20XX年8月26日(another)
私は私の通う大学のキャンパス内を歩く。歩いていく。
いつもと変わらない並木道。いつもと変わらない古びた講堂。
しかしこの場所は、私のいるべき場所ではなかった。「私の通う大学」ではなかった。
この時たしかにあったはずの構内唯一のコンビニは無いし。
改修工事によって新しくなったはずのトレーニング施設は今にも崩壊しそうな佇まいだ。
ここは、「この世界の私が通う大学」。
決して今ここにいる、別の世界から来た私がいていい場所ではない。
それでも私はここにいる。私のいた世界を、時間を、悲劇で終わらせないために。
空色オヤジの言うところの、「時間の幅」とやらの理解はわりと簡単だった。
時間遡行が出来るようになった時と同じ。まるで最初から自分の体にインプットされていたかのように、こうしてパラレルワールドに跳ぶことが出来た。
……あの栄養ドリンク風の飲み物が作用したのだろうか。正解は私にはわからない。
しかし、重要なことはそれではないのだ。私は今パラレルワールドにいる。自分がもともといたのとは違う世界にいる。
京子さんが、死なないかも知れない世界にいる。
重要なのは、そのことだ。
私は地面に散らばった落ち葉を踏みしめる。
空色オヤジは言った。
『君もこの悲劇的な世界を、誰かに押し付ければいい』
理論は、通っていると思う。現状さえろくに理解できていない私の、つたない理解ではあるが。
問題は、意志があるかどうか。
他の世界の自分を犠牲にしてまで、私の世界の京子さんを救いたいかどうか。
ただそれだけだ。
……正直なところ、私は迷っていた。
他の世界の私に京子さんの死を押し付けた所で、京子さんが転落死することに変わりはない。
教授は悲しむだろう。同じように時間が進むなら、その悲劇を「私」に伝えるだろう。
結局のところ、悲しみの全量は減っていないのだ。
いやむしろ、罪のない別の世界の私を悲しませる分、この方が増えているとさえ言えるかも知れない。
……私は迷っている。
それでも、私は今ここにいる。明確な意思も固めずに。
一言で言えば、見てみたくなってしまったのだ。
教授に弁当を届けに来た京子さんが、死なない世界を。二人で屋上で笑い合って、そしてその先もそれまでと同じように続く、幸せな世界を。
この世界の私と入れ替わるかどうかは、それを見届けてから決めればいい……。そんな楽天的なような悲観的なような思考で、私はこの世界へと足を踏み入れた。
時刻は昼前だった。日付は20XX年8月26日。私の世界では、京子さんが転落死したまさにその日だ。
これから向かうのは、もちろん林田助手が勤務している棟、理学部棟の屋上だ。京子さんと林田助手がよく二人で会っていた場所だった。
私のいた世界とこの世界は違う。違っているはずだ。
それならば、私がこれから向かう場所で、悲劇は起きない。……そうでなくてはおかしい。
私はそれを見届けたかった。それだけで安心できた。この世界では悲劇はないのだと、そう確信したかった。
私は理学部棟に足を踏み入れる。入るやいなや、ひんやりとした空気を置き去りにして、真っ直ぐエレベーターへと向かった。
ふわふわ落ち着かない足元はエレベーターのせいだろうか。私は自問する。
……違う。不安なのだ。落ち着かないのは足元ではなく心なのだ。
そんな心を踏みつけて、私は明るい屋上へと一歩踏み出した。夏の日差しが頭上でらんらんと輝いている。
……誰もいない。
それで正しい。京子さんがここへ来るにはまだ若干の時間があるはずだった。
私は死角となる貯水タンクの裏側に腰を下ろした。少しは影ができているので、他の場所よりは涼しい。
ひとごこちついて、息を吐く。それからゆっくりと腕時計に目をやった。
……あと、15分くらいのはずだ。
元いた世界で読んだ新聞。それによれば約15分後に京子さんは転落死する。そういう予定だった。……予定というのもおかしいかも知れないが。
私は貯水タンクの隙間から、わずかに見える空を見上げる。
真っ白で呑気そうな雲が、今の自分の状況とそぐわなくて苦笑した。笑顔になったことで気が緩む。そういえば時間を行ったり来たりしているせいで昨日(?)からほとんど寝ていない。
