「なんだこれは?」
「これはチェスの棋譜の記号です。
チェス盤は一番下の一行目から順に数え、左からa列、b列と数えるんです。
ですから、e4は下から四行目左から五列目のマスです。
チェスの棋譜は動いた後の位置を書くので、
e4はe2のポーンを2マス前に動かしたという意味です。」
「って、いきなりポーンが2マス進んでるじゃねーか。
話が違うぞ。ポーンは前に1マスだろ。」
「すみません。言い忘れてました。
ポーンは一歩目は2マス動かせるという例外があるんです。
一歩目に1マスだけ動いてもいいんですけどね。」
柳田は間を置かずe5と書きこみ、京都市役所あたりにいるポーン役の種田に前進を命じた。
河原町通をパトカーで直進し、
右手に織田信長の最後の地として知られている本能寺が過ぎていく。
三条通を横切り右折して交番に入る。
種田は四条通を挟んで向こう側にいるであろう、まだ見ぬ犯人がわのポーンの
方を向いて睨むように対峙した。
その間にもゲームは続いている。
Nf3といつのまにか犯人の書き込みがある。
「大丈夫なのか?」
「まだ始まったばかりです。これは典型的なオープンゲームです。」
そういうと柳田はNc6とレスを返した。
「Nc6のNとはナイトの駒のことです。」
「ナイトの頭文字はKだろ。」
「Kはキングの駒で使っているので、ナイトはNです。」
柳田はナイト役の井上に指示する。
井上は指示された通り神泉苑に急行した。
ここからは二条城がよく見える。
御池通の向こう側はもう二条城の敷地だ。
しかし、井上は見向きもせず一心不乱にノートパソコンに向かっている。
犯人の手がかりに繋がると思われる例のクロスワードを解いているのだ。
37×37マスの大作の上、
■マスも自分で埋めなくてはならない難易度の高いものだったが、
水を得た魚の井上は9割がた埋めてしまった。
ただ1問だけ解けないカギがある。
ここだけ他のマスから孤立しているのでまわりから解くこともできず、
ヒントも"最後に残った。"だけである。
井上がうんうん悩んでいる間にもゲームは進む。
Bb5という犯人の書きこみにa6と返す柳田に内藤が急かす。
「ちっとはクイーンの駒も動かせよ。」
「あなたは自分がクイーン役だからそう言ってるだけでしょう。
クイーンを取られでもしたら致命的です。
序盤にクイーンは動かさないのがセオリーなんですよ。」
だんだん内藤が邪魔になったのか、
柳田はスペイン布局がどうのこうのと露骨に専門用語を使い出した。
ついには内藤からの無線を切って、
西大路病院に近い交番に配置していた警官にa6へ前進を命じた。
警官は西大路通を直進し、
三条通りを横切りさんじょうぐち駅が見えるあたりでパトカーを降り、
徒歩で西大路通を南下する。
怪しい人物を見逃さないように。
犯人側のビショップ役が西大路通より向こう側にいるはずだが、他にもいるかもしれない。
犯人は書きこみに従わず駒が勝手に動いた場合も一手としてカウントすると警告している。
これはこちら側の動きを知っていなければできないはずである。
つまり駒以外にも監視役の人間が配置されているはずだと考えて、
警官は自分の周りも調べているのである。
しかし、内藤は別の可能性も睨んでいた。
少し前から警察の個人情報がネット上にさらされている。
もし警察内に裏切り者がいたら。
その裏切り者が書きこみ通りに駒が動いているかどうか監視していると考えることもできると。