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第一話「創世記」

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 古紙独特の、あの香ばしい匂いで満たされた七岡古書店は、すっかり寂れた商店街でも随一の歴史と、無類の品揃えと、屈指の赤字を看板としていた。5万人ばかりが住むそこそこ広い横浜のとある街で、誰一人として気にかけないこの店は、ブリリアントカットのような多角経営に挑み、見事に失敗、頓挫した。
 二十畳ほどあるスペースのうち、半分は古本。半分の半分は古道具。半分の半分の半分は古着。半分の半分の半分の半分は古楽器。そして余った場所に古人間、つまり店主である七岡つる(80)が古置物の如く鎮座している。
 一見、猿に白髪のカツラを被せてどてらを着せたようなこの人物こそが、来るもの拒まず去る者追わずの経営方針を弛まず守り続け、傍目には何屋なのか全くか分からないカオスの権化たる店構えを作り出した張本人であり、30年連続の赤字決済を目の前にしても微動だにしない鉄の心の持ち主だった。
 大きな欠伸を一つ。そして入れ歯がずれ、ふごふごと鳴く。
2, 1

  

 2時間経っても全く変わらない、狭苦しく古めかしい茶色がかった風景に、ようやく変化が訪れたのは、近くの小学校の終業ベルが鳴って、学童達が街へと解き放たれてから少ししての事だった。
「ばあちゃんただいま!」
 砲弾と化した少年が、店内へと突っ込んできた。左肩にはランドセル、膝下のズボンから伸びた足には絆創膏、若さに瞳を爛々と輝かせて、積まれた本を颯爽と飛び越し、たぬきの置物を踏み台にして、ビンテージジーンズののれんをくぐり、売り物のハープをかき鳴らし、颯爽と店主の前に登場した。
「今日も店番するから、ばあちゃんは後ろ下がってテレビでも見てなよ」
 店主七岡つるの孫にあたる、霧が丘小学校6年、出席番号25番、飼育係。その名を七岡翔(ななおか かける)と言う。特技はキックベースとドロケイと色鬼。3DSもPSPもあるこのハイテク時代に、外で遊ぶのがやたらと好きなローテク男子だった。
 そんな殊勝な孫を持ったつるは、くしゃっとした笑顔で嬉しそうに言う。
「おお、そうかいそうかい。今日は寿司でもとろうかネェ」
「あー、ばあちゃんまたボケてる。ばあちゃん? 俺が店番変わるから、ばあちゃんは後ろでテレビでも見ててよ」
「おお、そいつはありがたいねえ。今日は赤飯にしようかネェ」
「もうなんでもいいや。ほら、早く早く」
 目を凝らして観察しなければ、動いているかどうかさえ分からないような速度で歩くつるを、倉庫番のように畳の上を平行移動させて奥に押し込み、帳場に座り、適当な本を1冊取って読み始める七岡少年。本のタイトルは、「アーサー・ゴードン・ピムの物語」。150年以上前の、ポーの貴重な長編小説だ。七岡古書店には、このような掘り出し物がたまにある。
 しかし七岡少年にとって本の内容はどうでも良かった。ただ、読んでいるという格好がつけば、それがいかがわしい背表紙をしていない限り、何だって構わないのだ。つまり、いかによく出来た少年といえども、何か別の理由が存在しなければ、滅多に客も来ない退屈な店番を自ら好んでする事は無いという事だ。
 しばらく経って、七岡少年の待っていた人物が七岡古書店を訪れた。
 その姿を横目でちらりと確認するも、七岡少年は一切声をかけない。興味なさそうな素振りで、仕方なく店番を頼まれたような態度で、本を読むフリを続ける。
 同級生、上諏訪衣奈(かみすわ いな)。彼女がいる空間は、あらゆる音が止むように思われるくらいに大人しい少女だったが、時々それは他の同級生達に、「暗い」という印象を与えた。しかしよくよく観察してみると、その表情や物腰には、硬い意思が見て取れる。図書委員を務める物に読書嫌いはいない法則に基き、衣奈も生まれながらの本好きだった。
 「いらっしゃいませ」の一言さえかけない七岡少年は、店番としては失格だったが、来客に気づいているだけ店主よりは上出来だった。衣奈は七岡少年に気づき、不自然なほどすぐに視線を本棚に移した。週に2度ほど、衣奈は七岡書店を訪れ、その日は決まって、七岡少年が店番をしている。しかもクラスは同じで、男女で背の順に並ぶとちょうど隣同士になったが、2人は1度たりとも言葉を交わした事が無かった。
 縁結びの神様も手の施しようが無い程に、2人の距離は離れていた。小学生の間にままとしてある、あの「異性と親しく喋ったら恥知らず」という独特の空気が、七岡少年らのクラスにも存在していた。それでもなお、七岡少年が衣奈を待ち伏せしてまで観察するのには、理由がある。
 七岡少年のクラスに、ある少女がいた。その少女の家は、喜んで学校にピアノを寄付をするくらい教育に熱心で、誕生日には広いお屋敷に同級生を呼んで庭でパーティーを開く程に裕福だった。そうしていると、自然と同級生達も少女には頭が上がらなくなる。何せ「付き合っていれば得」で、「嫌われれば損」というのは、いくら子供といえども分かりきっている事だった。
 ある時、少女、もとい少女の両親は、学校にうさぎを6匹ほど寄付した。ペットショップに行って、少女の気に入ったものをわざわざ選んだ。動物の飼育を通して、生と死について考える事は、情操教育にとても良いというのは建前で、本当はうさぎを飼いたいとわがままを言いだした娘を納得させる為、しかし家で飼うのは何かと厄介なので、学校に押し付けただけの話だったが、何はともあれ生徒達はかわいらしいうさぎの来校をもろ手あげて歓迎した。校庭の隅に飼育小屋が建てられ(これも少女からの寄付だった)、各クラスの飼育係が交代交代で世話をする事に決まった。