私は首を振って眠気を吹き飛ばす。その間も時計の針は着々と時を刻んでいた。
私は針を見つめる。見つめ続ける。
あと10分。あと9分。あと8分……。
誰しも経験があるだろうが、眺めていると時計の針は急にのろのろと動き出すのだ。遊んでいると大急ぎで走りさるくせに。
あと7分、あと6分、あと5分……。
その時が近づくにつれて、私は少し不安になる。京子さんが現れないのだ。
京子さんが死なない、イコール、林田助手とここで普通に会う。という事だと思っていたが、そうではないのかも知れない。
転落死しない代わりに、別の場所で会っているのかも知れない。
そもそも京子さんがここへ来るのは弁当を届けるためだ。今日に限って林田助教は弁当を自分で持ってきたということもあり得る。
あと4分。あと3分。あと2分。あと1分……。
私の不安をよそに、時計は一定のリズムで進む。
あと0分。
その時がきた。
理学部棟の屋上には、誰もいない。涼しくもない熱風がわずかに吹いているだけだ。
私は腰をあげる。
なんだか拍子抜けしたような気分だったが、これはこれで目的は達成できたはずだ。
京子さんは、転落死していない。そもそも屋上にすら来ていないのだから。
ほっとした私が、「さて、それなら今晩林田教授の家にでも行って、幸せなところを拝んでやるか」などと考えていた、その時だった。
私のいた屋上の遥か下。
そこで放たれた悲鳴が私の元まで届いた。
耳が痛くなるような、ブレーキ音とともに。
いつもと変わらない並木道。いつもと変わらない古びた講堂。
しかしこの場所は、私のいるべき場所ではなかった。「私の通う大学」ではなかった。
この時たしかにあったはずの構内唯一のコンビニは無いし。
改修工事によって新しくなったはずのトレーニング施設は今にも崩壊しそうな佇まいだ。
ここは、「この世界の私が通う大学」。
決して今ここにいる、別の世界から来た私がいていい場所ではない。
それでも私はここにいる。私のいた世界を、時間を、悲劇で終わらせないために。
空色オヤジの言うところの、「時間の幅」とやらの理解はわりと簡単だった。
時間遡行が出来るようになった時と同じ。まるで最初から自分の体にインプットされていたかのように、こうしてパラレルワールドに跳ぶことが出来た。
……あの栄養ドリンク風の飲み物が作用したのだろうか。正解は私にはわからない。
しかし、重要なことはそれではないのだ。私は今パラレルワールドにいる。自分がもともといたのとは違う世界にいる。
京子さんが、死なないかも知れない世界にいる。
重要なのは、そのことだ。
私は地面に散らばった落ち葉を踏みしめる。
空色オヤジは言った。
『君もこの悲劇的な世界を、誰かに押し付ければいい』
理論は、通っていると思う。現状さえろくに理解できていない私の、つたない理解ではあるが。
問題は、意志があるかどうか。
他の世界の自分を犠牲にしてまで、私の世界の京子さんを救いたいかどうか。
ただそれだけだ。
……正直なところ、私は迷っていた。
他の世界の私に京子さんの死を押し付けた所で、京子さんが転落死することに変わりはない。
教授は悲しむだろう。同じように時間が進むなら、その悲劇を「私」に伝えるだろう。
結局のところ、悲しみの全量は減っていないのだ。
いやむしろ、罪のない別の世界の私を悲しませる分、この方が増えているとさえ言えるかも知れない。
……私は迷っている。
それでも、私は今ここにいる。明確な意思も固めずに。
一言で言えば、見てみたくなってしまったのだ。
教授に弁当を届けに来た京子さんが、死なない世界を。二人で屋上で笑い合って、そしてその先もそれまでと同じように続く、幸せな世界を。
この世界の私と入れ替わるかどうかは、それを見届けてから決めればいい……。そんな楽天的なような悲観的なような思考で、私はこの世界へと足を踏み入れた。
時刻は昼前だった。日付は20XX年8月26日。私の世界では、京子さんが転落死したまさにその日だ。
これから向かうのは、もちろん林田助手が勤務している棟、理学部棟の屋上だ。京子さんと林田助手がよく二人で会っていた場所だった。
私のいた世界とこの世界は違う。違っているはずだ。
