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03.どちらかが死ぬまで

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 逃げるように部室を出た幽は、白杖も持たず、首鈴も鳴らさず、前を向いて風を切って早足に歩いていってしまう。うしろから追いすがる夏臣の言葉は完璧に無視され、夏臣は説得の言葉を撃ち尽くしていた。
 ――歌方、おまえ、まだ考え変わってなかったのか?
 ――うん。
 ――駆人が防人なしで走ったらどうなるかわかってるだろう。
 ――運が悪ければ死ぬかも、ね。
 ――じゃ、うしろにこいつを乗せてやれ。
 ――前にも言った。自分のせいで負けるのはいい。でも、いらない神経を割いたせいで負けるのは嫌。絶対に嫌。
 釘矢にさえ一歩も譲らなかった幽に、これ以上なんと言えばいいのだ。まず原因がわからない。なぜ嫌なのか。他人を背後につけることが嫌なのか、それとも背後につくのが竜宮夏臣だから嫌なのか。竜宮夏臣が信頼のおけないやつで、隣を走る駆人同士というなら受け入れもするが、自分の命運を左右するとなれば話は別ということか。
 そんな風に思うなら最初から誘ったりしなければいいのだ。
 夏臣は沸々とした怒りを覚えた。こんな身体の底から湧きあがるような怒りは久々だった。
「おい」
 幽が足をさらに速めたが、それがいけなかった。勝手知ったる母校の中で油断していたのもあるだろう。周りに人気もなかった。
 誰かがきっと忘れ物でもして戻ってきたか、正門前に停めてあった自転車に、幽は勢いよく激突した。がたぁんと幽と自転車が一緒になって倒れ、校庭にいた何人かが驚いてこっちを見た。まるでおまえのせいかと言わんばかりの注目に夏臣は焦った。
「お、おい」
 自転車の後輪が青空に向かってカラカラと回っていた。
 幽は起き上がろうとしたが、髪が車輪に巻き込まれてしまって、頭を上げた瞬間にぶちっと何本か抜ける痛そうな音がした。
「――苦祖」
 幽は手探りで髪を引っ張るが、車輪に絡まった髪は嫌がらせのようにはずれない。夏臣が見かねて手を貸そうと髪に触れると、幽はその手を闇雲に振り払った。
「触らないで」
 異常だと思った。いくらなんでもここまで拒絶されるいわれはない。こんな、瞼越しに睨み殺されそうな顔を向けられるようなひどいことを自分はしたのだろうか。助けを申し出ることが? まだ馴染まない差し歯の根元がぎりぎりと痛んだ。
 幽は顔を伏せて、少しずつ髪を解き始めた。
「おまえ、なにムキになってんだよ」
「なってない」
「なってんだろ。部長も言ってたじゃねえか、防人なしで盲目の駆人なんかが走ってたら、イの一に撃墜されるって。おまえ死にたいのか?」
「死ぬって決まったわけじゃない」
「死ぬよ。だって部長が」
 幽が顔をあげた。
「君には、一生かかってもわからないよ」
 そういって、幽はにいっと笑った。
 夏臣はその場に縫いつけられたように動けなくなった。ただただ一人で髪をほぐし続ける幽がふいにおそろしくなった。
 死人が白い布の下で笑うなら、きっとあんな顔をするのだろう。
 陽が暮れた頃に我に返ると、もう幽も自転車もなくなっていた。





 三日後。
 竜宮夏臣は空にいた。
 バラバラバラ、というヘリのローター音が遠く聞こえる。最近のヘリは防音機構がしっかりしているらしく、あまりうるさいとは思わない。
「ヘリって蜂に似てると思いませんか」
 波雲いずみは手元の文庫本に視線を滑らせている。よく酔わないものだ、と夏臣は関心する。
「代表」
「はい」
「これはどういうことだ」
「これ、というのは眼を覚ましたら空にいて、耐Gジャケットを着て、背中にパラシュートをつけていることですか」
「手錠つきでな」
「ああ、もういらないですから外してあげましょう」
 夏臣は自由になった手を大事そうにさすって、
「俺は昨日あんたに、あんたと幽を納得させられる方法はないかって聞いたよな」
「ええ。これが私の答えです」
「意味がわからない。代表、まさか俺を殺」
「してしまえば楽なのですが、まァ、始末も面倒ですし、私もあなたの弓の腕は評価しているつもりです」
「ふうん。じゃ、俺の入部の障壁は幽だけってことか」
「はい。歌方先輩はあなたの家柄をよく知りませんし、口で説明しても首を縦には振らないでしょう」
「どうすればいい」
 波雲は窓から森林を見下ろした。夏臣も釣られて視線を移す。どうもどこかの山の上空を飛んでいるらしい。どこまでも尖った木の先の絨毯が広がっている。
 波雲は横顔を向けたまま、
「土地神、というものがどういうものか、わかりますか」
「ええと……土地の神様だろ?」
 そのまま言ってしまったが、
「ええ、そうです。龍も一種の土地神と言えるでしょうね。この山は龍脈から外れていますが、そういう土地には龍の代わりに長命で霊力を持った鹿や猪などが土地の安定を守っているのです」
「ほう」
「あなたにはこれから、その土地神を狩り殺してもらいます」
 夏臣と波雲は見詰め合った。
「おい、守り神殺してどうすんだよ。そういうのっていけないことじゃないのか」
「この山の土地神はもう千年も生きています。どんなに正しいものでもそれだけの月日が経てば壊れます。古い神が死んでも新しい神が湧いてくるので心配はいりません。賞味期限切れをおこした神はただの祟りです。それを」
 波雲はシートに置いてあった矢筒と弓を夏臣に渡した。
「殺して生首のひとつでも見せれば、歌方先輩もあなたを認めるかもしれません。私には無理でしたけど。それに神殺しをやり遂げたとあれば、無論、私もあなたを無碍にはできません」
 夏臣は古い和弓と竹を編んでこしらえられた筒、その中にぎっしり詰まった矢を検めた。矢羽は輝くように白かった。
「俺には幽がそんなことで考えを変えてくれるとは思えないけどな」
「では、祟り神を殺すまでにあなたの方が変わるしかないでしょう」
「俺が?」
 そのとき、突然ヘリの扉が音を立てて開いた。
 不意打ちを喰らった夏臣は捕まるものもなく、そのまま外に放り出された。叫び声もあげられない。真っ逆さまに落ちていく。パラシュートの使い方はまだ教わっていない。
 自分を見下ろす冷たい波雲の眼がどんどん遠のいていく……。