 だがしかし、子供達の飽きは早い。季節が1つも過ぎれば、次第にうさぎの事は忘れられ、飼育係の約半分が脱落し、毎日様子を見に行くのは七岡少年だけになった。他の生徒達は、時折思い出したようにうさぎ小屋に行って、給食の残りをあげたり、べたべたと触ったりしてうさぎを楽しんだ。大抵の小学校で、良くある光景といえるだろう。
 そんなある日、うさぎの1匹が急死した。
 3日ほど前から、その1匹の様子がおかしい事に七岡少年は気づいて、先生に報告していたが、獣医に連れていく手間を買って出る先生が残念ながらいなかったのが悲劇ともいえる。
 1匹のうさぎの死は、センセーショナルな話題となって、学校中を駆け巡った。少女達はうさぎを想って泣き、絵や作文を書いた。そしてある日の学級会で、このような議題を提出した人物がいた。
『私達のかわいいうさぎを殺したのは誰か?』
 提案者は、うさぎを寄付した張本人である少女だった。
 真っ先に、飼育係である七岡少年が責められた。結託した女子達は、「ちゃんと面倒を見ていなかったからだ」と主張し、先生が「命あるものはいつか……」と当たり前の事を言っても、誰も聞く耳を持たなかった。
 ほとんど毎日世話をしていた七岡少年はその時、一切の反論をしなかった。むすっとした表情で女子を睨みつけ、反抗的な態度だったが、その裏では、「様子が変だと思った時に、もっと強く先生に言うべきだった。強引に連れ出してでもうさぎを獣医さんの所に連れて行くべきだった」という後悔があった。だからこそ、言い訳が出来なかったのだ。
 誰のものとも知れぬ罪を押し付けられ、女子の総攻撃に会う七岡少年を、より強い権力でもって助けられる人物は、クラスにはいない。結局、七岡少年が頭を下げて謝るまでこの茶番は続き、1匹のうさぎの死は、全員の中で、1人の少年の怠惰として解決されていくように思われた、その時。
「あの……」
 手をあげた1人の少女がいた。衣奈である。
「あの、私、その、見ました」
 しどろもどろになりながらも、衣奈はしっかりと言う。
「見ましたって、何を?」先生が尋ねる。
「チョコレート、あげている所……」
 そう言って衣奈が指差さしたのは、うさぎを寄付した張本人である少女だった。少女は立ち上がり、ヒステリックに叫ぶ。
「だから何よ!? チョコをあげて何が悪いって言うの? うさぎ達はおいしそうに食べていたわ!」
「駄目なんだよ」
 七岡少年が、呆れ気味に呟いた。
「うさぎにチョコをあげちゃ駄目なんだ。中毒を起こして死ぬ事もある」
 衣奈がこくこくと頷いていた。
 責める立場から一転、責められる立場へと転落した少女は、顔を真っ赤にして必死の反論を見せたが、それに同意する者は誰もいなかった。そのまま学級会はお開きとなり、お通夜のような雰囲気の中、生徒達は散り散りに帰って行った。
 その時にこそ、七岡少年は衣奈を呼び止めて礼を言うべきだったのだ。衣奈は七岡少年の窮地を救った。自らがクラス全員の攻撃の的にされる危険を冒してでも、真実を暴露した。何せ相手はクラスのリーダーで、少女がその気になれば気弱で内気なクラスメイトの1人を孤立させる事くらい容易いのだ。それでも衣奈はしてのけた。七岡少年は不思議に思った。夜になってようやく、感謝をすべきだと気づいた。
 それから、七岡少年は衣奈に声をかけられずにいる。七岡少年には、「きっかけ」が必要だった。
 七岡少年の欲しかったきっかけは、埃が積もった本棚が与えてくれた。
 衣奈は読書少女である。読書少女は読書をする。読書をする為には何が必要か? 答えは簡単、本である。
 そしてここは七岡古書店、一般的な小学生の興味を引くような、無闇に楽しげ物は滅多に無いが、ただ珍しいだけの本ならば沢山ある。
 七岡少年は読書するフリをしながら、本を選ぶ衣奈を視界に捉えていた。寡黙な所は学校での彼女の姿と相違ないが、心なしか、その表情は柔らかで、笑顔までとはいえなくとも、笑彦くらいに和みがあった。
 悩む。声をかける台詞は、いくらだってある。「何か探してるのか?」「こんな汚い店に良く来るなあ」「最近どんな本を読んだ?」「掘り出し物はあったか?」「その眼鏡はどこで買ったの?」どれも不自然で不適切であるように思えたが、そもそも声をかける事自体がわざとらしく、恥ずかしく感じて、結局また本を読んでいるフリを続けた。
 その時、衣奈が1冊の本を七岡少年の前に持ってきた。七岡少年は出来るだけ動揺を隠し、うざったそうに接客しようとする。
 普段ならば、衣奈が本を置き、書かれた値段分のお金を払い、お釣りがあればそれを七岡少年が渡し、本を衣奈が持って帰るという一連の無言の業だが、今日は少し違った。なんと、衣奈が喋ったのだ。
「あの……」
 たった一言。それで七岡少年はパニックになった。なったはなったがそこは小学生男子たるもの、決して取り乱した様子を見せてはならなかった。
「何だよ?」
 一触即発、喧嘩になる一歩手前のような口調に、今度は衣奈がパニックになった。重苦しい空気の裏側で、混乱の連鎖が発生していた。
「あ、あの……その……」
 言ったきり、俯いて恥ずかしそうに、衣奈は頬を染めていた。何か言わなければいけない、と思えば思う程それがプレッシャーになって、相手にどう思われるかを考えれば考える程にますます状況が悪化するという、内向性の強い人間に良くありがちな現象だ。
「はっきり言えよ」
 七岡少年は七岡少年で、目の前の少女をどう扱って良いか分からずに、ぶっきらぼうにそう突き放してしまった。本音を言えば、衣奈に逃げ出して欲しかった。もっと本音を言えば、自分が逃げ出したかった。
「あ、あの! こここ、この本なんだけど!?」
 七岡少年の願った選択肢は選ばれず、吹っ切れた衣奈の語尾は裏返っていた。
「こ、この本、なんだけど……」
 今にも消え去りそうな声で、差し出した1冊の本。それが全ての始まりだった。


