Neetel Inside ニートノベル
表紙

Hから始まる恋心
8.agitato -せきこんで、激しく-

見開き   最大化      

 山の上だぞ、ここ。あるのは小さな楽器店と、遥か眼下の澄んだ街並みだけ。あとは木だとか草だとか、網目のついたコンクリートの斜面とか。とにかく女子高生が土曜日の昼間っから居ていい場所じゃない。特に彼女みたいなのは、にぎやかなアーケードで安売りの靴でも眺めていればいい。それからタワーレコードへ涼みに行って、ラッドのCDの試聴でもしていればいいのだ。そうだよ、それがいい。
 というわけで。
「何やってんの?」
 僕は彼女へと歩み寄ると、人通りのない歩道にしゃがみこみ、同じく隣で縮こまっている花火へ声をかける。
「ふわっ!」
 すると、壁張りパントマイムのごとく両手の指を立てて、彼女は驚くしぐさを見せた。
「……えーちゃん?」
 強気な花火には珍しく、目をパチクリさせている。赤いゴムで左右に小さく括られたショートヘアが可愛らしく、私服は夏仕様でさっぱりした雰囲気だ。ひまわり色のシャツはノースリーブで、カーゴパンツのうぐいす色とよく調和して目に優しい。そんな彼女は首を横に回したまま目前の物体をしげしげと観察して、ほっと一息ついた。
「なんだ、えーちゃんか」
「なんだ呼ばわりかよ」
 だがこちらは、なんだ、花火か。とはいかない。
「探し物?」
「ん? ああ、違う違う。どっちかって言うと、もう見つかってるかな」
 見つかったのか?
「だったら何をボーっとしてんだ」
「だってほら」
 言いつつ、情けない感じに笑って、花火は水を滴らせた顔を下に向ける。
「私のモノってわけでもないからさ」
 彼女の顔に合わせて目を動かすと、歩道と車道を隔てる植え込みに、僕は小さく黒茶けたもふもふを見つけた。
「……犬?」
「うん。お母さんとはぐれちゃったみたい」
 可愛らしい仔犬が、そこにいる。いる、というよりはむしろ、こてんと転がっている。黒と茶色の混じったようなマーブル模様の小さな体躯。首輪もしていないようだし、花火の言うとおり母犬を見失ったのだろう。今の彼はただ必死に、うだる暑さを赤い舌で舐めとろうとしていた。
「こんなのを探しにわざわざこんなとこまできたのか?」
「こんなのって言い方はないんじゃなーい? まあ、別にこの子を探しに来たわけじゃなんだけどね。ここは体力づくりの為の散歩道なんだ。日課なの、この辺を歩くのは」
 ずくん、と心筋が鈍い音で収縮した。
 全然知らなかったぞ。体力作りのためならもっと他に歩くとこがあるだろう、普通。そんなこと笑いながら言わないでくれよ。
「それで昨日も、ここで見たの、この子。だからひょっとして今日もいるかな、って」
「……そうか」
 ということは、この仔犬は昨日から動いていないということであり、それはつまり、昨日から何も食べてないし飲んでいないということだ。餌をもらった形跡もないし、衰弱の度合いからそれは見て取れる。
「どうするんだ?」
「どうもしない。てか、拾って帰っても私じゃ面倒見切れない。自分の面倒みるので精いっぱいだし。マンションはペット禁止だし」
「でも、放っておいたら多分死んじまうぞ、こいつ」
 残酷な台詞だって、そんなことはわかってる。でも僕が飼う、なんて無責任なことを言うわけにもいかないし。
「まあ、そうなるかもね」
 また眉の端を下げて、花火は笑う。
 じゃあ、なんでここでしゃがみこんでるんだよ、お前。
 口に出さなくても顔に出ていたのだろう、花火は目だけで僕を垣間見て、口を開いた。
「……この子ね、右の前脚が動かないみたいなの。生まれつきなのか、病気なのか、怪我なのかはわからないけど。そのせいでお母さんともはぐれちゃったのかなって」
「!」
 またずくん、と心臓が痙攣する。
 思わず眉が浮いて、仔犬を見て、花火の顔を見て、また仔犬を見た。
 右の前脚はあらぬ方向へと曲がっていて、まともに機能しそうにない。
「……」
「……」
 それは理由として十分で、原因としては十二分だった。訪れたのは静寂だ。蝉の声っていうのはこんなにガサツな音だというのに、おしゃべりの隙間にはすきま風みたいにするりと入り込んでくる。こんなに暑い音だというのに、何故か少しだけ淋しい歌声。
 だから、何も言わない花火と、何も言えない僕。
 その沈黙を見かねたのか、仔犬が急に立ち上がった。
「!」
 喉の渇きに耐えられなくなったのか、空腹を我慢できなくなったのか。とにかく、驚くほどシャンとして、彼は立っていた。
 そしてそのまま小さな彼は、脚を引きずりながら快適な日陰の植え込みを抜けて、熱された車道へと飛び出した。同時に、花火がはっとして立ち上がる。どうしたんだと僕もつられて立ち上がると、脚が痺れてちょっと痛い。そして次の瞬間、気付いた。さっきまで車の影なんて一台もなかったのに、今黒く塗装された鉄の塊が、向かって右側からこちらへと近づいている。いや、近づいているなんてもんじゃない。緩やかに下っている道のせいで、気付かなかった。車はもう、すぐそこまで来ている。
