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冬/自室/高校生

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 私の家には暖房がない。
 南国の話じゃない。仙台の話だ。ひかえめに見ても、北国の部類に入る。真冬になれば、氷点下の日も少なくない。にもかかわらず暖房を買ってくれない両親は、二人そろって異常なほど寒さに強い。若いころ駅伝をやっていたからだというけれど、そんなのは理由にならないと思う。もしかすると、我が家は貧乏なのかもしれない。すくなくとも裕福でないのは確かだ。
 私の部屋にある暖房器具といえば、湯たんぽと毛布ぐらい。べつに、私ひとりならこれでかまわない。毛布にくるまりながら勉強机の前にすわるのも、幼いころからの習慣になってしまった。けれど、遊びにきた友達が「この部屋さむいね」とか口にするたび、私の心は重くなる。その言葉を発したのがユイだったら、なおさらだ。

 藤川唯。おなじ高校の、二年A組。クラスでいちばん国語ができて、学年でいちばんかわいい子だ。いや、全校で一番かもしれない。一年生のとき同じクラスになってから、仲良くしている。暖房がないことで有名な私の部屋に真冬でも遊びにきてくれるのは、彼女だけだ。
 男子にも女子にも人気の高いユイが頻繁に私の家へ来てくれるのには、いくつか理由がある。ひとつには、私の家がユイの自宅の近くにあること。もうひとつは、私の部屋にたくさんの小説が置かれていること。そして最後のひとつは、ユイの両親が離婚していること。
 彼女の家は母子家庭で、母親は夜の仕事をしている。どういう仕事をしているのか、くわしくは知らない。ただ、あまり良くない噂を耳にするだけだ。そして、ユイはできるだけ遅く家に帰ろうとする。母親と顔をあわせたくないのだ。
 本当のところ、理由はもうひとつぐらいあるのかもしれない。いや、ふたつかみっつか、それとももっと多いのか──。でもいちばん重要なのは、ユイが私のことを好いてくれているということだ。──友達として。

「これ、ありがとう。おもしろかったよ」
 そう言って、ユイは一冊の本を畳の上に置いた。
 昨日貸したばかりの小説。長野まゆみの『天体議会』だった。
 私は本棚を指差して応える。
「その人の本だったら、全部そろってるよ。どれでも貸してあげる」
「ほんと? ありがとう」
 ユイが立ち上がったので、私は本棚の一箇所を指で示した。長野まゆみの本が七冊ぐらい、そこに並べられている。
「あー、いっぱいあるんだね」
 本棚をのぞきこみながら、ユイは人差し指で文庫本の背表紙をなぞった。その指先の動きが、ぞくっとするぐらい美しい。
 彼女はセーラー服の上に学校指定の灰色のコートを着たままで、その背中には墨色の髪が流れている。まっすぐに切りそろえられた、日本人形みたいな髪。つい、手をのばしたくなる。でも、それは許されない。ユイは、体にさわられるのを極端に嫌う。
 理由はわからない。訊いてはいけないことのような気がして、二年間いちども訊いたことがない。

「これにしようかな。ねぇ、これ借りてもいい?」
 ユイが抜き出したのは『夜間飛行』だった。作品は発表された順に並べてあるのだけれど、彼女はそういうことを気にしない。タイトルだけで選んでいる。
「やっぱりね。それを選ぶと思った」
「え? どうして?」
「なんとなく」
「えぇ……っ?」
 ユイは不思議そうな顔をしたけれど、ほんとうに「なんとなく」当たってしまったのだから仕方ない。私としては予想が当たったわけで、ちょっと満足だ。
「でも。でもね。題名だけ見た感じ、これが一番おもしろそうな気がしたの」
 弁解するような口調で、ユイはそんなことを言いはじめる。
 彼女は自分の行動を理由づけて説明することが多い。たとえばペットボトルのジュースを買うときなんかも、どうしてそれを選んだのかということをいちいち説明したりする。ちょっと変わった子だ。見方を変えると、ものすごく正直なのかもしれない。いや、まちがいなく正直だ。ユイが嘘をつくところなんか、見たことがない。

「ユイの好きそうな題名だよね。『夜間飛行』とか」
「うん。あたし、こういうの好き」
 にっこり微笑んで、ユイは胸元に文庫本を押しつけた。正直というか、素直というか──。私みたいなひねくれ者からすると、好きなものを素直に好きだと言えるのはすごくうらやましく思える。
 ユイはスカートの裾をひざに撫でつけるようにしながら、畳の上に腰をおろした。足にかけた毛布を胸のあたりまで持ち上げて、その上に本を広げる。そして、ページをめくりはじめる。細長い指で紙の端をつまむようにしながら、ゆっくりと。いつものように。
 私は、息をつめて彼女の動作を眺めていた。ユイは本を読むことに集中していて、私の視線に気付く様子もない。もし気付いたとしても、本のほうを見ていると思うだけだろう。実際は違う。私は、ユイの手元ばかりを見つめている。

 部屋に暖房がないことからも明らかなとおり、私の家は裕福ではない。ほしいものだって、ロクに買ってはもらえない。けれど、なぜか本だけは買ってくれる。ただし漫画以外、という条件で。両親そろってスポーツ馬鹿だったせいなのか、活字に対してコンプレックスがあるらしい。小説を読んでいるだけで、なにか立派なことをしていると思われてしまう。おかげで、私の部屋にはかなりの量の本が蓄えられている。
 私は両親に感謝しなければならない。ユイが遊びに来てくれるのは、この部屋にたくさんの本があることも理由のひとつになっているからだ。ついでに、私を人並み以上の容姿に生んでくれたことにも感謝しておいたほうがいいかもしれない。もちろん、そうは言ったところで、私なんかユイの足元にも及ばないのだけれど。

 ユイは、本を読むのが好きな子だった。それも、ちょっと変わった読みかたをした。ひとつのシーンを読み終えるごとに、その感想をだれかにしゃべりたがるのだ。読書家の友人はほかにもいるけれど、ユイみたいなのは珍しい。
 今日もまた、彼女は十分たらずで本を閉じた。表紙に手のひらを置いて、その感想をしゃべりはじめる。どちらかといえば無口なほうのユイだけれど、小説や映画の感想となるとビックリするほどよくしゃべるのだ。
 とくに登場人物の心理については、作者だってそこまで考えなかったのではないかと思うぐらい細かく分析した。その分析ぶりといったら、心理学者にでもなれそうなほどだった。心理学者というのが何をする人なのか、本当のところよく知らないけれど。