それならば、私がこれから向かう場所で、悲劇は起きない。……そうでなくてはおかしい。
私はそれを見届けたかった。それだけで安心できた。この世界では悲劇はないのだと、そう確信したかった。
私は理学部棟に足を踏み入れる。入るやいなや、ひんやりとした空気を置き去りにして、真っ直ぐエレベーターへと向かった。
ふわふわ落ち着かない足元はエレベーターのせいだろうか。私は自問する。
……違う。不安なのだ。落ち着かないのは足元ではなく心なのだ。
そんな心を踏みつけて、私は明るい屋上へと一歩踏み出した。夏の日差しが頭上でらんらんと輝いている。
……誰もいない。
それで正しい。京子さんがここへ来るにはまだ若干の時間があるはずだった。
私は死角となる貯水タンクの裏側に腰を下ろした。少しは影ができているので、他の場所よりは涼しい。
ひとごこちついて、息を吐く。それからゆっくりと腕時計に目をやった。
……あと、15分くらいのはずだ。
元いた世界で読んだ新聞。それによれば約15分後に京子さんは転落死する。そういう予定だった。……予定というのもおかしいかも知れないが。
私は貯水タンクの隙間から、わずかに見える空を見上げる。
真っ白で呑気そうな雲が、今の自分の状況とそぐわなくて苦笑した。笑顔になったことで気が緩む。そういえば時間を行ったり来たりしているせいで昨日(?)からほとんど寝ていない。
私は首を振って眠気を吹き飛ばす。その間も時計の針は着々と時を刻んでいた。
私は針を見つめる。見つめ続ける。
あと10分。あと9分。あと8分……。
誰しも経験があるだろうが、眺めていると時計の針は急にのろのろと動き出すのだ。遊んでいると大急ぎで走りさるくせに。
あと7分、あと6分、あと5分……。
その時が近づくにつれて、私は少し不安になる。京子さんが現れないのだ。
京子さんが死なない、イコール、林田助手とここで普通に会う。という事だと思っていたが、そうではないのかも知れない。
転落死しない代わりに、別の場所で会っているのかも知れない。
そもそも京子さんがここへ来るのは弁当を届けるためだ。今日に限って林田助教は弁当を自分で持ってきたということもあり得る。
あと4分。あと3分。あと2分。あと1分……。
私の不安をよそに、時計は一定のリズムで進む。
あと0分。
その時がきた。
理学部棟の屋上には、誰もいない。涼しくもない熱風がわずかに吹いているだけだ。
私は腰をあげる。
なんだか拍子抜けしたような気分だったが、これはこれで目的は達成できたはずだ。
京子さんは、転落死していない。そもそも屋上にすら来ていないのだから。
ほっとした私が、「さて、それなら今晩林田教授の家にでも行って、幸せなところを拝んでやるか」などと考えていた、その時だった。
私のいた屋上の遥か下。
そこで放たれた悲鳴が私の元まで届いた。
耳が痛くなるような、ブレーキ音とともに。
予想はしていたのかも知れない。世の中にうまい話はそうそう無いということを、私はよく知っていた。
屋上の手すりに体重をかける。上半身を乗り出して、私は真っ直ぐ下を見つめた。
赤色。赤色だった。
建物の屋上から見下ろしている私には、それは地面に咲いた彼岸花のように見えた。
彼岸花の花びらの、ちょうど中央。そこにはかろうじて黄色い服を着ていたことだけがわかる、小さな身体があった。
うずくまるそのシルエットに、私の脳が強烈な既視感を訴える。
あれは、そうだ。あのシルエットは。私は。知っている。そうだ。
肩より短く切りそろえられた髪。小学生と見まごうような身体。今は赤く染まってしまっている、可愛らしい顔。
林田教授の愛した女性が、そこには横たわっていた。
私は混乱する頭を必死に働かせる。両手はギュッと手すりを握り締める。錆びた鉄の感触が不快だったが、そうしなければ、そこから落ちて行ってしまいそうだった。
どうして、どうして。京子さんは屋上には来なかったのに。
私はその場にしゃがみ込む。目の焦点も全く合わないままに、私の頭の中には様々な言葉が飛び交っていた。
ほんの数秒前に見た光景が頭の中でフラッシュバックする。彼岸花。京子さん。血溜まり。そして、同時に視界に入った、大きな銀色のモノ。
