視界の端の幻覚にはずっと気付いていたし、“彼女”とは旧知の仲であった。しかし、私は徹底的にこれを無視した。あまり深入りすべき存在ではなかった。彼女との接触を避けたのは、これひとえに理性の力である。
欲求を抑えた私は二作目を完成させた。これも新都社にアップロードした。
今度は傾向も対策も見極めた上での投稿だった。わかりやすく平坦な文章と起伏に富んだ構成、所狭しと跳ね回るキャラクター達。私は死力を尽くしこれを書き上げた。
そうして、ひとつの奇蹟がおきた。
「期待」。たった二文字ではあるが、それはまごうことなき他者からのコメントだった。
私は高揚感に打ち震えた。全身を満たす歓喜が腹筋をぴくぴくと痙攣させるのだった。そんな感覚は随分と久しぶりだった。少なくとも、このような生活がはじまってからは一度もなかった。
充足感を腹の底で堪能しながら、早速第二話の執筆にとりかかった。三日後には書き上がって、これをアップロードした。その四日後には第三話が書き上がった。これもすぐにアップロードした。
このあたりでようやく気付いた。私の作品、「期待」と書かれたこの作品に、しかし新たなコメントがつくことはなかった。四話目まで脱稿して、それになんの反応もなかったのなら、その時はもうやめてしまおう。そう決めた。
四話をアップロードしてから二週間たった。私は新都社にアクセスすることを完全にやめてしまっていた。
日中は眠りこけ、夜になると布団から這い出してはクリック音をBGMにネットサーフィンをする、そんないつもの生活を送っていた。
それでも。
それでもまだ、彼女とは接触していない。ずいぶん前から赤い瞳がじっとこちらを窺っていた。寝ているとふいにのしかかる柔らかい体重を感じた。耳元で愛を囁かれ、呼気の湿り気が熱かった。それでもまだ、こちらからはなんのコンタクトも取っていない。
結局私はまだなにも諦めることができないでいたし、また諦めることを是とすることもできないでいたのだった。かと言ってなにかしら行動にうつすこともできず、ただただいたずらに怠惰な時間を送るだけ。そんな自分が歯がゆく、自分の価値を認めない世界を呪った。
「仕方がないさ。君はまだサナギなのだから」
シニカルな笑いを溶け込ませて、彼女は言った。サナギ。ああ、そうだとも、私は手も足ももたないひどく単純な構造をしたひとつの物体だ。羽化しないサナギに一体なんの価値があろう。
苦悩。懊悩。しかし、それらも一発の自慰さえあれば煩悩の彼方に消えていく。
サナギ。私は夢想する。朝、目覚めると身動きのとれなくなっている、固い殻につつまれ窒息しかけている、身体がどろどろに溶けてなお変態のきざしもない自分の姿を。私は恐怖する。死を。緩慢な死を。だが、今の私はどうだ? 生きているのか。はたして真に生きているといえるのか?
窮した私は二十日ぶりにエディタを立ちあげ、第五話の執筆に取りかかった。一文字一文字、ゆっくりキーボードをタイプしていく。誰にも読まれない物語、その終焉を編んでいく。そこにはなにひとつ意味がなく、しかし私はなにか胸のすくような心地よさを感じていた。
Fin.の文字とともに二作目は完結した。さきほど、誰にも読まれないと言ったがたったひとつだけコメントがきた。「乙」。はじめてのコメントよりなお短いそれは一文字のねぎらいだった。しかし私は嬉しさのあまり身を震わせ、窓の外、高く昇る月に向かって叫んだ。意気揚々と眠りについたその日の朝、蝶となって空を舞い、高度を上げ、上げ、やがて宇宙にまで達する、そんな夢をみた。赤い髪の彼女が私を見あげて薄く笑っていた。星の狭間に浮かんで、私もにっこり笑いかえした。頬の筋肉を動かしたのは実に数週間ぶりだな、とその時はじめて気付いた。