 私はユイの前に座って、漫画雑誌なんかをパラパラめくりながら話を聞いていた。もう五回ぐらい読んだ雑誌だ。読むフリをして、実際にはほとんどユイの顔や胸を見つめている。
 ざっくりと、おかっぱ頭にそろえられた黒髪。大きな目はすこし垂れ気味で、その目を見ただけでも人の良さが滲み出ているのがわかる。肌は白人みたいに白くて、瞳も金色に近いようなブラウンだ。欧米人の血が混じっているのかと思うぐらいだけれど、生粋の日本人らしい。その証拠に──あまり関係ないことだけれど──英語の成績は悪い。
 ユイが得意なのは国語と歴史で、私が得意なのは英語と数学だ。だから、テスト前にはこの部屋でおたがいの得意な科目を教えあったりもする。ほかにも、いっしょにDVDを見たり、ゲームをやったり、お菓子を食べたり、いろいろする。
 けれどいちばん多いのは、こうやって本を読むことだ。べつに本なんか読まなくてもいいのだけれど、ユイが私の家に遊びに来た最初のときから、もうすっかり習慣になってしまっている。
 なんでもいいのだ。ユイがなにをしていようと。ただ、私のそばにいてさえくれれば。それは、私にとって何よりも幸せな時間だった。
「そうだ。思い出した。今日は相談したいことがあったの。聞いてくれる?」
 長野まゆみの感想をひとしきりしゃべったあとで、ユイは唐突にそんなことを言いだした。
「相談? なに?」
 めずらしいなと思いながら、私は受け答えた。
 めずらしかったのは、相談があるということなんかじゃない。今日うちに来たときから、ユイが何か言いたそうにしているのはわかっていた。それをずっと押し隠してきて、いま『思い出した』とか言いながら言葉にしようとしているのが、めずらしいなと思ったのだ。
 だいたい、ユイが私に何かをたのむということ自体めずらしい。彼女は、どんなことでも一人でかたづけてしまう。友達の助けなんか、必要としない。強いのだ。私とちがって。
 そんな彼女が何かを相談したいというのだから、ただごとではないはずだった。もしかして、恋愛相談とか。──いや、それはない。あってはならない。ぜったいに。
 毛布を肩の上まで掛けなおし、ひざの上の本をまっすぐに整えて、彼女は言った。

「ええとね。あたし、ちょっと前から小説みたいなの書いてるんだけど。それ、読んでみてくれると嬉しいなと思って」
 小説? おもわず、胸をなでおろした。
 そんな私の胸のうちになど気付く様子もなく、ユイは照れたような顔をしている。小説を見せるのが恥ずかしいのかもしれない。だったら見せなければ良さそうなものだけれど、それでも読んでほしいということは、なにか理由があるんだろう。ただ単に、私が読書家だからというだけのことかもしれない。けれど、どんな理由でもかまわなかった。ユイがどういう物語を書くのか、とても知りたい。
「小説? うん。いいよ。読む読む。読ませて」
「ほんと? ありがとう。でもちゃんとした小説なんて書いたことないから、すごいヘタだと思うけど……」
「そんなことないでしょ。ユイは国語の成績いいし、作文だってうまいじゃん」
「ううん。作文と小説って、ぜんぜん違うよ」
「そうなの? 私は小説なんて書いたことないからなぁ……」
「作文はさ。先生に見せるものでしょう? だから、先生にウケるようなお話を書けばいいよね。たとえば、道徳的な話とか、家族愛とか、そういうの。でも小説で道徳的なお話なんか書いたって全然おもしろくないし、だれも読んでくれないでしょう?」
「私は読むけどなあ……。ユイが書いた小説だったら、どんな内容でも」
 つい、本心を口にしてしまった。
 この言葉で、ユイの顔は完全に赤くなった。こんなことで照れるから、彼女はかわいい。けれど、気がつけば照れているのは私も同じだった。顔が熱くなって、背中に汗が浮かぶのがわかった。部屋の中は吐息が白く見えるほど寒いというのに。

「そ、それで、どんなストーリーなの? ユイの書いた小説って」
 たずねてみると、彼女は赤面した顔を隠すように後ろを向いて、なにやらカバンの中をごそごそしはじめた。
「えっとね。ノートにシャーペンで書いちゃったから、すこし読みにくいかもしれないんだけど。……んーと。ちょっと待っててね。……あれ、どこだっけ」
 演技してるのが、まるわかりだった。几帳面な彼女が、小説を書いたノートなんていうものをどこに入れたか、忘れるはずがない。だいたい、学生カバンの中になんてせいぜい十冊ぐらいの教科書とノートしか入らない。きっと、赤くなった顔が元にもどるまで時間をかせぐつもりなんだろう。でも、いまはちょっと助かる。彼女に気付かれないよう、そっと深呼吸をふたつ。それで、私のほうは随分おちついた。

「あったあった。これね。これ」
 ユイがひっぱりだしたのは、どこにでもあるようなキャンパスノートだった。学校の購買で、百円で売られてるノート。右下の端に、『天使と少女』と書かれている。
「なんか、ユイらしい題名だね。それ」
「そう? そうかな?」
 ユイの顔が、ぱっと明るくなった。うれしかったらしい。──ということは、いろいろ考えたり悩んだりして付けたタイトルなんだろう。
「うん。ユイっぽいと思うよ。じゃあさっそく読むから、それ貸して」
「えっ? ちょっ。いま読むの?」
 ユイの声が裏返った。そんなに驚かなくてもいいと思う。
「え? いま読んじゃダメなの?」
「ダメダメダメ! そんなの恥ずかしいじゃない。ノートは置いていくから、あたしが帰ってから読んで。ね?」
 そう言われると、よけいに目の前で読んでみたくなる。ユイがどういう顔をするのか、見てみたい。いっそ、朗読してあげたらどうだろうと思う。われながら趣味が悪い。うすうす気付いていたことだけれど、私はちょっとSなのかもしれない。でもそんな私に自作の小説を読ませようとするのだから、ユイだって相当のMだ。たぶん。

