言う感じだ。
 せめてクリスマス過ぎてからでもいいじゃない、とは思ったがそれはあくまで男側の都合。彼女からすればクリスマス前だからこそずるずる行かずスパッと終わらせたかったに違いない、と言うのはみことくんの見解。
「大体あたしゃ色んな男から声かけられまくってんすよ。それをわざわざ蹴って取捨選択したうえでバイト入ってんですからその時点で先輩とは違うってわけ」
「へ、へぇえ、そ、そうなんだ、もてるんだねー」
 クリスマスの予定を尋ねられたとき、バイトに入ると言う話をしたら「あたしも今度店長に希望出すつもりなんすよ」とか言っていた。最初からそのつもりではなかったのか。
 内心いぶかしんでいると胸倉を掴まれた。
「微塵も信じてねぇ癖に軽い返事飛ばしてんじゃねぇよ」
 ドスの効いた声のトーンと眼光に「マジすいません」とだけ返した。
 みことくんとやりあっていると先ほどこちらを指さしていた少女が机から頭だけ覗かせてこちらを見ていた。それに気づいた母親らしき女性が少女の手を引く。ロングスカートにカーディガン、その上からコートを羽織い、白と淡い赤色のストールを首に巻いた、落ち着いて上品な感じの若い母親だ。
「ゆうちゃん、サンタさんの邪魔しちゃ駄目でしょ」
「お母さん、サンタのケーキ食べたい」
「わがまま言わないの」
 その時みことくんの目が光った。出るぞこりゃあ。鬼が出る。違う、販売モードだ。
「はい、一口どうぞ。良かったらお母さんも食べてみてください」
「え、いいんですか?」
 困惑した様子の母親に先刻の鬼のような形相とは打って変わった笑みでみことくんが試食用のケーキを手渡す。その発想はなかったわ。みことくんのやつ、今日は荒稼ぎするつもりだな。彼女のガチさを俺は肌で感じていた。
 試食のケーキをもらったとたん、少女の目が輝きだした。
「ありがとう! おばさん!」
「おぶっ」
 おばさんと言われたみことくんがものすごい顔をしている。般若出てるよ、般若。
 みことくんは顔面の筋肉を駆使して無理やり笑顔に持っていくと、息も絶え絶えに答えた。どうしよう、ゴメスみたいになってる。
「うん、おばぶっ、おぶちさんね、おぶちさんからのプレゼントなのね、それね」
 ものすごい無理のある聞き間違いをしている。多分おばさんと言う単語を七千五百万回耳にしたとしてもおぶちさんとは聞き間違えない。
 まぁ彼女はまだ大学三回生なのだ。ピッチピチの学生で、クリスマスに男達からたくさん誘いを受けるほど美人(笑)で、おばさん呼ばわりされるのは認めたくないのだろう。
「あら、美味しい、このケーキ」
 母親のリアクションに再び営業スマイルに戻ったみことくん。
「でっしょう? 甘さ控えめなのに豊潤な味が広がるでっしょう? いい卵、しかも卵黄をたっっっっぷり使ってるんですよ。クリームも北海道の新鮮な牛乳をふん、ふん、ふんっだんに使ってるんです」
 ふん、ふん、ふんの下りで鼻水が出そうになるのを俺は何とかこらえた。
「ぜひ今日の晩御飯のデザートにでも、お一ついかがですか? 小さいサイズもありますよ」晩御飯のデザートには重たくないか。
「それじゃあ一ついただきます」
「本当? お母さん」
「ええ、クリスマスだもんね」
「やったぁ!」
 眼を輝かせて万歳する少女の姿は本当にうれしそうで、なんだか見ているこっちまでホッコリしてくる。少女と眼が合ったのでウインクしてあげると、彼女は楽しそうに笑みを浮かべた。

「ありがとうございましたー」
 ほほえましい親子の後姿を見送り、ホッと肩の力を抜いた。
「とりあえず一個は売れたね。お疲れ様、おば、ぶちさん」
 すると頬をガシリと掴まれた。
「てめぇ調子乗ってんじゃねぇぞ」
「すいません」
 親子が買って行ってくれたのを火種に足を止めてケーキを眺める人が増えてきていた。みことくんの試食作戦が効いたに違いない。一つ、また一つと売れ、徐々に街頭販売は混み具合を見せていた。
「先輩、いい感じっすよこれ、勢い出てきてるし、完売できっかも」
「うむ、引き続きその胡散臭いキャラで売りまくってくれ」
