Neetel Inside ニートノベル
表紙

私が私になった日
【三年前 三月】

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 ある日。それは本当にとある日だった。何の変哲もない朝を迎え、毎朝しているように支度し学校で授業を受けた。
 そして私は学校から帰ってきた。いつもの通学路をいつもの通り歩き。いつものように玄関を開けた。
 そういえば、最近少し学校で話せるようになった。もちろんそんなに多い会話ではないし挨拶だけでおわるときもあるけれど、少なくとも進んだ一歩を感じていた。自然、以前のようなうきうき感を取り戻し始る。
「ただいま」
 何気なく家に入った。いつもならお母さんの「おかえり」という返事がないことにやや違和感を感じつつも、ただ寝ているだけということも考えられるので特に気にすることもなく靴を脱ぐ。
 そうしていざリビングのドアを開けようとしたとき、私は異変に気付いた。ドアは中央が窓のようにガラス張りになっているので、少し向こう側の様子を知ることができる。とはいえすりガラス状なので、誰かが横切るだとか何色のものがあるかぼんやり分かる程度だ。でも、この場合それだけで十分すぎるほど異変は起きていた。
 誰だって、分かるはずだ。
 床であろう位置が不自然に紅く、その中に何かが――いや、誰かが転がっているような様子が見て取れれば誰だって。
「お母さん!」
 何故、お姉ちゃんではなくお母さんと叫んだのか。それは直感だったと思う。私はドアを突き飛ばす勢いで開け、リビングに入った。
 果たしてドアを通して見た紅に転がっていたのは、お母さんだった。
「え……?」
 何が起こっているのか理解できない。だって朝はあんなに元気だったのに。どうしてこんな悲しそうな顔をして、目を開いたまま血のあふれる中で横たわっているの?
 時間が止まった気がした。
 その間に、結局これが何を示すのか分かってしまう。同時にそんな事実を拒否する気持ちがパンクするほどあふれ返る。反射と言ってもいいくらいだった。
「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 もう死んでいるのだと理解してしまった。血だまりに倒れるお母さんのお腹には、何かで刺されたような傷跡と血の流れがあった。もう血は出てきていなかった。それが、もうすべて終わってしまっていたことを示していた。
「あ……ああ。おかあ、さん」
 お母さんに触れようとする。けれど、死に触れることが怖くてできなかった。人間としての温かみに欠けた身体に触れてしまったら、私はだめになる。何かが壊れる気がする。自分の中の何かが警鐘を鳴らしていた。もうこれ以上現実を知ってはならないと、何かが私の手を止めたのだ。
「そうだ、お姉ちゃんは?!」
 はっと気づく。お姉ちゃんも居ない。
 お姉ちゃんは家から出ない。もし誰かに襲われていたら危ない。私はお姉ちゃんの部屋へと走り出そうとした。もうすでに遅いかもしれない、なんて気持ちが起きるほど余裕はなかった。死んでほしくないって願望もあったと思う。
 ただ、その前にもう一つ気付く。リビングの奥側。テレビの近くのソファーの影に顔が隠れるようにしてまだ誰かが横たわっている。足元は覗けたが、一つはスーツもう一つは高校の制服だった。
 お姉ちゃんが学校に行くはずはない。だから違う誰かだ。私はそう思った。でも、確認しないわけにはいかなかった。そろりそろりとそちらに近づく。
「嘘、なんで……」
 あまりの惨状にすぐに目を逸らす。何故この二人がこの時間に揃って家にいるのか、という疑問と同時にやはり声にならない何かがせりあがってくる。今度は叫ばない代わりに、金縛りのような全身の硬直を感じた。逆に息がつまり、上手く息が吸えなくなる。
 あったのは、お父さんと坂巻さんだった。二人とも、やはり死んでいた。二人分の大きな血だまりができていて、その中に横たわっている。当然、ぴくりとも動かない。
 ただ、お母さんと同じようにとは言えなかった。直視なんて絶対できない。
「……ぅぅえ」
 目を逸らしたものの、見た光景が脳裏に再生され吐き気を催した。
 仕方ないと思う。二人はまるで針山に落とされたように全身を、両目でさえも指の先でさえも、めった刺しにされていたのだから。