「わかった。じゃあ、今日寝るまえに読むことにするよ。それで、明日感想を言うから」
 寝るまえどころか、ユイが帰ったらすぐに読むだろうなと思った。
「うん。そうして」と言いながら、ユイは畳の上にノートを置いた。両手の指をノートのフチにそろえて、まるで菓子折りでも置くみたいな動作。こういうちょっとした場面での丁寧な物腰が、私なんかにはマネできない部分だ。
「あ、でもね。ちょっと暗いお話だから……。もし気に入らなかったら、読むのやめちゃっていいからね?」
「うん。わかった」
 私はうなずいたが、途中でやめるなんてことは考えられなかった。ストーリーが暗いとか明るいとか、つまらないとか面白いとか、そんなことはどうでもいい。このノートに書かれているのは、ただの小説なんかじゃない。ユイの心の一部を切り取ったものなのだ。
 小説でも映画でも音楽でも、作品には作者の魂が刻まれている。魂の一部。あるいは、魂のすべてが。一字一句、読み落とすつもりはなかった。

 私はノートを手に取り、さらっと表紙をなでてみた。ところどころ汚れている。カドの部分も微妙に折れたりしていて、かなり長いあいだ使われているらしいことがわかる。一ヶ月や二ヶ月で、こんなふうにはならない。さっきユイは『ちょっと前から小説を書いてる』とか言ったけれど、もしかするとその『ちょっと』は半年以上かもしれない。つまり、それだけ真剣に書かれたものだということだ。
 表紙の右下には、ややクセのある文字で『天使と少女』のタイトル。こういうのは、ふつう表紙の真ん中に書くものだと思う。私なら、そうする。でも端っこに書いてしまうのが、ユイのユイらしいところだった。
 タイトルからは、中身の想像がつかなかった。暗い話だと、さっきは言っていたけれど──。
 好奇心に負けて、私はノートを開いてしまった。ユイをいじめてみたいというイタズラ心もあったけれど、なにより小説の中身が気になって仕方なかったのだ。──そのとたん。

「キャアッ!」
 金属を引き裂くような悲鳴をあげて、ユイがつっこんできた。まるで、ボールを奪い取ろうとするラグビー選手みたいな勢い。想像をはるかに上回る反応だった。正直、私のほうが驚いた。
 ユイがノートを取り返そうとしているのは、反射的にわかった。とっさに、私はノートを高く持ち上げた。どうしてそんなことをしたのか、よくわからない。あまりに急なことで、なにも考えてなかったのだ。
 ノートをかかげた左腕に、ユイの頭がぶつかった。悪いことに、あたったのは肘の部分だった。
 ゴヅッ、という音がした。骨と骨のぶつかる、重い音。聞いたことのないような音だった。声もあげずに、ユイは顔をおさえて畳の上にうずくまった。

 サアッ、と血の気が引いた。凍りついたように時間が止まり、耳には何も聞こえなくなる。畳の色がやけに明るく見えて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。
 めまいがした。ユイは背中を丸めて倒れている。長い髪が床に広がって、かすかに震えているように見えた。泣いている、のかもしれない。
 ユイは起き上がらなかった。声さえ出さない。左手は顔をおさえて、右手は畳の上に投げ出されている。その姿勢のまま、まったく動かなかった。ぴくりともしない。まさか、顔の骨が折れたとか──。さっき左肘に受けた衝撃は、それぐらいのことが起こったとしても不思議じゃなかった。
 とんでもないことをしてしまったという思いが、頭の中を駆けめぐった。私が、ユイを泣かせてしまうなんて。ケガをさせてしまうなんて──。ありえなかった。信じられなかった。
 左の肘から、ズキンという熱い痛み。けれど、まるで自分のものではないように、その痛みは遠く感じられた。頭のどこかが麻痺している。肘から届いてくるのは、痛みよりも熱のほうが強かった。
11, 10

  

「だ……」
 大丈夫? と言おうとしたのだけれど、唇が乾いてうまくしゃべれなかった。
 そして、まちがいに気付いた。「大丈夫?」じゃない。まず、なにをおいても謝らなければ。
「ごめ、ごめん。ユイ。わざとじゃなかったの。わざとじゃ……」
 声が震えていた。いまにも泣きそうだった。
 震えているのは声だけじゃなかった。指先が、ぶるぶる痙攣している。いつのまにか、ノートはどこかに行っていた。私は、震える指でユイの背中に触れた。
 瞬間。彼女の全身がビクッと動いた。
 はねのけられるかもしれない。そう思った。ユイは他人に触れられるのをすごく嫌う。それこそ、病的なぐらいに。親友のはずの私でさえ、彼女の体にはほとんど触れたことがない。けれど、もし今この手をはねのけられたら、もうどうしていいかわからなかった。
 はねのけないでください、嫌わないでください、おねがいします──。祈るぐらいの気持ちで、私はそればかりを考えていた。必死だった。
 けれど、その数秒後に気付いた。私は、私のことしか考えてない。ユイの怪我の具合さえ、考えてはいなかったのだ。それこそ、ほんとうに信じられないことだった。
 そのことに気付いた直後、ずしっと胃のあたりが重くなって、吐き気に似た自己嫌悪がやってきた。よくわかった。いや、最初からわかっている。病的なのは、ユイじゃない。私のほうだ。私こそ、病気なのだ。すくなくとも、この国では。同性愛は病気として認定されている。

「……あたし、あとで読んでって言ったよね? 小説」
 うずくまったまま、ユイはかすれた声を出した。
 その言葉で、呪縛が解けたような気がした。よかった。口をきいてくれた。──そう思った瞬間、こわばっていた全身から一気に力が抜けた。
「ごめん。本当にごめん。ただ、早く読みたかっただけなの、ユイの小説。悪気はなかったの。信じて。おねがい」
「……すごく、痛かった」
「ごめんなさい! 許して! 気が済むまで私のこと殴ってもいいから!」
「……クレープ」
「え?」
 何の聞きまちがいかと思った。クレープ?
「サニーズのチョコレートクレープ、おごってくれたら許してあげる」
「おごる、おごる。ぜったい。約束するよ!」
 安堵のあまり、頭がくらっとした。よかった。ユイは怒ってなかった。いや、怒ってるかもしれないけれど、でもとにかく許してくれた。今度こそ、涙が出そうだった。