 自動展開式パラシュートの下から、もぞもぞと這い出してきた夏臣はしたたかに打ちつけた尻をさすって辺りを見回した。
 げっそりするような緑の中にいた。いまにも迷彩服を着た兵士が茂みから飛び出てきてもおかしくない雰囲気だ。ここは本当に邪馬都(やまと)の国なのか、ビルマかどこかに捨てられたのではないか、そんな不安さえ湧き起こってくる。
 ひとまず夏臣は、ここが祖国ということを信じて、自分の装備を確認することにした。弓と矢は持ったまま。ジャケットのポケットの中には、ナイフとミネラルウォーターの500mlボトル、ビタミン剤の詰まった瓶、そのほかには、黒い携帯電話と丸められた白いレインコート。ポケットの上から触ったときはかんぴょう巻きかと思ったレインコートだったが、広げてみればそれが部室にあったものと同じものだということがわかった。木々の隙間から青い空を見上げてみるが、雨が降りそうな気配はない。
 夏臣は慣れない服を着た自分を見下ろした。
 波雲はこのジャケットスーツを耐G製のもの、といっていた。夏臣にはこのスタイルに見覚えがあった。米軍との合同演習の中継で、戦闘機のパイロットが着ていたものに似ているのだ。違うのは、あちこちに大小様々なポケットがあるところだ。
 耐Gスーツは通常、高G下で血液が脳から下半身に流れ込み、ブラックアウトしてしまうことを防ぐために圧縮酸素がスーツ内に送られるのだが、これはどうやら戦闘機にコネクタホースを繋がなくてもブラックアウトの可能性があるときに自動的に周囲の空気を取り込んで圧縮し、下半身を圧迫するようだ。その原理が科学によるものかオカルトによるものかは夏臣の破壊された常識では計り知れないが、なんにせよ登山服でないことだけは間違いなかった。
 その場で装備を点検しているだけで汗だくになった。絞った雑巾のように顔から汗が噴出し、点々と地面に染みを作る。背の高い木々が日光からはある程度守ってくれるが、湿気がひどい。サウナの中にいるようだ。
 とっとと獲物を狩って下山しなければ熱中症か脱水症状に陥って死んでしまう。神様だろうがなんだろうが、適当な鹿を見つけたら射てしまおうと悪知恵を働かせた。普通の鹿だって素人の自分が獲ったのならば上出来だと夏臣は思う。
 竜宮家は弓使いの家系だが、狩人は本職ではない。夏臣の兄、秋鷹は母方の祖父の家に帰省するたびに野ウサギを狩ったりしていたらしいが、夏臣は生き物を狩るのが怖くてついていかなかった。だがその兄もすぐに狩りをやめてしまった。その理由がまたすさまじい。
 ――どうせあたるんだから、生きていてもいなくてもおンなじだ。
 そりゃあ天才はそうだろうよ、と夏臣は心の中で死者に毒づく。
 こんなことなら、家を飛び出して北方のマタギになったという大叔父の伝説を親父からちゃんと聞いておくんだった――後悔しても欠けた知識は埋まらない。手持ちのカードでやるしかないのだ。
 夏臣は頭をめちゃくちゃにかき回して鬱憤を晴らすと、ひとまず頂を目指して斜面を登り始めた。しかしすぐに鹿がいるなら中腹の岩場や麓近くなのではないかと思い直し、山を横切るように沿って進んだ。
 ご丁寧にも波雲いずみは夏臣愛用のカケを右手にはめてくれていた。肌に馴染んだカケと弓矢さえあれば、鹿ぐらい軽く獲れそうな気がして、その足取りは軽やかだった。



 草深いところはナイフで掻き分けるようにして夏臣は進んでいった。
 根こそぎ引っこ抜いてやりたかったが、体力を無駄にはできなかった。水も少なく食料は冗談まじりのビタミン剤。望む望まないとに関わらず、おそらく夜までに獲物を狩らなければ危険だった。このあたりにクマはいないだろうがヤマトオオカミはまだ絶滅の縁に立たされながらも生き残っていると聞く。
 なぜこんな真似をしなければならないのか、いっそ下山してしまおうか、そんなことも考えた。しかし中腹から開けた方を見るとジオラマサイズの街が見え、ここが人知未踏の山奥でないことは明らかだった。それほど奥深くまで踏み込まなければ遭難することはないだろう。その命綱とも思える景色と、波雲に対する反発が夏臣を引き止めた。
 ここまでご丁寧にお膳立てされて手ぶらでは帰れない。
 自分はなんとしても龍に乗らなければならない。
 この機会をフイにしたら、一生、竜宮夏臣の物語は始まらない。
 そんな気がした。
 なめるように飲んだ500mlのボトルが半分になり、太陽が天罰のように真上から光線を降り注ぎ、そして夏臣はそれを見つけた。慌てて息をひそめて、ヤブのなかから斜面の下の草地をうかがう。
 毛並みの綺麗な黄金色の牡鹿が、草地に顔を突っ込んで何かを食っていた。夏臣は波雲いずみが詳しく土地神の姿を語らなかった理由を目の当たりにした。
 二本の角が、枝分かれし、蜘蛛の巣のように広がっている。角というよりは穴ぼこだらけの盾だ。身体も、鹿にして大きい。馬より一回り小さいか、というところ。乗ろうと思えば乗れそうだ。
 あれが本当に千年生きた土地神なのだろうか。遺伝子異常を起こした、ただの珍しい鹿ではないのか。だが、あれが本物だろうと偽者だろうと、御印(みしるし)を引っさげて帰れば自分は晴れて防人になれる。
 距離は三十メートルほど。ちょうど弓道場の射手から的の距離と同じ程度。夏臣はぺろっと舌で唇を湿らせた。あててやる。
 背負った矢筒から二本の矢を抜き出す。一本は親指と人差し指で挟み、もう一本は薬指と小指に挟む。首にかけていた弓を左手に掴み構える。射法八節には則っていないが、右立膝のまま弓をつがえる。鹿はあいかわらず何かを熱心に食べ続けている。そんなに美味いのか、腹が減っているのか。どちらにせよ、もうすぐそんなことはどうでもよくなる。
 さァ射るぞ、という瞬間に牡鹿が夏臣の方に角を向けた。
 眼が合った。
 構わず射た。
 ――が、まっすぐに飛んでいった矢は空を貫いた。牡鹿は俊敏に姿をくらましていた。
 夏臣は肩から力を抜く。逃がした。素人でも、いまので警戒させてしまったことぐらいわかる。最後の最後に殺気が漏れてしまったのだろうか。あるいは逆に、まだ殺す覚悟ができずに一瞬もたついてしまったのか。
 どちらにせよ夏臣の胸を貫いた思いはたったひとつだった。
 ――兄貴なら一発で仕留めただろう。
 一気に自信を喪失しつつも、鹿を追おうと斜面を滑り降りる。そして、視界の大部分を遮っていた枝葉がなくなり、鹿のいた草地に降り立ったときに、鹿が何を食っていたのかがわかった。
 青々と茂った草の上に、真っ赤な肉塊が転がっていた。
 猪だろうか、ひどく食い荒らされているので元の形は正確に判別できない。周囲がどす黒い血と臓物で染まっている。さっき上から見たときに気づかなかったのが不思議なくらいだった。
 夏臣は棒立ちになった。
 鹿はシマウマのような草食動物のはずだ。肉なんか喰って腹を壊す程度で済むのか。
 森の中は締め切った温室のように暑い。木々の格子から零れた陽光が夏臣の首筋をじりじりと焼いていく。
 波雲いずみの言葉が脳裏に蘇った。
 ――賞味期限切れをおこした神は、ただの祟り。
 射なかった矢を矢筒に仕舞う手が、冬山にいるように震えた。