 ふと見ると、机の上に見慣れぬ箱が置かれていた。手の平大の細長い箱でリボンがつけられており、クリスマス用のラッピングがほどこされている。
 俺はそれを手に取るとみことくんに見せた。
「これ何か分かる?」
「さっきの親子の忘れもんじゃねっすか? そう言や財布探してる時に出してたかも……」
「どう見てもプレゼントだよね、これ」
 先ほど親子がいた道に眼を向ける。もう姿はない。
「追いかけたらまだ間に合うよな」
「えぇ、これからって時に抜けんの?」
「すぐ戻るよ。それまで耐えて」
 走り出した俺の背後を「もう、早く戻ってきてくださいよ」と言う声が押し出した。俺は手を振ってそれに応えると、親子の進んだであろう方へ駆け出した。
どこか遠くから、鈴の音が聞こえる気がした。
 
 親子を探して随分と街を走り回った。幸いにも、サンタの格好をしていても街中で悪目立ちすることはなかった。クリスマスも仕事かあいつ、そんな顔で見られるぐらいだ。
 クリスマスに彩られる街中は、幸せそうな人々の笑顔であふれている。
 サンタはこの時期、街を彩る装飾品の一つでしかない。あって当然、ないと不自然。お前らのその笑顔は俺たちエセサンタの犠牲の上に成り立ってんだぞとか色々言いたいことはあったがもはやそんなことはどうでもよかった。
 人々がごった返す街中であの親子を見つけることは至極困難なことだと思い知った。
 もしかしたら晩御飯の食材を購入するためにスーパーに寄っているのかもしれないし、ケーキが崩れる前にさっさと家に帰って今頃はリビングにいるのかもしれない。時間が経てば経つほど出会える可能性は下がっていく。
 途方にくれていると不意にポケットの携帯が震えた。着信はもちろん、みことくん。
「見つかりました?」
「いや、それがとんと」
「じゃあもう無理っしょ。こっちもそろそろヤバイんで一回戻ってきてくださいよ。探すよりあのお母さんが気づいて戻ってくる可能性の方が高いっしょ。いまどこっすか」
「三丁目のあたりかな」
「じゃあ本店近いじゃん。ついでにケーキ補充してきてくださいよ。結構売れてるし、この程度じゃ稼ぎが足りねっすよ」
「わかった。すぐ戻るよ」
「急げよ。ダッシュでな」
「はい」
 電話を切った俺は首をかしげた。こいつ後輩だよな。
 本店には五分も歩かないうちに到着した。中に入ってみるとこちらはこちらで予約客の応対に追われている。随分忙しそうで、レジ係や店長がバタバタしていた。サンタ姿で登場した俺を見てレジカウンターの子がギョッと見てくる。
「お疲れ様でーす」
 飄々とした調子でカウンター内から厨房へと乗り込むと、パティシエがケーキ作成にいそしんでいた。甘い香り漂うケーキ屋さんには似つかわしくないほどの殺気が辺りを取り囲んでいる。よく見ると全員白目で痙攣している。
「おい、平野てめぇ何サンタのコスプレなんかしてやがんだ」
 オーナーの次に権限があると言われているパティシエの保坂さんが凄む。保坂さんは元ヤクザ上がりであり、「ぜんかもん」と言う渾名がつけられていた。その渾名の意味合いを深く考えるつもりはない。
「いや、ケーキが足んないんで欲しいんですけど」
「ああ? クリスマスパーティーで浮かれ気分か? おお?」
 保坂さんが一歩、また一歩と近づいてくる。その気迫に、思わず後ずさる。ものすごい勢いで俺は追い込まれており、気がつけば壁際だった。もう後がない。恐怖で身が震えた。
「いや、街頭販売のケーキをですね……」
「はっきりしゃべれや、おお?」
「が、がい、街頭販売のケーキ……、街頭、がい、骸骨が欲しいんです、骸骨」
「んだとぉ? また俺に人殺れってんのか?」保坂さんの顔面に血管が浮かび上がる。
「しぇぇ」
 すると誰かが「ほさかさーん、平野は今日の街頭販売のバイトですよ」と言葉を挟んだ。途端、保坂さんの表情がフッと緩む。
「何だよ。だったらそうと早く言えや。おい平野、寒い中ご苦労だな」
「あ、いえ、すません」
 どうにか命は助かった。悪鬼が一変して仏に変貌する。
「それで、何のようだよ」