 ゆっくりと、ユイは体を起こした。
 泣いている。右手の親指で左の目を、左手の親指で右の目を、交互にぬぐいながら、「あたし、悪くないよね?」と彼女は言った。
 なにを言っているのか、意味がわからなかった。悪いのは百パーセント私のほうだ。
「ユイは何も悪くないよ。私が悪かったの。ほんとにごめん。許してくれる?」
「いいよ。許してあげる。だって、ただの事故だし。……ねぇ、ティッシュちょうだい」
 言われて気付いた。本当に、私は無神経すぎる。
 いそいでティッシュケースから三枚ぐらい抜き取り、手渡した。
「ありがとう」と言って、ユイはそれを目頭にあてた。
 涙を吸い込んで濡れていくティッシュペーパーを、私は不思議な気持ちで見つめていた。そういえばユイが泣くところは初めて見たなと思った、そのとたん。早鐘のように心臓が打ちはじめるのがわかった。なぜだか、理由はわからなかった。

「ケガ、してない? だいじょうぶ?」
 うつむいているユイの顔を下から覗き込んで、私はたずねた。たれさがった髪のせいで、表情が見えない。
「うん。だいじょうぶ。ちょっと痛いけど……。ほうっておけば治るよ」
「見せて」
 私の言葉に、ユイはすんなり従った。
 目元をおおっていたティッシュが離れると、右の眉あたりが赤くなっているのが見て取れた。すこし腫れているけれど、骨が折れているとか、そういうことはなさそうだ。それにしても、もうすこし下に肘が当たっていたらと思うと、ぞっとする。
「目に当たらなくてよかった……」
 金色がかった彼女の瞳を見つめながら、私はホッと息をついた。
 そして、ふと思った。もしも目に当たっていたら──そして一生とりかえしのつかないケガでも負っていたとしたら。それでもユイは私を許してくれただろうか。と。
 なぜそんなことを考えたのか、まるで理解できなかった。自分の考えたことだというのにだ。さっきから、私は、どこかおかしくなっている。
「心配させちゃってごめんね。もう大丈夫だから」
 うすく笑顔を浮かべて、ユイはそう言った。
 ああ、やっぱりこの子は優しい。自分が怪我をしたのに、怪我をさせた相手のことまで気遣うなんて。私なんかには絶対できないことだ。クレープをおごってくれたら──とかいうのも、そうすることで少しでも私の罪悪感を減らそうとしてくれたのに違いない。彼女は『天使と少女』というタイトルで小説を書いたけれど、天使というのはユイのことに違いないとさえ思うほどだった。

「ほんとうに大丈夫だから。気にしないで。ね?」
 ひざに何かが触れる感触があって、見るとそれはユイの手だった。
 おどろいた。彼女が他人の体に触れるなんて。見たことがない。
 つかのま、私はユイの手を見つめていた。それから、ゆっくりと彼女の顔へ視線を移した。
 さっきの笑顔は消えて、どこか思いつめたような表情が、そこにあった。
 私はうろたえた。それがどういう意思をあらわす表情なのか、まったく見当つかなかったのだ。やっぱり怒っているのだろうか。それとも、ぶつけたところがひどく痛むとか。そうじゃなければ、真剣に私のことを気遣っているのか。あるいは──。
 わからないまま、私は彼女の手に自分の手をかさねてみた。私の指も冷たかったけれど、ユイの指はもっと冷たかった。私の部屋には暖房がない。けれど、いまはそれを感謝したい気分だった。彼女の指を温めてあげることができるからだ。
 ユイの手は私のひざに置かれたまま、動かなかった。私は左の手のひらを彼女の手にかさねたまま、右手をそっと持ち上げた。そして、彼女の頬に触れてみた。指先が震えている。いや、震えているのは心臓かもしれない。ちがう。本当に震えているのは、魂だ。

 ユイは逃げなかった。正座するような格好で畳の上に座ったまま、じっと私を見つめている。その瞳に私の顔が映っているのが見えた。息が触れるぐらいの距離。
 ユイは何も口をきかず、私も何を言えばいいのかわからなかった。まるっきり、なにひとつ言葉が出てこない。痛いぐらいの沈黙が張りつめて、指先に熱がこもり、なにもかもが停止して、動いているのは白い吐息だけになった。
 私は中指と薬指でユイの頬に触れたまま、人差し指で彼女の目元をぬぐった。涙の粒が指先を濡らし、ゆっくりと乾いていった。
 ユイは目を閉じていた。私が目元に触れたせいかもしれない。ちがうかもしれない。なんにせよ、もう私の理性は限界だった。逃げるヒマも与えず、私は彼女の唇に自分の唇をかさねた。──この瞬間、私の中で何かが壊れた。おそらく、ユイの中でも。
 唇が触れたとたん、バネ仕掛けみたいな勢いでユイの体が後ろに跳ねた。
 正直、その反応は予想外だった。逃げるとは思わなかったのだ。どうして逃げたんだろう。そう思った。
「い、いま、なにしたの……?」
 いつもより一オクターブも高い声で、ユイは言った。口元を手でおさえて、大きな目を私に向けている。信じられないものを見るような目だった。
 私は答えなかった。答える必要がなかった。ユイだって、わかっているはずだ。いま私が彼女にキスしたということぐらい。わかっていることなんか、わざわざ答える必要はない。だから、答える代わりに私はこう訊ねてみた。
「はじめてだった?」

 まるで熱湯でも浴びせられたみたいに、ユイの顔が真っ赤になった。
 その反応で、一目瞭然だった。答えを聞くまでもなかった。
 私は右手を伸ばして彼女の脚に触れた。後ろに飛びのいたせいで、セーラー服が乱れている。黒いスカートの裾から、真っ白な太腿が覗いていた。ひざから下は、黒いニーソックスで包まれている。そのニーソックスの上から、脚を撫で上げた。足首から、ひざに向かって。すらっとした脚。いつも、見とれている脚だった。どれほど触れてみたいと思っても、決して許されなかった──。
 ビクッ、とユイの体が震えた。ためこまれた静電気にでも触れたような動き。でも、それだけだった。体を震わせただけで、逃げようとはしなかった。
 このとき、もしも、ユイが逃げていたとしたら。それでも私は自分の欲望を遂げようとしただろうか。ふと、頭のどこかでそんなことを思った。──したかもしれない。いや、多分しただろう。この二年間、胸がつぶれるほど恋焦がれてきたのだ。もう、止められるはずがない。飢えた獣みたいに、私は彼女を欲していた。止められるわけがなかった。
 けれど幸いなことに、ユイは逃げなかった。これは、つまり、私を受け入れてくれたということだ。──そう。私がユイを愛しているように、ユイも私を愛してくれているのだ。私は正しかった。まちがってなかった。まちがっているはずがなかった。

