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6話「それは一年ぶりに」

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 扉を抜け、ずいぶん長い間歩いたような気がする。
一瞬だったようにも思えるし、実際は一年くらい歩いていたのかもしれない。真っ白に塗られた壁のせいか距離感覚もゆがめられているような気がしてならない。
ふと不安にかられ松屋は来た道を振り返ってみるが、何度か曲がったこともありどれくらい歩いたかなんてわかりやしない。結果不安はさらに増した。
「やあ松屋。調子はどうだい?」
 いつまで歩けばいいのだとイライラが最高潮に達しかけたとき、不意にいつかのボイスチェンジャーでいじられやけに甲高くなった声が聞こえた。
「須木ぃぃぃい」
 腹の底から絞るようにして何処かにあるのだろうカメラで監視する犯人の名前を呼んだ。
「お友達は元気かな?」
「くっ……黙れ!」
 一瞬のっぽの最後が脳裏に浮かび言葉を失うが、苦し紛れに大きく音を立てるようにして壁を叩いて怒りをあらわにする。
「もう一度君の罪を自覚して先に進め。忘れるな、他人を見捨てるべからずだ」
「うるさい! 全部お前のせいだからな!」
 苛立ちで声を荒げながら突き当たりの角を曲がると、新しい扉が見えた。
「進むしかねぇってのかよ」
 もう一度振り返り、ため息をひとつ吐いて扉に手をかけた。



「何だよ……これは」
 扉を開けて絶句した。
なにせ、その部屋には先ほどまでの真っ白な廊下の清潔さなど微塵も感じさせない薄汚い壁とヘドロのようなもので床が埋め尽くされていた。
「うっ」
 吐き気をもよおすほどの強烈な腐敗臭に松屋はたまらず口元を覆う。
部屋はそこそこの大きさがあり、一般の教室二つ分ほどはあるだろう。何故か部屋の外周を半分回る形でヘドロが干渉していない段差があった。なぜこんな物がと目だけでその通路を辿ると、それはなるほど次の扉への道らしい。とりあえずはとその綺麗な段差にのぼり、もう一度部屋を見回してみる。
と、部屋の端で何かがうじゅるりうじゅるりと鈍い音を立ててうごめいた。
「……て」
 罠かと身構えた松屋だったが、聞こえてきたのが声だとわかるととりあえずはほっと胸をなでおろした。
しかし、蚊の鳴くように小さくかすかな声だった。だが、自分の鼓動すらうるさく聞こえてくる部屋の中ではやけにはっきりと聞こえた。
「たす……て」
 男、それも自分と同い年くらいだろう。何処かで聞き覚えがあるのはやはりのっぽのように自分知り合いを連れて来たのだろうか。
厄介だなと舌打ちを一つ。一瞬だけためらったがとにかく、助けるべきなのだろうと足を踏み出す。当然足は黒いヘドロに飲み込まれ、ぐちゃりといやな音を立てて靴の中へと進入してくる。やたらと粘着質なようですぐに靴が脱げそうになる。
とにかく気持ちが悪いので最短ルートでと一歩踏み出してみると、不意に足がズブズブとヘドロに喰われる。そんな馬鹿な。と急いで足を引き抜いて元の位置に戻そうとするが、硬いヘドロからは簡単に引き抜くことは出来ず、挙句バランスを崩してその場にこけてしまう。
受身を取るために伸ばしたては当然ヘドロに突っ込む形になり、瞬間背筋に悪寒が走る。気がついたのは、粘土の違い。何せ、明らかに足を踏み入れた時とは沈むスピードが違うのだ。それも、どこまでも深く奥までだ。まるで底なし沼にはまってしまったかのと錯覚させるような恐怖にまとわりつかれ、暴れるようにして松屋はヘドロからの脱出を試みる。だが、暴れれば暴れるほど体はどんどんと飲み込まれていく。
「いやだぁ……いやだぁ!!」
 肘、そして肩までヘドロに覆われ、松屋はパニックに陥っていた。
まだヘドロに浸かっていない手で必死に引っこ抜こうと奮闘するも、その振動がさらにヘドロへと進ませていることなど露知らず、わんわんとみっともなく吼えながら涙を流す松屋。
「助けてくれよ! 誰か! 誰か!!!」
 叫んでみるも返答はもちろんない。
「たすけて……」
 それよか、同じ境遇なのだろうヘドロから声が聞こえてくる始末だ。
――他人を見捨てるな。
「うるせぇ! こっちが死にそうなのに助けてられるかよ!」
 ふと忌々しい声が頭の中に木魂したが、やけくそ気味に空いていた手でヘドロを殴る。

