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5.酔いどれ夢枕(2011/4/11)

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 金曜日は飲み会があるから遅くなる、という旨は三日ほど前に義之から報告されていた。
 四月の前半と言えば概して、桜を見ながら乱痴気騒ぎをしたり、新入生や新人社員を迎えて乱痴気騒ぎをしたり、そうかと思えば何の理由も無く乱痴気騒ぎをしたりするものだ。
 清美もそのくらいのことは世の常としてわきまえていたので、夫からの申請を受理し、当日の朝には機嫌よく彼を送り出した。

 とは言え、義之が帰宅したのは夜が更けて日付が変わるか変わらぬかの頃合である。しかも何故にそうなったのかネクタイを額に結び、へべれけで顔を耳まで赤くし、もちろん背広もシャツも乱れ放題。挙句、はち切れんばかりに膨らんだゴミ袋を引きずってきたものだから、さすがの清美も言葉を失った。どこから指摘すればよいのか判別しかねたのだ。
「き~よみ~。たら~いま~」
 さらに義之の口から発せられたのは、大の男には到底似つかわしくない猫なで声である。いかに彼が軟派な人物であろうと、正気の沙汰でこんな声を出すことはあり得ない。
「安田くん、酔っているな?」
 見れば分かることだが、訊かずにおれなかった。
 すると義之は目をじっと細めてから、今度は腕に余る大きさの黄色いビニール袋を抱えたまま、片一方の手で敬礼をしてみせたのである。
「たらいまであいます! 隊長!」
「相当に酔っているな。加減も省みず、必要以上にしこたま呑んだと見える」
 清美が呆れ気味に言っても、義之はだらしない敬礼を解かない。よろめきながらも直立しようとしているのが分かる。そこで彼女は、もしや、と思ったことを口に出してみた。
「……休め!」
 号令一下、義之は力を抜いてその場にへちょんと崩れる。
「気を抜きすぎだ。自ら立てぬほどに弛緩してどうする」
「ちがいます! 俺は、痴漢なんてしてません!」
「これまた奇天烈な聞き間違いをする。しかもその台詞、妙に言い慣れている感があるのは気のせいか?」
「にゃー」
「にゃー、ではない。それに、このゴミ溜め袋はどうしたことだ。一体全体、どういった謂れがあってきみが持ち帰る次第となった?」
 清美は義之の頭からネクタイを解いて回収しつつ、目線は邪魔なみやげ物に向いた。
「じゃ、じゃんけん、て……」
 すると、にへらにへらと締まりなく、前後の経緯も無視して返ってきた答えがこれである。
 そこで清美は実際にビニール袋を開け、中には空の弁当箱やら菓子袋やらビール缶やら落ち葉やらが詰め込まれているのを確認し、その上で推論を導いた。
「察するところとしては、安田くん。宴会を開き、気の向くまま夢心地に飲食をして愉しんだまではよいものの、いざ撤収する段になって誰が廃物処理を担当するかで議論が起こり、最終的にはじゃんけん勝負の結果としてきみがその責任を引き受けた……ということかね?」
「あ~そう、それ」
「理解した。後で分別しておこう」
「き~よみ~」
 立ち上がろうとした清美の足首が、頼りない握力で掴まれる。振り向くと義之は何故か彼女の脚を胡乱(うろん)な瞳で眺め、もう一方の手でパジャマに隠れたふくらはぎから膝裏、太ももにかけてのライン――単に流線形がきれいなだけでなく、鍛えられた張りとしなやかさを併せ持つ――を無造作になで上げた。
「こうして見ると~いいあししてるな」
「い、いきなり、なな何を言い出すのかね。これはもう心底から酔っているな?」
「ひざまくら、してくえ~」
 さらには突然の要求。
「膝枕、とな。求められて悪い気はしないが、安田くん、夜ももう遅い。私の膝を貸したところで、きみはすぐに寝入ってしまうだろう。いくら私が正座に慣れているため足の痺れに強いとは言え、人間一人の頭を乗せた状態を朝まで維持することはさすがに御免被りたい」
「いいじゃねえかよ~、ケチ~」
「きみこそ、時と場合を考えてものを言いたまえ」
 清美は彼の手を引っぺがし、台所から酔い覚ましの水をコップに汲んできた。
「ひざまくら~」
「しつこいな」
「きよみのがいいんだよ~」
「む……私の、という好意的な限定がなされると些か揺らいでしまうが……私とてきみを甘やかすばかりではないのだぞ」
「ぃよ~し、分かった。じゃあこうしようぜ」
 義之はそれを一気に飲み干し、先ほどよりは幾分かマシになった足腰で直立した。
「ひざまくらしてくれたらよ、きよみ。明日、お前には、うでまくらをしてやる。これで、まくら同士のたいとうな取引だ。文句ねえだろ?」
 びしっと指まで差して見下ろし、さもそれが名案であるかのようにふんぞり返る。
 対して清美は口元に手を当て、目を閉じ、しばし在りし日の出来事を思い起こし勘案した後に口端を緩めて言う。
「なるほど魅力的な条件ではないか。それで手を打とう!」
 その表情の清々しさたるや、目から鱗が落ちたとでも言わんばかりであった。
 そうと決まれば清美は迅速に動き、寝床の位置と向きを変えた。自らは上体を壁に寄りかかるようにし、かつ義之が膝上に頭を置いたまま眠ってしまっても布団をかけてやれるシミュレーションは万全である。
「さあ安田くん。用意はいいぞ。さあ安田くん。早く私の膝に飛びこんできたまえ。ここに至っては些細なことなど気にも留めるな。きみのスーツがしわになったところで構うものか。ただし、きみ自身が発した約束だけは違えてくれるなよ」
 そして清美は膝を軽く叩いていざない、義之はふらふらとゾンビのような動きでそれに吸い寄せられた。