     

「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」
 もはやその言葉しか出てこない。他は皆もう終わってしまっているから。けれど、いくら振り切ろうとしてみても、最悪な風景しか浮かばなかった。それでもまだわからない。生きているかもしれないという一縷の希望にすがるしか自分を保つ方法は無かった。
 リビングに居ないとなれば探すべきはお姉ちゃんの部屋だ。私はお母さんの横を不恰好に走り抜け、二階を目指す。上りきると正面は壁だ。私は最後の段を踏みあげると身体の向きを九十度近く無理にひねり、失速せずに曲がろうとした。しかし勢い余って壁に衝突してしまう。
 私は構わず直進し、お姉ちゃんの部屋のドアノブをつかむ。そうして加減もなくドアを開けた。
「お姉ちゃん!」
 私は叫ぶ。すると真っ暗な部屋の中、何かが動いた。誰かさえも分からないけれどそれだけで安堵した。
「良かった……!」
「良かった? めでたい奴だな」
 部屋の中の誰かは冷たく言い放つ。
「分からないのか? この家にいる奴がみんな死んでいて、俺だけは生きている。その意味が分からないのか?」
 まぎれもなくお姉ちゃんの声だった。声は。でも別人みたい。
 いや。私は聞いたことがある。この怒りのこもったような声を、記憶している。そう、まだお姉ちゃんが部屋にこもっていて、私がすがりついた最初の時と同じだ。
「分からないよ。でも、お姉ちゃんだけでも生きていてくれてよかった」
「いいや、結局私は死ぬのさ」
 嘲笑される。
「なんで?」
 私は聞いてしまう。聞かずにはいられなかった。だってこうして生きているのに。もう家族はお姉ちゃんしかいないのに。
 ぎらり、と何かが光った。部屋のカーテンがなびき薄く入った夕日が何かを照らしたのだ。
 お姉ちゃんは言う。
「三人も殺しちゃったら、お前、死刑になるに決まってんだろ」
「……え」
「いや、まだ未成年だから死刑にはならないかもな。世の中犯罪者には甘いしな。でも、どう思うよ? 周りの目には殺されるだろうな。生きていても社会の中じゃ死ぬだろうな。見知らぬ土地に行くか? いや、それよりもまず、だ」
 流石に、何を言っているのか言葉の意味は分かるけれど。
「お前は、人殺しと一緒に生きられるのか?」
 分かりたくなんて、ない。
「人を殺した姉と生きて行けるか? 親を殺した人間と生活を共にできるか? そうでないのなら、俺が生きようが死のうが結局一人ぼっちだ」
「……お姉ちゃんが、殺したの?」
 私がそう聞くと、お姉ちゃんはあからさまに苛立っていた。荒い息が聞こえる。がたり、と音が鳴り立ち上がったとわかる。そのままこちらへ近づいてくる。
「ああ」
 真っ赤に染まった包丁を右手に持って、死んだような目をした姿があらわになった。全身も飛沫を受けたのがはっきりと見える。
「なんで……」
 なんで、どうして。私の頭はそれでいっぱいになった。なんでなんで、どうしてどうして。
 だって、今朝まであんなに仲良く暮らしていたじゃない。お姉ちゃんだってお母さんだって笑っていたのに。
「なんでだって?」
 再び嘲笑する。そんなこともわからないのか、この馬鹿。そう言われている気がした。
「簡単だよ。お前が、妬ましかったのさ」

     