コツン

「へ?」
 手に当たったのは硬い何かだった。
いったいなんだと埋まりかけの顔を無理やり動かし目をやると、そこにはまだ沈んでいない下半身があった。まだ沈んでいない。とは言って見たものの膝から上はすでにヘドロまみれになっていたのだが、何故か先に沈むはずの足先が沈みきっていない。
そういえば頭ばかりがヘドロに埋まり、下半身は置いてけぼりを食らっていた。こけた時に膝を折る形になったのが幸いしたのか、手は靴先のすぐ近くにあった。
もしやと急いでヘドロをまさぐるとやはり硬い何かがあった。なぞる様にしてそれを確かめると細長い板のようなものがそこにはあった。人間一人が立つので精一杯といった感じのその横幅が幸運だった。板を支えにヘドロから体を無理やり引っこ抜く。
さらによかったのがそれが本当に一枚の板だったようで、丸太を抱え込む要領で開いた足をぐるりと回しがっちりとホールドすることができた。
ズポズポと下品な空気音を鳴らしながらゆっくりと体を引っこ抜いていく。
「くそっ」
 脂汗を浮かべながらやっと体を引き抜くと悪態ばかりが口をついて出た。もはや顔はヘドロまみれで髪もべたべた。腐った牛乳やら腐った卵やらいろいろ混ぜてさらにゲロを足したようなつんとした刺激臭が鼻を突いたが、今はとにかく助かったことを喜ばなければならない。前向きに行こうととりあえずは顔にへばりついたヘドロをぬぐい、段差の上に戻る。
相変わらず助けて助けてと壊れたレコードみたいにうざったい声が聞こえていたが、松屋は鼻で笑い段差の上を行く。
「悪いな」
 あんな危ないところに自ら赤の他人を助けるなんて出来るわけないと割り切り、とりあえずは形式だけの謝罪を残して扉に向かう。
相変わらず部屋の隅では不定期にヘドロがじゅるじゅると鼓動するように動いていたが、もはや松屋の視界には入らない。
「さて、次の部屋に……」
 ドアノブに手を伸ばし、そこでピタリと手が止まる。
「開かない?」
 ガチャガチャとノブを回すも扉はうんともすんともいわない。
「何でだよ!!」
 イラついた松屋は扉をけるが、扉は何の変化も示さない。
舌打ちをして何かないかと扉を調べてみると、すぐにその原因ははっきりした。
「鍵穴……だと?」
 急いでポケットを漁ってみるも、鍵どころかほこりすら出てきやしない。
「まさか……」
 さぁーっと松屋の顔から血の気が引く。
その時、松屋が思い浮かべていたのはのっぽだった。二人で閉じ込められ、お互いに何かないかと探しあったあの時、のっぽは鍵を持っていなかっただろうか。
「畜生!」
 急いで来た道を戻り鍵を取ろうとするも、当然扉は硬く閉ざされてもうあの部屋には戻れないようだ。
「ハメられた!!」
 ギリリと痛いほどにきつく唇を噛み、血走った目で何処かにあるだろうカメラを探す。
「くそったれが! 地獄に落ちろ! てめぇなんか地獄に落ちろ! 須木ぃぃぃぃ!」
 獣が吼えるように低くうなり松屋は壁を強く蹴った。
「たすけ……て」
「うるせぇよぼけが!」
 また聞こえてきたその声に怒りをぶつけ、どうしたものかと頭をかく。
そのとき、松屋に電流走る。
蘇ったのはあのいけ好かない台詞。
――他人を見捨てるな。
「はははっ……そうかよ。そういう事だな! 須木ぃ!」
 クククと不気味なまでに口角を持ち上げた異常な笑みを浮かべ、動くヘドロに向き直る。
「おいそこのお前、鍵持ってるだろ!」
「た……て」
「ちっ屑が」
 思っていた返答ではないと少しイラつきながらも松屋はヘドロへと足を踏み入れた。
 はじめの一歩は慎重に、ぞぶりぞぶりと足場となる板を探しで彷徨う。
やがて、コツンとお目当ての感触に突き当たるとうれしそうにその上に乗る。もちろん先ほど命を助けられた板の上だ。やはりその板幅は人が乗る丁度に調節されており、声の主へと続いているようだった。
一歩ずつ慎重にすり足で歩く。徐々に進んでいるのだが、この道、くねくねと曲がってなかなか声の主へとたどり着けない。一度、ショートカットできないかと辺りに足を伸ばしてみたのだがバランスを崩してこけるのが関の山だったのであきらめてのろのろと先に進む。
「マジかよ」
 少しずつ前に進み、再び松屋は声を上げる。先ほどまでは心なしか。というレベルだったのだが、ここに来て確信する。
「幅が、狭まってやがる」
 始めは両足を乗せても少し余裕がある程度だったというのに、いまは少し足を縦に並べてやらなければ乗ることができなくなっていた。やがてそれは片足も怪しいほどに細くなり、もはや立つ事ではバランスが取れなくなっていた。
当然、松屋はバランスの取れる体制を余儀なくされ、結果として下半身をもヘドロにつけ、両手で先を探りのそのそと板にまたがり進む格好になっていた。
「っ?!」
 前に進むべく手を伸ばすとチクリと鋭い痛みが手を襲った。
あわててヘドロから手を引き抜いて拭ってやると、かすかだが血がにじんでいた。何か破片でもあったのかと恐る恐るもう一度ヘドロに手を突っ込んで探ってみると、なんと今度は狭まるばかりではなく小さなとげが生えていた。
「くそが!」
 ここに来てかと声を上げるも、どうする事もできず、結局進むたびに増えていく刺し傷に顔をしかめ、歯を食いしばりながら先へと進む。もちろん、板をまたぐ形だったので股にもとげが刺さる。
「たすけて」
 少しずつ明瞭になっていく声に何とか自分を鼓舞し、痛みをかみ殺す。おそらくは松屋の両手はずたぼろになっている。得体の知れないヘドロなので恐ろしい病原菌に感染しているかもしれないのだが、しかしもう先に進むしか残されていない。
「覚えてろよ」
 呪詛を唱えながらカタツムリのような速度で先へと進む。
「っと」
 唐突に先に進むべき板がなくなる。
声も相当近くで聞こえ、ヘドロも激しく脈打つ。
「そこか?」
 手足を動かすたびに波打つヘドロはまさに生き物のようで、さながら松屋はその怪物の腹の中といったところか。股の鈍い痛みに吐き気を催しながら手と足を使ってヘドロを掻き分け声を辿る。
「お?」
 やがて、松屋の手が何かに当たる。
 人の手らしいそれをつかむと、自分のほうに力いっぱい引っ張ってやる。
 ズルリ。と驚くほど簡単に引き抜けたそれを胸に抱きながら背中からヘドロに突っ込む。
 後頭部からザクリととげが刺さる。
「いってぇ!!」
 飛び上がるようにして起き上がると口に入ったヘドロをペッペと吐き出し、そこでようやく松屋は胸元に抱いたものの正体を知る。
「たすけて。たすけて」
 壊れたように同じ台詞を繰り返すそれは、人間などではなく罠。つまりは人形だった。
「くそったれがああああああああああああ」
 怒りに我をわすれ、力任せにマネキンの胴を叩き割る。
軽く力を入れただけで割れた人形の腹から出てきたのはビニールに包まれたレコーダーが二つ。一つはおそらく助けてくれと奇妙な声を上げているもの。では、もう一つは何なのか。
「ぐっ……」
 とりあえずはこの鈍痛から逃げようとレコーダーの入った袋だけを口にくわえ、ずりずりと来た道を戻った。