 外した矢を回収し、夏臣は腰を屈めて牡鹿が残していった三つ蹄の足跡を辿った。草と土に刻印された獣の署名は延々と続いた果てに緑の中に吸い込まれている。この先にあの土地神がいるかと思うとなりふり構わず背を向けて逃げ出したくなった。
 敵は食事を終えたばかりだろうから、新しく人間を喰おうとはしないと信じたいが、相手は腐ってもこの土地を守護する土地神だ。馬鹿でかい胃を持っているか、食道の先が不可解空間に繋がっていても不思議ではない。
 一思いに噛み殺されるのではなく、あのすり潰すようにものを喰う臼歯でゴリゴリ足から削られていく自分を想像して夏臣は寒気を覚えた。よせばいいのに、鉛筆削り、と悪趣味極まりないフレーズまで思い浮かべてしまい、その場の膝をついて少しだけ吐いた。黄色い吐瀉物が肥えた土に吸い込まれていく。
 逃げ出したい。
 夏臣は自分の吐瀉物を見つめながら心の中で弱音を吐く。が、思いとは裏腹に吐いてしまうと気分が楽になった。すっくと立ち上がって口を拭うと、むっと立ち込める夏山のにおいが肺の隅々まで行き渡ってかえって爽快なくらいだった。
 逃げたくない。まだ一度逃がしただけだ。あんな獣、簡単に狩り獲ってやる。
 と息を巻いたが、時間と体力、人手と技術、なにもかもが足りていないのは変わらない。夏臣は弓矢での射殺だけでなく、罠を仕掛けて殺すことも考えたが、エサの上につっかえ棒でザルをかけておくくらいしか思いつかなかったし、そんな便利道具が詰まった宝箱は野山の中にはたぶんない。
 糸を張っておき、獲物が通過すると上から丸太が落ちてくる罠。緑のフタをこしらえた落とし穴。いろいろ取りとめもなく考えたが、仕掛けた罠を半日経ってすっかり忘れた自分が引っかかる無様な姿が簡単に想像できた。やはり弓矢で射るしかない。
 ボトルの水は底を尽きかけている。携帯電話で連絡して波雲が水筒を持ってきてくれるだろうか。
 ――ありえない、空爆される方がよほどありそうだ。くそ、水がなくなる前に、せめて発見するだけでも……。
 ところが、追跡は夏臣の予想とはまったく逆の方向に進んだ。
 沢を見つけたのである。
 森が途切れて、砂利が敷き詰められた河原をごおごおと沢が流れていた。これで水に関しては心配はなくなった。遠目に見ても綺麗な沢だ。飲んでも心配はいらないだろう。
 その代わり、牡鹿の足跡も森と共に終わっている。砂利には足跡など残っていない。血でもついていないかと目を凝らしたが、石ころには泥と苔と傷がついているだけ。
 とり逃がした、という思いもあったが、ほっとしたというのが正直なところだった。またあの牡鹿と出くわして、射殺すことを考えると気が滅入った。次に外したら今度こそ、あの牡鹿は射程内に入ってはこないだろう。それを思えば、まだチャンスが残っているこの今がどれほど価値あるものか。枯れかけていた気力と乾きを癒す水は飲みきれないほどに唸っている。
 天は自分に味方している。勝負はまだこれからだ。
 夏臣は残っていたボトルの水を飲み干すと、沢の流れで水を汲んだ。白い飛沫をあげて流れる沢を見ていると、初めて幽に会ったときを思い出す。風を切り裂いて進む龍。ここにも龍はいるのだろうか。
 なだらかな沢の上流は水煙にかすんでいる。その中に黒い影を見出そうとしたが、白霧に阻まれてよく見えない。
 ――霧か、こんなに熱気がひどいのに。
 静かな河原、頭上を抑えつけるように枝を伸ばした木々。誰が積み上げたのか、石つぶてを寄せ集めてできた台形の塔がそこかしこにある。苔むしたその塔は、下流の果てに沈もうとしている夕陽を浴びてギラギラと輝いている。
 夏臣は左手で額を押さえた。
 日が暮れかけていた。思っていたよりも歩いた時間が長かったらしい。これから追跡を再開したところで牡鹿を追い詰める頃には射抜くための道筋を照らす光がない。
 潮時だ。
 夏臣はジャケットから携帯電話を取り出した。ヘリで迎えに来てもらおう。いまなら完全に日が沈む前に見つけてもらえるはずだ。
 だが、携帯電話はいくら電源ボタンを長押ししても沈黙したままだった。バッテリー切れになっているわけがない、まだ一度も使っていない。
 ――回収? 発炎筒ひとつないのに?
 まさか、と思ったとき、夏臣の手の中で携帯電話が跳ねた。空気が焼ける音と指先に走った痛みで、思わず手を離してしまい、
「あっ!」
 ぽちゃんと落ちた携帯電話は川の流れにさらわれていった。夏臣は呆然としてそれを見送った。
 手を見る。鉄棒か何かで硬いものを殴りつけたように痺れていた。
 振り返る。無意識に、息をひそめて。
 河原に点在している石塔。
 そのひとつ、一番近い二メートルほどの石塔の上に、そいつはいた。
 蜘蛛の巣のような角。血で汚れた口元。土と草で汚れた蹄。黄金の体毛に、深緑の瞳。
 それは呪われているにしては、あまりにも美しいけものだった。
 咄嗟に矢に手が伸びた。視界の中心にけものを定めて捕まえる。かがめていた右足を下流へ伸ばして体勢を作る。弦をひく。
 ためらわずに射た。
 矢は夏の赤い夕空に吸い込まれていった。
「え?」
 石塔の上には何もいなかった。うしろに飛び降りたのか。そんな動きは見なかった。
 夏臣は状況がわからないまま、いきなり背後から突き飛ばされて砂利に顔から突っ込んだ。
「痛っ……」
 尖った石が頬を切り裂いた感触、そこからどろっと何かがあふれ出した。無我夢中で振り返る。
 金色の牡鹿が砂利を蹄でひっかいていた。
 ――もう一匹いたのか? そんなの聞いて……
 ガン、と牡鹿は再び突進してきた。夏臣は斜面側に飛んで体当たりをやり過ごした、はずなのだが、体勢を立て直し弓を構えようとすると背後に衝撃を受けてまた顔から倒れこんだ。わけがわからなくなった。起き上がる。あたりを見回す。
 牡鹿はいない。
 弓を構えて矢をつがえる。顔がべっとりしているのは汗か血か。震えそうになる足を踏ん張ってこらえる。
 牡鹿はいない。背後には川が流れているだけ。だが、いままでのことがあるだけに背中が気になって仕方ない。
 どの道、視界の中にはいないのだ。斜面の森、牡鹿が隠れられそうな藪は遠いし飛び出せば音が鳴る。夏臣はばっと振り返った。
 牡鹿が飛びかかってくるところだった。蹄が銀色に輝いている。こらえようと思った。できなかった。
 押し殺した悲鳴が喉の隙間から吹き出して、滑った手から放たれた矢はあらぬ方向に飛んでいった。
 牡鹿は容赦なく夏臣を前足で押し倒した。重い蹄がジャケットに食い込んだ。夏臣は手足をばたつかせて牡鹿を振り払おうと暴れた。自分ではわからなかったが大声で叫んでいたと思う。
 牡鹿は下腹部から何かを夏臣に吹きつけると軽々と飛び上がって夏臣から離れた。
 夏臣は起き上がり、胸に手をやると黄色い液体がべっとりしていた。
 小便を引っかけられたのだ、と思った途端、カッときた。それまでの恐れや驚きが一発で粉々になった。全身を構成している身体のライン、その奥底から熱く震える衝動が競りあがってきた。まずい、と思った。その思いも一瞬後には爆散した。
 目の前が真っ赤に染まる。矢筒から矢を抜き取り、転がっていた弓を拾って構える。夏臣はわからなかったが、その動きにはまったく無駄がなかった。怒り狂っている人間の動揺しきった動作にしては機械的すぎた。
 だが、それも牡鹿の顔を見るまでだった。
 牡鹿は、笑っていた。比喩でもなければ、クオリアでもない。その口元ははっきりとモノを喰うのに必要のない幅で広がり、赤黒い歯茎を見せつけ、ぴくぴくと辛そうに痙攣していた。当たり前だ、鹿に笑う機能はない。
 出来損ないのCGを見ているようだった。だが、夏臣と牡鹿の間にブラウン管も液晶画面もない。
 地続きの現実だけが広がっているのだ。
 弦を持つ手がぶるぶる震え始めた。会を保てずに矢が彼方へ吹っ飛んでいった。こんな持ち主には付き合ってられない、と矢が夏臣を拒否したようでもあった。もうなにもかもが意識と悪意を持った存在のように思えてくる。
 鹿は妖艶に笑っている。夏臣はまだ矢をつがえた姿勢のまま、ぶるぶる震えていた。
 牡鹿が頭を垂れ、角を向けてきた。その角の端が光った、と思ったとき、角と夏臣の足元の石が光の線で繋がった。バチッと空気の焼ける音。夏臣の股下でつぶてが砕け散った。今度こそ腰を抜かしてひっくり返った。
 ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。
 牡鹿が胴を揺すって愉快そうに蹄を踏み鳴らした。
 夏臣は悟った。さっき、携帯電話が手から跳ね落ちたのは手を滑らしたのではなく、この牡鹿が電撃を放ったからだったのだ。そしてもう一つ理解した。
 殺される程度の存在なら、それは神とは呼ばれない。
 騙された。波雲いずみは体のいい死刑執行として夏臣をここに送り込んだのだ。
 いったい自分が何をしたというのか。秘密を知ったから?
 なら悪いのは誰だ、ぺらぺら得意そうに喋って自分をあの倉庫に連れて行った歌方幽が悪いのではないか。あの軽率な馬鹿がへらへら笑って、へらへら殺したのだ。
 竜宮夏臣はあの女のせいで死ぬのだ。
 なんてことをしやがる。龍に乗りたいなんて思わなければよかった。
 退屈な毎日が、あの歌方幽の登場で劇的に変化した、ような気がしたのがそもそも間違いだった。女の子とおしゃべりできて浮かれて、浮かれたまま何もかも忘れればよかったのだ。せっかく通り過ぎていった破滅の尻尾を自分はわざわざ捕まえにいったのだ。
 牡鹿は次々と電撃を放ってくる。夏臣はへたくそなダンスを踊らされる。その間にも後悔と焦慮と憎悪が夏臣の胸を暴風雨となって荒れ狂った。
 なにもかもが憎かった。電撃に瞬間移動? なんだそれ。勝負にもならない。そんな圧倒的なもので弱い人間を殺すなんて恥ずかしくないのか。大人気ない
 恥も大人もあるか。
 生きてることに、そんなものが、なんの役に立つ。
 夏臣はわかっていなかった。
 殺す、殺される、それがいかに当たり前で、罪深く『ない』ということに気づいていなかった。
 牡鹿はいよいよ高笑いを強め、怪鳥のような鳴き声をあげてモグラ叩きのモグラよろしく夏臣を翻弄する。
 電撃のおまけももちろんついてくる。夏臣の裂けたジャケットからは焦げた臭いが立ちこめ、逃げ惑ううちにあちこち擦り傷だらけになった。一度、盛大に丸石を踏んづけて転倒し打ちつけた額からはとうとう鮮血がだらだらと流れ出していた。涙と鼻水と血が顔面で混ざり合って意味をなさない模様になった。それがまた牡鹿には愉快らしい、高笑いがどんどん激しくなる。ギギギギギギ。引きつけを起こしているよう。
 牡鹿は楽しんでいる。腹を空かしているのなら、こんな風に獲物で長々と遊んだりはしない。さっさと飯にありつきたいはずだ。なのに、いつまでも転げまわる夏臣を小突きまわすだけ。
 それは勝負にもならない、強者にだけ許された最上の娯楽。
 弱者はただ、理由もなく死ぬまで踊るだけ。
 それでも夏臣は死にたくなかった。どうして死にたくないのか、そんなことはどうでもよかった。ただ死にさえしなければよかった。いままで十五年間、生きてきて吐いてきた悟ったような糞生意気な自分の発言そのすべてを撤回しても生きていたかった。
 自分は波雲いずみに言った。
 死ぬのは怖くない?
 馬鹿言うな、そんなわけあるか、冗談は風呂入って飯食って歯磨いて糞して寝てから言え。
 死ぬほど怖いに決まってる。
 どうして許してくれないのか、こんなに恐れ敬いひれ伏しているのに。この心さえくれてやるのに。
 何もいらない。生きて帰れれば、それでいいのに。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 まだ自分は死ねない。死ぬ顔ができてない。だから猶予をくれ。少しでいい。ほんの少し。その間に、恐怖を諦めで清めてしまうから。
 だが、牡鹿は攻撃の手を決して緩めはしなかった。
 電撃がまっすぐに夏臣に飛んできた。いままでの足元や肩口を狙っていた光条が夏臣の心臓を狙っていた。
 殺す気だったのは間違いない。だが、夏臣は生き延びた。考えての行動ではなかった。たまたま、心臓の前に、カケをはめた右手の平があっただけ。
 バチィッと何かを引き千切ったような音がして、夏臣は川面に叩きつけられた。目、鼻、口、耳、開いた場所に容赦なく水が満たされていく。闇雲に手を伸ばした。
 何か硬いものに触れた。それを必死で手繰り寄せた。
 ただそれだけをしっかと握り締め、夏臣は流れに逆らうのをやめた。