その銀色のモノを、私はこれまでにも何度も見たことがあった。
大学の生協の前に、よく停車していた。
そうだ。商品の搬入トラックだ。
その光景と、先ほど耳にしたブレーキ音。それらから導き出される答えは一つだ。
階下がにわかに騒がしくなってくる。トラックの運転手らしき男の声が、屋上まで届くほどの音量で響いている。
野次馬も続々と押し寄せているようだ。「早く救急車を!」なんていう声も聞こえてくる。
その救急車の手配は、結局無駄になるだろう。私には何故か確信めいたものがあった。
こんなことがありえるのだろうか。
京子さんが屋上から転落死する。そんな悲劇を回避するために、私は別の世界の私を犠牲にしてまで、この世界に来たはずだ。
しかしこうしてここにあったのは、もう一つの悲劇だった。全く同じ時間。場所は少しだけずれてはいるが。
これが単なる偶然だと考えるほど、私は楽観的ではない。
しかし、単なる偶然だと信じたい気持ちは、明らかに存在していた。
たまたまこの世界では、私のもといた世界と同じ時間、似た場所で京子さんは死んだ。
でもそれは全くの偶然で。この二つの世界以外の世界では悲劇など無い、京子さんの死なない幸せな時間が流れている。
そう信じたかった。
階下でひときわ大きな叫び声が上がるのがわかる。それは嗚咽を含んでいて、聞くに耐えないほど痛ましいものだった。救急車のサイレンがそれをかき消すまで、その叫びは決して止むことは無かった。
わかってしまう。これは、林田教授の叫びだ。騒ぎを聞きつけて、現場に駆けつけたのだろう。そして、あの光景を見てしまったのだろう。
私が避けたくて仕方なかった惨劇は、ここでもこうして起こってしまった。林田教授の叫びはそのことをこれでもかと私に見せつける。
私はいつまでも、その場にしゃがみこんでいた。
※
私の心は、いまや半分くらい壊れていた。
諦めの悪い自分の性分を、ここまで悪く思ったことは無い。
京子さんがトラックに轢かれ、いなくなった世界。あの世界だけでは、私は諦めがつかなかったのだ。
どこかにはきっと幸せな世界がある。そう信じて、何度も、何度も別のパラレルワールドへと移動した。
しかしその度に、私の希望は砕かれる。何度も何度も砕かれる。そうして今は、ちっぽけなかけらすら残っていなかった。
およそ人間の死に様というものを、全て目撃したのではなかろうか。
そう感じてしまうほど、すべての世界で京子さんは命を失う。あの日、あの時間に。……死因だけは様々であったが。
私は科学者だ。科学者は事象の繰り返しから法則性を見出し、普遍の定理を発見する。
その科学者たる私が言おう。少なくともパラレルワールドを渡り歩くことでは、京子さんを死の運命から救うことはできない。
でくのぼうのように何も考えられない私の頭に浮かぶのは、空色オヤジの顔だった。
私にこんな能力を授けた張本人。人なのかどうか、それすらも知らない。
あいつさえいなければ、私は過去に戻ることなどなかった。
教授から奥さんの事故の話を聞いた所で、ただ胸を痛めるだけだった。
同じ傷口を何度も何度もえぐられるような、こんな思いをすることは、決して無かったっ……。
頭ではわかっていた。空色オヤジは私に手段をくれただけだ。
戦争で人が死ぬのは武器商人が銃を売るからではない。兵士が人を撃つからだ。
武器商人は空色オヤジ。私は兵士。
そんなことはわかってはいた。しかし、繰り返す悲しみは行き場を失い、いつしか空色オヤジへの憎悪へと変わっていく。
そんな見当違いの憎悪は、却って私を苦しめる。自分の勝手さに呆れ返る。
死ぬべきなのは京子さんではない。私だ。
何度訪れたかわからない、理学部棟の屋上。私は空を見つめている。
そのまま空に吸い込まれよう。それが一番いいと思った。
手すりに手をかける。身体を乗り出す。さあ後は簡単だ。あの世界で見た彼岸花を、今度は私が咲かすのだ。
私の身体は、宙を舞った。
屋上の手すりに体重をかける。上半身を乗り出して、私は真っ直ぐ下を見つめた。
赤色。赤色だった。
建物の屋上から見下ろしている私には、それは地面に咲いた彼岸花のように見えた。