「予想以上に街頭のケーキが売れてるんで、予備をもらおうと思いまして」
「おおそうか、だったら裏口に用意してるから台車ごと持ってけよ」
「あざす」
 頭を下げると「ま、がんばって売ってくれよな」と保坂さんは声をかけてくれた。
「売れ残ったら東京湾に沈めるから」
「ははは」笑えない。

 店を出た俺は台車を押して慎重にケーキを運んだ。巨大なダンボール一杯に詰められたケーキ。非常に重たい。一体何個入ってんだ。
 店からそのまま大通りに沿っていけば街頭販売をしている商店街へと出られる。ほぼ一本道だが、非常に人通りが多い。今日は特に混雑しているだろう。台車を押してケーキを傷つけずスムーズに通るのは難しく危険だ。そこで俺は考えた。
 街頭販売をしている拠点のすぐ後ろは狭い路地と繋がっている。その路地へはこの先にあるわき道が繋がっていた。迂回することになるのだが、急がば回れとはよく言ったもので、こちらから行ったほうが人通りが少なく安全で容易にケーキを運べることが予測できた。
 この作戦を使えば、予想より早く戻ってきた俺の手際のよさにみことくんは感服し、先輩としての威厳も取り戻せ、主従関係も逆転するに違いない。我ながら完璧な作戦だ。
 俺は自分の頭の良さに惚れ惚れとして路地に入り込んだ。予想通り、人の姿はまるでない。
 いや、よく見ると前方に一人、誰かが立っていた。
 フードを頭までかぶったいかにもと言った容貌の怪しい人物。誰かを待っているみたいだ。
 なんだろう、嫌な予感がする。俺はつばを飲み込んだ。
 息を殺し、慎重に歩く。徐々に距離が縮まっていく。
 すると奴はこちらに気づき、近づいてきた。一気に緊張が高まる。
「あんたが、約束の人あるか?」
「えっ?」
「そのサンタの格好、電話で話した通りあるね」
 中国人だろうか。今時語尾に「~ある」なんてつける中国人存在するのか。困惑していると男は右手に持った黒いボストンバッグを突き出してきた。
「約束のブツある。早く受け取るある。なんならここに置いとくある」
 男は言うやいなや台車の上にバッグを乗せた。
「報酬はいつもの口座に振り込むある」
「いや、あの……」
 人違いでは、と言う前に「シェイシェイ」と言って男は去っていった。なぜシェイシェイなのだ。サイツェンではないのか。突っ込みたい事は色々があったが、問題はそんなところではない。
 俺はダンボールの上に置かれたボストンバッグを眺めた。
 困った。
 いかにも、だ。
 中を確かめるべきだろうか、いや、確認して後戻り出来なくなったら恐い。かといってこのまま所持するわけにもいかない。どうすべきだろうか。
 交番。
 そう、ぴんと来た。そうだ、交番だ。交番の前において置けばよい。拾ったフリをして警察に届けてしまえば万事解決である。
 俺は交番の位置を思い出す。たしか商店街の真ん中辺りにぽつんと一つあった。ケーキを持って戻り、そのままバッグを交番に届けてしまえば万事解決じゃないか。何も案ずることなどなかった。俺は再び歩を進めた。
 真冬の空気がひげの隙間を縫って俺の頬を撫でてゆく。防寒着代わりのサンタ服は至極あったかいが、それでもやはり多少なりとも体は震える。商品を扱うために手には白い手袋をしているだけで、さすがにかじかんできていた。
 ガラガラと台車の音が人気のない道に寂しく響いた。どこか遠くから定番クリスマスソングが聞こえる。
「待ちなさい」
 背後から声をかけられる。先ほどの中国人だろうか。振り返ると今度はスーツを着た女性が立っていた。長い髪の毛が風に吹かれそよそよと揺れている。この糞寒い時期にそんな格好で平気なのだろうか。
「何か用ですか」
 俺の問いに彼女は答えず、代わりにジャケットの内ポケットから手帳らしきものを取り出した。
「失礼、私はこういうものです」
 パカリと縦に開く手帳。そこに見える見覚えのある金属製の記章。
「けい、さつ……?」
「ええ、警視庁捜査一課の者です」
 まずい。警察の登場にはまだ早すぎる。尺を巻きすぎである。
「警察が何か用ですか」
「実はここで麻薬の取引をされる可能性があるとタレコミがあってね」
