Neetel Inside ニートノベル
表紙

俺とミケの一年
7月

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 7月の暑い日。ミケが家出した。
 理由は、他人から見ればとてつもなく些細な事だと思われるだろうが、俺にとっては幸福に関する重要な問題だった。
「え? これ、あんたのだったの?」
 風呂から出てきた俺が、目の前にあった光景を見て絶叫すると、ミケは涼しげにそう言った。
「当たり前だ! お前にはちゃんと、いつもよりも良い猫缶買ってきただろ!?」
 俺にとって、給料日の唯一の楽しみである高級刺身パックを、ミケは俺が風呂に入っている間に、勝手に食べていやがったのだ。なんたる悪行、なんたる狼藉。
 怒りに震える俺に対して、ミケは訳の分からん逆ギレをした。
「猫缶の方もちゃんと食べるわよ!」
「そういう問題じゃねえ!」
「仕方ないわね! んじゃあんたが猫缶食べてもいいわよ!」
「食べるか馬鹿ーーー!」
 思えば、こんなにキレたのは久々の事だった。
 俺は激怒のあまり、自分が今タオル1枚で股間を隠しているのも忘れて、ミケをくすぐりの刑に処すべく襲い掛かる。が、
 ご多聞にもれず、そんな最悪のタイミングで、タオルがすとんと落ちた。
「きゃー! 何てモノ見せてんのよ! 変態変態!」
「うおっ」
 と、ここまではいつものドタバタ劇。
 迷惑な代わりに寂しくはない、日常の延長戦だった。
 だけど俺は、言ってしまったのだ。ずっと思ってたが、言わなかった事を。言ったらまずいんじゃないかな、と遠慮していた事を。
「お前なぁ、エサ代も家賃も電気代も、全部俺が払ってやってるんだぞ! 誰に養われているのか分かってんのか!?」
 ミケはヒゲをピンと伸ばして、急に黙ってしまった。心のどこかで、売り言葉に買い言葉の喧嘩を期待していた俺も、肩透かしをくらって、同じく黙ってしまう。
 重い沈黙を破ったのは、ミケだった。
「……分かったわよ。出てけばいいんでしょ? 出てけば」
 よせばいいのに、俺も子供だ。
「ああ、そうしてもらおうじゃないか」
 ミケはフン、と鼻を鳴らして、窓から颯爽と出て行ってしまった。
「厄介者がいなくなって、せいせいしたぜ」
 と、俺はひとりごちた。
 それが嘘だと分かっていても、見破ってくれる奴がいないのは、なんとも寂しい事だ。
 次の日の朝。寝不足気味に起きても、やはりミケはそこにおらず、目覚ましをセットするのを忘れていて、会社に遅刻した。普段はミケがぺしぺしと肉球で叩いて起こしてくれるのだ。
 仕事が終わって帰ってきても、そこにミケの姿は無かった。
「どっかに隠れてるんだろ? 出てこいよ!」
 そう叫んでみても、返事はない。これじゃまるで頭のおかしい人だ。
「くそっ、なんなんだあいつ」
 荷物をテーブルに置いて、ぶつぶつ言いながらテレビの前にあぐらをかいて座った。普段なら、ミケが上に乗っかってきて、チャンネルを勝手に変えやがるが、今日はそんな心配もない。
 一人っきり。
 ずっとこうやって暮らしてきて、一度は慣れたはずなのに、この短期間で、俺は随分と変わってしまったようだ。あいつ、本当に帰ってこない気なのか?
 うなだれていたその時、チャイムが鳴った。俺は慌てて立ち上がり、テーブルに膝をぶつけた。いてて、と言いながら、ケンケンして玄関のドアを開けると、そこにいたのはミケではなく、一匹の「犬」だった。
「夜分遅くにすいません。本官は隣町の交番の者なのですが……」
 良く見ると、犬は青い帽子と青い制服に身を包んでいる、凛々しい面持ちのラブラドール・レトリバーだった。どうやら、犬のおまわりさんらしい。
 その後ろから、ちらりと気まずそうな顔を覗かせたのが、ミケだった。
「ミケ!? えっと、こいつ何かやらかしましたか?」
 状況が飲み込めず、膝をさすりながら驚く俺に、犬のおまわりさんは、はきはきとした心地よい口調で事情を説明してくれた。
「いえいえ、隣町で迷子になっているミケさんを本官が保護しましてね。最初は何も喋ってくれなかったのですが、『ろくろ荘』と聞いて、こちらまでお連れしたのです。あなたがミケさんの保護者の方という事で間違いありませんか?」
 ミケは俺とは決して目を合わせず、首の角度を下げていた。
「あ、はい。保護者です。すいません、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてしまって、本当にすいません」
 と、俺が平謝りしていると、おまわりさんは「はっはっは」と大きく笑って、とてもフレンドリーに「いえいえ、これが本官の仕事ですので」と仰ってくれた。
「いやぁそれにしても、本官が発見した時、ミケさんは大きな声で泣きじゃくっていましてね。交番まで連れて行くのも大変だったくらいなのですよ。はっはっは」
 楽しげに語る犬のおまわりさんを、ミケが後ろから物凄い勢いで睨んでいた。俺は心の中で、「やめろ、失礼だぞ!」と叱る。
 おまわりさんもミケに気づいたようで、一瞬ぎょっとしてから、「ごほんごほん、それでは、本官はこれで失礼します」
 と言って、びしっと格好良く敬礼した。
 走り去る時の、「末永くお幸せに!」という捨て台詞さえ無ければ、完璧な警察官だ。
 二人きりになると、ミケは何も言わず、俯いた。俺はため息をついて、こう言う。
「まあ、入れよ」
 ミケは返事もよこさずに、鬱陶しそうに部屋にあがった。
 そのしょぼくれた背中に、俺は自然といつもの口調で言ってやったのだ。
「お前、動物のくせに帰巣本能とか無いのかよ」
 ミケはぐるんと振り向いて、「ただいま」の代わりに憎まれ口を叩いた。
「うるさいこの馬鹿!」
 それでこそお前だよ。
 くやしくもそう思いながら、俺は仕事帰りに買ってきた大皿の刺身パックを取り出す。
「ほれ、一緒に食うぞ」

       

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