彼岸花の花びらの、ちょうど中央。そこにはかろうじて黄色い服を着ていたことだけがわかる、小さな身体があった。
うずくまるそのシルエットに、私の脳が強烈な既視感を訴える。
あれは、そうだ。あのシルエットは。私は。知っている。そうだ。
肩より短く切りそろえられた髪。小学生と見まごうような身体。今は赤く染まってしまっている、可愛らしい顔。
林田教授の愛した女性が、そこには横たわっていた。
私は混乱する頭を必死に働かせる。両手はギュッと手すりを握り締める。錆びた鉄の感触が不快だったが、そうしなければ、そこから落ちて行ってしまいそうだった。
どうして、どうして。京子さんは屋上には来なかったのに。
私はその場にしゃがみ込む。目の焦点も全く合わないままに、私の頭の中には様々な言葉が飛び交っていた。
ほんの数秒前に見た光景が頭の中でフラッシュバックする。彼岸花。京子さん。血溜まり。そして、同時に視界に入った、大きな銀色のモノ。
その銀色のモノを、私はこれまでにも何度も見たことがあった。
大学の生協の前に、よく停車していた。
そうだ。商品の搬入トラックだ。
その光景と、先ほど耳にしたブレーキ音。それらから導き出される答えは一つだ。
階下がにわかに騒がしくなってくる。トラックの運転手らしき男の声が、屋上まで届くほどの音量で響いている。
野次馬も続々と押し寄せているようだ。「早く救急車を!」なんていう声も聞こえてくる。
その救急車の手配は、結局無駄になるだろう。私には何故か確信めいたものがあった。
こんなことがありえるのだろうか。
京子さんが屋上から転落死する。そんな悲劇を回避するために、私は別の世界の私を犠牲にしてまで、この世界に来たはずだ。
しかしこうしてここにあったのは、もう一つの悲劇だった。全く同じ時間。場所は少しだけずれてはいるが。
これが単なる偶然だと考えるほど、私は楽観的ではない。
しかし、単なる偶然だと信じたい気持ちは、明らかに存在していた。
たまたまこの世界では、私のもといた世界と同じ時間、似た場所で京子さんは死んだ。
でもそれは全くの偶然で。この二つの世界以外の世界では悲劇など無い、京子さんの死なない幸せな時間が流れている。
そう信じたかった。
階下でひときわ大きな叫び声が上がるのがわかる。それは嗚咽を含んでいて、聞くに耐えないほど痛ましいものだった。救急車のサイレンがそれをかき消すまで、その叫びは決して止むことは無かった。
わかってしまう。これは、林田教授の叫びだ。騒ぎを聞きつけて、現場に駆けつけたのだろう。そして、あの光景を見てしまったのだろう。
私が避けたくて仕方なかった惨劇は、ここでもこうして起こってしまった。林田教授の叫びはそのことをこれでもかと私に見せつける。
私はいつまでも、その場にしゃがみこんでいた。
※
私の心は、いまや半分くらい壊れていた。
諦めの悪い自分の性分を、ここまで悪く思ったことは無い。
京子さんがトラックに轢かれ、いなくなった世界。あの世界だけでは、私は諦めがつかなかったのだ。
どこかにはきっと幸せな世界がある。そう信じて、何度も、何度も別のパラレルワールドへと移動した。
しかしその度に、私の希望は砕かれる。何度も何度も砕かれる。そうして今は、ちっぽけなかけらすら残っていなかった。
およそ人間の死に様というものを、全て目撃したのではなかろうか。
そう感じてしまうほど、すべての世界で京子さんは命を失う。あの日、あの時間に。……死因だけは様々であったが。
私は科学者だ。科学者は事象の繰り返しから法則性を見出し、普遍の定理を発見する。
その科学者たる私が言おう。少なくともパラレルワールドを渡り歩くことでは、京子さんを死の運命から救うことはできない。
でくのぼうのように何も考えられない私の頭に浮かぶのは、空色オヤジの顔だった。
私にこんな能力を授けた張本人。人なのかどうか、それすらも知らない。
あいつさえいなければ、私は過去に戻ることなどなかった。
教授から奥さんの事故の話を聞いた所で、ただ胸を痛めるだけだった。
同じ傷口を何度も何度もえぐられるような、こんな思いをすることは、決して無かったっ……。
頭ではわかっていた。空色オヤジは私に手段をくれただけだ。