 疑われている。
 容疑者として扱われている。口調から制圧しに掛かっているのが良い証拠だ。
「情報によると一方はサンタクロースの格好をしているって話なのよ」
「はぁ」もうやばい。
「今月は麻薬取締法強化月間でね。違法ドラッグやら覚せい剤やら年末で件数上げようって取り組みなのよ。でも私ヤバいんだぁ。二ヶ月もチョンボしてんだぁ。分かるよね?」
 俺は気づいた。こいつの目が限りなく死人のそれに近いことに。狂人だ、人は狂うとこのような目をするのだ。
「あなたの持ってるそのダンボール、中には何が入ってるの?」
「ケーキですよ。街頭販売の」
 俺がダンボールを半分開くと「確かにそうね」と彼女はうなずいた。しかしまだ納得した様子はない。
 彼女の視線はダンボールに乗っかったボストンバッグを見つめていた。皮製の、ドラマで出てくる金やら薬やらをよく取引するために使われるやつだ。彼女は尋常でないほどの視線をバッグに浴びせてきていた。
「それでさ」
「はい」
「そのボストンバッグの中身は──」
 俺は走った。気がつけば駆け出していた。背後から「待てやオラァ!」と言う叫び声と共にものすごい足音が聞こえてきた。ヤバイ、ヤバすぎる。つかまったら終わる。逃げるしかない。
 こうしてクリスマスイヴの夕暮れ時、冷えた空気を突き抜けて俺は駆け出した。


     

「先輩、結構早かったっすね。ケーキ崩れるからゆっくりで良かったのに」
 街頭販売の拠点へと戻ってきた俺にようやく一段落したであろうみことくんが笑顔で声をかけてくる。その様子を見るにかなり良い売れ行きだったのだろう。機嫌が良さそうだ。全部一人でさせてしまったことに少し胸が痛む。
「みことくんの技量じゃすぐ売れちまうと思ってね。急いだわけですよ」
「殊勝な心がけだ」
 そんなやり取りをしていると路地の方から奇声が聞こえ「いけない」と俺は声を上げた。みことくんが首をかしげる。
「どうしたんすか」
「いいからみことくん、ケーキは届けた。後は任せたぞ」
「何言って……」
 俺はボストンバッグを手に持つと駆け出した。背後から「サァンタァ!」と言う声がする。
「誰がお前みたいなへっぽこ刑事に捕まるか馬鹿がっ!」
「きぇええええええええ」
 白目を剥いて相手が駆け出すのを確認した後、キョトンとするみことくんに目配せした。奴の意識は俺に集中しており、みことくんが俺の知り合いだと気づいている様子はない。これで彼女とケーキの安全は保証された。
 俺は走った。寒空の下を、人ごみを掻き分けて。
 商店街を抜け、道を突っ切り、大通りの道路を信号無視で渡った。車に轢かれかけたが飛び込み前転でなんとかかわした。
 一体どれほど走っただろうか。女刑事のスピードは衰えを知らない。振り返るとなぜか奴は四足にブリッジ状態で壁に引っ付いて追いかけてきていた。いわゆるエクソシスト状態である。長く伸びた舌が渦を巻いている。果たして本当に人間なのか。ここまで来ると妖怪である。
「私にクリスマスプレゼントを頂戴、サンタァ」
 俺は前方にあった角を曲がると、その先にある建物へと入り込んだ。咄嗟の判断で物陰に身を潜ませる。息を殺して天を仰ぎ、震える手で神に祈った。
 ヒタヒタヒタという足音が物凄い勢いで近づいていき、そして徐々に遠ざかる。
 息を殺して気配を探った。冬の寒空の下、突き刺すような肌寒さの中、感覚だけが研ぎ澄まされたような錯覚に陥る。
 いない。誰もいない。確かに。俺はどっと深く息を吐いた。酷く息が荒れており、脚が疲労で震えている。体が冷え切っているため吐いた息が白く染まることはなかった。なんだか意識が遠くなる。
「なんて日だよ……」
 一体どうしてこんなことになったのか。まるで訳が分からない。そもそも何故逃げてしまったのか、これからどうすればよいのだろうか。途方に暮れる。
 とんだ神様のプレゼントもあったものである。いや、イヴだからどうとかクリスマスだからどうとか妙な悲観をするつもりは毛頭ないが。こんな糞みたいに安っぽいバッグの所為で──
「バッグ?」
