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04.妖怪博打

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 飛縁魔が立ち止まったので、金魚の糞のようにくっついていたいづるも足を動かすのをやめざるを得なかった。
 顔をあげる。大きな立派な観音開きの門が三メートルほどそそり立ち、二人の侵入を拒んでいた。押しても引いてもみなかったが、きっとかんぬきがかかっていて開かなかっただろう。右の門の端についた小さな通用口も都合よく開いてくれそうな気配はしない。骨のように白い塀が門の両端から左右どこまでも果てしなく伸びていた。
 不思議なことに、牛頭天王の屋敷に近づくにつれて、空は不気味に銀色がかり、あたりから妖怪や死人の気配は立ち消えていた。雪でも降ったのかと足元を確かめてしまうほどに静かで、いづるは耳が遠くなったような心地がした。いや、というよりはまるで、
「絵の中にいるみたいだねェ」
「怖いこというなよ」と妖怪が言った。いづるはよほど聞き違えたのかと思った。飛縁魔は深呼吸して気を落ち着けていた。そして、誰にも聞こえない声でなにか一言呟いて、いづるを振り返った。
「いくか」
「いくっていったって、どうやって入るん……」
 そのとき、言葉ごと、髪の毛さえ根こそぎ持っていかれてしまいそうな烈風が迸った。
 いづるはとっさによろめいて一、二歩後ずさった。片足しかないローファーがむき出しの土に轍を残した。
 キィン、と太刀が鞘に収まる音。
 飛縁魔が腰を屈めて、おさめた太刀から手を放した。
 なにも起こらない。門は依然として堅牢さを誇っている。いづるは飛縁魔に無理はよくないと助言しようか迷った。
 しかし飛縁魔は顔を赤らめることも咳払いすることもなく、片足をあげ、思い切り草履の裏を門に蹴りこんだ。
 並べられたボーリングのピンが弾け飛ぶような音がして、バラバラの木片になった門が向こう側に吹っ飛んでいった。癇癪を立てた子どもが積木をぶっ壊したようだった。土ぼこりが舞い上がり、あたりは一瞬視界が利かないほどになった。今度は本物の冷たい夕風が吹き、粉塵の幕は溶けるように風景のなかに消えた。
 門には真新しい通用口が開いていた。いづるは肘を顔を覆うように曲げた姿勢のまま彫像と化した。もし心臓がまだ残っていたら、バクバクと波打っていただろう。
 そんないづるを、飛縁魔が耳を引っ張られたように、肩越しに振り向く。
「なにしてんだよ、早く行こうぜ」
「う、うん」
 前庭の飛び石を飛んで入り口を目指しながら、いづるは背後の切り刻まれた木片を気の毒そうに見やった。そして自分がそうなる姿が草むらに散らばったきれっぱしに一瞬重なって、ぶるっと身を震わせた。
 今度からちょっとだけ、飛縁魔を煽るのは手加減しよう。ちょっとだけ。

 ○

 ちょっとした公園程度はある前庭を抜けて、玄関口に辿り着いた。曇りガラスの引き戸を開けて、二人とも靴も脱がずに上がりこんだ。
 中はまるでからくり屋敷だった。
 飛縁魔がいなければ決して牛頭天王の居所まで辿り着けなかっただろう。それどころか一度迷い込んだら、二度とあの横丁の喧騒を耳にできなくてもおかしくはなかった。廊下は細く、何度も理不尽な曲がり方をし、緩やかに婉曲している箇所もあった。幅の不ぞろいな木目が距離感と精神の均衡を狂わせる。階段を降りながら、いづるはぼやいた。
「よくこんなところに住んでいられたねェ。僕はごめんだな」
「この狂った間取りはうちのせいじゃねえよ。あいつのせいだ。あいつがいるから、なにもかも、歪んできてるんだ……くそ、なんて瘴気。気分悪くなりそう……」
「そう? 僕よくわかんないや。鼻詰まっててよかった」
「そういう問題かよ……?」
 執拗なくらいに階段を上り下りし、行き止まりにしか見えない壁をパンチして回転させ先に進み、そしてようやく二人は誰にも会うことなく、牛頭天王がいる座敷の襖の前まで辿り着いた。襖には黒い牛が池のほとりで水をなめている様が淡く描かれていた。
 その襖の前に、頑丈な格子がめぐらされていた。格子に組み込まれた戸には、人の頭ほどもある南京錠がぶら下がっている。飛縁魔はそれをがちゃがちゃと揺さぶったが、一向に外れる気配はない。
「くそ、鍵がかかってやがる。叩き斬ってやるか」
「ヘタに騒いで事を荒立てない方がいいよ」
 飛縁魔はいやいやをするように首を振った。
「大人はみんなそう言うんだ」
「なに子どもみたいなこと言ってるんだよ。どうかしてるよ」
「子どもじゃないみたいな言い方するなよ!」飛縁魔は喚いた。
「十代終わりかけとかいうな!」
「ずっとそのまんまなんだからいいじゃないか……まあいいから、鍵を探そうよ」
 そこでいづるは不意に、心の中で産まれた疑問に肩を叩かれた。
「ねえ……この奥の座敷って他に入り口はあるの?」
「ないよ」
「ふうん」
 踵を返して、襖と障子と柱でできた迷宮に戻りながら、いづるは思う。
 なら、誰がこの座敷に鍵をかけたのだ? オートロックという線もあるが、あの南京錠はそんな高性能でもなければ、なにかあやかしが憑いているようでもなかった。なにがしかの意識があれば飛縁魔にがちゃがちゃ揺さぶられた時に文句のひとつでもこぼしていただろう。しかし、そんなことも牛頭天王を倒してしまえば悩む必要はなくなる。目下、必要なのは南京錠の鍵だ。
 いづると飛縁魔は逸れない程度に手分けして鍵を探し始めた。屋敷の中は荒れ放題と言ってよかった。誰かが癇癪を起こしたか、泥棒でも入ったかという荒れ方をしているか、もしくは誰にも無視されたまま一月を過ごしすっかり埃まみれになっているかだった。高価そうなツボや洋服たんすをひっくり返して南京錠の鍵を探したが、どこにもなかった。飛縁魔がイライラし始め、いづるは喋る前にいちいちセリフを添削して棘があったら抜かねばならなかった。
「いらつくむかつく腹が立つ」と飛縁魔は言う。
「まあ落ち着いて。こんなの釣りと一緒だよ。気長にまじめにやってたら必ず見つかるって」
「うん……くそ、なんだよ、あたしン家なのに……」
 そう、言うとおり、ここは飛縁魔の生家なのだ。その中を荒らされ、自由に動き回れないのは、彼女にとって辛いことだろう。苛立つのもたまにいづるの足をわざと踏んでくるのも無理のないことだ。
 いづるは自分の家を思い出そうとした。産まれてから死ぬまで暮らした生家を……だが、アタマの中が妙に霧がかっていて、思い出せなかった。そのときはただ、ど忘れしただけだと思った。
 いくつ目かの障子を開けて入った部屋は、子ども部屋のようだった。手まりやホッピング、ダンボールのなかに小さな鏡やままごとの道具が仕舞いこまれている。いづるはちらっと背後を見やった。飛縁魔は別の部屋で本棚を漁っている。音もなくいづるは子ども部屋に侵入した。
 立派な女の子の部屋だった。子ども用の三面鏡の上にはおもちゃの化粧道具が散らばり、あやとりの紐が鏡の上にかけられていた。いづるはそれを手にとって東京タワーを作りながら部屋を見渡す。部屋の四隅に、小さい女の子が座ってこっちを見ている気がした。が、それは錯覚に過ぎなかった。
 くしゃり、と足がなにかを踏む。埃をかぶった画用紙の束だ。しゃがみ込んで、その表面に積もった汚れを払った。一枚ずつ後ろに送っていく。いろんな妖怪がクレヨンで描かれている。へたくそだ。いづるの幼少時代よりも雑だった。色を塗るのが面倒くさくなったのか身体の枠から肌色や赤色があちこちに炸裂したみたいに飛び出している。
 最後の一枚を繰ったとき、いづるの手がぴたりと止まった。
 画用紙には、大きな男の人が描かれていた。ひげもじゃで、赤ら顔で、眉を逆八の字に逆立てている。足元にはチャチな人形みたいにデフォルメされた女の子がしがみついていた。デッサンがおかしい。これじゃろくろ首だ。だが、いづるは笑わなかった。それをそっと畳んで、ポケットのなかに仕舞った。
 バレる前に何食わぬ顔をして合流しよう、と廊下に出たとき、飛縁魔の短い悲鳴が廊下の角から聞こえてきた。まだ探索していない方向だ。いづるは駆けた。
「姉さん……?」
「ああ、いづる」廊下の壁に背を合わせた飛縁魔は、走ってきたいづるを見て照れくさそうに笑った。「悪い悪い、びっくりしちまってよ」
「僕もだ」いづるは廊下の奥にあるモノを見て息を呑んだ。
「なんだこれ?」
 それは巨大な機械だった。ダンプカーとタメを張れるガタイをした機械だ。四角い枠組みに、廊下スレスレの部分は受け皿になっている。
 なにより目を引くのは、中心部の三つ並んだ生首だ。アタマのてっぺんは綺麗に剃られ、脇からは元気すぎる雑草みたいな髪が垂れ下がっている。三人とも――生首を人にカウントできれば、だが――目、鼻、口に乾いた血をこびりつかせている。生首たちは恨めしげにこちらを睨みながら、ゆっくりと縦に回転していた。
 リールの横からは、大腿骨と頭蓋骨でできたレバーが天井に向かって伸びていた。マシンの右下には、コインを投入するスリットと赤いボタンがあり、ボタンの上には電光表示板がついていた。いまはなにも表示することなく沈黙している。
「こいつはいいや」
 いづるは無意識に乾いた笑いを立てて、それを見上げた。
「妖怪スロット? どうかしてるよ、きみたち」
 いづるのセリフを嘲りと受け取ったのか、生首たちは挑むようにいづるを睨む。いづるは半身になって、真っ向からその敵意に立ち向かった。
「――楽しいねェ、ほんとに楽しい。こんなに愉快なら」
 ポケットのなかに手を突っ込んで、冷たい硬貨を指で強く押す。
 潰れてしまいそうなほど。
「死んでみるのも悪くはないね」