13, 12

  



 闇だ。あまりにも黒く、隙間なく、べたべたしているくせに、触れない。
 耳元で、さあさあと沢の流れる音がした。
 夏臣は自分が起きているのか眠っているのかわからなかった。瞬きしても闇が晴れないので、夢かと思った。けれど、闇しかない夢を見たことはなかったので、起きているのを認めざるをえなかった。
 ゆっくりと手をついて起き上がる。
 首を上向けても、月も星も見えない。小学生の頃、林間学校で泊まりにいった山奥の民宿の真上には、惑星ひとつをぶち壊した後みたいに、渦を巻く銀河が視界に収まりきらないほど広がっていたのに。
 密閉された箱か何かに入れられているのだろうか。この暗さはそうでなければ説明がつかない。いや、つくにはついたが考えたくない。
 足元を触ってみる。ざらざらした小さなものがたくさんある。砂利だ。指をこすり合わせてみると砂がぱらぱらと砕けるのがわかった。頬をなぶるこの空気の流れは風だろう。川辺だからか、夏とは思えない冷たい清らかな風だ。
 夏臣は身体を抱きかかえた。あの日、幽の父親に殴られて犬歯を折られたときと同じように、怯えた。
 死ぬより怖いと思った。
 夏臣の眼は、いま、光を宿していない。





 目が見えないと、時間がゆっくり流れている、気がする。
 きっと今は夜なのだろう。夜が明ければすべてハッキリする。できれば明白になるのは、自分の視界であってほしい。
 視界がないため、身動きができなかった。腹が空いて仕方なく、ビタミン剤でもいいから口に入れたかったが、ビタミン剤の詰まった瓶はジャケットのポケットをいくら探っても出てこなかった。おそらく流されているときにどこかへいってしまったのだ。なんてついていないのだろう。
 ジャケットをあら探ししたおかげでうっかり鞘から抜けていたナイフで指先を切ってしまった。
「痛っ……」
 左手が血で濡れているのがわかる。じっと眼を凝らせば血の赤が闇を透かして見えてくる気がしたが、きっと幻覚か、あまりに凝視したせいで頭に血が上ったせいだろう。
 夏臣が辛うじて冷静でいられたのは、意識を失う寸前に川の中で掴んだものが弓だったからだ。牡鹿に翻弄されているときには持っていなかったのだが、電撃で弾き飛ばされたときに足でひっかけて一緒に沈んだらしかった。矢筒は背負ったままだったが、背中を探ってみると一本も矢は残っていなかった。これで正真正銘、打つ手なしになったな、と夏臣は嘆息した。
 闇の中、音だけはクリアだ。
 ぐうう、と腹の音が鳴った。右手で腹をなでても腹の虫は納得してくれない。
 電撃を受けたカケは破れていたが、中の右手は無事だった。さわるとひりひりするので火傷かなにか負ったかもしれないが軽症だ。差し歯に加えて義手にまではなりたくなかったので、これには安堵した。
 穏やかで、静かな夜だった。この夜が明けるならば、だが。
 また腹の虫が鳴った。その虫がいつか反逆して己の命を止めてしまうのではないかと夏臣は気が気ではない。水分は川の水をすくって飲んでいるのでしのげるが、朝飯もロクに食わずに真夏の山を一日歩き続けた身体は限界に近い。ビタミン剤でいい、それでなければ、食べられる草かキノコ……いまなら雑草だろうと腹さえ下さなければ食べてやる。
 夏臣は意を決してナイフをジャケットから抜いた。しっかりと握り締める。野山で食えるものなんて想像もつかないが、花があったら蜜でも吸えばいくらか回復するかもしれない。蜜蜂と大地の恵みを信じよう。
 ナイフを闇に向かってそろそろと突き出した。
 こん、と何かにぶつかった。自然の音じゃない。夏臣はナイフを戻して、手探りでゆっくりと音のしたあたりを調べた。なにもない。ないわけない、あの音が幻聴だというのか。
 暗闇のなか、自分がいかに臆病になっており、伸ばした手が遅々として進まないかを夏臣はわかっていなかった。おかげで本来音がしたあたりにたどり着くまで、十五分近くも要した。
 手が瓶を掴んだ。
 引き寄せて、零さないようにフタを開け、そおっと中身を手の平に出してみる。
 ころころと小さな粒が転がり出てきた。ビタミン剤に違いなかった。
「ははは……」
 思わず笑ってしまった。こんなに近くに落ちていたというのに、自分はそれに気づかずに空腹で焼ける腹を押さえて唸っていたのか。
 ビタミン剤を容量も考えずに噛み砕き、夏臣は身体から力を抜いた。安心したら眠くなった。一眠りするのもいいだろう。朝まで悩み苦しむ時間が少なくなれば、越したことはない……。