 実に奇妙な本。と、表現する他に無い。
 表紙は黒で背表紙も黒。字が金色で描かれているが、日本語ではない。それだけならただの豪奢なハードカバーの洋書なのだが、「奇妙」と形容されるべきはその本としての機能にあった。
 端的に言うと、その本は開かなかった。本を本たらしめる紙の束に指を差し込めば、大抵の本は何の抵抗も無く左右に開き、読む者に文字という情報を与える。古い本でも多少の埃を吐き出したり、あるいはもっと古い本ならば、虫に喰われている事もあるが、七岡少年が全力で両側に引っ張っても全くビクともしないというのは、なるほど「奇妙」な本だった。話は逸れるが、こんな本でも確認せずに買い取ってしまうから、七岡古書店は赤字なのだ。
「ふぐぎぎぎぎぎ……」
「な、七岡君! もういいよ?」
 力が無いと思われるのが嫌で、血管が切れる程の力を出しきっている七岡少年と、それを止める衣奈。
「はぁ……はぁ……駄目だ。開かない」
「だ、だよね? 変な本だなぁと、思って……」
 表紙と背表紙に書かれている金文字は、アルファベットらしいのだが、所々文字に変な点々がついていたりして、知っている単語も全く無い。そもそも発音さえ難しいような文字なのだ。「Zukunftsweisende」と、声に出して読める小学生はまずいないだろうし、大人でもそう滅多にいない。
 結局、にわか店番である七岡少年に対処は出来ず、裏で時代劇を見ていた店主に助けを求めたが、「婆ちゃん! この本何だか知ってる!?」「おやおや、しばらく見ない内に翔も大きくなったネェ……」案の定、要領は得ず、開かずの扉ならぬ開かずの本をどうすべきか、結局持て余す事になった。
 衣奈は表紙の文字をなぞって言う。
「これ、ドイツ語にあるウムラウト記号、かな?」
 衣奈が指差したのは「U」の上にある2つの点々。「ウムラウト記号」と呼ぶ事さえ知らなかった七岡少年にそれをそうだと断言する権利は当然無かったが、形上は同意しておき、衣奈から本を受け取る。
「てことはドイツ語、なのかな。何て書いてあるんだろ?」
 ドイツ、といえばソーセージくらいしか浮かばない。そもそもソーセージがドイツ語かも分からない七岡少年に、やはり読解は不可能だった。
 本の表紙を憎々しげに睨む七岡少年を、衣奈は覗き込む。「近い!」と心の中だけで叫びながら、七岡少年はそっと距離を取る。
「さっぱり分かんないな……」とその時、七岡少年が閃いた。「ん? ドイツ語……? ドイツ語だったら、ゴロー兄ちゃんが分かるかもしれない」


