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<1話>物分りのいい悪魔

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 仕事辞めたいなとか考えつつも、自宅と会社を往復する毎日を過ごす、しがないOLだ。
 ある日の帰宅途中、くすんだランプを拾った。いやいや、コールマンロゴを思い浮かべてはいけない。アラビアンナイトを思い出して欲しい。ディズニー映画、青肌の大男に空飛ぶ絨毯。連想ゲームが苦手なら、インド人がカレーを入れる容器を想像しても良い。
 やった、魔人の魔法で大金持ち確実! 願いを込めて擦ってみる。ついさっき買った年末ジャンボが当たりますように……、年の瀬であった。
 しかし驚いた。ランプは激沸するヤカンの如き勢いで桃色の煙を吹いたかと思うと、モコモコと固まってゆく煙はやがて異形のヒトガタを成した。
 オヤまあ本当に魔人のご登場であるよ。出たら出たでたじろいでしまう。と言うのも、想像していたよりも随分と、……人相が悪い。じろり目線が重なった。そして驚くべきことを宣言する。
「我は悪魔である」
 半裸の男。肌は黒褐色、顔面には隈取。両のこめかみ辺りから対に突き出るのは羊の巻き角。トンがった両手の爪、唇から覗く牙、瞳は獣のように鋭い。下半身はランプの口に吸い込まれたまま、たくましい上半身だけをニュッとそびやかし、見せつけている。耳に届くのは夜闇の底から響いてくるような低い声だ。
「直ちに質問をひとつ考えるのだ。それはイエス、ノーで答えるべき質問で、貴様にはそれを街の人間百人に尋ね歩いてもらう。回答者に一人でも不正解者がいたら、貴様は地獄に落ち、永遠に業火で焼かれるのだ。そして死ぬことの叶わぬ無限の苦しみを味わうのだ」
 なんとも理不尽。無論抗議したがそこはさすがに悪の化身、たかだか人間の言うことなどには耳も貸さない。
「拒むなら今すぐにでも地獄に落としてやる。それと、ランプは貴様が持って歩け。と言うのも、我はこのままではひとりで歩くことも叶わぬのだからな。回答はじかに聞き入れねばならんのだ。できんとは言わせぬ」
 なんだコイツ。偉そうな死神だよ。もしランプをこの場に放置して帰ったとしたら、今後の人生の平穏無事は保証されるんじゃないだろうか。だとしたら、私はこいつを無視すればいいのか……。
「死神ではない。我は悪魔である。言うまでもないだろうが、妙なことは考えぬことだ……」
 へえ、へえ。暇つぶしと憂さ晴らしにちょっくら命を賭けてみるってのも、まあ、一度くらいいいだろう。百人連続で正解しうる二択問題、イエス、ノーの質問ね……。まあ、かんたんだよな。
「――貴方はリンゴを食べたことがありますか」
「いいだろう、不正解者が出た時点で、貴様は地獄行きだ」
 どんだけ念を押してんだ。分かってるよ。