 …………。
 ……。
 …。
 頬に雫が垂れている。
 雨だろうか、夏臣は役立たずとわかっていながら目を開けた。相変わらずの暗闇。しかし、そうか、雨か、夏臣は得心した。視力が失われていなくても、空に雨雲がかかっており月と星を覆い隠しているのならばこの暗闇にも説明がつく。思い返せば、夕暮れ時に雨雲が近づいてきていたのを見た覚えもある。
 だが、夏臣に滴ってくる雫は頬だけを狙い打っていた。ぽた、ぽた、ぽたり。
 生暖かい風が顔に吹きつけてくる。湿気がひどい、風が当たっただけで頬が濡れた。いよいよ温暖湿潤にうるおっていた邪馬都もうだるような熱帯気候にまる飲みされたか。
 夏臣は寝返りを打った。
 風と雫が、夏臣を追ってきた。
 そのとき、ようやく夏臣は、いったいなにが自分の身に降りかかっていたのか悟った。
 はあはあはあはあ――
 荒い息遣いは夏臣のものではない。それは耳の後ろから聞こえてくる。ぬるい風と雫とともに。
 べろり、と首筋をなめられた。全身の毛穴という毛穴が開いた。
 ――オオカミだ。腹を空かして、肉と血のにおいに釣られてきたんだ。
 テレビの環境保護番組の中でしか見たことがないヤマトオオカミの姿が、夏臣の脳裏に鮮烈に浮かびあがる。白銀の毛皮にパイプのように太い牙。もちろん肉食で食欲旺盛。若くて新鮮なタンパク質にはさぞ餓えているだろう。
 死んだふりをするしかなかった。熱い息は首筋からまったく離れてくれない。
 無力感で涙が出てきた。せっかく牡鹿から逃げ切ったというのに、こんなところであっさりと喰われて死ぬのか。ここにはあまりに死が多すぎる。気が狂ってしまいそうな死の濃度。
 ここが闇でなければ、せめてナイフで切りかかるくらいはしてやれるのに。闇の扱い方なんて学校で習わなかった。
 ああ、幽がここにいてくれたら。盲目のあいつなら、この暗闇の中でどう対処したらいいのか教えてくれるのに。音と熱と振動からなる擬似的な視界の作り方が夏臣にはわからない。黒は黒、闇は闇でしかない。
 幽は、こんな暗黒のなかでへらへら笑っていたのか。
 手助けをするとか介護をするなんてとんでもなかった。
 幽にこそ、俺は助けを求めるべきであったのだ。あいつはすごいやつだったのだ。きっと、いまここにいるのが幽だったらオオカミをやり過ごして逃げ切れるだろう。水に落ちてもおおよその岸までの距離がわかれば川へ逃げる道もある。だが夏臣には無理だ。
 自分の心臓の音が聞こえる。ああ、息遣いよりも鼓動の音が大きすぎる。止まって欲しい。どんどん息遣いが近づいてくる。もうすぐそこに、さっきの瓶のように驚くほど近くに牙があるのがわかる。心臓よ止まれ。でなければ死ぬぞ。止まらない。当たり前だ。でも、止まってくれないということは俺をオオカミのエサにするってことだな? 器である身体(おまえ)が心(おれ)を殺すということだな? わかっているのか、心はそうなったら絶対に身体を許さないぞ。謝ったって認めない。身体は心のものだ。言うことを聞かないなら足手まといは必要ない。心と身体どちらかしか生き残れないなら俺は心がいい。
 夜が明けた。
 オオカミはいなくなっていた。
 それほど空腹でなかったのか、夏臣を朽ちて倒れた木かなにかだと思ったのか、それともそんなオオカミは最初から夏臣の夢だったのか。
 いつ闇が晴れたのか覚えていない。ただ、我に返ったときには、あたりは水底のような藍色に染色されていた。
 夏臣は立ち上がり、朝靄に煙る山の中で呆然とへたり込んでいた。
 口をぽかんと開けて、まだ色濃い闇の残る下流へ顔を向けた。



 逃げよう。
 川を下れば、絶対に人里に出るはずだった。



 生命よりも大切な大会だった。
 その日のために来る日も来る日も練習して、白い飯を萎縮した胃に流しこむことさえ辛い日だってあった。
 ただ勝ちたくて勝ちたくて必死になった。勝てなければ死んでもいいと思った。練習のために運動会も合唱コンクールもクラスメイトの葬儀も欠席して、最後には担任に呼び出された。
 それでも、竜宮夏臣は竜宮秋鷹に勝ちたかった。
 当日下痢にならないように前の日に下剤の錠剤をがぶ飲みして五時間トイレにこもった。それを済ますと母が作った栄養満点の夕餉をぺろりと平らげた。ご飯は三杯喰ったし魚は骨まで噛み砕いた。すやすや眠っている憎たらしい兄の顔に油性マジックでひわいな言葉を書いて、自分の部屋に戻ってベッドに入ってまぶたを閉じた。
 一睡もできなかった。
 それでもミストアイマスクをかけて眼だけは休ませた。
 時計の針と心臓の鼓動が刻む夜を吐き気をこらえながら乗り越えて迎えた、それはそんな朝だった。
 平気な顔して家を出ようとする歩くワイセツ物と化した長男坊をひっ捕らえて風呂場に連れて行った母のどたばたを背中で聞きながら、夏臣は一足早く家を出た。
 電車に乗って都会の方へと運ばれていく。桃京競技場は琴多摩駅から浜屋で特急に乗り換えれれば三十分で着く距離だったが、休日でダイヤが普段と違っており夏臣は快速で現地いりしなければならなかった。それでも、着いたときには開場二時間前だ。下痢腹抱えてたって、トイレ探して糞してケツ拭いて、それでもおつりが来る。
 駅から競技場まで包んだ弓を抱く手が震えた。
 すぐに武者震いにしてやる。
 歩いていく一歩一歩がひどく長く感じた。一生会場の土を踏みたくないような、早くついて楽になりたいような、どちらともつかない、どちらだろうと救われない気分がした。
 ほとんどの赤信号に足止めされながらも、迷うことなく夏臣は競技場についた。普段は陸上のグラウンドとして使われている競技場はすり鉢状の観客席に囲まれている。
 夏臣の意気揚々と進んでいた足が、止まった。
 入り口に、兄と母が立っていた。
 兄の寝癖を必死に直そうと母が奮闘している。兄はそれを鬱陶しがって逃げ回っていたが首根っこを掴まれ、渋々なすがままにされていた。
 べつにおかしなことではない。
 夏臣は電車を使ったが、兄は母の車に送ってもらったのだ。特急が運行していたら夏臣の方が早く着いていただろう。しかしその日は休日でダイヤが違っていた。そして夏臣が競技場に来るまでの赤信号にほとんど掴まっていたのに対して、母と兄はここに来るまですべて青信号の下を潜ってきたのだ。
 べつにおかしなことではない。
 兄が空間を転移して桃京都を南西から北東までぶっちぎったわけでも、母ができのいい兄をエコヒイキしたわけでもない。
 それでも夏臣は怖くなった。
 元々、いったん思い込むと見境がなくなるタチなのだ。わけのわからぬ恐怖に駆られて、夏臣は垂れ幕のはためく競技場から背中を向けて遮二無二走り出した。
「あ、なっちゃん――」
 竜宮流の門下のひとりが夏臣に声をかけてきたが、まったく耳に入らなかった。
 気づいたときには、夏臣は下りの電車のシートに座って、午後のぽかぽか陽気のなかにいた。車内は夏臣のほかには誰もいなかった。
 電車に乗るまでの記憶はまったくなかった。
 時計を見なくても失格したことは明らかだった。
 何に失格したのだろう、と夏臣は考えた。
 大会のエントリーか。一人の選手としてか。竜宮家の次男としてか。弟としてか。
 男としてか。
 あれほど練習したのに、自分の不甲斐なさが悔しくて、涙だって流したこともあるのに。
 窓から降り注ぐプリズムの扇は夏臣を優しく照らし、後悔なんて悲しくなるくらいしなかった。
 そのときも思ったのだ。
 これでよかったのだ、と。
 最初から負ける勝負だったのだ。だから、諦めてやめてしまっても、蛮勇を奮って挑んでも、凍てついた結果は変わらない。だったら、より疲れず、より自分を慰めやすい方がいい。
 だから、いまもそうしよう。
 夏臣は河に沿って歩いていく。その足取りは重く、鈍い。
 仕方ない。
 なにせ命を賭けた神殺し、一歩どころか一ミリのミスで命をドブに落としかねない。
 誰が自分を責められる。
 そんな権利は誰にもない。
 だから、竜宮夏臣は山を降りることにした。
 これでよかったんだ、何度も口の中で呟きながら、沢を伝って街を目指す。
 魚影がひらめく流れをぼんやり見つめながら、夏臣は安堵の吐息をついた。肩の荷が降りた気分だった。逃げ出したことの是非はともかく、自分にとって重過ぎる荷だったことは間違いない。
 帰ったら、幽に謝ろう。
 眼が見えない騎手は確かに危険だが、それをどうこう言う資格は自分にはなかった。ましてや同乗するなんて侮辱の極みもいいところだったろう。
 覚悟も実力もないくせに欺瞞と偽善を振りかざして黒を白にしてしまう、幽の心の中にある眼球はそんな夏臣の薄っぺらさを隅々までスキャンしきっていたのだ。
 いいさ、べつに。
 どうせ自分はスペアにさえなれなかった、まがい物だ。偽者は偽者らしく、打ち捨てられるのが似合っている。その細部がどうであろうと、オリジナルでない以上は考慮にさえ当たらない。
 偽者が勝とうが負けようが、そんなもの、誰にとってもどうでもいいことなのだ。
 夏臣は心地いい自嘲と失望に身も心も委ねて歩き続けた。そして辿り着いた。
 顔をあげる。これで楽になれる。
 夏臣はそれを見た。