「はぁはぁ……」
 両手が妙に熱い。痛いというより熱かった。ニクロム線でも埋め込んでいるのではないかというくらい内側からじんわりと熱を帯びた両手はプルプルと振るえ、袋さえうまく開けることができない。
結局、乱暴に袋を破りレコーダーを取り出した。
「たすけて。たすけ――」
「うるせぇんだよ!」
 まずは助けを求めるレコーダーを乱暴に地面に叩きつけ、ぐしゃりと踏み潰す。
「ったく……イラつかせやがって」
 言いながらもう一つを取り出し、震える指で再生ボタンを押し込んだ。
「やぁ松屋。元気かな?」
 相変わらずイラつかせる声だと歯軋りしながらいつもの声を聞く。
「鍵がほしいんだろう? それなら人形の頭部にある。他人を見捨てない君ならもちろん人形だって救っているはずだろう。その鍵で先に進みたまえ」
 カチャリ。とテープの再生が終わる。
 しばらく松屋は声が出なかった。呆然とその場に立ち尽くすしかなかったといってもいい。
人形はもちろん捨ててきた。と、言うことは鍵を手に入れるにはまたあの茨の道をいかなくてはならない。
「ちくしょぉぉぉぉぉおお」
 その部屋で三度目の咆哮をあげ、松屋は股へ泥の道を進んだ。
8

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