 私の右手は、自分のものとは思えないほどスルリと動いた。ユイのひざから上を撫であげて、太腿の内側に。スカートの中に手が入り、下着の上から彼女の秘部に触れた。
「ぁ……っ」という、糸のような声がユイの口から漏れた。
 ぞくぞくする声だった。その声だけで、私の下着が濡れるのがわかった。
 この部屋には、暖房がない。だから、染み出した液体はすぐに冷たくなってしまう。その冷たさが、尻から背骨を走り抜けて、脳にまで届いた。瞬間的に全身の皮膚が泡立ち、それだけで私は達しそうだった。頭のどこかが、チリチリ焦げるような気がした。焦げるのではなくて、凍結する音だったかもしれない。区別できなかった。私の頭は、すっかりおかしくなっていた。
 どこかから、「やめて」という声が聞こえた。蚊の鳴くような、ちいさな声。となりの家から聞こえたのかと思うぐらい、遠い声だった。ユイが言ったのだと気付くまで、三秒ぐらいかかった。
 見ると、彼女の目から涙があふれていた。いつのまにか、ユイは仰向けに倒れている。その上に、私がおおいかぶさるような姿勢になっていた。どこからどうなって、こうなってしまったのか、まったくわからなかった。でもとにかく、ユイは泣いている。私が泣かせてしまったのだと気付くのに、なお三秒程度の時間が必要だった。

 キン、と耳鳴りがした。すべてのできごとが、遠い世界のことのように思えた。つい数分前まで、私とユイはただの友達だった。けれど、この数分間ですべてが崩れてしまった。もう、もとにはもどれない。もどるつもりもない。それでいい。ユイは、こうなることを望んでいたのだ。私と同じように。そうでなければ、こんなことになるはずがない。
 私は、左手の中指でユイの涙を拭き取った。そして、その指を舐めてみた。塩の味が舌の上に広がり、反対に頭の奥のどこかから甘くて苦いものがあふれてきた。何の味なのか、よくわからなかった。アドレナリンとかエンドルフィンとか、そういうものかもしれない。
 私は唾を飲み込み、深く息を吐いた。その息で、ユイの前髪が揺れた。髪だけじゃない。睫毛まで揺れるのがわかった。
 その睫毛の下で、金色と茶色の混じったような瞳が私を見つめていた。琥珀みたいな瞳。まばたきもせず、私の心の中をすべて見透かすように、ユイは私を凝視していた。その瞳の色から、彼女がおびえているのがはっきり読み取れた。

「だいじょうぶ。怖くないから」
 生まれたばかりの子猫をあやすぐらいの気持ちで、私はユイの髪を撫でた。
 二年間、何度も何度もさわってみようとして、一度もできなかった髪だ。ストレートパーマをかけたような、完全きわまる直毛。鼻を近付けると、リンスの香りに混じってかすかに椿油の匂いがした。意識が遠のきそうな、陶然とするような匂いだった。
 仰向けになったまま、ユイは何ひとつ抵抗しなかった。
 私は左手で彼女のスカートをめくりあげ、右手の中指と薬指でその部分をこすりあげた。ユイの体は敏感に反応して、「あっ」という声が出てきた。押し殺した声。いい声だった。こすった箇所がじわりと濡れそぼって、ぬるっとした液体が指先に付いてきた。
 それでも、ユイは動かなかった。両腕を床の上に広げたまま、何の抵抗もしない。もしも本当にイヤなら、全力で抵抗するはずだ。でも、そうしないということは──。

 もう、私は止まらなかった。かるく下着をどけて、できた隙間から指を差し込んだ。
 入れたのは、右手の中指だ。ぬちゅっという音がして、かんたんに根元まで入った。それこそ、寸分の抵抗もなかった。
「いぁ……っ」という、かすれた声がユイの唇から出てきた。
 真っ白な喉が長く伸びて、打ち上げられた魚のようにヒクヒクしている。その襟元を飾る赤いスカーフも、なにやら小魚みたいに動いていた。
 私の指は、信じられないような熱さに包まれていた。この部屋の寒さとは、あまりにかけ離れた温度。やけどしそうなぐらいだった。入れたその指をかるく折ってみると、くちゃっという音がした。その音といっしょに、ユイの体がビクンと跳ね上がった。
 私は左手で彼女の首をおさえつけ、そして唇にキスした。今度は、もう逃がすつもりはなかった。
13, 12

  

 ユイの唇は、ほんのりと紅茶の味がした。そういえばミルクティーのペットボトルを買っていたな、と思った。コンビニで見かけたとき、ミッフィーちゃんだったかキティちゃんだったか、そんなオマケがついていたのだ。「救出してあげないと」とか言ってレジに持っていったのを覚えている。たった一時間ぐらい前のことなのに、なんだかずいぶん遠い記憶。
 でも、そう考えると、私の唇はカフェオレの味がするのかもしれない。こんなことになるとわかっていれば、もっと違うものにすればよかった。たとえば、そう、レモンジュースとか──。
 ユイは唇を閉じていたけれど、顔をそむけたりはしなかった。
 その唇を割って、舌を入れた。「ん……」という、ちいさな声。
 舌に歯が当たった。舌の先を硬くして、歯を押し開く。そのまま、ゆっくり中へ差し込んでいった。やっぱり、紅茶の味がする。舌の裏側に、熱いものが触れた。やわらかくて、ザラッとした感触。舌を絡めると、それはぎこちなく動きだした。
 ユイは目を閉じていた。私が舌を動かすたび、ひくっとまぶたが震える。まぶたの間から流れる涙は、止まる気配がなかった。どうして泣いているのかという疑問が、一瞬だけ頭のどこかに浮かんで消えた。私は考えないことにした。きっと、うれしくて泣いてるんだ。そうだ。そうに違いない。ほかの可能性はありえない。