 俺は立ち上がった。一瞬筋疲労により身体がよろめくが、なんとか堪える。
 その手があったか。

 なぜ俺は素直にこんなバッグを持ったままいたのか。
 俺が薬の売人と取引している姿の目撃者などいないわけで、何一つ証拠などないではないか。
 そうこのバッグさえなければ。
 かと言ってこのままここで捨て置くのも違う気がする。中身が無事であること、それ自体が問題なのだ。近年科学捜査はますます発展していると聞く。手袋をしているから指紋こそ残らないものの、何がきっかけとなるかは分からない。汗、毛髪、唾液、このバッグが無事である限り証拠がなくなったとは言い切れない。
 どうにかしてこのバッグを上手く処理せねばならない。新たな難題の出現に俺は頭を抱えた。中身が残らず、証拠も残らず、短時間で手間が掛からず遂行可能な方法。
 刑事の姿がまったくない事を確認した俺はそろりそろりと移動を開始した。曲がり角の先を慎重に確認し、誰も居ない事を確認してようやく歩き出す。
 せめて自宅によって髭を外し着替えることが出来れば安全なのだが。いや、そもそも瞬間接着剤で固定しているこの髭は取れるのか。
 路地をしばらくさまよい続けていると、やがて川沿いの道へとたどり着いた。晩飯時だからだろうか、辺りに人の姿はない。水の流れる音だけがサラサラと緩やかに静寂を彩る。街灯を反射する川は深いのだろう、随分と濁っていた。
「そうか、ここに投げ捨てれば」 
 俺はバッグの感触を再確認する。中身がかなり詰まっているらしくそれなりに重量はある。川に投げ込んでしまえばあっという間に底まで沈むだろう。そのまま川の流れで少しずつ位置を変えてくれれば絶対にばれることはない。そうとなればやる事は一つだ。俺は川の中心を狙うべく、バッグを振りかぶった。
「てめぇ! 待てや!」
 突然怒号が響き、俺は動きを止めた。見るとサンタクロースの服を着た、俺と同じく白髭を生やしたサングラス姿の男がこちらに走ってきている。どう見ても怪しい。
「お前か! 俺の名前を語った泥棒野郎は!」
 本物が来た。
 確かあの女刑事が言っていた情報では薬を回収する予定の人物はサンタの格好をしているという。つまり目の前で全力疾走でこちらに迫ってきている人間はまず本物の取引人、どこかの組織に所属している人間と考えて間違いないだろう。俺は奴に捕まった自分の未来……詰まるところの未来予想図Ⅱを考えた。
 どこかに拉致監禁されて拷問された挙句、身体に風穴が開くと見て間違いない。
 俺は走った。脚はすでにガクガクだし、筋疲労は限界を超えていた。それでもここでバテたらもう死ぬしか選択肢がないのだ。
 刑事に捕まったら人生が終わる。
 こいつに捕まっても人生は終わる。
 全力疾走していると不意に目の前のマンホールが真上へ吹っ飛び、先ほどの女刑事がぬぅと姿を現した。
「メリークリスマース。ここで張ってたらいずれ来ると思ったのよ」
 エクソシスト状態で奴は蜘蛛の様にカサカサと這い出る。俺はその顔面を踏みつけて逃げた。マンホールが落ちてきて閉まる。
 全力で曲がり角を曲がった。狭い路地を走る。今度は前方の壁にヒビが入り、女刑事が壁を突き破って姿を現した。
「ひぇっひぇっひぇ」
 俺は跳び箱の要領で前傾姿勢の奴を飛び越えると走り続けた。
 二人に追われ、やがて街の最上部へとやってきた。通りで随分と坂道を昇ったはずだ。きつい事この上ない。
 ここからは俺の住む街が一望できる。クリスマスイヴに彩られ、街はまるでイルミネーションのように光り輝いて見えた。
 極限の疲労の中俺は思った。
 何て綺麗なんだ。
 やがて道は途切れ、遥か下段へと続く長い長い階段が姿を現した。俺は走りながら背後を振り返る。売人と刑事、二人共もう目の前まで迫っていた。手を伸ばされたら捕まる。
「もう観念しろや!」
「ザンダァ、あだじにグリズマズブレゼンドをぢょうだいぃぃぃ」
 俺は天を仰いだ。
 やるしかない。
 階段の最上段から、遥か下方に向けて、俺は全力でジャンプした。