 ○

 単純すぎる質問だ。難なく八十人から連続でイエスの回答を得た。しかも、――一夜のうちにである。
 腕時計の針は進まないし、最終電車は何度も何度も疲れ顔のサラリーマンを呑みこんで通り過ぎる。往来に人は絶えない。遠くから自動車のクラクションが延々とこだまする……。そしてどれだけ歩いても、どれだけの人数に声をかけても、私自身に疲れはこれっぽっちも感じられない。
 不思議な夜だった。
 あと二十人があと十五人、そして十人、とうとうあと五人に。なんだか簡単すぎたような気がする。悪魔もあくまで、条件易しすぎるんじゃないか?
「貴様は随分急ぐのだな。これまでにはないくらいの早さだ。質問を決めるまでに何年もかかった人間もいたものだが」
 あんなこと言ってるし。
「……あんたも早いほうがいいでしょ。早く不正解者出させて私をぶっ殺したいんじゃないの?」
「貴様の好きにしろ。我はただの暇つぶしである。そもそも人間ごときが悪魔の我に向かって気を遣うなど、愚にもつかぬわ」
 ――さいですか。あなたも暇つぶしですか。
「ねえ、私が言うのもなんだけど。あんたさ、積極的に私を地獄に落とす気なんて、なさそうだよね」
「なにを言うか。一人でも不正解者がいれば、直ちに貴様は地獄に真っ逆さまだぞ」
「リンゴ食べたことない人なんて、いるもんか」
「実を言うとな、これまでの九十五人、ホントかウソか、どちらを答えたのかもすべてお見通しなのだ。これまでは皆、ホントにリンゴを食べたことがあって、返答もイエスだとしてきた。もしこの中に、食べたことのないのにイエスと答える不届き者がいたとしたら、そやつもろとも、貴様を地獄に落としてやろうと考えていた。貴様は中々運が良いようだが……」
 ぞっとする。私は自分の運命と同様に、回答者の運命さえも握っていたというのか。これまで九十五人、よく生き延びてくれたものだ。……なんだかこれからのラスト五人、選ぶほうが緊張する。
「おまえさあ、せめて私だけにしろよ。とばっちりで死んじゃったりしたら、可哀想すぎるじゃないかっ」
「なにを言う。我は何よりウソが嫌いなのだ。残りの五人もこのままのルールで続けるからな」
 今後私は慎重に慎重を重ねるべきだろう。その日は街頭インタビューを切り上げ、スーパーに寄ってリンゴを五、六個購入し、帰宅した。風呂上りにそれらを切り分けて塩水につけ、水気を切ったあとタッパーに詰め込んで冷蔵庫にぶち込んで寝た。
 何時だったかな、ベッドに入ったの。よっぽど歩き回ったから、今更みたいにどっと疲れが押し寄せてきて、布団をかぶった途端、泥のように眠った。

 ○

 翌朝である。ベッドから抜け出して欠伸をかきながら居間へ降りると、意味不明の胸像がテレビの前に鎮座しておられるものだから腰を抜かして驚いた。もうすこしでおしっこちびりそうだった。

「なあ、私がこうやって切ったリンゴ先に食わせてから、あんたリンゴ食ったことある? つってハイ、って答えても、それは有効にカウントされるわけ?」
「無論だ。ウソでも不正解でもないではないか」
 ……まあ、あなたがそう言うなら、いいんですけどね。なんだかなあ。卑怯アリかよ。物分かりがいいというか。急かしもしないし。質問を放っておいてふつうに生活して、もしかすると天寿全うも不可能じゃなさそうだな。
「それでも構わん。ルール違反はおきない。ただし、この契約は果たされるまで続く。たとえ貴様の魂がこの世を離れたとしても、だ」