 ゴロー兄ちゃんとは、つるが古書店の傍らで管理している古アパートの2階に住む人物で、本名を新垣連次と言う。名前とは何の関連性もなく「ゴロー」とあだ名される理由は、アパートに引っ越してきた当初、大学受験を「五浪」していたからであり、希望の大学に無事合格した今となっても、七岡少年からは親しみを込めて「ゴロー兄ちゃん」と呼ばれている(もちろん本人は嫌がっている)。法学部なので、第二外国語はドイツ語を選択しており、それを覚えていた七岡少年の人選は非常に的確だったといえるだろう。
 人物紹介が済んだ所で、ちょうど七岡少年と衣奈の2人組は、ゴローの住むアパート「あけび荘」に到着した。ノックをすると、平日の昼下がりにも関わらず、中から低い男の声。
「勧誘ならお断りだ。何か奢ってくれるなら話は聞くが」
「ゴロー兄ちゃーん」
「その声は、あの悪ガキだな。勧誘よりタチが悪い。何か奢ってくれるなら話は聞く」
「奢らないけど聞いてくれよ」
「ほら見てみろ、タチが悪い」
 そう言いつつも、ドアは開く。よれよれのシャツにリアルダメージジーンズ。目は寝不足を強烈に主張し、エキセントリックな寝癖は喫茶店のスパゲッティ見本よろしくかっちりと固定されている。無精ひげは標準装備。いかにもな駄目人間だったが、これでも法律家の卵だ。
「おや、見ない女の子だ。彼女?」
 開幕して速攻の質問に、七岡少年はすぐに対抗呪文を放つ。
「そんな訳ないだろ!」
「だよなぁ。俺にも居ないってのに、悪ガキに出来てたまるかってんだ」
 七岡少年が横目でちらりと衣奈の方を確認すると、恥ずかしそうに俯いて、頬を染めていた。ますますいたたまれなくなった。
「で、何か用?」
 そう問われた七岡少年は衣奈から本を受け取り、それをゴローに手渡した。
 ゴローはぱっと表紙を見て、「ドイツ語だなあ」と嫌そうに言う。
「その本、変なんだ。開かないんだよ」
「本が開かないだと~? 何言ってんだ。開かなきゃ読めないじゃないか」
 などと言いつつ、ゴローも試してみる。確かに開かない。うににに、と力を込めても全くもってビクともしない。背表紙の方が開くのでは? いやいや本が横に開くのでは? と色々な角度から試してみたが、さしたる変化はない。
「なるほど、こいつは変だ」
「だろ? ゴロー兄ちゃんなら、なんて書いてあるか分かると思って、持ってきたんだけど」
 万年寝ぼけ気味のゴローも少しは目が覚めたようで、表紙をまじまじと見直す。
「えーとこれは……どういう意味だっけかな。ツ、ツクンフスワイサント、えー、グシシット、えー、ダーアンタウェール……」
 ゴローが言葉を口にした瞬間。本が、具体的に言えば表紙の部分、文字の一部が、わさわさ、と蠢いた。ほんの一瞬の出来事だったか、それは確かな現象だった。そこにいた3人は、互いに目を見合わせる。
「い、今、動かなかった?」と、七岡少年。
「いやいや、そんな訳ないだろう」と、ゴロー。
「う、動いたように見えました」と衣奈。
 多数決で「動いた」が可決され、非日常化法案は通過した。
4, 3

  

 ゴローが表紙の文字を読んだのが功を奏したのか、本は、気づくと開くようになっていた。
 といっても、たったの1ページだけ。表紙のみが、今度は何の抵抗も無く、普通の本を見習って、読者の為に働いた。中も当然のようにドイツ語で書かれている。さっきまでどれだけ力を込めても開かなかった本が、今度は簡単に開く。動いたのは見間違いだったとしても、これはただ事ではない、と感じたゴローは、七岡少年にお願いされるまでもなく、玄関先で分厚いドイツ語辞典を広げて、一心不乱にそれを読み始めた。
「ゴロー兄ちゃん、なんて書いてあるんだ?」
「黙らっしゃい。ただ今翻訳作業中だ」
 埃まみれの辞書を懸命に引きながら、ゴローは懸命に読解を進める。その様をわくわくしながら眺める2人は、さながら兄妹のように、あるいは夕飯を待つ子供のように、目を爛々と輝かせていた。
「今、隣にいるこの子は、どうやら冒険とか不思議とか、そういう類の物が大好きらしい」という共通認識がお互いに生まれた頃、ゴローによる翻訳は完了した。
「えー、ごほん。諸君、ここになんて書かれていたのか聞きたいかね?」
 もったいぶって言うゴローに、2人は「聞きたい!」「です!」と声を揃えて言った。


『勇者マルフェールはかの地に立った。荒れ果てた土地だった。無限の闇が続いている。そこは異世界だった。マルフェールの他には、神が2人いた。マルフェールには使命があった。この世界を壊す者、滅びの化身、魔王を倒さねばならぬ。村が必要だった。文化が必要だった。神はそれを与えた。神がそれをマルフェールに与える為には、広い空間と、薄暗さと、神だけがいる事が必要だった』