 沢を、おぞましい数の死骸が埋め尽くしていた。
 兎、鹿、猪、魚、セミ、狼、蛇、その他この森に住んでいたありとあらゆる種類の動物や昆虫が肉塊となって壁と化している。高さは二メートルほど。
 焦げた傷から流れる血潮は止まらずに、渦を巻き、さあさあと大地を穢している。
 罪の銀河だ。
 いまさらになって夏臣は、この真夏に、この山奥で、セミの声がまったくしていないことに気づいた。
 河からはみ出した死体の壁の端からは、まがまがしい有刺鉄線が延々と伸びている。
 道は途絶えていた。
 夏臣は両手をぶらんと下げて立ち尽くす。
 死骸を乗り越えていくことはできない。血と脂が屍を超えることを阻んでいる。まるで肉体の最後の尊厳を守ろうとしているかのように。無理やり登ろうとしても滑ってずり落ちるのがオチだ。
 自然と乾いた笑いが浮かんできた。
 間違いない。これはあの土地神の仕業だ。
 波雲いずみが殺せと命じるわけだ。
 千年を生きたあの牡鹿は、とっくのとうに狂っていたのだ。
 生きるために殺すのではなく、殺すために殺しているのだ。腹など少しも減ってはいない、あの牡鹿にあるのは無限の退屈だけだったのだ。
 守るべき土地の生き物を殺してバリケード代わりに積み上げても、その渇きが癒えることはない。
 ようやく夏臣にもわかった。
 逃げるなんて選択肢は最初からなかったのだ。
 この勝負は、どちらかが死ぬまで決して終わらない。
 あの牡鹿が夏臣をこの肉壁の頂点に捧げるのが先か、夏臣の矢があの化け物の首をハネるのが先か。
 それ以外の決着はない。
 あらゆる欺瞞もいかなる偽善も許されない。
 死ぬか生きるか。
 夏臣は深く深く息を吐く。自分の中の澱みすべてを押し出すように。
 かえってスッキリした。
 不思議なことに、もう身体の震えも吐き気もない。
 これで自分の目の前をチラついていた、逃げるとか、助けを呼ぶとか、やり過ごすとか、そういう幻影の的がなくなった。
 視えるのはたったひとつの確かな的。
 あれを射抜けばいいのだ。
 ただそれだけのことだ。それ以外のあらゆる思考もいかなる逃避も必要ないのだ。
 ああ、そうだ。
 そうだとも。
 夏臣は踵を返した。
 もう恐れることはなにもない。
 負ければ死ぬ。首が飛ぶ。
 その代わり、みじめな生き恥をさらすこともない。さらっと死ねる。もう何も、悩まなくていい。
 頭の中に立ち込めていた陰鬱な霧が風が渡ったように綺麗に晴れた。
 負けても先があるから負け方を考え始めてしまうのだ。
 そんなものがなければ闘うしかない。当たり前だ。生きていたいなら殺るしかない。
 ならば。
 出口なんぞに、用はない。



 ぶっ殺してやる。
15, 14

  