「なあ、やっぱりこの中にあの南京錠の鍵とかが入ってたりするのかな」
「かもね」
 飛縁魔はぺたぺたとスロットをさわって、おもむろに腰に佩いた太刀に手を伸ばした。が、いづるにじいっと仮面を向けられて渋々手を下ろす。
「なんだよ。こんなの壊しちゃえばいいじゃん」
「じゃあ、やってみれば?」
「うん」
 スラァと銀の刃が抜き放たれ、どこかの隙間から細く漏れてくる弱い陽光を受けて、その刃は暗がりにいる獣の瞳のように輝いた。飛縁魔はその刀をはすに構え、酔ったような足取りでリール横の枠組みに切りつける。
「おおっ?」
 スロットが無残に両断されることはなかった。傷がつくどころか、刃は枠組みに触れてさえいなかった。スロットまで数インチの幅を残して、空中で震えているだけだった。飛縁魔は両手で力いっぱい刃を押し込もうとしたが、一向に距離は縮まらない。
「このっ!」
 床板をぶち抜きそうな勢いで足を踏み込む。だが、刃は気まぐれな猫のように刃先を逸らして、すいっと横に流れた。飛縁魔の体も流れた。相当な勢いをつけたまま、体位が反転して後頭部をしたたかにぶっつけた。飛縁魔はいじめられた子犬のような声を出してその場にうずくまった。
「大丈夫?」
「うう……」
「見たところ、なにか磁力みたいなモノがこのスロットを守ってるみたいだね」
 いづるはコンコンと投入口のそばを叩いた。仮面がなければいづるは笑っているのがバレているところだった。
「攻撃しようとしたときだけ磁界が発生して触れられないのか。これもきみたちの言うところの呪いってやつなのかな?」
「知らねえよそんなこと……土御門を連れてくればよかったなァ。あいつならなにかわかったかも」
 いづるは飛縁魔に手を貸そうと手の平を差し出したが、飛縁魔はぷいっとそっぽを向いて自分で立ち上がった。いづるはそういう無意味な意固地が好きだ。だから素直に手を引っ込めた。
 巨大で怪異なスロットを二人で見上げる。
「どう思う?」と飛縁魔。
「考え方はいろいろあるね。牛頭天王の暇つぶしとして置いてあるだけなのか、やっぱり鍵を守っている装置なのか、ひょっとするとただの置き場のないガラクタかも」
「でもさ、鍵が入ってるとして、こっちが勝ったらちゃんと渡してくれるなんて都合よくね?」
「そうだね……罠かも。でも、牛頭天王ってのはあの世の親分なんだろ? 余裕のあらわれってことも……」そこまで饒舌に喋っておきながら、いづるは自分が自身の意見をまったく信じていないことに気づいた。だが、そのことはあえて口にはしなかった。まだ確信はない、なにひとつ。
 壁に身をもたれさせて、飛縁魔は前髪をねじりながら、しかつめらしく考え込んでいる。いづるにはそれがなぜか色っぽく見えた。
「ま、考えててもしかたねーな」パン、と飛縁魔は両拳を打ち合わせた。にやっと笑って、
「鬼が出るか蛇が出るか、勝ちゃあわかる」
「いいこと言うね。ここで議論しているだけじゃ、捕らぬ狸の皮算用だ。よし、じゃ、どっちがボタンを押す係になる?」
「へ?」
「いや、このスロット、ボタンを押す位置からだと生首の回転が見づらいからさ。どっちかが距離を取ったところからタイミングを教えて、もう一人がボタンを押さないと」
「あ、そっか」飛縁魔はいまスロットがあることに気づいたような顔をして、ゆるい回転を続ける生首を見上げた。そして半笑いを浮かべた。
「ぶっさいくだな、こいつら。お? なんだ文句あんのかてめーら。ガン飛ばしやがって、いっちょやってみるってのかおいこらあーん?」
「やめなって……で、どうする? 僕はどっちでもいい」
「じゃ、あたしがタイミング測る。おまえがボタン係な」
「わかった」
 飛縁魔が生首スロットと向かい合ったまま、うしろ向きに後退していって、ちょうどいい角度を模索している間に、いづるはポケットから魂貨を取り出した。
 スリット横には『一回1000炎』とある。いづるはポケットを漁ったが、どれも一番大きな額で500炎ばかりだった。飛縁魔を呼んで助けを請おうかと思ったが、呼びつけて「いまいい場所を見つけたところだったのに」とかなんとかぶーたれられるのも面倒くさいので、自分でやってみることにした。確か、飛縁魔はどくろ亭で札を千切って硬貨を作っていた。それを応用してみよう……。
 いづるは二枚の500炎玉を重ね合わせて、拝むように手の平で挟んだ。空気が焼けるような音がした。手の平を開けてみる。
 赤から橙色になった1000炎玉が出来上がっていた。便利なものである。意気揚々とスリットに1000炎玉を入れようとすると、中からベロが出てきていづるの手から硬貨を掠め取っていった。
 ちろりん、と機械のなかで硬貨が滑り落ちる音。
 いづるの指先にはぬるっとした唾液だけが残された。実にいらないサービスである。このスロットを作ったやつは性格が悪い、と思った。
「よーし、いいぞー」と飛縁魔が声を張った。「ここならよく見えるわ」
「うん」と答えたところで、いづるは気づいた。
「ねえねえ姉さん、お願いがあるんだけど」
「えー? この位置めちゃくちゃちょうどいいから、あんまし動きたくないんだけど」
「実はね」
 いづるは上を指差した。
「レバーまで届かないんだ」
 結局、ぶーたれられてしまった。僕のせいじゃない、といづるは思う。
 飛縁魔も巨人ではないから、廊下に立ったままレバーを引くことはできなかった。
「よっと」
 なのでスロットと壁の隙間を三角飛びして天井付近まで飛び上がり、頭蓋骨でできたレバー先端にしがみつくと、天井の木板を蹴ってそれを降ろした。ガコォンという音がして、三つの生首が猛烈に回転し始めた。
 飛縁魔は軽重力を思わせる身のこなしで鮮やかに着地した。いづるはぱちぱちと拍手してねぎらった。
「すごいね。まるで見世物小屋だ」
「なんでサーカスって言わねえの? 悪意を感じるんだけど。まあいいや、ちゃんとあたしが言った通りにボタン押せよな」
「任せてくれ、タイミングには定評がある」
 誰にだよ、とぶつくさ言いながら飛縁魔は定位置に戻った。
 そして腕を組み、インネンつけてるような目つきで生首の回転を見つめ、
「いま!」と叫んだ。
 だが、左端の生首は回転し続け、止まる気配はなかった。
 飛縁魔はかしかしっと頭をひっかいて、怨霊みたいな顔でぎろっと睨み、
「いーづーるーくーんー?」と凄む。
「ごめんごめん」いづるは片手拝みに謝った。
「でもこのボタン固くて押せないんだよ。やっぱり罠だったのかもね」とスロットのせいにする。
「はあ? そんなわけあるかよ。どいてみ、あたしがやる」
 いづるは飛縁魔に場所を譲った。飛縁魔はタイヤほどもあるボタンを軽く押した。むっ、と眉をひそめる。
「かたいな、これ」
「だろ? 古いのかな。壊れてるんじゃ仕方ないね」
 いづるはとにかくスロットのせいにし続ける。彼女の怒りの矛先がこちらを向いたとき、いづるは二度目の死を迎えるからだ。
 飛縁魔はまたもやかしかしっと頭をひっかいた。
「あーもーめんどくせえな、こんなのこうしちまえばいーんだよっ!」
「あっ」
 いづるが止める暇もなく、飛縁魔は肘と腰を活かした激烈な拳をボタンに打った。ぎぃぃぃん……と中の機構が震える音がした。だが、ボタンの縁にはわずかな幅ができていて、ボタンが押されたのは間違いない。左端の生首も、ここからではよく見えないが止まっているようだ。
 いづるは固唾を飲んで、スロットが瓦解するのを待ったが、壊れることはなかった。
 代わりに、電光表示板がパッと点灯した。