「……ゴロー兄ちゃん、何言ってんの?」
「ここにそう書いてあるんだから仕方ないだろう。ちなみに、次のページは開かないから続きは分からん」
 意味不明の文章だと思うのも無理からぬ話だった。七岡少年は全文の半分も行かない所で理解を諦め、一方で熱心に聴いていた衣奈も、首を傾げて黙している。
「まあ今の所、書いている意味は分からんが、変な本である事は間違いない。もうちょっと調べてみたいから、これ、俺に譲ってくれ」
 と、ゴローはぶっきらぼうに、頼むというより命令する風に言った。七岡少年は、一瞬2つ返事で承諾しそうになったが、隣でまだ考えている人間に気を使うべきだと思いなおした。
「えっと、それでいいか?」
「……えっ? 何?」
 衣奈が全く話を聞いていない事実が発覚し、ゴローは全く同じ口調で全く同じ台詞をもう1度言った。
「えっと……」
 衣奈は言いにくそうに、身体をもじもじとよじらせた。汗をかいている。さあ、七岡少年の出番だ!
「それ、一応売り物なんだよね。とりあえず婆ちゃんに許可もらってから、もう1度来るよ」
「そうか。なら仕方あるまい」
 ゴローも流石に大家さんには頭があがらないらしかった。
 2人はアパートを後にして、しばらくの間黙って歩いた後、衣奈が唐突に言った。
「な、七岡君! 今から変な事を言うかもしれないけど、笑わないで聞いてくれる?」
 七岡少年が許可すると、大きめのダムが決壊したように衣奈は考えを言葉にした。
「も、もしもなんだけど、本の中の世界があるとして、『マルフェール』が主人公だとしたら、書かれていた『異世界』というのがここの事で、『神』というのは、本を読む人の事じゃないかな? そ、そうしたら、書いてあった通りに『広い空間』と『薄暗さ』が必要で、そこでしか、この続きは読めないんじゃないかな? って……そんな事を……思ったり、思わなかったり……気にしなくても……いいんだけど……」
 どんどん声が小さくなっていくので、最後の方はほぼ聞き取れなかった。だが、七岡少年はちゃんと衣奈の言葉を受け止めて、真剣に考えた。
「薄暗くて広い空間……1つだけ、良い場所がある」
6, 5

  

 街の外れに1つのビルが建っていた。
 七岡少年ら近所の少年達が「お化けビル」と呼ぶそれはまさしく、怪談に出てきても何ら不可思議ではない佇まいで、実際、過去には何度か、ホラー映画等の撮影に使われた事もあるという噂があった。お化けビルという名の由来は秘密のベールに包まれているが、「お化けが出そうだから説」と、「お化けが建てたから説」があるが、どちらも信憑性は薄い。
 コンクリートむき出しの壁。西側には蔦が絡まり、あみだくじの様相を呈し、東側には近所の不良が描いたクオリティーの低いグラフィティが描いてある。しかしながら、この場所も本と同じく、肝心なのはその中身である。打ち捨てられた、灰色の、無機質な空間。もしもビルが感情を持つ存在としたら、人々に対して抱く「空洞感」を如実に表していた。
 お化けビルは、七岡少年と衣奈が通う小学校から歩いて10分ほどの距離にあり、「立ち入り禁止」の看板は申し訳程度に張られているが、突破困難なバリケードがある訳ではないので、「興味本位の子供が勝手に入って危険ではないか」という問題にも1度なった事があるが、子供というのはいつの時代も正直だ。
 何せ面白い物など何一つない。ただ広いだけの空間で、昼間も暗い。せいぜいそのシーズンに肝試しスポットとして使われるのがせきの山かと思いきや、お化けビルにちなんだ有力な怪談も特に無いのでインパクトが薄く、墓地の方がまだ活気があった。
 つまり、大人達の心配をよそに、子供達は見向きもしなかったという訳だ。クラスのリーダー格である小林君が仰るとおり「家でゲームしている方が1万倍マシだろ」で、ドロケイやポコペンがしたいなら近くに自由に使える広い公園がある。更にビルの所有者も現在行方不明になっており、勝手に取り壊しも出来ない為、完全に放置されているというのが現状だった。
「お化けビルなら、誰もいないし、広いし、暗いから、条件にあっているんじゃないか」
 七岡少年がそう提案すると、衣奈は複雑な表情を見せた。お化けビルを怖がっているような、それでも七岡少年の提案に賛成したいような、始まりかけている冒険に水をさすのが躊躇われ、賢い子供が良く見せる、あどけないながらも思慮深いあの表情をした。
 衣奈の心中を察してか、それとも全く察して無いのか、七岡少年は自信満々に、
「きっと大丈夫だ」
 と言った。何の根拠も無いけれど、七岡君が言うと妙に安心出来るなぁ、と衣奈は思った。
 七岡少年はコンコン、と本の表紙を叩き、
「それに、こいつが何なのか知りたいだろ」
 それには衣奈も100%同意した。


