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石田は死んだ。
警察から逃げる途中で大通りに飛び出し、配送トラックの前に飛び出してしまった。
配送トラックの運転手はその時、携帯でメールを打っていたので石田に気づくのが遅れてしまったらしい。
制限速度を超過した10tトラックはその勢いを緩めることなく石田をふっ飛ばし、あっけなく彼の命を奪ったのだった。
一連の事件は、被疑者死亡ということで片付くことになるようだ。すべての真相は闇に葬り去られる。
新井は事故、江崎と小野は石田に殺害され、石田本人は事故死。これが、表向きな真相。
しかしはっきりと確定しているのが犯人だと疑われた石田の死だけだなんて、なんと皮肉な話だろうか。
僕のあだ名の元ネタになっている漫画原作のアニメの主人公が決め台詞として言葉。
「真実はいつもひとつ!」
…ひとつではないんだ。真実は、それをどの角度から見るかによって容易にその姿を変えてしまう。僕はそのことを10年前に痛感したんだ。
倉庫のすぐ側の地面から発見された包丁が石田の凶行を裏付けた。
連続殺人鬼の大男の教師は、まるでゲームから飛び出してきたみたいでワイドショーの話題にはもってこいだった。
生前の石田をまるで怪物みたいに大げさに話すニュースも後を絶たなかった。
今は毎日のようにテレビや新聞などで騒がれているこの事件だが、いつか風化して人々の記憶から消えていくことだろう。
…僕の父の時と同じように。
衝撃の結末を迎えた数週間後の昨日、3月13日。
僕は、無事卒業式を迎えた。
2名の教師と2名の卒業生を失った卒業式では、違例の学校葬も行われた。
だが、僕らの心の許容量はとっくにパンクしていて、共に過ごした仲間との永遠の別れに涙する人の数よりも、無表情に見送るうつろな眼差しの方が圧倒的に多かった。
春はもう目の前まで来ているというのに、この学校はまるごと冷たい氷に囲まれて、いつまでも季節は冬のままで閉じ込められてしまっているかのようだった。
3月14日、ホワイトデー。
母は朝から仕事に出ているから、夜までこの家には僕だけしかいない。
僕は自宅に、ある人物を呼び出した。
ドアの前で時間をはかっていたのかと思うくらい正確に、時間ぴったりにチャイムが鳴る。
「入れよ」
ドアを開けて出迎えた僕に、植木は軽くうなずいた。
「コーヒーでよかったか?」
「いや、何もいらないよ」
上着を几帳面に畳み、植木は僕のベッドに腰掛けた。僕も、ちょうど人一人が座れるくらいの幅を開けて、植木の横に座る。
静かな部屋は、二人の呼吸の音だけが聞こえている。
「…いつから…… いや、どこまでわかった?」
壁に貼られたカレンダーを見つめながら、ぽつりと植木が問いかけてきた。
「お前が、姿を隠していた石田の援助をしていたことかな…」
「それだけじゃないだろ?」
「これ以上は僕の推理に過ぎないからさ」
「聞きたいな。聞かせてくれよ、コナンの名推理」
「迷う方の推理ならな」
二人で軽く笑いあう。でも、僕たちはお互いの顔を決して見ようとはしなかった。
まるでそこに救いのヒントが隠されているかのように、目の前のカレンダーだけを見つめていた。
「…最初の新井のことはわからない。ただ、そこにお前が関係していたんじゃないかと思うんだ」
「…うん、続けてくれよ」
「新井がどうやって死んだかはひとまず置いておく。でも、その場にはお前がいた。小野はそこに出くわしたんじゃないか?」
「…………うん」
「小野はお前に好意を持っていた。ここ最近で急に仲良くなった僕に嫉妬するくらいにね。だから、小野はきっと植木と二人の秘密ができたって喜んだんじゃないか?」
「否定したいけどできないな。あいつの気持ちは知ってたけど、なるべく避けるようにしてたし」
「うん…。それで、お前は多分先に教室を出ることにしたんだろう。教室に残っていた小野は、新井の死体といるところを江崎に見られた。江崎は、小野が新井を殺したと勘違いしたんだ」
「小野は江崎に怯えていたよ。脅しに乗らなければバラすってことを示すために、わざと小野の前で『犯人を見た』なんて言ってたしな」
あの時の、小野の真っ青な顔を思い出す。
自分が何かをしたわけでもないのにそう言わなかったのは、あいつなりに植木を守っていたということだろうか…
「…江崎は、レクリエーションの時間に体育館裏の林に小野を呼び出した。金を強請るつもりだったんだろうな。でもそこに現れたのは何故かわからないけど石田だった。」
「…包丁は、江崎が持ってきたんだよ。小野が言うことを聞かなかった時に、実力行使をするつもりだったんだと思う」
「そっか…。…石田と江崎は、多分もめたんだろうね。何かの拍子か殺意があったのかはわからないけど、石田は江崎を殺してしまった。そして、学校の倉庫に隠れていたんだ。隠れていたアイツに弁当を持って行ってたのはお前だったんだろ?」
「うん。俺が運んでた」
「僕がわかったのはここまでなんだよ。ここのところずっと考えてたんだけど解らないことばかりだ。穴だらけで、推理とも呼べやしない。どうして小野の代わりに石田が林に行ったのか、小野を殺したのは誰なのか、どうしてお前が石田を匿っていたのか…
……できれば、お前の口から真相が聞きたいんだよ、植木」
ここで、僕は初めて植木の方を向いた。植木はいつの間にか、僕の方を見ていた。
「…どうして、知りたいんだ?」
植木の小さな喉仏が大きく上下した。
長いまつげ、切れ長の目に通った鼻筋。整った顔立ちが、今は悲しげに曇って見える。
「友だちだからだよ」
仲良くなったのはつい最近かも知れない。だけど、植木は今や僕にとって大切な人になっていたのだ。
「友だちか…」
白い歯を見せて、植木が細く笑った。
「お前の推理は当たってるよ。さすがはコナン君だな。
…俺も、お前に何があったのか、本当のことを聞いて欲しい。少し長くなるけど、いいか?」
僕はしっかりとうなずいた。
植木は、深く深呼吸をすると、まっすぐに僕の目を見ながら話し始めた。
「新井を殺したのは、俺なんだ」
「もともと新井は、ずっとある生徒に目をつけていた。俺はずっとその相談を受けていたんだ。石田は新井の腰巾着だったから当たり前のように二人で俺にまとわりついて来てた。
……何故かは知らないけど、新井は一度もその生徒にアプローチしなかった。だから、俺も新井がただ騒いでいるだけだと思ったんだ。そうしたら、新井が突然俺に言ってきた」
植木は深く、とても深く息を吐いた。
「『バレンタインに、チョコを渡して告白しようと思うんです。断られたら、力づくで何とかしますよ』
新井は、笑ってた。楽しそうに笑ったんだ。」
辛そうに顔を覆う植木が泣いてしまうのかと思った。
「植木、嫌ならもういい。無理に話してくれなくてもいいよ」
「大丈夫だよ。俺はお前に聞いて欲しい。もう少しだけ付き合ってくれないか?」
「わかった。じゃあ、何か飲み物持ってくるよ。ちょっと待ってて」
「ありがとう。…トイレ借りていいか?」
「どうぞ。居間を出てすぐ左にあるよ」
「うん」
台所で、水を入れたやかんを火にかけた。インスタントコーヒーを戸棚から取り出し、客用のティーカップではなく普段から使っているマグカップに粉を入れた。
植木の話はきっと本当だ。新井の、物腰の落ち着いた丁寧な口調はいつでも思い出せる。無邪気そうに見えるあの笑顔も。
学校ではあまり話さなかったが、毎年父の命日にやって来た新井は随分長居していたのだ。
僕は、あの笑顔も声も大嫌いだったのだけれど。
沸騰したお湯を二つのカップに注ぎ、恐る恐る持ち上げる。
トイレから戻っていた植木が居間にいた。
開け放したままの隣室をじっと見ている。そこには、小型の冷蔵庫くらいの、父の小さな仏壇が置かれている。
「お父さん?」
「…うん、10年前に死んだんだ。俺らの学校で先生やってたんだよ」
「そっか…」
僕は無言で植木の分のコーヒーを渡した。植木もそれを無言で受け取る。
どちらからともなく、僕の部屋へ歩き出した。
「話を続けよう」
「うん」
湯気が眼鏡のレンズを曇らせたので、僕は眼鏡を外して机の上に置いた。
「…新井は、手作りのチョコレートを持っていた。本当かどうかは知らないけど、そのチョコには自分の血を入れたって言ってた。本気で好きになった相手には必ずそれを渡してるって。
新井の指先は絆創膏だらけだったから、信憑性はあったよ」
ぞっとした。きっとその場にいた植木は、僕の何倍も。
「俺は… ニコニコしながらそんなことを言う新井が怖くなった。やめた方がいいって言ったけど、ヘラヘラ笑うんだよ。
今からその人のところへ行って告白するから、応援してくれってあいつは言った。いつもいつも、その人のことを俺に相談するのが習慣になってたからな。だけど俺は、絶対に新井を止めなければならないと思ったんだ。それで、夢中で…
…気が付いたら、新井を思い切り突き飛ばしていた。
新井は、机の角に頭をぶつけて、そのまま… 死んでしまったんだ」
植木は、熱いコーヒーを一口だけすすった。
「俺が新井を突き飛ばした時、新井が持っていたチョコレートは床に散らばった。小さい一口サイズのがいくつか入ってたみたいでさ。次の日にはなくなってたみたいだけど、それは俺知らないんだよ」
「あれは、多分江崎が拾い食いしたんだと思う」
「そういえば食中毒で休んでたもんな」
新井が実際に血液を混入していたのなら、食中毒を起こすのも無理はない。床に落ちただけで細菌だらけになるのは考えにくいから、気持ちの悪い話だがしっくりくる。
「倒れて動かなくなった新井に怖くなって、俺は教室を飛び出した。そしたら、ちょうど廊下を歩いていた小野に出くわしてしまったんだ。小野は、教室をのぞいて、新井を見つけた。
小野は物凄く一生懸命、俺の味方だって言ってたよ。俺の痕跡を消しておくから先に帰れと言われて、俺も素直に先に帰った。だけど、小野は江崎に見つかって濡れ衣を着せられてしまった」
「…わからないんだけどさ」
「何だ?」
「植木、どうして江崎に怯えて真っ青になった小野を僕に見せたんだ? あの時合図をくれなかったら、僕はきっと何も気づかなかったのに」
植木は吐息をもらすように小さく笑って、かぶりを振った。
「どうしてだろう。…お前には、知ってて欲しかったのかも知れない。最初からずっと」
少し身体をずらして座り直し、植木はまた語り始めた。
「小野から、江崎に呼び出されたって相談を受けたんだ。学校で。新井を殺したって疑われてる。どうしようって。そうしたら、いつの間にか立ち聞きしていた石田が乱入して来た。そして、詳しく話を江崎から聞きたいからと、代わりに行くと言い出したんだよ。
俺と小野は慌てて止めたのに、あの馬鹿は暴走して、結局勝手に行っちまった。
石田の話では、包丁を持っていた江崎と口論になったらしい。二人とも頭に血が上りやすいからな。それで、もみ合いになって、気が付いたら… 江崎から包丁を取り上げて、あいつの腹を… 切り裂いてしまった」
「僕はその直後に石田に会ったけど… もしかしたら、僕も刺されていたのかもしれないね」
「いや、それはない。石田はお前を傷つけることはしないよ」
「…何で?」
植木はまた、首を横に振った。
「石田は、口論したときに江崎の口から小野が犯人だと聞いたんだ。石田は、小野に復讐することに決めたらしい。何でか知らないけど、石田は新井を神様みたいに思っていたからな。
俺の名前を騙って、石田は自分の携帯から小野に電話をかけた。そして、小野を公園に呼び出して…」
植木の手の中で、マグカップが小刻みに揺れている。震えているのは植木自身だった。
僕は自分のカップを机に置くと、震えたままの植木の手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
植木の手は指先まで氷のように冷たくなっていた。
「石田も新井と同じで、何でも俺に相談してた。柔道部で俺が部長だったから、話しやすかったんだろうな。新井の片思いの相手にも近づきやすい場所にいたし。
倉庫に隠れてるから助けて欲しいとか、小野を殺したとか、石田はいちいち俺に電話をして来た。だから定時連絡として、毎日夕方5時にだけかけてきてもいい約束をしていたんだ」
「石田の携帯がマットの間にはさまってたのは何で?」
「…あの日俺は、自首をするように説得に行っていたんだよ。もう逃げられないし、その方が罪も軽くなるからって。それに、小野のようにとばっちりで誰かが殺されるのが怖かったからな。
でも石田は錯乱して、倉庫を飛び出した。その時石田が落とした携帯を、俺が無意識にマットに突っ込んだんだと思う。倉庫にはゴミも石田のコートも置きっぱなしだったのに、俺も混乱してたんだろうな」
ちょうどその時に、僕とぶつかってしまったんだ。あの時にはもう、理性なんてなくなってわけがわからなくなていたのだろう。
追い詰められた石田は逃げ出して、そうして… 死んでしまった。
「石田はあの後死んだ。…それが、事件の真相だよ」
「……そうか…」
僕は、机に置いたままの眼鏡をかけて、うつむいてしまった植木の目の前に立った。
「植木。そもそもの発端は… 新井の片思いの相手っていうのは」
「それは俺には言えない。お前は知らなくていいんだ」
「……僕のことなんだろ?」
「………!!!!」
植木が顔を上げて僕を見つめている。その表情が、僕の言葉を肯定していた。
「僕は父にそっくりだからね。新井は、僕の… 父さんのことを、好きだったから」
「コナンの、父さん…?」
「父さんは当時、僕たちの高校で教師をしていた。そして、柔道部の顧問もしてたんだ。新井は当時の教え子だった」
小柄な僕の父もまた、同じように小柄だった。
その身体からは想像もできないくらいの柔道の腕前に、誰もが驚いていたものだった。
「面白いことを教えてあげようか。
父さんを死なせたのはね、新井なんだよ」
僕は、少しぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「新井はね、10年前、植木を呼んだのと同じように父さんを教室に呼び出したんだよ。新井からの手紙が、家の父さんの机に入ってたからそれは間違いない。
父さんは、机の角に後頭部を打ち付けて死んでいた。
あいつが父さんを突き飛ばして殺したんだ。自分が父さんを殺したのと全く同じ形で死んだんだよ。おかしいだろ?」
植木は笑わない。
「それ… 事件じゃないか。でもそんな話聞いたことないぞ…?」
「そうだろうね。当時主任だった笹本教頭がもみ消したから。新井からの手紙は取り上げられて握りつぶされたし、証拠も全部消されたよ。
新井は10年前もチョコレートを持ってたんだよ。父さんのシャツにベッタリついてたからね。でも、チョコレートは笹本が片付けたんじゃないかな」
「そんなことが…」
僕も母も、絶対に笹本を許さない。殺人者である新井をかばって、父の死の真相を捻じ曲げたあいつを。
「新井はさ、毎年バレンタインデーには必ずここに来て、父さんの仏壇に手を合わせてたよ。聞きもしないのに父さんの話ばっかりしてさ。
あいつ、何て言ってたと思う?
『私は河南先生のことが大好きでした。どうして女の子に生まれなかったんだろうって、本気で悩むくらい大好きだったんですよ』って。
毎年、毎年あの笑顔で僕と母さんに言ってたんだよ」
クスクス笑う僕を、植木がぐしゃぐしゃに歪んだ顔で見ている。
どうしてお前が泣いてくれるんだよ。僕が泣くところなのに。これじゃあ僕は泣けないじゃないか。
「植木、僕は… 多分母さんも、お前に感謝するよ。この10年間、ずっと耐えてきた。お前があいつを殺さなければ、僕か母さんのどちらかがあいつを殺してた」
もう限界だった。
誰に訴えても信じてもらえず、悔しい思いをしてきた。
そんな僕たちを嘲笑うかのように、毎年毎年手作りのチョコレートを手に笑顔でやってくる新井。
自分が殺したくせに、神妙な顔をして父さんの仏壇に手を合わせて。
どんな思いであのチョコレートを捨ててきたか。
新井が家に来たあの日から、母さんは一度も泣かなくなってしまった。僕も泣けなくなってしまった。
母は、あれ以来一度もチョコレートを作らなくなった。買うこともなかった。
僕の家からは、バレンタインのイベント自体が消えうせた。
僕と母さんがどんな思いをしているか知りもしないで。
何度あいつを殺そうとしたことか。
でも、できなかった。
僕が殺人者になれば、母さんは一人になってしまう。きっと母さんも同じように、僕が一人になることを恐れて実行に移せなかった。
大切な人に、悲しい思いをさせるなんて出来なかったんだ。
「植木、僕はお前を警察に突き出すつもりはないよ。今聞いた話は、誰にも言うつもりはない」
「…………」
「新井から僕を守ってくれて、ありがとう」
「…違うんだよ。俺は…
あいつが俺になついてたのは、きっと俺を仲間だと思ってたから。だって、俺はお前を…」
「僕たちは、友だちだよ。これからも、ずっと」
植木がハッとした。
ごめん、植木。その先の言葉を、僕は言わせない。だって、植木も僕の大切な人だから。
だから、その言葉を聞くわけにはいかない。
「友だちだよな、いつまでも、ずっとずっと親友でいよう。……歩」
「………そうだな。コナン…いや、優斗。俺たちはずっと親友だ」
植木は、微笑んだ。
僕が一番好きな、植木の表情だった。