 さてさてそんな茶番めいたやり取りがあってから翌日。さすがに朝食の準備等で動かねばならぬ清美は先に目を覚ましてから、義之の頭をゆっくりずらして、彼を布団の上に放置して立ち上がる。
 遅れて一時間後に起床した義之は、二日酔いの覚めやらぬ頭を抱えながら、配膳中の清美がやけに上機嫌であることに気付いた。
「おはよう、安田くん。昨日はよく呑み、よく愉しんだようだね」
「あ、お、おはよう」
 少なくとも彼女が嫌味を言っているようには見えないし、聞こえなかった。
(俺……家に帰るちょっと前くらいからのこと思い出せねえや)
 しかしそれだけ余計に彼は慎重に受け答えしようと努めた。前後不覚に陥り、知らぬうちに清美を怒らせてしまったことは一度や二度ではないからだ。
「ところで安田くん。昨日の約束を忘れてはおるまいな?」
 そんな折に清美からの揺さぶりがかけられた。
「や、約束? お、おう、約束な。約束……」
 義之は平静を装いつつも頭をぐるぐる回し、頭痛に耐えて記憶を辿る。
(やべえ。全然憶えてねえぞ。俺、なんて言った? ひょっとして清美のやつ、とんでもないことを企んでいるんじゃねえだろうな? それとも、もしかして……)
 さらに彼は警戒した。今の清美が浮かべている表情――唇は閉じたままで、しかし時折、かみ殺すようにわずかだけ口角が緩む――は、彼女がどうしようもなく喜ばしいことを心待ちにしている証だからである。
 ここでいつものように「お、清美。なんか嬉しそうだな」などと軽く言えないのはやはり、義之に若干の後ろめたさがあるせいだ。
「どうした、安田くん。せっかくのご飯が冷めてしまうではないか。そしてそういった小さな機会損失は、よりよい日常生活を送る上で油断のならない大敵なのだぞ」
「ああ、すまん。いただきます。そうだ清美、ちょっと訊きたいんだけどさ……俺、昨日、変わったもの持って帰ってこなかったか?」
 そこで彼は茶碗を持ちつつ、探りを入れた。
「ああ、あの黄色いあれか。予期せず見たときには些か驚いた」
 清美は例のゴミ袋を脳裏に浮かべて返す。袋の中身の大半は既に今朝方、団地指定のゴミ集積所にまとめていた。
「そ、それで俺、なんか言ってたか?」
「うむ? ああ、それにまつわる釈明としては一言『じゃんけん』とな」
 義之の背に電撃が走る。
(間違いねえ。清美はアレを見たんだ。昨日の花見で偶然となりに美女集団が席をとっていて、しかもそのうちの一人が最近よく行く店の子で……そう、年中真夏のパラダイス・水着キャバクラ《イエロー PUB マリン》のチナツちゃん!)
 箸を持つ手が震える。
(しかもその店の月イチ限定イベント、野球拳・じゃんけん天国! ファンなら喉から手が出るほど欲しがるイエロー参加チケットを、せっかくのご縁ということで貰ったというのに、あまりの嬉しさに浮かれて自分からゴミの持ち帰りをかって出たくらいだったってのに……まさかそれを清美に見られてしまうなんてっ!)
 冷や汗だらだら。
(でも何より怖いのは、清美のこの態度だぜ。キャバクラの名刺が見つかっただけであんなにピリピリしてたこいつが、この余裕は何だ? 俺がどんな約束をしたらアレが帳消しになったんだ? おい、俺は一体、何をやらされるって言うんだよ!)

