Neetel Inside ニートノベル
表紙

Hから始まる恋心
19.Allegreto -やや速く-

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 音のない音楽室ほど静かなものはない。凛とした花火の声が、その空気を震わせただけ。
 僕は、今この瞬間、再び世界に戻ってきた気がした。
 知ってたよ、彼女は続ける。
「君から直接は聞かなかったけど、私が入院してからずっと、ピアノを弾こうとしても右手が上手く動かないんだってこと。それが私の事故のせいだったってこと。それだけ君が私に申し訳なく思ってくれてたんだってこと」
 知ってたよ、彼女は続ける。
「一年ぶりに私が君に話しかけた時、君が聞いてたのはエッチぃ音声なんかじゃなかったってこと。あれは凛さんが自宅で定期的に開いてる、アナリーゼの授業だってこと。それが君がまだ音楽をやりたいって思ってることの証拠だってこと」
 知ってたよ、彼女は続ける。
「君が音楽室から楽譜を勝手に持ち出してたこと。右手が動かなくても、左手だけで弾ける曲でも、ピアノに向きあおうって思ってたこと。心の底から君が音楽を好きなことは、変わってなかったこと」
 くそ。滔々と紡がれる彼女の言葉を一つ一つ飲み下しながら、下唇を噛む。
 静先生か、情報漏洩元は。
 こういうことするから嫌いなんだよ、あの人。
 僕はピアノの前の幼馴染から顔を背ける。
 だから。今度はそう言って、彼女が椅子から立ち上がる音がした。
「私も、がんばらなきゃって思った。全部君のお陰だったんだよ、私がピアノを弾こうと思ったのも、君に話しかけようと思ったのも、全部。君のピアノがあったから。君の音楽がまた聴けたから。音楽から逃げてちゃダメだって、えーちゃんから逃げてちゃダメだって、そう思った。君が逃げずに、過去に立ち向かっていたから」
 逃げずに?
 花火は最初から知っていた。幽霊の正体も、僕が何を考えていたかも。それでいて、僕に、過去に、音楽に、立ち向かおうとしたんだ。
 だったら彼女は逃げてなんかいない。
 花火はいつだって僕を待ってくれていた。おそらく僕には一生想像もつかないような勇気をだして、自分から僕に近づいてきてくれた。きっと自分が傷つくことだって承知の上で、それでも自分の影から目を逸らしたりせずに。僕だって、その意図にはすぐに気づいた。だけど気づかなかったフリをした。自分を騙して、自分を守った。
 だったら逃げていたのは、僕のほうだ。
「……ごめん」
「謝らないで!」
 花火の張り詰めた声にハッとする。
 潤んだ目を見て、初めて気づく。
 いっぱいいっぱいなのは、どうやら僕だけではない、ということに。
「ご、ごめ……、っ!」
 再び謝罪の言葉を口にしようとして、たちまちそれを飲み下す。
「……ズルイよ、えーちゃん」
 彼女の声は、震えていた。
「そうやって自分だけ傷つこうとするのはズルイ。そうやって自分だけ悪者になろうとするのはズルイよ。君に救われて欲しいと思った人の気持ちはどうなるの? 君を助けた私はどうなるの。君と君のピアノを守りたいと、そう思った私の気持ちはどうなるの!」
 涙で滲んだ悲痛な叫びに、僕はハッとした。
 結局あの時から、逃げていたのか。
 彼女の思いから、僕は。
「自分が悪かったとか、そんな風に考えないで! 私の右手? そりゃ悲しかったよ。ピアノが弾けなくなるなんて考えたこともなかったし。確かにちょっとだけ、えーちゃんのことを恨みもした。だけど、だけどね、そんなことよりも、自分の右手が動かなくなったことよりも、私は」
 濡れて光を乱反射する眼で僕を見つめて、彼女は叫ぶ。
「私はえーちゃんのピアノが聴けなくなるほうが、よっぽど嫌なのっ!」
 あの事故が起きてから初めて聞く、本当の声を。唇を震わせて、肩を上下させて、全身で全部を吐き出そうとしていた。人の目は、頬は、こんなにも発熱するものなのか。彼女の熱さを、潤いを、1メートルも距離のないこの近さで感じる。
「――君のピアノが、世界で一番好きだったからさ」