 78点。




「やかましいわっ!」
 稲妻のような左のエルボーから、返す身体で拳を裏返した打ち上げ気味の右突きが炸裂した。大砲を撃ったような音がして、ボタンの向こうの機構のどこかが切断した。電光表示板はそれきり二度と点数を表示しなくなった。
 いづるは首を軽く反らしながら、そろそろと後退して生首の結果を確かめた。
 てんでバラバラな方向に顔を向けた落ち武者そっくりの首どもが、ニタニタと声もなく笑っている。
 1000炎玉一個使ってわかったことがひとつある。
 ボタン係は、彼女に任せた方がよさそうだ。

21, 20

  



「どりゃっ!」と飛縁魔がレバーを引き降ろした。生首たちがぐるぐると縦に回転し始める。
 目を回さないのだろうか? いづるは思いながら、腕を組んで前のめり気味に目押しするタイミングを測る。
 といっても自分でボタンを押すわけではない。ファイティングポーズを取ってスタンバイしている飛縁魔がパンチを打ち、中の機構に力が伝達し、そうしてようやく生首は回転を止めるのだ。そのタイムラグも計算に入れなければ生首を文字通り雁首揃えさせることはできない。闇雲に飛縁魔に押させることもできるが、そんなものはスロットじゃないといづるは思う。甘いだろうか。しかしそう思う。だから飛縁魔の我武者羅パンチがラッキーパンチに変化することを期待したりはしない。
 仮面の向こう側で、いづるは目をすがめた。
 三つの首の回転速度は一定のように見えて、少し異なっている。左が一番速い。そして真ん中が少しゆっくり目で、右がその中間。神経が研ぎ澄まされていなければ見過ごしてしまうほどのごくわずかな差異だ。
 この速度不一致がまた実にいやらしい配置なのである。左のタイミングがまだいづるの中に残っているときに真ん中に挑むと、少し速く飛縁魔に声を飛ばしてしまう。そうするとせっかく左の首にドンピシャ正面を向けさせても、真ん中が顎を少し突き出して天井を見上げているというなんとも情けないさまになってしまうのだ。
 それでも、これだというタイミングを探し出し、いづるは声を飛ばす。

「いまっ!」

 「やっ!」と飛縁魔がバツグンの反射神経でいづるの叫びをパンチに乗せ、ボタンを打つ。びぃぃぃん……と大気とスロットの筐体が震える。
 停止した左の生首は真正面を向いていた。
 いよしっ、と飛縁魔が拳を振る。
「いいぞいづる、そのチョーシっ!」
 集中しているいづるに飛縁魔の声援はほとんど届いていなかった。真ん中は一番遅い回転。まずは目を慣らせて最初の回転を洗い落とさなければならない。
 いづるはじっと耐えた。
 そしてようやく、そろそろいくか、と思ったとき。
 ごご、と何か重いものが動く音がした。
 すると、おもむろに止まっていた左の生首が回転を復活させた。飛縁魔がぽかんと口を半ば開けて回転する首を仰ぐ。いづるの呼び声も、飛縁魔のパンチも、すべてなにかの間違いか勘違いだったようだった。そんなわけなかった。
 やられた。いづるは舌打ちする。
 時間制限だ。
 これまで、左の首を外してから練習がてら真ん中と右を吟味したときには、回転復活は起こらなかった。左の首に正面を向かせることができたときにだけ、真ん中の首を長く吟味していると回転が復活するのだ。時間の制限は正確に数えたわけではないが、十秒から二十秒というところか? なんにせようまくいってちょっと一息、というようななめた真似は許されないらしい。
「もう一度いこう」いづるは落ち着いた声音で言った。
「べつにカネを損したわけじゃない。まだチャンスはある」
 だが、時間制限がプレッシャーになったのか、今度は左の首を俯かせたまま停止させてしまった。言うまでもなく失敗だ。
 どちらからともなくため息がこぼれる。
 いづるはちらっと、飛縁魔のせいじゃないかと思った。いま一瞬、呼びかけとパンチの呼応にズレがあったような気がする。だが本当はわかっていた。それは自分が責任を負いたくないがための幻想なのだ。いづるの鋭利な感性はいまのミスが己のものだと理解している。
 理解できているなら、まだいい。
 自己嫌悪に染まりかける自分の心に闘争心を注入して奮起する。それがわかっているなら、まだ勝ち目は残っている。
 いま、自分はカネを失った。
 それだけでも業腹だ。
 なのに、誇りまで失うのは、我慢がならない。
「ごめん!」
 いづるは飛縁魔にはっきりと謝った。
「ミスったのは僕だ。悪かった。次はがんばるよ」
 飛縁魔はなにも答えず、背中を見せたまま、片手をひらひらと振った。素っ気ない。怒っているようにも受け取れた。だが、そうじゃなかった。
 言葉のない励ましが、言葉にならないほどに、いづるの心を暖かなもので満たした。