戦争で人が死ぬのは武器商人が銃を売るからではない。兵士が人を撃つからだ。
武器商人は空色オヤジ。私は兵士。
そんなことはわかってはいた。しかし、繰り返す悲しみは行き場を失い、いつしか空色オヤジへの憎悪へと変わっていく。
そんな見当違いの憎悪は、却って私を苦しめる。自分の勝手さに呆れ返る。
死ぬべきなのは京子さんではない。私だ。
何度訪れたかわからない、理学部棟の屋上。私は空を見つめている。
そのまま空に吸い込まれよう。それが一番いいと思った。
手すりに手をかける。身体を乗り出す。さあ後は簡単だ。あの世界で見た彼岸花を、今度は私が咲かすのだ。
私の身体は、宙を舞った。
身体を投げ出した私を包む、8月の蒸し暑い空気。それは私が落下するにしたがって上方へと流れていく。
私はあと数秒で死ぬ。
時間的には京子さんより早い時間になるが、心情としては後追い自殺という形になる。
私が自殺しようとしまいと、京子さんはおそらく死ぬだろう。それはこれまで渡り歩いてきたパラレルワールドで十二分に確認したことだ。
彼女には、死の運命があるのだから。
そこで、私の頭に僅かな疑問が浮かぶ。
『死んだからには、すべての並行世界での私という存在が死ぬ』それが私の定義した『死の運命』というものだ。
私がここで死ねば、私にも死の運命というものが刻まれるのだろう。
あらゆる並行世界で待ち受ける死の運命。それが私にも訪れるとして、私はどの時間で死んだことになるのだろうか。
少なくとも、京子さんが死んだこの時間に、私という存在はまだ生きている。……本来の私がいた時代の十年前なので、まだ中学生ではあるだろうが。
つまり、死の運命が刻まれるのは私にとっての「十年前」の私ではなく、林田教授とともに二人だけの研究室にいた、あの時代の私なのだろう。
まさか十年前の世界で自殺をしているなんて誰も思いもしないだろうから、私は行方不明扱いにでもなるのだろうか。
このまま死ねば、身元不明死体として歯型を取られるだろう。
そして現在中学生であるところの『私』が数年後に歯医者に訪れたなら、同じく歯型を取られるだろう。
『あなたはもう死んでいるはずだ』
そんなことを言われるのだろうか。それはさぞ不思議な体験だろう。
惜しむらくは私の歯が全くもって健康優良児であるということだ。ミステリーは発生しないで終わるに違いない。
しかしこれから死ぬであろう私にとっては、そんなことが起こるかどうかなどどうでもいい話だ。
さあ楽になろう。
不思議なほど長く感じる落下までの時間、私の頭はいわゆる「走馬灯」状態に達していた。
いろいろなことが思い起こされては消えていく。
その陳腐な紙芝居の最後の一ページ。そこに現れたのは、家族でも友人でもなく一人の壮年男性だった。
私の頭をしょっちゅう叩く、あの男だ。
『お前の口から妻と同じセリフが出て、これは、今度こそは、どうにかして止めなくてはならない、と思ったんだ』
……そうだ。私は過去に来る前、教授に相談したんだった。
『あの時俺は、激しく悔いた。後悔した。妻の気持ちを汲んでやれなかった自分をな』
何故生きているのか分からない、と……そう打ち明けたんだ。
『自ら命を絶ってしまうほどにあいつを追い詰めていたのにも関わらず、のんきに問題は解決したと思い込んでいた自分を、殴ってでもあいつを止めなかった自分を、俺は殺してやりたかった』
教授は、またそう思うのだろうか。
『こうしてお前にこのことを話したのは、お前のためじゃなく、自分自身を満足させたかっただけなのかも知れないな』
そう言って教授は、照れたように片頬だけで微笑んだのだ。
それが、私は嬉しかった。
堅物だと思っていた教授が、私に身の上を話してくれた。
自分の弱い部分を晒してまで、私を元気づけようとしてくれた。
その行為の根底にあったのが、おそらく『こいつまで妻と同じようにいなくなってしまうのではないか』という意志だったのだろう。
そうだ。
私はその意思に報いたくてここに来た。
それが今、私のやろうとしていることは何だ。
教授の心に、深い大きな傷を新しく刻もうとしている。
それはなんだ。私はそんなことだしたくてここに来たのか。
違う。……違う。
……違うっ!