 普通であればまず死ぬ高さだ。着地できたとしても、浮力が足りず階段で着地し転げ落ちるか脚が折れるだろう。どの道無事ではすまない。
 その時、どこかからシャンシャンシャンと鈴の音が聞こえた気がした。
 そして、俺は見た。
 俺の頭上を越えてトナカイに引かれた空中を浮遊する木製のソリを。
 夢でも見ているのかもしれない。でも幻覚であろうが、何であろうが、俺にはもう頼れるものが何一つとしてないのだ。
 俺は死に物狂いでソリに手を伸ばした。掴んだソリは、確かにしっかりとした実体があった。瞬間、俺は確かに空を浮遊した。空飛ぶソリと共に、俺は確かに浮かんでいたのだ。
 突然の珍客の登場にソリはびくともせず、そのまま浮遊を続ける。俺は右手に全身全霊の力を籠めた。まだ窮地は脱出できていない。下を見下ろす。物凄い高さだ。
 その時、左手に持ったボストンバッグから何かが零れ落ちているのが見えた。どうも何かの拍子にチャックが少し開いていたらしい。
 バッグからは、雪が降っていた。
 見慣れた街に、雪が降り注いでいる。いや、正確には雪ではない。それは紙吹雪だった。ずっと薬だと思って運び続けていた物は、紙吹雪だった。一体どうなってんだ。
 やがてソリは徐々に高度を落とし始めた。チャンスだ。小さな公園にある砂場が目に留まる。あそこであれば地面も柔らかいのではないか。少し高さはあるが、俺は意を決してソリから手を離した。予想通り砂場は柔らかく俺を受け止めてくれる。そのまま倒れこんだ。先ほどまで降りそそいでいた紙吹雪が時間差で俺の額に落ちてくる。本当に、まるで雪みたいだ。
 もうソリの姿は見えない。鈴の音だけが、徐々に遠ざかっていくのが分かる。俺は確信していた。あれこそが本当にサンタに違いない。俺は立ち上がると姿のないサンタに向けて叫んだ。
「メリークリスマス!」
「あ、さっきのサンタだ」
 聞き覚えのある声がして、俺はゆっくりと振り返った。
 そこにいたのは、間違いなく先ほどの親子だった。少女が母親の服を引っ張っている。やはり買い物をしていたらしく、母親の手にはスーパーの袋が握られていた。
「ねぇお母さん、いまあのサンタ、空から降ってきたよ」
「もう、何言ってるのこの子は……」
 賑やかな親子の姿を見ていると先ほどまでのデッドレースがまるで悪い夢だった気がしてくる。俺はそっとため息をつくと、ポケットに手を入れた。そこで、何かが手に触れる。
 俺はゆっくりと親子に近づくと、少女の前で片ひざを着いた。
「さっき渡し忘れてしまったからね、追いかけてきたんだ」
 そしてポケットから先ほどのプレゼントを取り出し、少女の手に握らせる。幸いにもプレゼントは元の綺麗な状態のままだった。「あっ」と声を出した母親に、そっとウインクした。
「これは?」
「サンタさんからのプレゼントだよ」
「本当に?」少女の目が光輝く。俺はゆっくりとうなずいた。
「メリークリスマス」

 親子と別れて一人歩いていると「やっと見つけたぞ!」と肩をつかまれた。
 あの売人──いや、今となっては誰なのかも分からないただのサンタである。
「どうしてくれるんだ、せっかく用意した紙吹雪を」
「あの、一体なんだったんですか、あれは」
「演劇用の小道具だよ! 糞安い業者に発注して作らせた量が予定より少なくて、追加分を今日もらう予定だったんだ! 劇の練習を抜け出してわざわざな! それをお前がばら撒いちまった! どうしてくれるんだ! 本番は明日だってのに!」
「はぁ、すいません。鬼の様な顔で追いかけられたのでつい逃げてしまって」
「あんたなぁ……」
 その時サンタの胸元から黒電話の音が鳴り響いた。携帯の着信だ。サンタは「なんだよこの糞忙しいときに……」と呟くと電話に出る。
「ああ、もしもし、俺。えっ、足りたの? 紙吹雪? あの量で? ああ、分かった。すぐ戻る」
 電話を終えると男は不機嫌そうに振り返って、そっと表情を崩した。
「まぁ俺も事情を先に説明すべきだったよ。紙吹雪もあの量で行けたみたいだし」
「弁償しましょうか、紙吹雪代」
「いいよんなもん。こっちも追い回しちまったしな。詫び代だ。俺もいい加減練習に戻るよ」