 ○


 ごおおおおお……と地鳴りを思わせる音を立てて、右端の生首が回転している。
 それ以外の二つの首は、苦悶の表情を見せて、正面を向いていた。つまり、右の首がそれにならえば、見事フィーバードリームというわけだ。
 いづるはまるで真正面から吹きつけてくる強風に耐えているような前傾姿勢で、右端の首の回転を見つめている。いままでの計算で、隣の首が止まってから回転を復活させるまで、十二秒弱。アタマのなかに機械仕掛けのストップウォッチはないけれど、いづるはもはや完全にその時間を把握していた。なんの恐れもなく、回転復活まで残り一秒に迫ったとしても迷うことなく正確なタイミングを見破れるはずだ。
 飛縁魔が軽くステップを踏んで、緊張をほぐしている。跳ねるたびに揺れる髪からのぞくうなじには玉の汗が光っていた。いづるはそのステップさえも自分の中の『時』に組み込んでいる。飛縁魔が跳ねた瞬間にはパンチが打てないわけだから。それも一秒に満たない時間だけれど、無ではない。


 ごおおおおお……


 回転しているのは落ち武者の生首か、それともいづるの頭脳か。
 いづるは腹の底から叫んだ。
「いまっ!」
 ――――心が繋がっているかと思うほどに、完璧なタイミングで、飛縁魔がボタンを打った。
 いづるは自分が彼女の身体に憑依しているのかと一瞬疑ったほどだった。殴られたスロットがびりびりと衝撃を表面に走らせ、その終わりに吐き戻す寸前のような震え方をした。
 飛縁魔は拳をボタンに打ちつけたまま片目を瞑っていた。その目はいづるの言葉で開かれた。
「やったね、姉さん」
 見ると三つの生首は、虚ろな表情で、すべて真正面を向いていた。
「あはっ!」
 飛縁魔は女の子みたいな歓声をあげて笑顔をいづるに見せたけれど、すぐにしかめ面を作ってそっぽを向いてしまった。いづるは仮面の奥で苦笑する。とことん意地を張りたいらしい。
 二人は待った。受け皿に鍵か、カネか、なんにせよ勝利の報酬が転がり落ちてくるのを。
 なにも出てこなかった。
 飛縁魔がいづるの袖を引いたとき、右の首が「ふが」と変な声を出した。
 ふが、ふが、と何回か鼻をひくつかせていた生首は、




「ぶえーっくしょーいっっっっっっ!!!!!!」




 盛大なくしゃみをして四方八方に黄ばんだ唾液を撒き散らし、その勢いでかくん、と顎が下がった。もう三つの首は真正面を向いておらず、フィーバーもしていない。
 唖然とする二人を見下ろして、生首どもがゲラゲラと笑い始めた。ツバに加えて涙までが飛び散って、二人に浴びせかけられた。
 太刀の鞘を握った飛縁魔の左手がぶるぶると震えていた。
 だが、その太刀を抜くために右手が構えられることはなかった。だらん、と両手が力なく腰の横に落ちた。
「ばっかみてえ」
 飛縁魔は憑き物が落ちたように肩を落とし、そしてくるりと踵を返して、いづるに一瞥もくれず歩き始めた。生首どもの笑いが一際大きくなった。
「どこにいくの」いづるは笑い続ける生首どもを無視して尋ねた。
「帰る」
「帰る、って」
「あたしがバカだった。いつもそうなんだ。あたしって、大事なときにヘタ打っちゃうんだよな。そういう星の元なのかな」
「あのときだって」と飛縁魔は続けた。「あたしがつまんねえヘマしなけりゃおやじは首を吹っ飛ばされずに済んだかもしれない。わかんねえな。どうしてなんだろうな。いつもそうなんだ……いつも……」
「姉さん……」
「だから、もういい。どうせ牛頭天王にも勝てやしねえよ。こんなところでぐるぐるするしか能がねえあいつのおもちゃにも、」
 生首どもから耳障りなブーイングが巻き起こった。
「コケにされる始末なんだからよ。だから、もういい。……疲れたよ」
 ふらふらっと飛縁魔はよろけるようにして、その場を去ろうとした。けれど、いづるはその手をぱしっと掴んで離さなかった。繋がっている箇所を見る飛縁魔の目はゴミを見ているようだった。
「離せよ、いづる」
「やだ」
「やだ、じゃねーよ」一瞬、飛縁魔は笑いかけた。けれどそれはすぐに彼女の顔の奥深くまで引っ込んでしまった。
「もともと、おまえには関係のない話だっただろうが。まさか同情してるなんて言わないよな?」
「まだ負けてないよ」
「負けたろ? 見てなかったのかよ、聞こえないのかよ、いまのが!」
「これから勝つ」
「カモはいつもそーゆーんだ。どうやって勝つんだ? 言ってみろよ。なあ。揃えてもフィーバーしないスロットに勝つ方法をさ!!」
 いづるは即答した。
「いまから考える」
「は…………」
 呆れ果てたのか、飛縁魔の口からは罵詈雑言さえ出てこなくなった。けれど、いづるの手を振り払おうともしなかった。どうにでもしろ、とばかりに力なく俯いている。
 いづるは考える。ただの発想じゃだめだ。なにかを逆転させなければならない。
 生首のリール、揃えても無駄、ずれた回転……耳障りな笑い声。
「ところで姉さん」といづるは言った。
「食べ物、持ってない?」
 そのセリフは効果テキメンだった。
 飛縁魔は水を浴びたようにパッと顔を背けた。頬がちょっぴり赤い。いづるは仮面をその横顔に近づけた。
「嘘をついても無駄だよ。僕をあまりなめない方がいい」
「……………………………………………………………………………………………………」
「いまは食い意地張ってるときじゃないだろ?」
 飛縁魔はまだ覚悟を決められずに、もごもごと口ごもっていたが、観念したのか大人しく懐から新聞包みを取り出していづるに差し出した。あるならさっさと出せばいいのだ。いづるは包みをひったくる。この妖怪食いしん坊め。
 いづるは包みの口を指で押し広げて、中を見て、絶句した。
 新聞の中には、人間の舌を串に刺したものが、三本ほど入っていた。突き抜かれた赤い舌は、まだぴくぴくともだえていた。失った本体を捜し求めるように、空中に舌先を躍らせては虚空をなめている。
 いづるは音もなく飛縁魔から二、三歩距離を取った。いづるをちらっと見やる飛縁魔は不満げだった。
「……うまいんだぞ?」
 絶対に説得されまい。そう固く誓って、いづるはため息をつく。
「さっき着流しの野郎から買ったの?」
「うん」
「そっか」
「なんだよ?」
「べつに。じゃ、姉さん、ボタンの前に立ってくれ」
 いづるは仮面に手を当てて、ずれを直した。いまだに笑い続ける生首どもを見上げて、思う。
 その小汚い笑い顔を、人生最後の笑顔にしてやる。