 お化けビルの階段を上る。埃の積もった床に、2人分の足跡がついていく。
 光源の少なさからやはり暗く、一瞬、未知なる闇への恐怖が七岡少年にここを選んだのを後悔させた。だが一度言った手前、やっぱりやめようなどとは口が裂けても言えず、背後に衣奈の気配を感じながらも、ずんずんと前に進んでいく。
 お化けのビルの2階は、まさに本が注文した通り、広く、暗く、2人以外誰もいない空間だった。廊下を挟んで2部屋に分かれ、元は大きな事務所か、レストランか、はたまた何かの展示室だったのか、片方の部屋は壁が取っ払われて、封鎖された窓の隙間からは一握りほどの明かりが差し込んでいるのみ。10m先は見えないが、足元ならばはっきりと見えるといった按配。
 その圧倒的空虚感にため息を漏らすのと同時に、七岡少年にとって衝撃的な事が起きた。
 ぴと。右手に触れた、柔らかな指の感触。
「あ、ご、ごめんなさい!」
 衣奈はぺこぺこと謝って、「その、少し怖くなって……近づきすぎちゃって……ごめんなさい」と言った。七岡少年はここで、「気にするな。ほら、手を握って」くらいは言うべきだったのだが、それは流石に出来なかった。
「そ、そうだ、とっとと続きを読もう」
 七岡少年はまるで悪い事を誤魔化ように言って、本の最初のページを開いた。
 と、そこまできてようやく2人共、これから何をどうすればいいのか分からない事に気づいた。
 突如としての不思議との接触、日常からの離脱に舞い上がって、勢いでここまで来てみたが、よくよく考えてみれば、ゴロー不在でドイツ語など分かるはずも無い。この本が一瞬だけ動いた事は確かだったが、それを誰かに喋っても馬鹿にされるだけなのは目に見えており、かといって実際に動く所を他の誰かに見られたら、子供達の手にはおえないと判断され、すぐに没収されてしまうだろう。だから、七岡少年がすぐにここへ来たのは2人にとって正しい選択だったが、いかんせんヒントが少なすぎたのだ。
「どうする?」
 2人は同時に、互いにそう尋ねた。
 七岡少年は仕方なく本を開くが、当然暗くて読めない。暗くなくても読めないが、ここでは文字を文字と認識すら出来ないという最下層の意味において読めなかった。
 せめて文字だけでも追おうと、小さな窓から入る光をあてるべく、七岡少年が本の角度を変える。
 その行動が、正しかった。
「うわっ、なんだ!?」
 開いた本の上に持った文字は、七岡少年の傾けた方向にずざさささ、と流れた。それは既にインクではなく、まるでヘアピンを曲げて作った文字のように、不安定に、ページの上に乗っかっていた。
 七岡少年は咄嗟にバランスを取ろうと本の傾きを修正したが、時既に遅し。本から流れ出した文字は廃墟の床に零れて、それは淹れたての熱いコーヒーに角砂糖を投入したかのように一気に溶け出した。本を並行に戻しても、残りの文字は先に落ちた文字を追いかけるように垂れて落ち、結局、七岡少年の手には、真っ白なページだけが残った。
「い、今の見た!?」
 七岡少年はそう叫びながら、まず自分の目を疑った。しかし衣奈から「み、見た!」という答えが返ってくると、それが現実の物であると理解した。
「やっぱりこれ、魔法の本なんだ」
 七岡少年の言った言葉が正しいかどうかはさておいて、確かに普通の本は文字が零れ落ちたりしないし、勝手に蠢いたりもしない。七岡少年は自分の言った言葉が余りにも子供っぽく、衣奈に変に思われたかもしれないと懸念したが、衣奈は「魔法の本」という言葉に納得して、また、一瞬で気に入った。
 零れ落ちた文字を拾おうと、七岡少年はしゃがむ。つられて衣奈も同じくしゃがむ。しかし前述の通り、文字は全て廃墟の床へと溶け出してしまった。
 しかしそこには明らかな変化があった。文字が落ちてしまった部分だけ、煤でも溜めたように真っ黒だったのだ。
 2人は息を飲み込んで、黒い部分を凝視する。何か、突起物が出てきた。暗さに目が慣れてきたのもあって、もう少し分かる。黒の中に一際目立つ銀色の、三角形の物体が、左右に揺れながら、まるでたけのこみたいに生えてきたのだ。
「な、何これ……!?」「しっ」七岡少年が衣奈をいさめる。衣奈は口を押さえて、両目を見開く。
 段々と大きくなっていく銀色。それに比例するように、2人の鼓動が高鳴る。
 やがてその銀色は、握りこぶしサイズの、黒くて丸い奇妙な生物をつれてきた。
 それが生物だと認識できたのは、もちろん動いていたからだからというのもあるが、「顔」があったというのが大きい。真っ黒な肌に白い目と耳と口、それから眉毛まである。先ほどまで見えていた銀色のは、頭に被っていた兜だったようだ。中でも特徴的なのはその耳で、触手のように長く、うにうにと動いていた。体は、色と良い形と良い、つるがお盆に良く作る、少し大きめのおはぎだった。
 出身、性格、生態、正体、いずれも全くの不明。唯一明白なのは、その生物が既存のどの生物にも属さないという事だけだ。
8, 7

  

