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まとめて読む

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 気が狂ったのなら、まだ幸せだったのかもしれない。
 今日も部屋の隅の暗がりから『彼女』が現れる。漆黒の長い髪、透き通るような白い肌。とても整った顔が俺を見つめる。『彼女』は何を考えているのか全く分からない顔で、少しずつ少しずつこちらに近づいてくる。
 『彼女』から逃げる努力をしていた頃は、まだ希望があったのかもしれない。今はもうただ為されるがままだ。
 部屋でパソコンに向かい仕事をする俺の目の前にまで、『彼女』が到達する。
 もう何度この光景を目にしたことだろう。『彼女』の目と口が大きく見開かれ、喉の奥から、こおおお、という不気味な音をたてる。
 途端、部屋が鮮血に染まる。俺の喉の太い血管から、行き場をなくした大量の血液が飛び散っている。俺の目線は自分の首から、そこに突き立てられた刃物、そして刃物の先にある『彼女』の細い手へと移る。
 もう飽きるほどに見てきた。最後に俺の目に映るのは、にっこりと笑った『彼女』の顔、眼の下の泣きぼくろが印象的な至福の笑顔なのである。

 目が覚める。カーテンから漏れる朝日は、昨夜そこから『彼女』が出てきたことなど嘘だったかのようにまぶしく輝いている。
 住み始めて4年になるマンションだが、まだ俺の体はここを住みかだと認めてくれていないようだ。仕事に疲れて帰ってきても、俺の心はずっしりと重いまま、休まることはない。
 すっきりしない頭と心臓に喝を入れ、出勤の準備をする。会社など辞めてしまおうと、何度考えたことだろう。屋外で『彼女』が現れた時に、それをごまかすのはひどく面倒だ。俺以外に彼女の姿は見えないのだから。
 駅まで歩く間も、満員電車に揺られる間も、俺の頭にあるのは『彼女』への不安だけだ。まだ『彼女』の出現に慣れていなかった頃は、慌てふためいて周囲から奇異の目で見られることも多かったが、最近ではなれたものだ。裂けていく自分の腹も、内臓も、血も、俺の心を動かすことは無くなった。
 会社に着き、自分のデスクについても仕事へのモチベーションは上がらない。昨夜の『彼女』との遭遇のせいでまぶたは重く、集中などできるはずもなかった。
 まどろみは妖艶に、より深いところへと俺を誘い込んでいく。2年前、初めて『彼女』が現れてから、俺は居眠りの常習犯になってしまっていた。
 夢の世界ではせめて心安らかにいたい俺の心境とは裏腹に、俺ははじめて『彼女』と出会った時のことを夢に見た。
 
 あれは社会人になって二度目の夏休みだっただろうか。俺は彼女と郊外の山へキャンプに出かけた。
 当然ながらキャンプは楽しかった。都会での慣れない会社勤めの疲れを癒すにはもってこいだったと思う。飯盒炊飯や川遊び、キャンプファイヤーなど一通り遊びつくしたキャンプ最終日、暇を持て余した俺と彼女は近くの湖へ散策に行った。そこの湖にはいかにもキャンプ客向けの言い伝えがあって、彼女が行ってみたいと主張したのだった。
 きれいな湖だった。青天の空に湖面はどこまでも青く、山を背にした姿は実に堂々としていた。
 そんな澄み切った湖の言い伝えは至極単純。この湖でボートに乗ったカップルは必ず結ばれるといういかにも観光客集めの子供だましだった。
 しかし日本人はその手の子供だましが大好きである。ボート乗り場にはちょうど俺らくらいの年齢層のカップルが長蛇の列を作っていた。
 正直俺はそこまで気が進まなかったので、帰ってテントでゆっくりしたいところだったが、彼女は頑として譲らなかった。結婚適齢期の女性の結婚願望のすさまじさを俺は知る。まあ俺としてもそんな彼女に悪い気はしなかったので、諦めて待つことにした。
 彼女と適当な会話をしながら列に並んでいると、列の後ろの方がざわつき始めた。俺と彼女が振り返り様子をうかがうと、どうも一人の老人が仁王立ちになって大声で何やらまくし立てているようだった。
「こんな罰あたりは今すぐにやめろ!」
老人は憤怒の形相で怒鳴り続ける。
「畏れ多くも竜神様の泉で船に乗ろうとは何事か!」
先ほど看板で見たところによると、この湖の言い伝えは何の云われもないものではないらしい。かいつまんで言えば、この周辺の地域には次のような伝説があったらしいのだ。
 
 その昔、この湖には竜神が棲んでいた。竜神は崇めれば地域に豊作をもたらし、ないがしろにすれば天災を引き起こしたという。
 まあここからはよくある話なのだが、近くの村の若者に恋をした竜神が人とは結ばれない運命ながらも―――みたいな話になるわけだ。例のカップル向けの伝説はこのあたりから派生しているらしい。
 この老人の言い分ではどうも近隣の住民はこの湖に特別な感情を抱いているらしい。この場所は神聖な場所であり不可侵の・・・などと何度も同じようなことをまくし立てていた。
 そのうちにこのボート乗り場の管理者らしい連中が出てきて老人をどこかへと連れ去った。対応の迅速さをあると老人の登場はこれが初めてではないらしい。
 