 僕も、傍から見れば同じようなものだっただろう。胸や頭や瞼の裏がかあっと燃えて、何か喋れば僕も全てを吐き出してしまいそうで、一歩でも踏み出せばバランスを崩す平均台の上で、感情がやじろべいのように揺れている。
「二人共痛いなら、痛くて痛くて我慢出来ないなら、どうしても避けられない痛みなら――はんぶんこ、しようよ。だって、私たち……」
 一瞬言葉に詰まって、花火は混乱したように眉根を寄せた。
「幼馴染じゃん?」
 頭蓋の内側が急速に沸騰しかけたのがわかる。
 花火のそれは感情の処理能力を超えたような、よく分からない笑みだった。僕も、今の気持ちは言葉じゃ説明できない。だけど。
 僕の頬を、音に似た何かがなぞって伝い落ちた気がした。
 理由は単純。
 心から情けない、と。
 僕はとんだ腰抜け野郎だ、と。
 そう、思ったから。
 こんなによくできた幼馴染をほったらかして、僕は今まで何をしていたんだろう、と。
 そう感じたからだ。
「ごめんね、こんなの私の一方的な押し付けかもしれないけれど」
 今度は花火が謝っている。さっき僕には謝るなと言ったくせに。いや、この際ごめんだのすいませんだの、そんなものはどうでもいいのかも知れない。どちらがどれだけ『ごめん』を言おうと、何も変わりはしない。僕も僕の幼馴染も、その場にとどまり続けるだけ。前進することはない。
 それができなかった、一年前の彼女と僕。だけど今、彼女は進もうとしている。確実に一歩、踏み出そうとしている。多分僕よりもほんの少しだけ、前方にいる。
 その一歩がどれだけ彼女にとって大変だったかは、僕には到底分からない。だけどおそらく、リストの超絶技巧練習曲を全部マスターするより難儀なことだったに違いない。なにせ花火は、実際に失っているのだ。彼女のピアノは、黒鍵が抜け落ちているようなものなのだ。僕はただ、黒鍵があってもそれを弾かないだけ。弾けないふりをして、ハンデを背負っているように見せかけて、誰かに情けをかけられるのを待っていただけ。
 なんということだろう。
 どちらがイージーモードだったかは、聞くまでもない。
 踏み出すなら僕が先になるのが道理だったはずだ。
 今ならよくわかるぜ、僕の腑抜け具合と、アホさ加減が。
 こんなにも多くの人に贅沢なほど後押しされて、ようやく踏み出せそうなくらいだ。
 しかしてもはや、そんなことすらどうでもいい。すっかり昔のことだから。
 そうさ。どこからが始まりでどこが終りだとか、誰が正しくて誰が悪かったとか、そんなことはどうでもいいし、そもそも分かりようがない。
 必要なのは『ごめん』じゃなくて、『もういいよ』だったんだ。
 そしてそれはもう、不必要だろう。
 もう、成されている。実質上でも、形而上でも。
 たった今、成されたのだ。
 それなら次は?
 決まっている、前に進むんだ。
「だけど、だから」
 顔を上げてみれば、彼女の目は決意に満ちていた。
 改まった表情を作って、花火は言う。
「ピアノを、弾いて下さい」
 ずっと、それだけを言おうと決めていた台詞だった、のだと思う。何度も練習したような慣れが感じられたから。
「今のえーちゃんならきっと出来ると思う」
 とにかく。
 僕の過去も、彼女の過去も、なんだろうともはや関係ない。
 弾かなければならない。
 音楽を、奏でなければならない。
 彼女のために。
 そして、僕のために。
「でも」
 そして。
「私だけじゃ無理なんだよね。私じゃ君を変えきれなかった」
 下を向いてしまった彼女の表情をうかがい知ることは出来なかった。予想はつくけれど。なんにせよ、僕がその顔を覗こうとするのは不躾だろうと、代わりに自分の足下に目を落とした。
「はーちゃん、凛さんのところで君を待ってるよ」
「……」
「多分、君が行くまでずっと待ってると思う」
 羽月は、やはりここに来たようだ。
「……お前は、どうするんだ」
「私はいかないよ、おじゃま虫っぽいしさ」
 ちょっとふざけたみたいな笑いを交えて、彼女は言う。
「それに、ここで別れの曲を弾ききりたい。一年前の自分と、それから、うん、いろんなものにお別れしなきゃ」