 クモノスカシラ、とあの牡鹿を名づけよう。あの角は、蝶を獲り殺す網にそっくりだから。
 それに、敵の名前がはっきりしていた方が心に相手の存在が染み入っていく気がする。的はハッキリしていればそれに越したことはない。夏臣の脳裏にくっきりと不気味なあの角を脳天に頂く牡鹿の姿が蘇ってきた。
 クモノスカシラ。
 呟きながら夏臣は上流に向かって歩き始めた。
 水没したときに散らばってしまった矢は河原に打ち上げられているものもあったが、大半は流されてしまったようだった。回収できた矢はわずか三本。きょろきょろと生き残った矢はないかと見渡すものの、望みは薄いだろう。
 この三本でしとめなければならない。そのためにどうすればいいか。
 はっきりした案はまだ閃いていない。だが、何をすればいいかはわからなくても、どうすればいいかはわかる。沢から森に戻って夏臣はジャケットのポケットを漁った。目当てのものはすぐに見つかった。
 真っ白いレインコート。部室にかけてあったものと同じものだ。雨など降っても無視しようと思っていたので仕舞ったままにしておいたのだが、試しに羽織ってみた。
 うだるような暑さが、消えた。
 頭上に太陽が燦々と輝いているのが信じられない。手の平の間で空気を挟んでみると、冷蔵庫に手を突っ込んだようにひんやりした。なにかに護られているようだ。霊気、というやつだろうか。夏臣にはわからない。だが、原理なんてわからなくともテレビは見れるし電話もできる。道具の使い手とは、道具の開発者と同義でなくてもよい。
 真っ白い守護外套に身を包んだ夏臣は、けれどもやはり夏の森の緑のなかでは目立つ存在だった。その白い影を見ればなめくじだって逃げ出しかねない。いわんや畜生神のクモノスカシラなど、である。
 夏臣はダガーナイフで藪を切り開きながら、緑の中を進んでいく。亡者の手のようにまとわりついてくる草を蹴り踏み潰す。
 そこは、暴力的なまでの緑だった。
 ほかの色のことなど忘れてしまいそうになる。執拗なまでのグリーン。単調なバリエーションでしかない色彩の変化。
 前へ歩いていくのに沈んでいっているような気がする。スニーカーを隠す雑草の下には永遠に雑草があって、それを少しずつ踏み抜いていっているような。そんな自分の横顔を視ている自分がいるイメージ、深緑の球体の中を果てしなく漂う亡霊。
 誰かの眼の中にいる気がする。クモノスカシラがこちらを窺っているのか。ありえる。ありえるが、そうではないと思った。夏臣にはわかる。クモノスカシラは竜宮夏臣の敵だ。敵だから、かえって味方よりもよくわかる。
 違和感は消えなかった。
 けれど、何事もなく、あっけなく目当ての場所を発見した。ドブにそっくりな沼地が森の途中にぽっかりと口を開いている。公園の噴水程度の大きさだろう。夏臣は沼のふちに膝をついて、レインコートを脱いだ。途端に熱気が戻ってきた。
 手で泥をすくってみると、懐かしい土のにおいがした。どんな雑菌がうようよしているかわからないその泥のにおいが、不思議と夏臣を落ち着かせた。
 そういえば、と夏臣は考える。嗅覚と触覚と味覚はネットで検索しても出てこない。手に入るのは視覚と聴覚だけだ。特に嗅覚は一番下に見られているように思う。五感で失うものを選べと聞かれたら嗅覚と答える人が多いのではないだろうか。
 もったいない、と思った。
 自分たちは、思っていた以上のものを軽視して生きているのかもしれない。
 においはいらないなんて言ったら、幽にぶち殺されそうだ。あいつはきっと、その大切さを知っているだろうから。
 帰ったら、やっぱり謝ろう。
 夏臣は広げたレインコートにべったりと泥を塗りたくった。手で伸ばし隙間なく茶色に染め上げ、落ちていた枝を拾って、茂った葉を泥をのり代わりにしてなすりつけた。すっかりレインコートを茶色と緑の迷彩外套に仕立て上げると、剥げた枝を沼に放り捨てた。十五度の角度で泥に突き立った枝は、ずぶずぶと沈んでいった。
 手にこびりついた汚れをズボンで乱暴にぬぐって、コートを羽織りなおす。背後から見れば巨大な蓑虫といったところか。
 これでクモノスカシラの眼を欺けるとは思えないが、やれることはやった。少なくともこれでひとつの心配事が潰れたわけだ。結果はともかく気が散らないのは大きなメリットとなる。
 踵を返しかけたとき、がさっと右側の藪で何かが動いた。
 その音を耳が捉えたときにはもう、夏臣は弓を構え終えていた。
 赤い瞳と眼が合った。
 野ウサギだ。
 ふさふさの白い毛皮をこの暑い中、平気な顔をしてまとっている。くんくん鼻をひくつかせ、夏臣が捨てた枝が沼に消えていくのを見届けていた。
 夏臣の腹がぐう、と鳴った。錠剤まみれの胃が、ウサギの柔らかい肉を求めていた。
 よし。
 射る。
 そう決めた途端、何かに吸われたように音が消えていく。集中しているとき夏臣の耳にはなんの音も届かなくなる。いい調子だ、いい射ができる。
 だが、そう夏臣が感じるときは決まって父は顔をしかめてこういうのだ。
 ――おまえの弓は邪念まみれで、なっちゃいない。
 そうだ、俺の弓は邪道の弓だ。それには返す言葉もない。心を無にするどころか、頭の中には雑多な思念が渦巻いている。
 同じ一色の世界でも、無は真っ白というところだろうが、夏臣の心中は黒鉛筆で偏執的に塗りつぶしたような暗黒なのだ。
 たぶん、自分は怒りや憎しみが湧いてくる、心の奥のそのまた奥にあるイドから、負の感情の元になるものを穿り返して己の力にしているのだ。溶岩のような激しい思いで、雑多な思念を嵐になるまで練り上げているのだ。
 これを邪道と呼ばずなんと呼ぼう。
 だが、これが俺のやり方だ。変えることのできないたったひとつの生き方なのだ。
 それを己が認めてやらないわけには、いかない。どんなに間違っていようとも、絶対にだ。なぜなら、これが竜宮夏臣だからだ。
 射た。
 あっけないほど簡単に野ウサギは串刺しになった。
 ぴくりとも動かなくなった白い死骸の足を掴んで宙吊りにして、夏臣ははたと気づいた。
 どうやって喰えばいいんだ?
 ぷらぷらと、嘲笑うようにウサギが揺れる。
 夏臣は薄く笑ってウサギの死骸を沼へと放り捨てた。ぼちゃんと寂しげな水飛沫を残して、ウサギは消えた。無駄な殺しをした。考えもせずに射た。
 火も熾せなければ臓物の抜き方も知らない。
 射ることしかできない。
 ――どうせあたるんだから、生きていたって死んでいたっておンなじだ。
 夏臣はまだ、そんな風には割り切れない。
 それでも、兄の気持ちが、少しだけわかった気がした。




 竜宮家は射手の家系だ。
 その歴史を遡れば一千年前、流れ者だった初代が、時の帝に蛮族の首を引っさげて頭を垂れたことに端を発する。それ以後、宮廷の護衛官として千年の間、邪馬都に仕えた歴々の竜宮家の男たちは、鷹の眼で敵を捉え、鬼の腕をもってしてその首を跳ねたという。
 その烈しい血は貴族たちには理解できないものだった。
 竜宮の男たちは旅を好み、ゆくゆく先で敵を見つけては自ずから戦闘を始めた。見てみぬフリをすれば避けられた戦がいくつもあったという。味方を何人も誤射して豪胆に笑いながら死者の首に謝罪した四代目や、新月の夜に食料をかっぱらった盗人の心臓を背中から撃ち抜いた七代目などその伝説には事欠かない。
 その誰にも共通することがある。権力を恐れなかったという一点だ。いざとなれば飯と服と寝床を与えてくれる朝廷相手にでも一戦交えるつもりだったのだろう。無論、ただ優秀な射手に過ぎない竜宮家が反旗を翻したところで、いつかは負ける。それだけは変えられない個と群の差だ。
 だが、それでも竜宮家はまつろわない。腕一本になろうと、歯で弓の弦を引き絞るだろう――。
 それは夜の闇が深かった頃、不安と懐疑を迷信で慰めていた人々の世迷いごとでは決してない。
 竜宮家、二代目のことだ。
 北方で反乱が起こった。
 反逆者は現在での北軍の先祖であるまつろわぬ民たちだ。帝は竜宮家の長男に北方制圧を命じた。長男はふたつ返事で引き受け、北方に出向き、それきり帰ってこなかった。
 最初は戦死したものと思われていた。それで朝廷の貴族たちの間には安堵のため息が広がったという。
 ああ、あいつも死ぬのか――
 鬼神か夜叉のごとき男も同じ人間なのだ。その確信がすぐに覆ることになるとは誰も予想していなかった。
 帝は次男を呼び出し、兄が果たせなかった使命を引き継がせた。生死不明とは名ばかりのこと、弟も兄が死んだものと思い悲しみを癒せぬまま、兄の辿った道へ赴いた。
 結論から言えば、兄は生きていた。
 やっとのことで辿り着いた寒い寒い荒地で、兄は愛する弟に弓を引いた。
 弟は、北方民族に味方した兄を反逆者として討伐した。そのときの従者が都に帰還してからしたためた手記によれば、その戦いは三日三晩、凍てついた川を超え枯れ果てた山を駆けた壮絶なものだったという。最期には、兄は、胸を貫かれながらも前進することをやめず、弟の左腕を噛み千切って絶命したという。
 人々は囁いた。
 竜宮家には鬼の血が混じっている。
 そうであってほしい、と夏臣は思った。
 いまこのときばかりは、いやしくみにくい鬼になりたいと思った。
 勇気が欲しい。
 犠牲と対価を恐れぬ勇気を。
 竜宮夏臣のちっぽけな心と腕に、たったひとつの命を預ける勇気を。
 夏臣は暖かい弓を額に押し当てる。
 がんばれ、と自分に向かって、呟いた。