「むん?」
 謎の生物は、驚愕の余り言葉も悲鳴も一向に出てこない2人を見上げて、渋い声でそう言った。
「お……」
 七岡少年は、自分が今から言おうとしている事が、どうにも間抜けな質問である事に気づいてはいたが、言わずにはいられなかった。
「お前は……誰だ!?」
 見て分かる通り、「謎の生物」である。「自分は何々だ」という回答が返ってきた所で納得する訳でもあるまいし、そもそも日本語が通じるかどうかさえ怪しい。しかも、衣奈の目の前では出来るだけクールに振舞う、という今月の努力目標も無視していたので、確かに間抜けな質問だった。
 だがしかし、その質問も正しかった。
 謎の生物は胸を張って堂々と、流暢な日本語でこう宣言した。
「我が名は勇者マルフェール! 神よ、我に光を与えたまえ!」

 ――マカイノ暦0年、偉大なる勇者マルフェールが大地に降臨した。
 自らを勇者と名乗ったそのへんてこな生物は、堂々と胸を張って(どこが胸なのかも曖昧ではあるが)2人の神、つまり七岡少年と衣奈を見上げた。2人はきょとんとして、顔を見合わせ、お互いの目を疑った。何せ、ファンタジーの世界に勢い良く片足を突っ込んでしまったのだから、そうせざるを得なかった。
 気の弱い人間ならば、この突然の未知との遭遇に絶叫し、逃げ出していたかもしれない。また、嗜虐的な人間ならば、こんな小さい生物は踏み潰していたかもしれない。しかし2人はどちらでもなかった。どちらでもない、好奇心の塊だった。
「すごい!」
 この正直な台詞が、休み時間にはいつも本を読んでいて、誰の目にもとまらず帰る特技を持った、内気で恥ずかしがりやの女の子の口から出たのだから、それは本当に「すごい」事だった。
「す、すごいけど……なんだこれ? どうして日本語が喋れるんだ?」
 むしろ七岡少年の方が、衣奈よりも冷静になっていた。そしてもっと冷静だったのが、マルフェール本人だった。
「神様、『これ』呼ばわりとは酷いですな。勇者マルフェール。魔王を打ち倒し、この世界に安息をもたらす為にやってきた誇り高き戦士の名であります」
 一点の曇りもなくそう言い切られても、2人の困惑は当然加速する。
「……魔王?」
「ええ、魔王! 我輩は魔王を倒す為に、この異世界にやってきたのですぞ!」
 と、息巻くマルフェール。しかし2人には、いや、この平和な日本で住んでいる者にとっては、「魔王」という代名詞をあてがわれてピンとくる人物はそうそういない。居たとしても、せいぜいビジュアル系ロックバンドの自称魔王くらいのものだろう。わざわざそんな善良な市民を倒しに、古本屋の片隅で眠っていたとも考えにくい。
「えっと、魔王なんて、いないよ?」
 衣奈が少しでもちゃんと伝わるように、言葉を区切ってそう言った。マルフェールは「むん?」と首を捻って、簡潔に答えた。
「居なければ、作れば良いのではあるまいか?」
 勇者の為に魔王を作る。本末転倒とはまさにこの事だ。
「つ、作るったって、どうやって?」
「神にも分からない事が我輩に分かるはずが無いでしょう! わははは!」
 胸を張って、大笑いしながら答えたマルフェールに悪気は無い。
 空間に沈黙が、波紋のように広がった。人類と、謎の生物。お互いに、相手が何を考えているのか全く分からない状態だった。本の正体は依然不明のままだが、その存在が現実を遥かに越えている事ははっきりと分かった。そしてこの未知なる生物マルフェールが、七岡少年らに対して好意的なのもかろうじて分かった。しかしそれでもなお、分からない事だらけだった。アメリカ製の強力で大雑把なミキサーでドロドロにシェイクされた謎を、また別の謎の型にはめて固めたような状態。
「な、七岡君、ここまでが、さっきゴローさんが訳してくれた内容と一緒だから、もしかして、次のページが開いているかも……と、思ったんだけど……」
 と、衣奈が建設的な提案を消極的にした。七岡少年はずっと片手に持っていた本の、真っ白のページに触れ、それが現実である事を触覚をもって再度確認してから、次のページを開く為に指を差し込んだ。すると、いとも容易く紙は捲れた。
「開いた……けど、何て書かれているかは分からないぞ」
 言ってから、この本に書かれた文字は読む必要が無い物であるという事を思い出した。1ページ目は、ゴローが訳してくれた事によってその条件が分かったが、2ページ目と同等の条件かは分からない。しかし、とりあえずやってみて、駄目だったらもう1度ゴローの所に行けば良い。それくらいの気軽さを持ち合わせていた。
 七岡少年が本を傾ると、そこに書かれた文字が流れだした。読み流す、とはこの事かもしれない。
 まるでコールタール、粘性の強い液体のように、床に注がれた文字達は、マルフェールを召喚した時と同じく、黒い淀みとなって堆積していった。
 本の内容も分からないのに、こんな事をして良いのだろうか? という疑問も、一瞬だけ2人は浮かべたが、それはちっぽけな物で、好奇心という風に吹かれてどこかへ飛んで行ってしまった。2人は今、今まで持っていた世界観を猛烈なスピードで書き換えている。
「今度は何が出てくるんだ?」と七岡少年。
「おお、これこそが神の奇跡!」とマルフェール。
「魔王が出てきたらお願いね、マルちゃん」と衣奈。