 深いキスをつづけながら、私はユイの中に入れたままの指を動かした。どこをどうすればいいのかは、よく知っている。手のひらを上に向けて、かるく折り曲げた中指を、そっと動かす。ほんのわずかに膨らんでいる部分があって、そこに指先が触れたとたん、ユイの背中が弓なりになって跳ね上がった。すごく気持ち良さそうだ。
 唇を離すと、すきとおった唾液が糸を引いて銀色に光るのが見えた。糸はすぐに切れてユイの唇に落ち、ちいさな泡を作ってはじけた。私は指を動かしながら、三十センチぐらいの距離をおいてユイの顔を見下ろした。
 すこし尖った感じの、高い鼻。そこに、汗が浮いている。アーチ型に整えられた眉も今は大きく歪んで、見たこともないような顔になっていた。薄桃色の唇は小さく開かれて、荒い呼吸の下から切れ切れに呻き声が聞こえる。──うめき声? ちがう。これは喘ぎ声だ。
 このまま指を動かしていたら、最後にはどういう声を出すだろう。それに、どういう表情を見せてくれるだろう。知りたかった。ユイがどんな顔で逝くのか、見てみたい。だれも見たことがないはずの顔だ。キスだって初めてだったんだから、あたりまえだ。

「ねえ、気持ちいい?」
 無意識に、私はそんなことを訊いていた。いったい何を言ってるんだろう。もう、自分で自分をコントロールできなかった。いや、そんなのは言いわけかもしれない。──言いわけ? だれに対して? 自分の思考が理解できなかった。
 ユイは答えなかった。右手の甲を口に押し当てて、なにかに耐えるような声を漏らしている。人形みたいに揃えられた髪も、いまは乱れに乱れていた。ほつれた髪が数本、睫毛にひっかかっている。その髪を指先で払ってやり、スッと首筋をなでおろした。
 ビクンという反応。一瞬で、うなじに鳥肌が立っていた。私の指は首筋から肩をとおってセーラー服のスカーフを払いのけ、胸の上で止まった。標準的なサイズの胸。けれど、いまは仰向けになっているせいで幾分ちいさく見える。制服の上からでもわかるぐらい、その先端が硬くなっていた。私は中指と薬指の間でそれをはさみ、くりっとひねった。
「ぁく……っ」
 押し殺そうとして出来なかったのか、噛みしめるような声が漏れた。脳の中に直接響くような声。じわりと、甘苦いものが口の中いっぱいに広がる。ユイの声だけで、私は達しそうだった。いま彼女の手が触れたら、数秒で逝ってしまうに違いない。

「ここがいいの……?」
 問いかけながら、私はユイのセーラー服に手をかけた。たくしあげて、直接さわろうとしたのだ。
 すると、彼女の手が私の腕を押さえつけた。
 初めて見せた抵抗だった。ちょっと驚いた。だって、私の右手はもっとすごいことをしているっていうのに。いまさらそんなところで抵抗する理由がわからなかった。
 すぐに答えが浮かんだ。これは、形式上だけでも抵抗しておこうという意思かもしれない。きっとそうだ。いや、そうに違いない。そう結論づけて、私はユイの腕を振り払った。
 しかし、思うようにいかなかった。ユイはもう一方の腕でセーラー服の裾を押さえていた。どけようとしたが、まったく動かなかった。どこにそんな力があったのかと思うほどの強さで、彼女は制服の裾を押さえつけていた。
 私は右手の中指を深く差し込み、ぐりっと動かした。そのとたんユイの体が浮き上がり、私はスキをついてセーラー服をたくしあげた。

 真っ白なおなかが見えるはずだった。ちがった。そこにあったのは、脇腹から胸にかけてベッタリと貼りついた、赤紫色の痣だった。ちがう。痣じゃない。表面が、ただれたようなケロイドになっている。やけどの痕だ。それだけじゃない。釘か何かで引っ掻いたような、深いミミズ腫れ。煙草を押しつけたような、丸い焦げあと。なんだかわからない傷は、かぞえきれないぐらいだった。
 氷水でもぶちまけられたみたいに、頭の中が冷たくなっていった。いま、私の見ているものは、なに──?
 頭が真っ白になり、なにをどうすればいいのかわからなかった。慄然として、言葉も出ない。私の中で本当に何かが壊れたのは、この瞬間だった。なにかではなく、すべてが。

 どれぐらいのあいだそうしていたのか、わからない。
 私はただ呆然と、ユイの体に刻みつけられた傷跡を見つめていた。いったい、なにがどうなって、こういうことになっているのか。理解できなかった。自分の見ているものが、現実とは思えない。もしかして今までのすべては夢だったのではないかとさえ思えた。でも、その場合、どこからが夢だったんだろう。どこまで巻きもどせばいいだろう。どこからやりなおせばいいのだろう。
 そうだ。あのコンビニに立ち寄ったあたりからやりなおせばいい。それで全部うまくいく。今日はウチじゃなくてファミレスとかで時間つぶさない? とか、なんとか。それでいい。完璧だ。

 けれど、どうやら目の前にあるものは夢でも錯覚でもないようだった。
 すべては、現実に起こったことなのだ。取り消しはできない。なかったことにはならない。
 ふと、突き刺さるような視線を感じて、私は顔を上げた。ユイと目が合った。ものすごい目だった。彼女がそんな目をすることも、いま初めて知った。どんなものを見たときに、人はそういう目をするか。知っている。おぞましいものを見たときだ。たとえば、駅のホームに吐き散らされた吐瀉物だとか、蛆のわいた猫の死体とか、そういうもの。
 その目を見た瞬間。すべてが崩れるのがわかった。ユイとの間に築き上げた二年間のすべてが。この数分間で、あとかたもなく塵になったのだ。
 いま、すこし冷静になってみて、ようやくわかった。彼女は決してあんなことを望んでいたわけじゃない。ただ、おびえていただけだ。だから、されるがままになっていたのだ。なにからなにまで私の思い込み──妄想だった。

 ユイは立ち上がり、カバンをつかむと、一言も発さず部屋を飛び出ていった。スカートの裾をととのえることさえしなかった。
 私は呼び止める言葉を持たなかった。あやまることさえできなかった。あんなことをしでかして、一体どういう言葉で償えるだろう。できるわけが、ない。友情がどうこういうレベルの問題じゃなかった。裁判を起こされたっておかしくないようなことをしたのだ。この私は。いっときの欲望に負けて。
 畳の上に座りこんだまま、私は動けなかった。動く理由も見つからなかった。猛烈な絶望と後悔がのしかかってきて、その重力に押しつぶされそうだった。死にたいと、切実にそう思った。いま目の前に刃物があったなら、私はまちがいなく手首を切っていただろう。──そうだ。ユイは優しい子だ。私が死ねば、許してくれるかもしれない。──いや、駄目だ。私が自殺したなんてことになれば、それこそ彼女の心には取り返しのつかない傷が残る。私にできることは、なにもない。
 ずっしりと、海の底に引きずりこまれるような疲労感がやってきた。アドレナリンの副作用だ。舌の奥に残っているのは、えぐい苦みだけだった。飲み込もうとしても、できなかった。ティッシュを五枚ぐらい取って、そこに唾を吐いた。丸めたティッシュをゴミ箱に投げようとして、それさえもできないことに愕然とした。まったく体が動かない。
 ティッシュが床に転がるのを、私はぼんやり眺めた。そして、気付いた。ノートが落ちていることに。ユイの書いた小説。それを読んでほしいと言われたのが、もう何日も前のことのような気がした。