 飛縁魔が硬貨をスロットに入れて、レバーを降ろした。これで何度目だろうか、生首たちの回転がふたたび始まった。
 スロットの回転というやつは実に不思議で、眺めているとそれまでの負けをいつの間にか忘れてしまう。いや、完全に忘れるわけでは無論ないのだが、回転し、流れる滲んだ線と化した絵を見ていると、なんだか新しい何かが始まったような気がしてくるのだ。輝かしい勝ちへの流れが見えるような、そんなどうかしている気分になってくる。
 実際のところ、大半の人間にとっては、それは自分を破滅へと運ぶ無慈悲なベルトコンベアに過ぎないわけだが、ギャンブルの魔力はそんな恐ろしいものでさえ傷一つなく光る天国への階段に変えてしまうパワーを持っているものだ。
 いつだって、勝つ可能性はある。
 そう思えるゲームは、楽しい。
 回転している首の向こうに、いづるは天国も地獄も見ていなかった。
 ただ、こちらの不安と恐れを楽しむ下卑た笑いが三つ並んでいるのがはっきりと見えるだけ。
 性格の悪い首どもが、せいぜい笑っているがいい。白い仮面をはめた顔がスロットを仰ぐ。
 びりびりと包みを破いて、いづるは舌刺しを中央の顔の正面にかざした。指の隙間に串を挟んで、ちょうど3WAY-Shotのカタチに広がった状態だ。
 いづるの喉仏がごくんと上下した。食欲で、ではなく緊張で。
 生首たちは何事もなく回り続けている。
 飛縁魔がごん、と壁にアタマを打ちつけた。「かーっ」とうめいて、手の平でぱしっと額を押さえて言う。
「なにすんのかと思ったら、そんなことかよ……無理に決まってるだろ、そんなの!」
「無理かどうかはこの際どうでもいい……」
 そんな議論にどれほどの意味がある?
 いま、いづるの手元にあるカードはこれだけだ。これがいづるの正真正銘最後の手だ。
 だったら仕方ない。
 押し切るしかない。
 たとえ手札がブタでもゴミでも、最後までいくしかないのだ。決して降りないのであれば、迷う自由さえ与えられてはいないのだ。どうしようもなく。
 無常にも生首たちは回転し続ける。
 惚けたような時間が過ぎていく。
 いづるは諦めない。
 左手をブレザーのポケットに突っ込んだ。いづるは煙草を吸わなかった。ただ、ライターだけは持っていた。高価な銀色の重たいジッポライター。ギャンブルで巻き上げたそれは、いづるが初めて勝って、そして初めて手に入れた、借金のカタ。それが指先に触れた。
 舌刺しの側にジッポを寄せて、点火した。じりじりと赤い炎が桃色の肉きれをあぶっていく。その縁から、青白い煙が幾筋かたなびき始めた。焦げていく肉の鼻腔をくすぐるにおいは食欲を誘い、嗅いだだけで脂が乗った肉が幻視してしまえそうなほど。
 そんなにおいが立ち込め、生首の回転が、乱れた。
 ほんのわずかだ。飛縁魔は気づかなかっただろう。だがいづるにはわかった。
 捧げるように両手を掲げたまま、待つ。
 バカみたいな時間。
 こんなにもったいぶってなんにもならなかったら恥ずかしくって飛縁魔の顔をまともに拝むことなんて二度とできないだろう。
 だが、いづるは諦めない。
 根競べだ。肉がだめになりいづるの自尊心が砕けるのが先か、それとも……。
 肉切れが充分に焼けた。いづるは、スナップを効かして火を消し、ジッポを仕舞う。肉は最高の状態だ。生焼けの、一番甘くて柔らかくて美味しい状態。だが、だんだんと冷めていく。あの世だろうとどこだろうと料理に賞味期限は存在する。それが切れたら、終わったら、この肉きれを飛縁魔と仲良く喰いながら尻尾を巻いて帰るしかなくなる。いやな未来だ、考えたくない。
 生首の回転は止まらない。
 だめか、といづるが手を引っ込めかけたとき、
「いづるっ!」
 なにかが飛んできた。黄色い何か。
 飛来してきたレモンを受け取ったいづるは、間髪いれずにそれを舌刺しの真上で握り潰し、その酸っぱい果汁をふんだんに肉に浴びせかけた。
 いづるでさえ、それがなんの肉なのか一瞬忘れて、思わずむしゃぶりつきたくなる。それはそんな、串焼きだった。



 おおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……



 生首たちがリールから外れかねない勢いで、鼻面を犬のように真正面に突き出す。いづるは一歩後退して距離を取った。生首たちの暗い口腔からは、洞穴を吹き抜ける風のような恨めしい声のない叫びが迸る。乾ききった舌が覗いていた。
「飛縁魔!」
 呼ぶまでもなかった。身体を半身に開いた飛縁魔から、左、左、右の三連打がボタンに叩き込まれた。一発一発が、衝撃の瞬間に周囲の空気が反転するのが見えるような強烈な痛打だった。
 電光表示板が哀れな音を立てて砕け散った。
 生首たちは勤めも忘れて、届きもしない肉きれを求めて舌を伸ばしていた。みりみりと肉が裂ける音がした。あまりにも遠くまで伸ばそうと努力したがために筋肉が千切れている。いづるはそれを哀れとは思わなかった。ただ、待った。


 ちゃり――――ん


 硬いものが受け皿に落ちた。
 いづるはしゃがみ込んで、それを拾い上げる。なんの飾り気もない鍵だ。
 駆け寄ってきた飛縁魔に、ゴミでも渡すようにいづるはそれを無造作に放り投げた。飛縁魔が慌ててそれをキャッチする。なにか文句を言っていたが、まだ興奮覚めやらぬいづるには届かなかった。
 生首たちはいまや哀れっぽく泣きながら、いづるの手にある串を求めて苦しんでいる。いづるはそれを振って、においをくれてやった。嗚咽がことさらひどくなった。
「……………………」
 いづるはそれを生首たちの舌ぎりぎりのところまで差し出す。
 スライムのようにグロテスクに伸びた生首どもの舌は、いまや錐の先のようになっている。舌先がもうほんの少しで、よく焼けた肉を舐めようとしたところで、いづるはさっと手を引いた。
 ぶちっと音がして、生首どもの舌が真ん中あたりから千切れ落ち、廊下に筋となって伸びた。それはしばらくの間、断末魔の痙攣に陥っていたが、やがてそれも止まった。
 生首たちの眼球に宿っていた熱っぽい光が真っ黒く塗りつぶされる。
 いづるは声だけで淡く笑って、
「地獄に落ちなよ」
 その声は、寒気がするほど楽しげで、無邪気で、ちょっと悪ふざけをしただけの子どもみたいに、残酷だ。
 いづるは、よく焼けた人間の舌の刺さった串を床板に躊躇いなく投げ捨てて、ローファーの踵で思い切り踏みにじった。ぷちゅッと肉汁が溢れる音がし、靴底と床に挟まれた異物が平たくなる感覚があった。もう食欲をそそるにおいは、半分も残っていなかった。





 あぁ――――――――――――――――






 悲哀と苦悶と絶望。生首たちの絶叫は屋敷全体を隙間なく満たし溢れ、壮絶なその叫びはそばにいた飛縁魔の黒髪が総毛だったほどだった。
「いこう、姉さん」
 いづるは気にした風もなく言ってのけ、震えるスロットに背中を向けた。
 返事はない。
 飛縁魔は咄嗟に言葉が出なかった。やったな、とか、すごいな、とか、いろいろ言えたはずであった。なにも出てこなかった。ただ、引きつった声が出ないように息を止めているのが精一杯だった。のっぺら坊の少年の背中を映すそのまなざしは、どこかよそよそしげで、冷たく、時の流れが鈍かった。慌てて瞬きする。いま自分の瞳と心に湧き起こったさざなみをなかったことにしなければ。けれど、一度起こった波紋はいつまでもこだまのように反響し、飛縁魔の中に残った。飛縁魔は、それがいやで、でもどうすることもできず、いづるの背中を見続けるしかなかった。認めたくなかった。けれど本当はわかっていた。
 いま自分は、この死人に怯えてしまったのだ、と。
 門倉いづるはそれを知ってか知らずか、なんでもないようにブレザーのポケットに手を突っ込んで、硬貨の縁を指でなぞった。
 ひとつの勝利が次の勝負を呼び寄せる。
 牛頭天王との対面は、もう間もなくだ。