 例えば、一ヶ月間ずっと肩揉みをさせられる。
 例えば、寺に放り込まれて煩悩が消えるまで修行させられる。
 例えば、彼女が好きな京都の老舗和菓子屋の高級品を日帰りで買いに行かされる。

 などなど、果てしなく下らない妄想が膨らみに膨らみ、そうかと言って「約束」とやらは決まっているらしいからとぼけるわけにもいかず、ついに義之は耐え切れずに頭を下げた。
「すまん、清美! その約束……無かったことにしてくれ!」
 ちゃぶ台に両手を突き、深々と詫びる義之。アルコールが抜けきっていないので当然の如く、今の彼は物事を正常に判断できていない。
 その様子に困惑を極めたのはもちろん清美その人である。
「どうして今になって異なことを言うのだ。きみの口から対等な取引だと申し出たのだぞ? 私の中でのきみの評価を下げさせないでくれ。今さら何だ。腕の一本を差し出すくらい、般若心経を唱えるより容易いことではないか!」

 対してその瞬間、義之は想像する。
 白装束をまとった自分が右腕を木台に乗せて世を儚む姿。
 そしてその後ろで、頭にかぶった鉄輪に燃えるロウソクを立てた清美が、日本刀を上段に構える姿を!

「あ、あ、ああ、でも、アレと対等っていうにはちょっと重過ぎるっていうか、さ……」
「見損なったぞ安田くん!」
 怒りに身を任せた清美がちゃぶ台を叩く。
「将来を誓い、愛を認め合った妻のために、腕枕の一つさえする約束をやっきになって反故にしようとは、何たる無様! 何たる体たらく!」
「う、うで、まくら……?」
 義之はようやっと歯車がかみ合っていないことに気付きかけるも、既に遅い。
「もうよい! いっそ再び、きみの欲しがっていた私の膝をくれてやる!」
 電光石火の早業で、彼女の膝蹴りが義之のこめかみに的中した。

 薄れゆく意識の中で義之は、ちょっとだけ、やっぱり清美の脚はきれいだと思ったそうな。







 ちなみに件のキャバクラ野球拳参加チケットが、義之の不手際によってうっかりゴミ袋に紛れてしまい、そのまま分別され、今まさに収集車が運んでいる最中であることは、誰も知らない。
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