 どうにか腕をのばして、私はノートを手に取った。
 表紙に題名が書かれている。天使と少女。ちょっとクセのある、手書きの文字。
 その文字を、指でなぞってみた。最後までなぞるより先に、ぱたぱたと音をたてて涙が落ちた。止まらなかった。次から次へと涙の粒が落ちて、ノートの上に広がった。
 ユイ──。彼女の名前を呼びながら、私はノートを胸に抱いた。そのままうずくまるように崩れ落ち、声を殺して泣いた。
 翌日、私は学校を休んだ。部屋を出る気にならなかったし、だいいちどんな顔をしてユイに会えばいいのか、まるでわからなかったのだ。それに、あのできごとをユイが周りに話したりしてないかと思うと、もう学校の誰にも顔を見せられなかった。社会的に抹殺された気分だった。でも仕方ない。それだけのことを、自分はしたのだ。受け入れるしかなかった。
 日が暮れるころになっても、私は布団の中から動けなかった。私の部屋には暖房がない。だから、こんな寒い日にはこうして布団にくるまっているのが一番だ。そうして一日中布団の上で寝そべりながら、これから先どうしようと、おなじことばかり考えていた。
 ユイには、あやまるしかない。土下座でもなんでもして、とにかく許してもらわなければならなかった。大丈夫。ユイほど優しい子は他にいない。私が誠意を見せれば、許してくれるはずだ。そこだけは心配しなくてもいい。
 問題は、昨日までのような友達関係にもどれるかということだ。こればかりは、しかしどんなに都合のいい展開を想像してみても、ありえないように思われた。あんなことがあった後で元通りの関係にもどれるなんて、とうてい考えられない。──そう。終わってしまったのだ。昨日、この部屋で。私の恋は。あとかたもなく。

 考えれば考えるほどみじめな気持ちになってきて、ほんとうに死んだほうがいいんじゃないかとも思った。そして、そのたびに考えなおした。でも、われながら恐ろしいことに、私はこう思っていたのだ。どうせ死ぬぐらいなら、そのまえに力ずくでユイを自分のものに──と。
 やっぱり自分は病気なのだと思う。だれだって一度ぐらいそういうことを考えたことがあるかもしれない。どうせ死ぬならそのまえに──という考え。ただ、私の場合、その相手が同性だというのが異常だった。
 そう。私はまだユイに対して下心を持っている。下心なんてものじゃない。劣情とか言ったほうが正しい。そして、たぶん、ユイは私の心を見抜くだろう。彼女は他人の表情から気持ちを読み取る能力にすぐれているのだ。私の抱いている劣情など、あっさり見破るに違いない。昨日までの私はそれをうまく隠していたけれど、本性を見せてしまったあとでは一目瞭然だろう。

 それにしても──と思う。あのおびただしい傷跡は、何だったんだろう。
 交通事故に遭ったって、あんな傷は残らない。あれは、意図的につけられた傷だ。とくに、あの釘で引っ掻いたような痕跡。「シネ」と書かれているように見えた。どうやったって、事故で生じるような傷じゃない。
 火傷の跡もひどかった。ふつう、火傷というのは手や足にできるものだ。あんなふうに腹部に火傷するというのは、どういう状況だろう。事故で、あんなことが有り得るだろうか。
 どう考えても、結論はひとつしかないように思えた。信じがたいことではあるけれど。でも、たぶん、そのとおりなんだろう。──嗚呼。

 何百回目になるかわからない溜め息を、私は漏らした。なにもかもが絶望的だった。
 寝返りを打ち、枕元のノートに触れてみた。天使と少女。まだ一ページも読んでいない。とてもじゃないけれど、小説を読むような気分になれなかった。
 ここにあるのは、ユイの魂の断面だ。たとえどんな内容の小説でも、心の中に存在しないものは書けない。だから、これを読めば私はユイの心を深く知ることができる。けれど、もはやかなうことのない恋のために、そんなことをする必要があるだろうか。徒労になるどころか、私はまた自分の欲望を遂げようとするかもしれない。ユイだって、こうなったあとでなお小説を読んでほしいとは言わないだろう。
 それでも、やはり私はこれを読まなければならなかった。昨日、約束したのだから。読んで、感想を伝えると。それに、読み終えなければノートを返すこともできない。このまま借りっぱなしというわけにもいかなかった。ユイからの私に対する評価がくつがえることはないだろうけれど、できるならちょっとでもマシな評価にもどしたい。借りたものは返す。常識は守らなければならない。
 私は布団の中でうつぶせになり、あまり進まない気分でノートを開いた。

 物語の主人公は、高校生の女の子だった。
 もちろん名前は違うけれど、即座に察しがついた。これはユイだ。
 二人目の登場人物も、じきにあらわれた。これもまた、すぐに把握できた。私だ。
 その高校生二人が、とりとめのない会話をしている。舞台は図書室。あまり、ストーリーらしいストーリーは始まらない。淡々としている。けれど文章は磨き抜かれていて、ただの会話シーンを読んでいるだけでも面白かった。やっぱり、ユイには文才がある。ただ、それにしても、あきらかに自分とわかるキャラクターが小説の中でしゃべっているのを見るのは、ちょっと気恥ずかしいものがあった。