 いつの間にか「マルちゃん」というあだ名をつけられていたマルフェールがそれに気づく暇も無く、次の変化は訪れた。
 黒い淀みから生え出してきたのは、木で出来た「杖」だった。杖に引っ張られるようにして出てきたのは、マルフェールと見た目は同じ、しかし被っている物が違う生物だった。マルフェールのは兜だが、次に出てきたのは高くて四角い帽子で、何やら模様が描いてある。王冠に見えなくもないが、きらびやかさは無く、質実剛健なデザイン。
 体の大きさはマルフェールよりも一回り小さいくらいだが、両腕を使って杖を高く掲げているので少し大きく見えた。
「勇者の次は魔法使い? いや、僧侶かな?」
 七岡少年が冗談半分に言ったその言葉は、当たっているとも言えないが間違ってもいなかった。その生物はマルフェール同様、2人の姿を見て、七岡少年の疑問に答えた。
「私は、神官です」
 マルフェールよりは遥かに落ち着いた口調で、自称勇者よりも頼りになる気がした。「名前は無いの?」と、衣奈が尋ねる。
「名前……そうですね。ありません」
 横で見ていたマルフェールが何故か得意げに胸を張った。
「神官は何をするんだ?」
「神の仰せのままにします。それが神官です」
「神って?」
「あなた達の事です。何か命令はございませんか?」
 神官の冷静沈着な口ぶりに、思わず納得させられるが、当然「命令」など無く、2人は沈黙の中で困惑する。神官の方にはこれ以上の変化は無く、マルフェールには目もくれず、2人を呆然と見上げている。命令は無いが、質問は山ほどある。七岡少年が代表して、思い浮かんだ物から順番にぶつけていく。
「お前達はどこから来たんだ?」
「本の中からです」
「それは分かってるんだけど……えっと、名前は? お前の名前じゃなくて、お前達の名前」
「私達に名前はありません。神が自由につけてください」
「じゃあ、マルフェールにはどうして名前があるんだ?」
「それは分かりません」
 神官の答えには一切の悩みが無かった。
「まあ、名前の事はもういいや。どうして日本語が分かるんだ?」
「ここが日本だからでしょう」
「ドイツ語は分かるか?」
「分かりません」
「……これから俺達はどうしたら良いんだ?」
「神の思うがままに」
 そして深々と、礼。馬鹿にされてるのか、敬われているのか、判断がつかない。七岡少年もお手上げになり、今やれる事と言えば、たった1つ。
「とりあえず、次のページに行ってみようか」
 衣奈の同意を得て、七岡少年は本を先に進めた。
 もはや文字がある事を確認しようともせず、本から文字を流す。次に何が出てくるのか、どんな展開を見せるのか、先を知りたくてたまない気持ちは、普通に本を読んでいる時と変わらない。
 流れ出した文字は、今までのとは少し違うようだった。一部分に留まって形を作り始めるのではなく、むしろ薄く平たく床を覆い始めた。思わず七岡少年は黒い部分に触れないように飛びのいたが、衣奈は乗っかっても平気なようだった。気まずさを感じながらも、七岡少年もそこに乗る。感触は普通の床と何ら変わりないようだ。
 マルフェールと神官がその本の「登場人物」とするならば、次に現れたのは「舞台」だった。この物語の舞台は、広大な、そして何もない茫漠とした大地だった。大地は床一面を覆い、床は真っ黒になった。
「おお、神は我々に大地を与えてくださった!」
 マルフェールが仰々しく感動するので、2人は何か大きなことをしてあげたような感覚になって悪い気はしなかった。何せマルフェール達にとっての大地を作ったのだから、神という呼び名もこれでしっくりと来る。
 変化はまだまだ訪れる。今度は真っ黒い大地から、白くて小さい何かがぽつぽつと生え出した。髪の毛ほど細さの、糸のような物。黒い紙に白のインクを垂らしたのと同じ事なので、それは当然目立った。それらはビデオの早回しのような速さで成長し、生えている範囲は拡大し、中にはマルフェールより背の高い物も存在した。人間が知る、木や草、それらと同じ性質を持っている、まさに植物だった。
 眼前で、息をつく暇も無く目くるめく起きた出来事に呆気にとられた2人は、言葉を忘れてしまったようだった。ただお互いに顔を見合わせて、夢でない事を、嘘でない事を何度も確かめた。神官は恭しく言う。
「神様、このような素晴らしい物を我々に与えてくださって、感謝の極みでございます。つきましては、ここに我々の村を作りたいと思うのですが、いかがでしょうか?」
 何も無い大地に、人の住む村を作る。開拓とはそういう事だ。
「村? 村なんて、どうやって……」
 答えは明らかだ。本を読むしかない。本を開き、文字を零す過程、以後省略。
10, 9

  

 次に本から現れたのは、神官と同じ大きさで、しかし何も身に着けていない数匹の生物だった。何の特徴も無いので、これら1匹1匹には「村人」という呼称がぴったりで、それは2人の間ですぐに浸透した。
「これより、我々の歴史は時を刻み始めました! 神よ! どうか暖かく見守り、我々の発展を支えてください!」
 神官は2人の神に向け、そう宣言した。
12, 11

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