 ○



 クモノスカシラは河原にいた。その足元には喰い散らかされた鳥の死骸が散らばっている。どれも一様に胸が焼け焦げていた。角から放った電撃でついた傷だ。
 クモノスカシラは退屈していた。その深緑の瞳に渦巻く霧は、時が造った澱みだった。一千年前、あらゆるものに惜しみなく注がれた愛だったものは、いまは湿ったべとつく憎しみに変わっていた。
 クモノスカシラは唸っていた。それは、助けを乞う声にも似ていた。
 闇雲にぐるぐると石柱の周りを走り回る。跳ね飛ばされた砂利が黄金の体毛にまつわりつく。どこまでいっても幾度回ってもゴールには辿り着かない。ゴールなどなかった。
 クモノスカシラは咆哮し、その角から電撃を迸らせた。青白い炎の矢が四方八方へ弾けた。空気が焼けるにおい。クモノスカシラがいる岸辺の森に火が点った。か細い火種が、だんだんと赤く広がり、あっという間に延焼した。
 竜宮夏臣が逃げ込んだ森が赤く染まっていった。
 黄金色に燃え盛る木々の渚はクモノスカシラを狂喜させた。前足を高々と振り回し、歯をむき出しにして笑う。あの人間の小僧は耐え切れずに現れるだろう。自分の前に頭を垂れるだろう。その頭を踏み潰してやる。バラバラにして臓物を喰らってやる。生きたままだ。なに、大したことはない。クモノスカシラが喰らってきた歴史に比べれば刹那の地獄だ。
 一千年、この区画を護ってきたこの俺にほんの少しの自由も許さないというのなら。
 それぐらいの不幸は受けてしかるべきだろう。
 安穏に生きてきた癖にそのまま逃げ切ろうなんて、虫が良すぎる。
 呪われろ。そう、この哀れな哀れな俺の分まで。
 クモノスカシラは待ち侘びる。哀れな人間が慌てふためき小便を漏らしながら斜面を駆け下りてくるのを。
 今か今かと。
 竜宮夏臣は、現れない。ちりちりと木っ端が燃えて灰に変わる音がする。その音と煙で耳と鼻が馬鹿になっている。
 竜宮夏臣は、現れない。砂利をかくクモノスカシラの蹄から元気がなくなっていった。
 ふと不安になった。
 あの人間はもしかして背後の森にいるのではないか? そんな気配は感じなかったが、可能性がゼロとは言えない。もしそうならクモノスカシラは雄叫びをあげて自分の位置を知らせた上に逃げも隠れもできない場所で呆けていることになるではないか。人間ごときに殺されてやるつもりはないが、万一のこともある。
 クモノスカシラは振り返った。対岸の森は静かに風にそよいで揺れるばかり。
 しゅん、と風を切る音がしたとき、クモノスカシラはすべてを悟って石柱の上に転移した。
 獲物を逃がした矢が砂利にぶつかって弾かれた。
 クモノスカシラは笑おうとして、
 自分の首の断面図を見た。
「――ギ?」
「やると思ったよ」
 誰かの手の中で転がされているように視界が回る。燃える木々の隙間、枝の上にいるのは――
「見切った、と思ってくれれば、絶対にそこに行ってくれると信じてたよ」
 回転して落ちていく首が音を正しく拾ってくれない。
 敵はどこだ、俺はどこだ、おお――あれは俺の胴体。
 負けるのか?
 一千年の間、ただの一度も過ちを犯さずにいたこの俺が、狂っただけで殺されるのか?
 クモノスカシラの深緑の眼が見開かれる。俺は、俺はおまえらを護ろうとしたんだぞ。その挙句がこれか。これが人間のやり方か。俺は道具じゃない。祈り、願い、念じ、想った。誰を? おまえらを、だ! その俺を、おまえらは殺すというのか。俺は道具じゃない。俺は生きていた。この森で生と死の車輪が少しでも美しく回転してほしかった。この山で緑と赤の変遷を見守りたかった。
 燃える木々の隙間から、竜宮夏臣の眼が鈍く光っていた。
 おまえか。
 おまえが俺を殺すのか、小僧。
 その澱んだ眼で何を為す。なにも救えはしないのに。
 ちっぽけなそんな弓でなにが射抜ける。ちっぽけなそんな心でなにが護れる。
 おまえ、なんぞに、この、俺が、
「――――あんたの負けだ、クモノスカシラ」
 いいだろう。
 くれてやる。
 命も首も勝ち負けさえも。
 おまえ、なんぞに、俺は負けたのか。ただの子どもに首をハネられたのか。
 ああ、終わりが近づく。なんて惨めな、これが俺の、
 嗚呼――――
 砂利に激しくぶつかった角が、二本とも根元からポキリと折れた。ごろごろと首が、燃える森の明かりを跳ね返す川辺を転がっていく。主を失った胴体が石柱からずり落ちてきた。まだ四肢が痙攣しているが、やがてそれも止まるだろう。
 クモノスカシラ。
 そうだ、俺は。
 一千年の間、長命という蜘蛛の巣に掴まっていたのだ。
 生涯は希望で始まり失意で終わる。
 俺もただ、一匹のけものだった。
 それだけの、ことなんだろう。
 ああ、なんて。
 綺麗な火――――





 ○





 藪のバリケードをぶち破って火達磨になった夏臣が河原に飛び出してきた。
 一直線に走っていく夏臣の軌跡が、砂利の隙間に詰まった種や草が引火してできた火のレーンとして残っていく。夏臣は脇目も振らずに走っていく。まだゆらゆらと揺れていたクモノスカシラの首をアウト寸前のボールを拾うようにして抱え込み、そのまま燃える弾丸と化して河へと飛び込んだ。ウエディングケーキのような水柱があがり、火がじゅうっと苦しげな断末魔を残して消える。
 雨が降り始めた。
「ぷはっ」
 夏臣は水面から顔を出した。大粒の雨が頬を打ち、視界を曇らせる。守護外套についた泥が水に土煙となって溶けていく。
 竜宮夏臣は押し流されていく。
 燃える森を振り返った。
 黄金の木立に、若いシシの姿を見たような、気がした。





 ○





 その日、火衛町の交番に不審者通報があった。おまわりの田口がえっちらおっちら自転車で河原に駆けつけると、顔見知りの小学生の健彦が携帯電話を片手にひっくり返っていた。そばには放り出された釣竿が真ん中から折れて転がっていた。
 おいおいなんだどうしたんだ一体、と田口が聞くと、
 ――――鹿の首を持った男の人が河から出てきて、ぼくに駅がどっちか聞いてきたんだ。
 健彦は放心したように言うと、ぶるるっと身体を震わせた。
 健彦に怪我はなかったので、田口は少年を自宅に送っていった。
 田口は健彦が嘘をついたとは思っていない。
 現場からは、健彦の持ってきていたクーラーボックスが消えていた。
 その日以降、その河原で釣りを楽しむ人の姿はあまり見かけない。


 ○




 悔いはない、と思う。
 自分にできることはすべてやった。うまくいったとも思う。もしこれでダメなら、それは天が自分の往く道を阻んでいるか、まだ覚悟ができていないからだ。
 拳をぎゅっと握り締める。
 固く、固く、誰にも解けないくらいに。血が集まってきて拳が火照る。爪が皮膚に食い込み痛覚が刺激される。
 痛みで覚悟が決まればどれほど楽だろう。そんなもん、緊張の糸が張り詰めてしまったら、なんの役にも立ちゃしない。
 本当に大切なことは、たったひとりで考えて、たったひとりで決めなくてはいけない。誰にも頼れない。偽善も欺瞞もおよびじゃない。
 だから、と夏臣は思う。
 これは俺が本当にやりたかったことなのだ。
 そろそろ、自分ってやつを信じてもいい頃合じゃないか?
 せめてなにもかもダメになるまで、眼を瞑って走り続けたっていい。なにが成功でなにが失敗だったかなんてことは、未来の自分に任せてしまえばいい。
 夏臣は誰もいない体育倉庫のなかで、大テーブルにもたれかかって、扉が開くのを待っている。足元にはクーラーボックス。汚れを落としたレインコートが、棚に元通りにかけられている。
 重たい音を立てて扉が開く。暗い倉庫に光が満ちる。
 鈴の音が鳴る。
 夏臣は、彼女の名前を呼んだ。

17, 16

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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