 五ページほど読み進めたところで、舞台が過去に移った。五ページといってもキャンパスノートにギッシリ書かれた文章だから、かなり読みごたえはある。
 過去の話が始まったとたん、作品の空気が変わった。いや、変わったなんてものじゃない。ユイは「ちょっと暗いお話だから」とか言っていたけれど、そんなものでは済まなかった。
 作品のテーマは明らかだった。児童虐待だ。
 きっかけは、主人公の両親が離婚したことだった。夫がいなくなって精神のバランスを崩した母親が、ストレスのはけ口として数かぎりない暴力を娘にぶつける。最初は素手で殴る程度だったのが、日に日にエスカレートしていく筋書き。しまいには灰皿やフライパン、酒瓶まで使って、娘は殴られた。──というより、この母親は手近にあるものなら何でも使って娘を殴った。それだけじゃない。火のついた煙草を腹部に押しつけたり、熱湯を浴びせたり、およそ常人に思いつくであろう虐待のすべてをおこなった。
 理由はひとつ。娘の目つきが、別れた夫に似ているという、ただそれだけのことだった。

 凄まじい内容だった。読み進めるうち、私の指は震えはじめた。文章がうまいせいか、すべての描写に有無を言わせないリアリティがある。──ちがう。そうじゃない。リアリティがあるのは、これが現実におこなわれたことだからだ。
 昨日のことがなければ、私はこの小説をただのフィクションだと思ったに違いない。それほど、ありえない話だった。しかし、私は見てしまった。ユイの腹部から胸部にかけて刻み込まれた、無数の傷跡を。ここに書かれていることは、すべて彼女の体験談だ。
 この告白を読んでもなお、信じられなかった。あの、だれもが憧れる美貌のユイが、見えないところでこれほどの虐待を受けていたなんて。彼女は誰よりも優しくて、気が利いて、それに賢かった。こんな目にあっていただなんて、だれが想像つくだろう。とりわけ目を疑ったのは、そうした虐待が今でも続いているということだった。
 たしかに、言われてみれば彼女からはそういうサインが出ていたかもしれない。体に触れられるのを極端に嫌う性質。他人の表情から心を読み取る能力。なにをするにも理由を説明するクセ。あれらはすべて、虐待を受けたことによる産物だったのだ。
 私はめまいをおぼえた。胃のあたりが熱くなって、吐き気がこみあげてくる。朝から何も食べてなかったおかげで戻さずにすんだものの、胃の中に何か入っていたら間違いなく吐いているところだった。

 ノートが残り半分を切ったころ、ようやく舞台が現在にもどった。まるで処刑場から出てきたような解放感。ほっと息をついて時計を見ると、一時間以上も過ぎていた。まさに時が過ぎるのも忘れて、私は没入していたのだ。プロの小説家の作品だって、こんなことはなかった。ユイが文才にめぐまれているのは、もはや疑う余地もない。このまま出版社に持っていったらどうかというレベルだ。
 凄惨な過去からは解放されたものの、物語はまだ終わってはいなかった。主人公たち二人は図書室を出て、夕暮れせまる街を歩いていた。視点は、虐待を受けている少女。──つまり、ユイだ。
 この作品に書かれていることは彼女の魂の一部なのだと、読む前から私は予想していた。実際、そのとおりだった。一部どころか、ここには彼女の人生そのものが書かれている。それは、私の想像を絶する人生だった。
 小説の中で、彼女は常に気を配っていた。何をするときでも。何を言うときでも。自分の言動が相手に与える影響をよく考えて、それから行動したり、しゃべったりした。だから、彼女には気の休まるときがなかった。
 他人に気を使いすぎて疲れてしまうという人はよくいるけれど、そういう人だって自宅ではくつろげるはずだ。でも、この主人公にとっては自宅こそが一番の地獄だった。その地獄から逃れるために、彼女はよく親友の家に遊びにいった。その友達だけは、彼女にとって唯一ストレスを感じずに付き合える相手だったのだ。──そう、ただ一人の。親友だったのだ。

 読むのは、そこまでが限界だった。たまらない感情が押し寄せてきて、私は泣いた。昨日自分がどういうことをしたのか、今ようやく理解できた。ユイは、たったひとりの親友に裏切られたのだ。それも、信じられないような形で。心休まる場所だったこの部屋も、二度と訪れることはできない。現実の世界が小説であるとするなら、すべての読者を裏切る最悪の幕切れだった。
 なぜ、この小説をもっと早く読めなかったのかと思う。昨日、あんなことが起こるまえに。これを読んでもなおユイを押し倒すことができるほど、私は鬼じゃない。彼女を愛しているという感情は変わらないにしても、もうすこしおだやかな手順を踏んだはずだ。この小説に照らし合わせるなら、私は満身創痍の主人公の心に最後の一撃をくわえた極悪人だった。
 砕けるような感情が胸の中に吹き荒れて、私は号泣した。悲しみなのか後悔なのか、自分への怒りなのか、それらすべてなのか、なにがなんだかわからなかった。何故あんなことをしてしまったんだという思いが、いまさらのように私を打ちのめした。
 立ちなおれないほどの後悔。でも私はまだいい。ほんとうに立ちなおれない傷を負ったのは、ユイのほうだ。私が、その傷を与えたのだ。──ごめんなさい、ユイ。ごめんなさい。頭から布団をかぶり、私は泣きながら謝罪をくりかえした。どれだけ謝っても、たりるものではなかった。

 どれぐらいのあいだ、そうしていただろう。時間の感覚がさっぱり無くなるころ、ようやく私は感情をなだめることができた。布団のシーツがぐっしょり濡れている。けれど、それをどうにかする気にもなれなかった。
 私はノートを手に取り、小説のつづきを読みはじめた。最後まで読まなければならない。私には、その義務がある。のこりは五ページ程度だった。
 夕日の落ちる街並みの描写。主人公は親友を公園に誘い、そこで勇気ある決断をした。虐待の事実を告白し、生々しい傷跡を見せたのだ。彼女にとって、これは親友を失うかもしれない賭けだった。そこまではいかなくても、いままでと同じ付き合いができるかどうかは問題だった。たしかに、そんな事実を告げられれば、この親友だって主人公に対する見方が変わるかもしれない。
 けれど、小説の中で、この親友は何ひとつ変わることなく、哀れみを見せるでもなく、いままでと同じように親友でありつづけたのだ。主人公の期待は裏切られなかった。そして彼女は初めて自分から親友の手を取り、手をつないで歩きだすのだった。彼女は、この親友を「まるで天使みたい」と言った。主人公にとっては理想的なハッピーエンドだった。
 物語はそこで終わり、私は深い息をつきながらノートを閉じた。
 ひとつ、わかったことがある。そのひとつの思いが、私の心を深く深く切り裂いた。これこそ、完全な絶望に包まれた後悔だった。
 私は、天使になれなかったのだ。
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