「……そうか」
 お別れ、か。
「じゃあ、早くいきなよ! はーちゃん、きっと待ってるからさ。今の時間帯バスは少ないから、この窓から出て、直接走って行きなよ」
 言いながら、花火は後ろの小さな窓を開ける。
「これ、元々非常口だったから、緊急避難用の足場と階段が校舎の外まで続いてるんだ。そのまま道なりに行けば、学校の敷地から出られる。あとは山沿いに走っていけば、凛さんのところまで近道だから」
 しんどさの残っていた身体も、今はなんだかエネルギーに満ち溢れている。風邪なんて消し飛んだみたいだ。きっと気のせいなんだろうけれど。
「ありがとう」
「おう、さっさと行ってこーい!」
 一曲振り終えた指揮者のような笑みを浮かべてる彼女を前に、僕にはまだ一つ心残りがあったことを思い出す。花火はさっきお別れと言ったが、そういうことならこれは今聞いておかなければならないだろう。
「昔のお前にお別れする前に、一つだけ質問いいか」
「……なあに?」
「どうして一年前、ピアノをやめようと思った」
 間髪を入れずに、尋ねる。
「…………それ、今聞く?」
 聞かれたほうは、なんと言うかじっとりした顔をしていた。しかし聞けるタイミングはここしかないような気がするのだ。それに喉に引っかかった魚の骨は取れたほうがスッキリする。そうやって僕が粘り強く彼女を見続けていたところ、しばしの沈黙の後花火は観念したように目を閉じて、ポツリと言った。
「それはね、君の――」
 君の? 君の、なんだ?
 続きを言わずに口を閉ざした花火を急かすことも出来ず僕は眺めていたのだが。
「………………なーんちゃって、やーめたっ!」
 彼女史上最高レベルの笑顔と共に、僕の聞きたかったその先は虚空の彼方へと吹き飛ばされた。
「は、はあ?」
「もう決めた、世界中でも唯一君にだけは絶対ゼッタイ、ぜーったい言わない! 例え隕石が落ちてきて明日地球が滅びます、なんてことになっても、えーちゃんにだけは言わないから! 私が不治の病で明日死ぬとしても、墓場まで持っていくからこれだけは!」
「なっ、なんでだよ! 中途半端なところでやめられたらすげえ気になるだろうが!」
「いーいーのっ! 気にしない! さあほら、もう決めたから、絶対言わないから」
 ニコニコと、仮面とも言える笑みで顔を覆い隠した彼女としばし見つめ合ったが最後、折れるのは僕だった。
「……わかったよ、もう聞かないし、聞こうとも思わん」
「それでよし! さあ、行った行った」
 言って素早く僕の後ろに回り込むなり、彼女に背を押されて、僕は窓際に立つ。結局最後まで、花火に押されっぱなしだな。手すりに手をかけて身体を持ち上げると、なるほど確かに、非常通路と呼ぶにふさわしい錆びた鉄制の通路が右手に伸びている。向かいの校舎は体育館だろうが、真下にはまさしく校舎裏的空間が広がっていた。
 羽月のやつ、こんなところから出入りしていたのか? 危なっかしいやつめ。
 覚悟を決めて身体を乗り出し、足を窓の外に着陸させる。制服についた埃をはらいながら、太陽の匂いのする外へ出た。やはり夏だ、熱波が身体に押し寄せる。
 よし、行くか。
 振り返らずに、踏み出す。カン、と足場が音を立てた。それでリズムを刻みつつ、一歩一歩と進みゆく。自然、足が早まった。
 やることはわかっている、だから。
 僕にできることは、進むだけだ。
 今度は、羽月と一緒に進むために。
 彼女に手を差し伸べるために。
「えーちゃん!」
 それでも後ろから飛んだ声に、僕は思わず振り返った。見れば花火が首から先だけを窓から出している。そして口元にニヤリと笑みを浮かべて、彼女は。
 右手でグーを作ってみせた。
「……」
 それが彼女の無言のエールだということは、言葉にするのも馬鹿らしかった。
 だから、僕も言葉の代わりに。
 ピンと右手の親指を立て、幼馴染に返しておいた。
「いってくる」

       

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Neetsha