 ○


 二人が廊下の角を曲がってからも、生首たちの怨嗟は途絶えることなく続いていた。
 いまもまだ、続いているかもしれない。
23, 22

  


 飛縁魔が南京錠に鍵を差し込んでねじると、かちりと錠はあっけなくはずれて落ちた。それを足で脇に払いのけ、飛縁魔は立派な竜虎の描かれたふすまを開く。
 ふすまの向こうは広い座敷だった。いったい何畳あるのか。俯瞰すれば板チョコのような長方形に見えただろう。
 部屋の三方は障子になっており、夕日がどこからともなく射し込んで、白い和紙は血に塗れたように赤かった。あちこちに用途不明のがらくたが散乱している。脚の折れたテーブル、砕けたブラウン管、ひびの入ったマネキン人形、天井からはいまにも落ちてきそうなミラーボールがさがっている。
 そのなかでもひときわ大きな粗大ゴミが牛頭天王だった。
 牛頭天王は畳の上にあぐらをかいて座っていた。
 噂に聞くよりも大きく光沢のある黒い牛の頭と、袈裟からはみ出した土気色をした節くれ立った手。寒くもないのに吐く息は白く、その眼光はレーザーポインターのように鋭かった。
 突然の来訪者たちを見つつも、牛頭天王はその手で自分に侍る女たちの髪を撫でる。女たちはみんな額からツノが生えていて、一人残らず死んでいた。
 飛縁魔はぶるっと身を震わせてから、咳払いして言う。
「よう、牛頭天王。だいたい一ヶ月ぶりだな」
 あの世に日付の概念はあまりない。飛縁魔の言う一月前は現世での一週間かもしれないし、一年かもしれなかった。
 牛頭天王は問いかけには答えずに死んだ女のツノを指で弄び、
「誰だっけ、おまえ」
 と言った。
「……………………」
「まあ、誰でもいいか。遊びにきたんだろ。いいぜ、やろう。なにをやる? なんでもいいぜ。おれは負けない」
「ずいぶん自信満々だな。でも今日はそうはいかないぜ。今度こそ家畜みたいに搾り取ってやる」
「ふうん。おれとおまえは会ったことがあるのか? まったく記憶にない。飲み過ぎてるかな」
 そういって、牛頭天王はそばにいた鬼女の死体のひとつから、首をもぎとって、ごくごくと生首の杯から血を飲み始める。
 ぷはあ、と乾ききった生首をそのへんに転がすと、飛縁魔が軽蔑をこめて言った。
「よく鬼なんか食って腹こわさないもんだな、この外道が」
「腹? 壊してるのに気がついてないだけかもな。なんにせよ、鬼は妖怪を喰うんだから、それを退治してやってるおれがそれをどうしようとおれの勝手だ。おれはおまえたちの親分だからな。守ってやるのが当然ってやつだろ?」
 そのとき、ようやく牛頭天王が飛縁魔のうしろに控えているのっぺら坊に気づいた。
「なんだそいつ。おれへの手みやげ?」
 危うく喰われる流れだったが、飛縁魔がフォローを入れる。
「こいつは札巻きだよ。花札のな。公正な勝負にしたいから連れてきた」
 飛縁魔はいじめっ子のようにいづるをドンと突き飛ばした。
 いづるはわけがわからない、とばかりに二人を交互に見比べ、おどおどと指を絡ませる。
「あ、あの、ぼくはどうすれば」
「花札のルールくらい知ってんだろ。ヤマを切って札を配ってくれりゃいいんだ。そうすりゃ極楽浄土にいけるよきっと」
「花札か。久々だからルールが思い出せるかね」と牛頭天王は弱気なことを言っていたが本心はどうだかわからない。
 まあ、それも大したことではない。
 いづるたちには魔法の札があるのだ。勝負はやる前から決まっている。
 いづるは急に冷めてきた。なんだかひどくバカバカしい。いっそ滅茶苦茶な札を配ってやろうか……。
 そんなことを相棒が思案しているとは露ほどもわかっていない飛縁魔は、小山のような牛頭天王から一畳挟んで座った。
 ゆるやかに回転する頭上のミラーボールから降り注ぐ砕けた夕陽の下品な光が彼女の頬を滑っていく。その赤い瞳だけが、あらゆる汚れた光を寄せ付けない。