 今になって思えばだが。あの老人の主張はまったくもって正しかったといえる。

 俺と彼女は程なくしてボートに乗った。いたって普通なオール付きのボートである。キャンプでかなり疲れているにも関わらず、漕ぐのは当然ながら男の俺だった。
 この湖のイベントは成功していたといえる。それほど広くもない湖に相当数のボートが所せましと浮かんでいて、カップルにしてみれば逆に雰囲気も何もなかった。
 だから、彼女があんなことを言い出したのも当然と言えば当然と言える。
―――あっちの岩陰の方に行ってみない?―――
 彼女の指さす先には、人気のなさそうな岩場があった。そこは湖が崖に面している部分で、周りから見えなくなっているようなスペースになっていた。
 俺は進行方向を背にしてオールを漕いでいて、彼女とは向かい合う形だった。進む先の見えない俺が岩場を進むのはかなり危険だったが、俺も岩場で彼女と二人きりになりたかったので気にせず進んで行った。
 俺は目の前の彼女と他愛もない話をしながらボートを漕いだ。俺の話にコロコロと表情を変える彼女が楽しかった。
 そんな時だった。目の前の彼女の目が大きく見開かれ、驚愕の表情になった。
―――うしろっ。危ない!―――
 衝撃で尻が持ち上がる。一瞬何が起こったのか分からず身をかがめる。ボートが体を大きく揺らす。
 少しすると揺れは収まった。どうやら舳先が崖にぶつかってしまったらしい。
 振り返ってみるとそこには、妙な形の石があった。
 もとは何の形をしていたのだろうか。今の俺の一撃で完全にバラバラになってしまっていて全く分からない。
 ただその石の周りだけ崖がくりぬかれていることと、古ぼけたしめ縄が、俺に壊してはいけないものを壊してしまったということを十分に伝えていた。
 人気のない岩陰で、俺と彼女は無言で見つめあった。二人ともただただ焦っていた。
 幸いなことにここは人気のない、周りから見られることのないデッドスペースである。俺と彼女は無言でこのままここを立ち去ることを決めた。
 
 そこから先のことは、あまり思い出したくない。
 今俺の近くに彼女はいない。
 
 帰りの山道でのことだった。俺はボートを漕いだことを口実に、彼女に運転をしてもらっていた。
 そんな時だった。右カーブで、山側の斜面に隠れて見えない死角から、トラックが急に視界に現れた。
 俺と彼女の時間が止まる。ガードレールを突き破り、車が崖下へと落ちていくわずかな時間が無限にも長く感じた。茶色と、それから大量の赤、そして目の前は黒くなった。
 
 それ以来、俺の前には彼女の代わりに『彼女』が現れるようになった。
 あらゆる時間、どんな場所からでも『彼女』は現われた。
 通勤時間にも、勤務中にも、就寝中にも。
 目の前の人の背後から、机の下から、カーテンの陰から。
 突然に現れては、俺に恨みの刃を突き立てる。
 俺は何度も血を流し、首をもがれ、内臓を掻きだされる。
 死に至るはずの傷にも、痛みにも俺はなお耐え、最後に『彼女』の笑顔を見る。
 しかしその全てが、まるで白昼夢であったかのようにかき消える。そして『彼女』はまた姿を消すのだった。次の遭遇までの間だけ―――。
 
 俺は自分のデスクで目を覚ました。背後にはにんまりと笑った上司の顔。ただでさえ落ち込んだ気分がさらに落ち込んでいく。
 
 いつものように上司にこっぴどく叱咤された後、俺は帰路についた。
 会社の正面玄関から出た直後、自動ドアの開いた向こうに『彼女』がいた。
 いつものように白い服に身をまとい俺の方へまっすぐ向かってくる。
 その表情は・・・ああ、意地悪をする子供から無邪気さを取ったような・・・そんな見ているだけで血が凍りそうになる笑顔だった。
 微動すらできない俺に向かって『彼女』は歩みを速める。手にはいつもの刃物を持っている。
 刃先が俺の体へと吸い込まれていく。心臓の真上あたりに刺さったそれはそのまま下へと降ろされる。
 いつもと全く同じ激痛が走る。もう慣れたものだ・・・。
 『彼女』は俺の腹を切り開いていく。さも嬉しそうな、極上の笑顔で。その姿は舞を踊る巫女のようだった。
 その笑顔を見ながら・・・また俺の意識は途切れていくのだ。

 ああ・・・次こそいい目覚めでありますように。

 最後に目に入った『彼女』の笑顔は―――ソンナモノコナイヨ―――と静かに告げていた。



 白くて清潔な病室。ひとつしかないドアが開いて、一人の女医らしき人物が入ってきた。
 部屋の中にはベッドが一つ。決して目を覚まさない一人の男が眠っていた。
 女医はこの患者を救うためにあらゆる手を尽くした。
できうる限り最高の手術をした。目を覚まさない男に精一杯笑顔で話しかけた。
それでも男は目を覚まさない。崖から車ごと転落した時のまま、今もうなされ眠り続ける。
女医は今日も笑顔で新たな手術をする。
泣きぼくろの美しい女医だった。
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