 苦いものを噛んだような表情を浮かべながら、お姉ちゃんは言った。
「一度は俺と同じようにふさぎこみ始めたお前が、俺とは違って幸せを取り戻し始めた。妬ましくて妬ましくて妬ましくて。それでつい、な。どこぞのガキ大将だってやるだろ? 気に入らないものを壊すくらい。同じだよ。壊したのが物か人かってだけの違いだ」
「……え、だって、お姉ちゃんだってずっと、手伝ってくれて。そのおかげで、私」
「ああ、うるせぇうるせぇうるせぇ!」
 髪をすべてちぎりそうなくらいにお姉ちゃんは頭を掻く。
「なんだ? 助けてやったらなんだ? 助けたらイコール好きってことになんのか? ずいぶん単純な頭しかしてねぇんだな。勘違いしているみたいだから言ってやるよ」
 この時の顔と言葉を私は忘れることはできなくなった。忘れたくても身体が覚えてしまった。目も耳も、心も。深く深く記憶してしまった。
「俺は、昔から今までずうっと、お前のことが嫌いなんだよ! 殺したいほどに! 良いか? 俺が殺したという事実を、忘れるな。お前を嫌悪し、お前の幸せを潰したのは俺だということを忘れるな!」
 お姉ちゃんの、呪いの言葉。
 それだけ言うとお姉ちゃんは包丁を振りかざし、部屋の奥へと戻っていった。再び闇の中に消える。
 ふらりふらりと操り人形のようにおぼつかない足取りに不安を覚えるが、ただ茫然と見ていることしかできない。私はたった今、拒絶されたのだ。いや、本当は気付かなかっただけでずっとずっと前からそうだった。私が、馬鹿だったんだ。
 やがて、お姉ちゃんの影が足を止めた。そして今度は肩が揺れた。ゆっくりと深呼吸をしているようだった。
 ああ、私は殺されるのかな。そうだよね、嫌いなんだもんね。折角仲良くなれたと思ったのに、嘘だったんだ。私は涙を抑えることができなかった。
「          」
 すると何か聞こえた気がした。私は部屋の中に耳を立てる。しかし、何も音はしない。気のせいだったのかな。
 そう思った途端、お姉ちゃんが動いた。右腕を振り上げ首を左に傾げ、そして。
 振り下ろした。
「……っあっ……」
 わずかなうめき声を聞いたかと思うと、同時に私に何かがかかる。顔にかかったので思わず手で拭うと、水ではない妙な液体の感触がした。最悪の予感が頭をよぎり、私は拭った手を確かめる。
 それは、血だった。真っ赤な真っ赤な固まっていない血。どこから出たものかなんて、もはや自明だ。生きている人間はこの家に二人しかいなかった。そして私は生きている。
 お姉ちゃんは前向きに倒れた。とっさに私は駆け寄る。廊下から漏れる光がお姉ちゃんの首元を照らす。まるでそこから柄が生えているかのように、刃が首の横に突き刺さっていた。傷口から血が噴き出す。
「お姉ちゃん!」
 喉へ到達しているのだろう、もう隙間風のような息しかしてない。声など出せるはずもない。痛々しく私の服を赤色に染めていく。でもそんなことはどうでもよかった。
「なんで、なんで」
 なんで私を殺さなかったの? そう言おうとしたとき、お姉ちゃんの唇がかすかに動いた。でもやはり擦れた吐息が漏れるばかりで何を言っているかは聞き取れない。
 そしてお姉ちゃんはそれっきり、動かなくなった。
 瞬間、私は完全に何もかもを失った。親も姉妹も友達も何もかもを。やっと取り戻しかけたのに、途端全てが手の中から滑り落ちて行った。
 お姉ちゃんは言った。私が妬ましかったと。私が幸せになろうとしたばかりに、なりかけたばかりに、お姉ちゃんは我慢が出来なくなったのだ。
 ――幸せになろうとしなかったら、ずっとあのまま暮して行けたのかな?
 呆然と、ただそう思ってしまっていた。飛躍かもしれない。でも、お姉ちゃんの言葉がこびりついて離れない。
 私は、幸せになるべきではなかったんだ。

       

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