「そう言えば、あのもう一人の妖怪……女の人は?」
「あの化け物みたいな人ならお前が紙吹雪をばら撒いてるのを見て『またちょんぼかよぉ』って叫んでトボトボ歩いていったよ」
 そこで彼はハッとしたように表情を正す。
「そういやあんた、あの時尋常じゃないくらい飛んでたよな。浮いてたっつーか。どうやったの?」
「スーパー幅跳びです」

 街灯販売の場所まで戻ってくるとみことくんに「おせーよ」と言われた。
「バイトサボって何やってんすか? あんた」
「すんません、のっぴきならない事情がございまして。あ、プレゼント無事に返せたよ」
「きいてねーよ」
 見るとダンボールのケーキは半分ほどまで減っていた。
「全部売ったの? 一人で」
「当たり前じゃん」
 こいつ販売の天才ではないだろうか。よくあのキャラでここまで売れる物である。
「これからリーマンの帰宅ラッシュが見込まれるからここで売り切るぞ」
「はい」
 それから俺達は再び道行く人々へケーキを売っていった。幸いな事に適度な来客が止む事はなく、予定していた十時前にはもう残り一つしかなかった。
「結構売ったっすよね。百個くらい? 追加で一万の稼ぎか。ヤベ」
「こりゃあ今日は豪遊だね。どう? この後一緒に飲みにでも」
「まぁ先輩に回す取り分はねーけどな。全部あんたの驕りならいいよ」この女の傍若無人っぷりに言葉が出ない。
「じゃあ、最後のこのケーキは買って食べますか。二人で」
「太るよ」
「殺すぞ」
 その時世にも消え入りそうなか細い声で「すいません、一つください」と誰かが声をかけてきた。俺達は瞬時に販売モードに入る。
「はい、ありがとうございま……す」
 立っていたのはあの女刑事だった。仕事終わりなのか私服だが、嫌でも気づく。こちらの様子がおかしいことに気づいたのか元気がなさそうに俯いていた彼女は顔を上げると、ギョッと目を見開いた。猫が起きる時のように、目の瞳孔が開くのが分かる。
 グッと、胸倉をつかまれた。
「あんたの所為で今月も私ちょんぼじゃんよぉおおおおおおおおお!」
 何と言うクレッシェンド。頭がおかしくなりそうなほどブンブンと揺さぶられる。よくやく手を離してもらえたかと思ったら今度は崩れ落ちた。
「もう本当に最っ低のクリスマスだわ。本当にね……」
 そしてガバリと首だけをこちらに向けた。
「あなた達、今日の予定は?」
 みことくんと顔を見合わせる。質問の意図が汲めない。
「あなたがこれを買ってくれるのであればこのまま店じまいですが」「付き合いなさい」
「えっ?」
「私のケーキやけ食いに付き合いなさいってんのよ」
「いや、それはちょっと……」
 助けを求めるようにみことくんを見たが意外にも彼女は「いいじゃないっすか、先輩」と返してきた。
「どうせ二人で飲む予定だったんだし」
「まぁ、そりゃそうだけどね」
「じゃあ決まりね。さぁ、さっさと支払いを済ませてケーキを渡した後に素早く撤収して私と合流して頂戴」
 急かされるまま言われたとおりに片づけをし、俺達は器材を店に返すためもうすっかり人通りが少ない夜道を歩いた。
「それにしてもあんた足速いわね。どう、警察来ない? 見込みあるわよ。今はケーキ屋さんで就職してんの?」
「いや、フリーターですが」
「じゃあ辞めなさい。警察ね。決まり」
「勘弁してくださいよ」
「いいじゃないっすか先輩。フリーターから一転、公務員に転身で。一晩で就職先も彼女もゲットだ。やりましたね」
「彼女って、誰の事?」
 その時不意に鼻先に何か冷たい物が降ってきた。見上げた空からは、紙吹雪とは違う、本物の雪が降りそそいでいる。
「やっべ、ホワイトクリスマスじゃん」
 みことくんははしゃぎだすと台車を引きながらなぜか真っ赤な顔で軽やかにステップを踏んでいった。女刑事もみことくんとはしゃぎだす。俺は長机を持ち直すとその様子を見てそっと笑みを浮かべた。
 どこか遠くから、鈴の音が聞こえる気がした。

 ──了

       

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