 迂闊だった。
 多分、僕はもっと早く、彼女よりも早く行動すべきだったのに。
 一瞬何が起こっているのか、理解できなかった。隣にいたはずの僕の幼馴染が、突如視界に飛び込んできたのだ。手を振り上げ、髪を振り乱し、左脚を踏みこんで。
 今にも車が通り過ぎようかというその車道に、飛びだそうとしていた。
 何故? まさか、仔犬を助けるために? そんなことのために、こいつは命の危険を冒そうってのか?
 馬鹿言うなよ!
 言葉より先に、身体よりも早く、頭が働く。イメージする。彼女を守るためのイメージ。僕も車道へ飛びだし、花火を押し倒して、対向車線に転がりこむ。仔犬は助からないかもしれないし、怪我をするかもしれない。だけど、花火は救えるかもしれない。
 薄ぼんやりと、そのイメージは重なる。一年前のイメージと。
 あの時は、花火が僕を、そして――。
 はっとする。違う。これじゃない。これじゃ駄目だ。怪我をするかもしれない? かもしれない、なんて許されない。僅かな可能性すら、残すわけにはいかない。
 そうだ、もっと手短な正解がある。
 フリーフォールの思考回路に区切りをつけて、じんじん熱くなる手を咄嗟に花火へと伸ばす。
「おいッ」
 そして彼女の右手を、がっちりと掴んだ。
「あっ?」
 彼女は引っ張られて、その勢いでこちらを向く。その足は止まり、躓くようにして反動で後に倒れかける。それを僕が受け止める。
 振り返った花火の顔は、悲痛なものだった。今にも泣きそうな、母犬のような目をしていた。
 そして黒塗りの乗用車が、クラクションを鳴らしながら、ごうと通り過ぎた。何もなかったかのように、世界は元の形を取り戻す。
 息を切らしながら、目を凝らす。
 仔犬――仔犬は。
「あ……」
 居た。
 仔犬は、生きていた。よたよたとアスファルトの上を歩きながら、向かって左側へと、坂道を登り始めている。何もなかったかのように世界は平和で、太陽はギラギラで、空は青く、そして僕は狼狽していた。
「……何、やってんだ、お前は」
「……だって、あの子が」
 花火は、僕を見ていた。
「頼むよ。もう無茶はやめてくれ」
 何かを訴えかけるみたいに。目を潤ませて、僕を睨んでいる。
「言ったろ、どうせあいつは放っておいたら死ぬ。そんなやつのためにあんな危ない真似してどうする。無意味だ」
 当たり前だろ。いくらあの仔犬が可愛いからって、物事には優先順位というものがある。
 自分より優先してもいいものなんて、あるはずがない。あっちゃ駄目なんだ。
「……わかんないよ」
 僕の心中をよそに、融通の利かない台詞を、彼女は吐いた。それが論理的でなかったこともあるけれど、そんなことを花火が、この強気な少女が口にしたのが、どういうわけか僕の勘に障って、つい大声をだしてしまう。
「わかるさ!」
「わかんないの!」
 だけど花火は高く喚いて、僕の手を振りほどく。弾く。拒否する。
「わかんないんだよ! えーちゃんには!」
 畳みかけるように、花火は続ける。
「えーちゃんだって本当はわかってるんでしょ? 私、嬉しくない。こんな風に気を遣われたって、私何にも嬉しくないよ。わかんないよ、わかんない……」
「は、花火……?」
 見るからに、混乱した様子で僕の幼馴染はわからない、を繰り返した。
 そしてそれは僕も同じだ。混乱している。何が何だか、わからない。こいつが何を言っているのか、全く理解できない。だけど、だけども、僕は女の子を泣かせてしまっている。彼女の言っていることは理解できなくても、状況を本能で理解する。これって絶対よくないことだ。
 それで声をかけようかと思ったら、今度は笑いだす花火。
「はは、何言っちゃってるんだろう、私。助けてもらったんだから、まずはお礼だよね。ありがとう、えーちゃん! ごめん、ごめん。……ごめん。自分で何言ってるかわかんないや」
「……花火?」
「えへへ、私、馬鹿だよね。ちょっと頭冷やすわ」
「は? あ、ああ」
 言うだけ言って、彼女はつかつかと歩き去った。呼びとめる間もなかった。出来ごとの全てが、早送りのように進んでいった。
 あまりにもあっさりした別れ。
 胸のあたりがはらはらしている。吐きそうだ。
 僕が花火に気を遣ってるって?
 違うだろ、花火。僕なんだろ? 悪いのは。だったら、何がおかしいっていうんだよ。
 お前の右手を動かなくしたのは僕だろ。
 お前からピアノを奪ったのは、僕だろ。
 僕だろうが。
 だったら一体何がおかしいって言うんだ? 教えてくれよ、花火。
 罪人は、僕だろ?
 返事なんてない。感じるのは、頭の上のじりじり焼けるような太陽だけで、掌に残る花火の右手の感触だけで、背筋に感じる気持ち悪い湿度だけだった。
 その日、僕と花火が崩してきた壁は崩れて、崩れ去って、そしてそのまま大きな亀裂へと変わっていった。

       

表紙

家賃はいちきゅっぱ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha