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3.妹コントロール(2011/3/15)

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 清美はスーパーで買い物をした帰り道、物見に寄った商店街で、威勢のいいダミ声での呼び込みに足を止めた。
「ふむ。あれだけ立派なものは、久しく口にしていないな」
 鮮魚店の店先に見栄えよく飾られているのは一尾の真鯛。尺は50cmに届こうかというほどで身は厚く、尻尾も広く太い。目の輝きと鱗の赤みは新鮮さの証である。
 肉は刺身にしてよし、焼いてもよし。頭や骨は柔らかく蒸して、皮はパリパリに揚げれば存分に楽しめる。日常の内で酒を呑むことはあまり無いが、たまにはこういった縁起物をつまみながら一杯だけやるのもよいだろう。
 と、そこまで献立を見通した清美だが、右手にかかる買い物袋の重みを思い出す。
 袋の持ち手を肘にかけ、象牙色トレンチコートの胸元から財布を取り出し、中身を確認して瞳を閉じた。
「残念だが、今回はエンが無かった」
 店主に軽く頭を下げ、清美は立ち去った。彼女には安田家の財政を預かる責任があるのだ。

 住宅街に戻った清美の後ろから車が追い抜いて停まった。その左ハンドルは綺麗な赤塗りで、車に疎い清美でもそれが高級車であることは分かる。道路の幅は二車線に満たず、歩道と車道の区別もつかないので、自然と彼女の歩みは遮られた。
 高級外車の後部座席から若い女が一人、しゃらんとした身のこなしで降りてくる。その身に着けた衣服は上から下まで上質なブランド物だが、威圧的な色遣いが特徴的で、まるで毒ガエルのような原色が目に痛い。
 するとその女は清美を確認するや歩み寄り、煌びやかなラメ入りのウェーブ髪をかき上げ、つぶらな瞳で精一杯に睨みを効かせて言った。
「ごきげんよう、お姉さま」
「なんだ、高美ではないか。こんなところでどうしたのだ」
 妹の漆原高美(うるしはら たかみ)である。
「なんだ、ではございませんわ。まったく、漆原家の長女として育ったお人が大衆向けの店で豚肉を買うのに値段をじっくり見比べて、買い物袋から長ネギをはみ出させ、狭苦しい団地へせこせこ歩いて帰るとは、嘆かわしいことこの上ありません」
「わざわざ調べて回ったのか。大学生とは随分と暇な職業なのだな」
 小生意気な態度をとる妹を、清美は胸を逸らして腕組み見下ろす。
「ところで何の用だ? お前のことだから、挨拶に来ただけというわけではあるまい?」
「そうですわ。今日ここに来たのは、他でもありません。家を出てからのお姉さまが落ちぶれている姿を見るのは忍びないですけれど、実はこれこそが私にとって絶好のチャンス! 今日こそ、今日こそ、私はお姉さまに敗北を認めさせるのよ。いらっしゃい、リチャード!」
 高美は高らかに右手を掲げた。すると彼女が乗ってきた赤塗りの車から、長身でたくましい体つきの白人男性が姿を現す。合図があるまで待機していたらしい。
「こちらは私の彼氏のリチャードよ。容姿もイケてますし、私にとても優しいの。どんなスポーツも軽々とこなして、フルマラソンを何度も完走した実績もありますわ。年収だってウン千万単位で稼ぐし、もちろん浮気なんてしない、非の打ち所のない完璧な男性よ。白馬の王子様といってもよいくらいですわ」
 恋人自慢が終わると、高美は口元に手の甲を当て、どうだと言わんばかりに小さな胸を張った。
 その後ろでリチャードと呼ばれたスーツ姿の男は、高美に気付かれないように、申し訳なさそうに清美に頭を下げている。
 それを見ながら清美は、素晴らしいのは白馬の王子様であって、高美自身ではないだろうと思った。しかし同時に、どうせならその自信満々の鼻っ柱を、天狗のように伸びきる前に先手断ちで叩いてやろうとも思った。
「なるほどつまり、高美。お前はこう言いたいわけだ。私が伴侶に選んだ安田くんよりも、お前が恋人に選んだ白人男のほうが優れた人間だから、お前は私よりも優れている、と」
「その通りですわ」
 清美は挑発的に鼻で笑う。
「な、何がおかしいんですの、お姉さま!」
「お前があまりに浅慮だから笑っているのさ。その王子様がどれだけ素晴らしい能力をもっていようが、またどれほど輝かしい業績を残していようが、そんなものは安田くんが成し遂げた偉業に比べれば、象の前の蟻に等しい。お前の下らない自己顕示欲を満たそうとする為の恋人自慢など、大海に水滴を垂らすようなものだ」
「そんなはずはありませんわ。お姉さまにこんな貧乏暮らしをさせる甲斐性無しが、一体どんな凄いことをしたというんですの?」
 貧乏暮らしとは言っても、それは漆原高美の基準である。また限られた家計を上手にやり繰りすることは、清美にとっては一つの楽しみでもある。
 それはさておき、清美は堂々と言い切った。
「まだ分からないか? 安田くんは、この私を惚れさせた男だぞ!」

 清美を好きにさせた程の男だから、高美を好きにさせた程度の男では絶対に敵いっこない。そういう意味だ。
 しかし、これは物凄い論法であることにお気付きだろうか。この理屈が通るためには、清美は高美よりも絶対上位である、という大前提が成立していなくてはならないのだ。

「よ……よく考えれば、それもそうですわね」
 なんと高美は、その大前提を無意識の内にあっさりと認めてしまっていた。
「《鉄面皮》、《冷酷無情》、《傲岸不遜》、そして《雪の女王》……多くの忌まわしい通り名を持っていたお姉さまを、篭絡した唯一人の男性ですものね」
「お前も、古くてつまらないことをよく憶えているな」
 高美の口から出る、仰々しい称号。それを耳にして清美は頬を引きつらせた。
「で、でも、これでお終いではありません。いつか必ずお姉さまを越えてみせますわ。勝ち逃げなんて許さなくてよ……リチャード、帰るわよ!」
 頭を抱えてうつむいていたために姉の表情の曇りを見逃した高美は、再戦の約束を勝手に取り付けるや、早足で赤塗りの車の中に姿を消した。
 その一連の動きの滑稽さに思わず、清美は笑みをこぼす。
「どうもすみません、キヨミさん。タカミが変なこと言い出しまして……」
 すると、それまで黙っていたリチャードが口を開いた。キヨミとタカミの、それぞれ「ヨ」と「カ」にアクセントを置いた喋り方である。
「気にするな。妹は昔からああなのだ。むしろ、高美が迷惑をかけたようだな」
「いえいえ、メイワクだなんてそんな……」
「きみは謙虚でいい奴だな。道理で高美なんかと付き合っていられるわけだ。これからも仲良くしてやってくれ」
「リチャード!」
 そこへ車の中から、苛立ちを隠そうともしない高美の声が飛んできた。リチャードは清美に会釈――今日びの日本人ではなかなか出来ない、美しい所作である――すると、慌てて運転席へ戻ろうとした。
「ああ、そうだ。待ちたまえ」
 それを清美は呼びとめ、
「今日の一件、きみに非は無い。だからきみの顔を立てて一つ、有益な情報を教えておこう。それは安田くんの弱点だ。高美にはああ言ったが、私も彼には困らされているところがあってな。この辺りで一度、第三者からの懲らしめが必要だと思うのだ。このままでは高美も腹の虫が治まらないだろうからな」
 リチャードに耳打ちをする。
「それを、わたしに教えてしまって、いいのですか?」
「構わんさ。信じるか信じないかはきみ次第だが、高美にも伝えてやれば、あいつのせせこましい自尊心が少しは満たされるかもしれん」
「分かりました。ありがとうございます。キヨミさん」
 リチャードは車のドアを開ける前にもう一度、清美にぺこりと頭を下げた。
「さて……」
 嵐のような妹が去り行くのを眺めて清美は、夕飯の献立を考え直した。

 その晩。
 仕事から帰ってきた義之は妙に興奮した様子で、発泡スチロールの箱を抱えていた。
「おい、清美! なんか、なんか凄えぞ!」
「おかえり、安田くん。一応訊くだけは訊くが、その箱はどうしたね」
 清美は柳刃包丁を研いでいた手を止め、落ち着いて彼を迎える。
「駅で高美ちゃんが待っててよ。いきなり『これでも食らうがいいですわ!』とか言って、くれたんだよ。なんだか知らんけど」
 蓋を開けると保冷剤を敷かれた上に、見事な真鯛の尾頭付きが入っていた。
「ふむ。あれだけ単純な手でこうも都合よく動いてくれると、愚かしいを通り越していっそ可愛らしい」
 それを見て清美は機嫌をよくし、そんな彼女を見て義之は首を捻る。
「高美ちゃんと何かあったのか?」
「特段のことは無い。ただ『安田くんは縁起物のおめでたい魚がとても苦手で、見るのも嫌う』と伝えておいただけだ」
「え? 俺、嫌いな食べ物は殆ど無いけど?」
「だから安田くん。今度はきみに、お茶嫌いの設定になってもらうかもしれないな」
 清美は古典落語を踏まえてそう言うと、真鯛の尾をむんずと掴み、まずは刺身にするべく調理を始めるのであった。
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