 ○


 「こいこい」のルールは簡単だ。
 二人に八枚の手札を配る。場にも八枚の札を配る。
 あとはあらかじめ決めておいた親から、手札の中から一枚の札を切り、場にある同じ月の札を取っていく。なければ場に札を出すだけ。
 そしてどっちにしろそのあと山札から一枚引いて、同じ月の札があれば、それも取れる。最大で一度に四枚の札が取れるわけだ。
 こうして札をとっていって役ができた方の勝ち。
 このゲームは相手の札、自分の札、場札などから相手がどの役に進もうとしているのかを読みとり、なおかつ自分も役を作っていく。
 たとえば相手が短冊を四枚取っている。もう一枚短冊を取れば役になる。そういうとき、場に短冊が出ていたら自分で取ってしまう。そういう妨害も戦術のひとつになる。
 だからいづるは、二人が手札と場札からどういうゲーム展開にするのか先読みして札を配らなければならない。
 最初、飛縁魔が土御門に釘を刺されていたにも関わらずガムを噛み忘れて、ちょっと負けた。
 飛縁魔は、いづるがリアリティを演出するためにわざと自分を負かしたぐらいに考えていたらしく、訳知り顔でにやにやしていた。が、突然顔が青ざめたかと思うと懐からガムを取り出してくちゃくちゃやり始めた。何でもないような表情にびっしりと玉の汗が浮かんでいた。
「やめてもいいんだぜ、飛縁魔」
「うるせえ、こっからが本番なんだよ」
「せっかく言ってやってるのに……」
 飛縁魔はぷーっと風船ガムを膨らませてパンと弾けさせた。炸裂したガムが口のまわりに星形にくっついてかなり格好悪かったが、それが結局のところ反撃開始の合図だったわけだ。
 花札はいづるの念じた通りに変化した。
 いづるは、札を配りながら、飛縁魔がどうやって勝つか負けるか、ゴールの決まったドミノをどんな風に並べるか程度の気楽さで考えるだけでよかった。飛縁魔が一方的に勝つのでは怪しすぎるので、二人の勝つ割合を三対一から五対三くらいに調整してゲームを進めた。
 いま、場には九月札の「菊に杯」が出ている。赤と黄色の菊の花を支えるように朱色の杯が寄り添っている札だ。
 牛頭天王の膝前には「すすきに月」と「桜に幕」がある。これに「菊に杯」が加わると「月見」と「花見」で役ができる。そして牛頭天王の手札には菊のカス札が一枚あった。
 これで飛縁魔が「菊に杯」を取らなければ、奪われたリードを取り戻す足がかりになる。
「…………」
 飛縁魔は手札をジョリジョリ手の中でこすり合わせた。片膝を立て、その膝小僧に顎を乗せて剣呑な目つきで場札を睨んでいたが、やがて一枚の札を出した。その札は一月の札だったが、場には同じ月の札がなかったので札を取ることはできない。
 いづるはヤマから一枚放ってやった。
 それが九月札だったのである。
 牛頭天王が、過負荷のかかったディスクドライブみたいな唸り声を漏らした。飛縁魔はヤマから引いた「菊に青タン」で青い短冊札を三枚揃えている。
 アガリだ。
 負けた牛頭天王は手のひらを上向ける。
 するとそこから硬貨が湯水のように湧いてきた。
 それを汚らしいもののように飛縁魔に投げつける。心なしか、硬貨を失った牛頭天王から気迫や影がなりを潜めたようにいづるには思えた。
「……毎度あり」
 飛縁魔が畳に散らばった硬貨をかき集めて懐に突っ込む。
 こんな風にして、いづると飛縁魔はゲームを進行させていった。
 牛頭天王は小首を傾げることもなく淡々と札を切り続け、着実にその蓄えを吐き出していく。怪しんでいるにしては、素直に負けていた。
 このままガス欠までもっていけそうな気配がしていた。それがかえってよくなかったのかもしれない。
 牛頭天王が馬のナニみたいな葉巻をくわえて、つきの悪いライターをカチカチやり始めたときにはもう、いづるは完全に茹であがっていた。
 こんな茶番になんの意味があるのかわからない。
 いますぐすべてぶち壊してしまいたい。
 なにもしらないアホを演じて黙々と札を巻くのはもうごめんだ。
 札を配っていないとき、二人の勝負を見るいづるの手は握りしめられてぶるぶる震えていた。我慢の限界だった。
 こんなのは勝負じゃない。
 いっそすべてをぶちまけて最初から自分が仕切り直したい。
 この手で、このほかの誰のものでもない己の手で勝負がしたい。
 もはや飛縁魔に対しては憎悪さえ抱きつつある。筋違いだと思っても防ぎようがない。
 血が騒ぐ。肌のすぐ下、肉の裏で炭酸みたいにしゅわしゅわになった血が駆け巡っている。
 もう体などないはずなのに。もう死んでいるはずなのに。
 気分が悪くさえなってきていた。なんとか札の手順は考えられたが、自分の作った通りに進行していくゲームには反吐がでる思いだった。我慢がならない。その一言だけがアタマのなかに反響して消えてくれない。
 いつの間にか、目の前に太い葉巻があった。
「火、つけてくれねえか。ライター持ってたら、だけどよ」
 牛頭天王が指で挟んだ葉巻を上下させ催促する。
 いづるは反射的にポケットからジッポを取り出して、牛頭天王の葉巻に火をつけてやった。
 牛頭天王は礼を言うとうまそうにそれを臼歯の間にくわえこむ。奇妙なことに、その葉巻はふかすごとに線香花火みたいなパチパチした閃光を放つのだった。牛頭天王の吐き出す紫煙が三人を取り囲む。いづるはぼんやりと、バチバチと弾ける火花に見とれた。
 飛縁魔が手を振って煙を散らす。
「けむい……」
 けほけほせき込む。目に涙が浮かんでいた。タバコが苦手らしい。
「悪い悪い、ふふふ、まあこっちが負けてるんだから、これぐらいの息抜きは許してくれよ」
 そのときになっていづるは、牛頭天王の瞳だと思っていたものが、薄暗い頭蓋の奥でちらつく炎だということに気がついた。
 炎は、笑うように揺れている。
「さっさと札配れよ、札巻き」
 悲しいことにゲキを飛ばしてきたのは味方の飛縁魔だ。
 他人のフリをしなければならないので仕方もないが、その声は苛立っていて不機嫌そうで聞くに耐えない。なんだかほんとうに飛縁魔とはなんの関わりもないような気がしてくる。いままでの出来事は、死んでからここにまっすぐやってくるまで、錯乱したいづるの魂が見た夢じゃないと誰に言い切れるだろう?
 いづるはささっと札を配った。
 場に四枚、飛縁魔に四枚、牛頭天王に四枚。それを二回。
 飛縁魔がぶんぶん腕を振りまくったおかげで、あたりの紫煙が晴れた。
 いづるは場札を見た。
 松に赤タン、松のカス、桜のカス、桜に幕、あやめのカス、萩の短冊、紅葉のカス、柳の短冊。
 いづるは、こんな札を配った覚えはない。

 ○


 飛縁魔はよくやったと思う。
 自分に勝ち目がまったくなくなってからすぐに、飛縁魔は魔法が解けたことに気がついたようだった。
 そのときはあやうく腰を浮かしかけたが、すぐに観念して座り直した。そして、唇を軽く引き結んで、前を向いた。
 イカサマなしの勝負に挑むために。
 飛縁魔は自分がなにをすべきかはわかるくらいには、勝負慣れしていた。もはやガチンコするしかないのだ。
 がま口財布はあっと言う間にすべてを吐き出し、飛縁魔も牛頭天王と同じように、自分の手のひらからカネを作り出す羽目になった。おそらくこの一月、牛頭天王に挑んだ先人たちと同じように。
 土御門光明が作ってくれた花札は、いまとなってはもはやただの花札で、いづるの意志その一切を拒絶している。
 いづるはなにもできずに、本当にただ札を配るだけしかできなかった。
 いったいなぜあんなにも茶番のように簡単だった詐欺が破綻したのか魔法使いでないいづるにはよくわからないし、興味もとっくに失せていた。
 膝に拳を押しつけて、散った花の札を俯瞰する。一枚の札が切られるたびに二転三転するゲームに、二人の間を行き来するカネに心を奪われていた。靴下を履いた足がむずつく。ゲームに参加していないいまの状況が罪に思える。
 妖怪たちは自らの身を削ってカネを作り出す。それが尽きたらどうなるのだろう。
 この場でそれがわかることはなかった。
 飛縁魔の息が荒くなっていた。
 膝前の手札に篭手に鎧われた手を伸ばしたが、うまく拾えずにそのまま札の表面を爪でひっかいた。滑った勢いそのままに、どうっとささくれた畳に倒れこむ。
 その顔は青ざめ、唇は紫色になっている。もう目玉を動かすことさえままならない様子だった。
 ゲームは終わった。
 飛縁魔の負けだった。
 目の前の出来事に気づいていないように、牛頭天王はズタ袋の中に手を突っ込んで、勝ち金を鷲掴みにして上から口に流し込んだ。ばりばりと硬貨をクッキーのようにかみ砕く。いづるは座ったまま身動きができない。
 ぷしゅーと牛の耳から煙が吹き出した。臼歯の隙間からももくもくと白い蒸気が立ちこめる。
 牛頭天王は立ち上がって、傍らに添えてあった錫杖を握りしめた。
 いづるは立ち上がって、まだ散らばったままの花札を踏みつけていることにも気づかずに、牛頭天王の前に立ちはだかった。飛縁魔は立ち上がる気配を見せない。
「やっぱり組んでやがったか、チャチな芝居しやがって、すっかり騙されたぜ」
「…………」
「この花札になんか仕掛けてあったのか? おれにはよくわからんが、そういう小細工はおれには通じない。第一、そんなにまでしてなんになる?」
 牛頭天王は杖の先でいづるの顎をついっと持ち上げた。
「見逃してやる。とっとと失せろ。おれは優しいんだ。おれが、優しくいられるうちに消えてくれ」
「…………。飛縁魔をどうするつもりだ」
「どうって? どうもくそもない、ケリをつけるんだよ。二度と復讐なんてできないようにする。当たり前だろ? おれは命を狙われたんだ。そうする権利と意味がある。おれは生きねばならん。誰もおれを救ってはくれない以上、おれが自分でやるしかねえ。そうだろ?」
「彼女も悪気があったわけじゃない」
「そんなことは関係ない。おれが悪いのだとしても関係ない。おれは生きる」
「身勝手すぎるぞ」
「いい子にしてたら誰かがおれの頭をなでてくれるのか? で、それはいくらになるんだ? おれのいかなる不幸を吹き飛ばしてくれる? 頭痛がなくなるか? 吐き気がおさまるか? ははは、なにもだ。なにも変わらん。ならば戦うだけだ。てめえらみんなに災厄をくれてやる」
「災厄? 最悪? いま言ったのはどっち?」
 いづるの意図不明な質問に牛頭天王が答える前に、倒れていた飛縁魔が抜き放った太刀が走った。牛頭天王は咄嗟に身をのけぞらせるが、交わしきるには程遠い。
 銀色の刃は牛頭天王の袈裟を切り裂いたが、その向こう側の肉を断つことはできなかった。
「時間稼ぎか、汚いやつらめ」
「生憎な……諦めが悪いんだよ、あたしは」
 そういう飛縁魔はいまにも気絶しそうなほどに弱っている。霞がかった赤い瞳には精気がない。刀も満足に持ち上げられないのだ。刃先は畳に触れていた。
 牛頭天王はそばに転がっていた鬼女の残骸を拾ってむしゃむしゃと食う。ぺっと骨の欠片を吐き出して、
「飛縁魔、おまえはどんな味がするんだろうな? 教えてくれよ」
 錫杖を振り上げた。からん、と遊環が鳴る。杖を握る節くれだった手には力がこもり、血管が浮いている。その力を飛縁魔の華奢な身体が受け止めきれるはずもない。直撃を喰らえばあっけなく粉砕されてしまうだろう。
 呼吸のできない一瞬が過ぎて、二つの力の奔流がぶつかり合った。
 巻き起こった風がガラクタと門倉いづるをめちゃくちゃに転がす。
 小さな嵐がおさまり、顔をあげたとき、いづるの前に飛縁魔は横たわっていた。額から血を流している。そばには折れた刀が転がっていた。
「二連敗だな」
 くくっ、と楽しそうに牛頭天王が言う。ぶん、と錫杖を振るって、石突で畳をどんと突いた。
「のっぺら坊、おまえもすぐに楽にしてやる。なァに、ちょっと荒療治だが心配するな。チップになったあと、意識が少し残っているだろうが、まあすぐに喰ってやるからよ……おれの食道からケツの穴までの観光旅行をせいぜい楽しんでくれや」
「それはいやだな……キャンセルするよ」
「だめさ」
 牛頭天王は杖を振りかざす。眼窩の奥で青い炎が燃えている。
「おれはもう優しくないんだ。キャンセルはできない」
「なら、勝手に帰ることにする」
「無理だね」
 ぶんっ、と振り下ろされた錫杖が、憑き物が落ちたように、いづるの面の前でピタリと止まった。
 牛頭天王の拳がぶるぶる震え、杖の先の環が警鐘のように鳴り響く。
「おお、おお、やめろ、やめろ」
 巨体を折り曲げて、牛頭天王は耳を塞いで苦しんでいる。
 笛の音がしていた。
「いづるんっ!」
「アリス……」
 金髪の童女は答える代わりに、木でできた真新しい笛を吹きながら、顎で竜虎の描かれたふすまをしゃくった。猫娘はいづるの依頼をきちんと果たし、アリスに新しい笛を買い与えてここまでやってこさせてくれたようだ。念のための保険だったが、やはりかけておくに越したことはない。
 いづるは内心で感謝することも忘れて、気絶した飛縁魔を抱えあげた。その背も腿も氷詰めにされた死体みたいに冷たい。
「やめろ……殺すぞ……ガキが……う、うるせえ……うるせえんだっ!!」
 廊下を駆け抜けながら、牛頭天王の怒号とアリスの悲鳴を背中に感じていたが、いづるは振り向くことなくその場を走り去った。