 職場の同僚には何人か気の知れた女子がいる。昼には手作り弁当を持ち寄って会合を開くのだ。そのとき、デザートにという口実でリンゴを彼女たちに食べさせた。そのあと一人ひとりに例の質問をした。さりげなく違和感なく。それには殊のほか苦心させられたが、合計四つのイエスの回答を得た。これで累計九十九人。あと、ひとり。
 これでこのむさ苦しい悪魔から開放されると思うと清々しい気分になる。私の願いを叶えるどころか、命を奪いかねない悪の化身。さっさとこの呪いは解いておくべきだ。そしてこのランプは輸入雑貨店とかにでも持っていって、引き取ってもらうことにしよう。その際二束三文とでも交換できればしめたものだ。
「残りひとりだな」
「なんだ、悪魔のくせに私と縁が切れるのが名残惜しいのか? 案外感傷的じゃないか」
「貴様はこれまで稀にみる幸運であった。小賢しい手回しもとくべつルール違反というわけでもない。これまで通り貴様の好きなタイミングで構わん。明日でも明後日でも、十年後でも、臨終のときでも良いだろう。気が向いたら我を呼ぶがいい」
「べつに今すぐでいいよ。せっかくリンゴを買ったんだ。いつまでも放っておいたら腐っちゃうからな。……あいつでいいや。あいつにする、百人目」
「あの青年に、百回目の質問をするのだな」
「ああ、新人で、私に懐いてるんだ。疑いもせずリンゴを食べるに違いないよ。なんたって私の差し出したものならね」
「そうか、……好きにしろ」
「させてもらうよ、おうい! 新人っ」
 ヘアワックスで頭髪をてかてかツンツンさせた、張りのあるツヤ肌の美男子である。手足の長い痩身の彼は、私はともかくとして、同僚の女子どもはカワイイかわいいと騒ぎ、それはモテ男である。「なんです、センパイ」
「昼のデザートにと持ってきたリンゴが余っちゃったんだ。食べてくれないか」
「うへえっ、リンゴ! うわあやめてくださいっ」
 飛びのいて身もだえする後輩。
「どうしたの」
「ぼく、子供の頃からダメなんすよ、リンゴ。見ただけで気持ち悪いし、口に入れるなんてとても! だめだめ、見せないで。隠してくださいよっ! いくらセンパイが切ってくれたリンゴでも頂くことはできませんよ、だってぼく、生まれてから一度だってリンゴを食べたこと、ないんです」
「あ、……そりゃあ、ごめんね」
 後輩はジンマシンがどうこう呟きながら腕や背中をかきむしりだした。――こりゃあダメだわ。
「す、すまん。悪気はなかったんだが。――とにかく君は、病院に行ったほうがいいんじゃないか? なんだかやばそうだ。費用は私が持つから」
「行っていいですか? 病院。発作は久し振りなんです。お金はセンパイに出させるわけにはいきませんケド……」
「カネの話はとりあえずあとだ。マネージャーには私から言っておく。どうせ君は研修期間中だから、抜けたところで大したことない」
「うう、悲しいですけど、ありがとうございます。すみません、では……」
 彼はふらふらと頼りなく、ときどきビクッと痙攣しながら廊下を向こうに歩いていった。
 はあ、人選ミスか。難儀な体質もあるもんだ。そのせいで私もあぶなかった……。
「おい」
 悪魔が、このとき初めて、けちをつけてきた。
「質問はどうした」
「え、いや、あいつにはやめとくことにしたよ」
「何故だ」
「何故って、あいつ、リンゴ食ったことないんだもの」
「知ったことか」
 悪魔は、出会ったときからずっと変わらない平坦な喋り方の、宇宙の体温よりもずっと低い声で、私に言った。
「貴様はあの青年に質問をする、と決めたのであろう。百人目の回答者は既に決定済みだ。今更変えられぬ」
「おいおい、今更なのはおまえの方じゃないか。何言ってんだ」
「百人に同じ質問、不正解時は質問者の死、回答者のウソで両者ともに死、そして一度決定した回答者の変更は許されぬ。これらは、初めから決められたルールだ」
「そんなルール聞いてないぞ。相手の答えを知っていながら答えさせることは、もう四人も看過してるくせに。それが都合の悪い答えのときだけ――」
「その通り。貴様はあの青年の答えを既に知った。回答者の答えを知ったということは、貴様はその人物に例の質問をしなければならん。それ以外に選択肢はない。自分の都合の悪いときだけルールを曲げているのは、貴様のほうではないか?」
「こ、このっ」
「これ以上楯突くようであれば、今すぐにでも地獄に落として――」
「くそッ! なんだよそりゃあ!」
「理解できたか? 理解したならば、彼の元へ行き、百回目の質問を投げかけるのだ。言うまでもないが不正解時には貴様の命を奪い、回答者が嘘を言えば両者ともに死……」
「うるさいッ。何度も繰り返すな」
「そうか。まあ質問時期はこれまで通り貴様に預けよう。決まっているのは回答者と、九十九度繰り返した質問――」
 ――あとは、不正解時の結末だな。
 悪魔は皮肉めいた言い回しで、私の神経を逆なでするようなことを言った。
 それきりお互いすっかり口をきかなくなった。

 実際、このヤロウは内心私をせせら笑っていたのだろう。どんなに足掻こうと、最終的には私を殺すつもりでいたに違いない。私が悪魔に殺されるのは、出会った時点で決定済みだったのだ。私は悪魔の掌の上でリンゴの皮むきをさせられていたのだ。なんと! 滑稽なことだろう!
 腹が立つ。

 私が黙っている間は悪魔もひたすら黙っていたので、視界の一部を占拠される不快感に目をつぶれば、何の干渉もしてくることはなかった。
 私はこのまま余生を全うすることも可能だろう。そのうちあいつが今思いついたような新しいルールを追加しない限り、私に与えられた自由はいくらでもある。ただ、心の枷は外れないままだ。あるいはあの、鋼鉄さえ切り裂いてしまいそうな爪の生えた悪魔の手が、私の心臓に触れるか触れないかのところで寸止めされているような、ねちっこい後ろめたさ。
 いつまでも尾を引くだろう。たしかあの悪魔は、私が死んでも付きまとう気でいたはずだ。それから逃れるためには、私は自ら死を選ぶしかないのだろうか。死ぬ前に一度死んでおかねばならない。なんて馬鹿げた話だ。

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