 ○

 どこをどう走ったのか、いづるは覚えていない。
 ただ、ちらっと最後に見た看板に「常雨通り」と書いてあったのと、赤い雨雲から灰色の雨が降っていることから、ここが常に雨の降っている通りなのだろうという予測だけが、心の隅に引っかかっていた。
 飛縁魔は目を覚まさない。
 いい夢にまどろんでいるように目尻を下げて、口をほんの少し開けたまま、いづるの腕のなかで眠っている。
 どこか雨宿りできる場所を探さなければ。けれどその通りはどこもかしこも戸を固く閉ざしていて、誰の気配もしなかった。せめて少しでも雨露を凌げればと、いづるはゴミ捨て場から捨てられた傘を一本見つけ出して、塀にもたれさせた飛縁魔の上に差す。
 壊れた人形みたいな飛縁魔を雨から守りながら、ぼんやりといづるは飛沫をあげる水溜りを見つめる。
 その水溜りを誰かが踏んだ。いづるは顔をあげる。
 アロハシャツを着た猿が、小首を傾げていた。
「おお、おお、これはこれは。死人さんと飛縁魔ちゃんじゃないですか」
 猿のうしろからわらわらと他の猿たちが現れた。だが、彼らはアロハの猿よりも小柄だ。取り巻きたちはにやにやして、親分のアロハをちらちら見上げる。
 いづるは肩をすくめた。
「きみ、いいところに来てくれたね。参ったよ。迷子になったんだ。ええと……どくろ亭にいきたいんだけど、どうやっていったらいいかな? 僕、ここにはきたばかりでなにがなんだか……」
「死んだばかりで、の間違いだろ?」
「――――。うん、きみがそう言いたいならそれでもいい。で、道を教えてくれないか」
「その女をくれたらいいよ」
 アロハの猿は毛むくじゃらの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「おお、仰天だぜ、こんなに弱った飛縁魔は初めて見る……いやはや、眠っていれば可愛いもんだな。旦那、テイクアウトさせてくれないか? おれたち、餓えてるんだ」
 そうだそうだ、と小猿どもが囃し立てる。いづるはそいつらを完全に無視して、アロハだけに意識を向けた。
「それは困る。これは僕が先に見つけたんだ。僕のだ」
 ぱあん、と傘が裏拳を喰らって通りを舞った。
 アロハ猿がドスの効いた声で言う。
「誰のだって?」
「僕のだ」
 逃げるヒマも与えずに、茶色い毛に覆われた固い拳がいづるの腹にめり込んだ。
「がっ……」
 目玉の飛び出そうな衝撃と痛みがいづるの中心を駆け抜け、その場に崩れ落ちる。アロハ猿はビーチサンダルでいづるの後頭部を踏みつけた。
「なめんなよ、ガキ。てめえは死んでんだよ、とっくのとうにな。女と腰振るヒマもなかったからって、あの世くんだりまで来て盛っちゃうのはお兄さんどうかと思うなァ」
「…………」
「てめえのタイムリミットはゼロってんだよ。な? わかったら大人しく飛縁魔をどうぞご自由にお持ち帰りくださいませって言ってみろ。サービス業は笑顔が命だが、まあ、その仮面に免じて声だけで勘弁してやらァ」
「…………」
 後頭部にかかる力が強まる。仮面に押しつけられた鼻がつぶれて、情けなく痛む。ぐりぐりと、髪を踏みにじられる。
「なに、べつにおまえは悪くない。そうだろ? おまえは疲れてるんだ。なにせ死んだんだからな。そりゃあすスゲー疲れるだろうさ。ヤブ医者だって休養を勧めるよ。なあ? そういうわけでおまえは、この横丁にふらっとやってきてから、わけもわからずイイ夢を見ていたのさ。だから、これから五分ばかり目を瞑って、ぱっと開けたら、それが現実ってことよ。飛縁魔ちゃんなんていなかったのさ。まぼろしのガールフレンド。気を落とすなよ。いまのおまえ自身が、まぼろしみたいなものなのさ」
 いづるはなにも言わない。
 後頭部を圧していた力が消える。足音が遠ざかっていく。笑い声とヒワイな言葉もすぐに聞こえなくなる。
 いづるは、這いずるようにして、ゴミ置き場のポリ袋の群れに身体を運んで、身を埋めた。
 確かにあの猿の言う通りだ。自分は死んでいる。死後の世界などないと思っていたし、そんなものの存在はいま生きていることへの冒涜だとも言ってはばからなかった。
 その責任を、いま取ろう。



 ゴミの玉座に身を預け、仮面の向こうで目を閉じて、
 門倉いづるは、飛縁魔を見捨てることにした。
24

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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