私は気がつけば泣いていた。仰向けに落ちていく私の目元から、大粒の涙がまるで重力に逆らったように上昇していく。
私は心の中で静かに念じる。
『自分の細胞が点滅するような感覚を持って。少し前と、少し後を行き来して点滅しているような感覚を持って。そうしたらその点滅の感覚を広げていくような感覚を持って。あんまり過去に行くと面倒だから、一分前くらいにいくつもりで』
かつて京都で、私に時間遡行術初級を教えた、私(2)自身の言葉だ。
そう。跳ぶのは一分前で十分なのだ。
涙を拭いながら、私の全身がふわりと浮いたような感覚に覆われる。
気がつけば、私はついさっき自分が身を投げ出した屋上にいた。先ほどとは全く違った気持ちでそこに立っていた。
私は自分がここにいる理由を取り戻す。
林田教授のため。
奥さんの死の真相を知るため。
できることなら止めるため。
そのために私は、時をかけたのだ。……止める、という目的は果たせそうに無いが。
京子さんの自殺の理由を知ることが出来れば、それを何らかの形で教授に伝えることが出来るかもしれない。
自分を責め続けたあの人に、僅かな赦しを与えることが出来るかもしれない。
知りたい。……知ろう。
戻らなくてはいけない。私が元いた、あの世界へ。京子さんが自殺してしまうあの世界へ。
再び、時をかけて。
私はあと数秒で死ぬ。
時間的には京子さんより早い時間になるが、心情としては後追い自殺という形になる。
私が自殺しようとしまいと、京子さんはおそらく死ぬだろう。それはこれまで渡り歩いてきたパラレルワールドで十二分に確認したことだ。
彼女には、死の運命があるのだから。
そこで、私の頭に僅かな疑問が浮かぶ。
『死んだからには、すべての並行世界での私という存在が死ぬ』それが私の定義した『死の運命』というものだ。
私がここで死ねば、私にも死の運命というものが刻まれるのだろう。
あらゆる並行世界で待ち受ける死の運命。それが私にも訪れるとして、私はどの時間で死んだことになるのだろうか。
少なくとも、京子さんが死んだこの時間に、私という存在はまだ生きている。……本来の私がいた時代の十年前なので、まだ中学生ではあるだろうが。
つまり、死の運命が刻まれるのは私にとっての「十年前」の私ではなく、林田教授とともに二人だけの研究室にいた、あの時代の私なのだろう。
まさか十年前の世界で自殺をしているなんて誰も思いもしないだろうから、私は行方不明扱いにでもなるのだろうか。
このまま死ねば、身元不明死体として歯型を取られるだろう。
そして現在中学生であるところの『私』が数年後に歯医者に訪れたなら、同じく歯型を取られるだろう。
『あなたはもう死んでいるはずだ』
そんなことを言われるのだろうか。それはさぞ不思議な体験だろう。
惜しむらくは私の歯が全くもって健康優良児であるということだ。ミステリーは発生しないで終わるに違いない。
しかしこれから死ぬであろう私にとっては、そんなことが起こるかどうかなどどうでもいい話だ。
さあ楽になろう。
不思議なほど長く感じる落下までの時間、私の頭はいわゆる「走馬灯」状態に達していた。
いろいろなことが思い起こされては消えていく。
その陳腐な紙芝居の最後の一ページ。そこに現れたのは、家族でも友人でもなく一人の壮年男性だった。
私の頭をしょっちゅう叩く、あの男だ。
『お前の口から妻と同じセリフが出て、これは、今度こそは、どうにかして止めなくてはならない、と思ったんだ』
……そうだ。私は過去に来る前、教授に相談したんだった。
『あの時俺は、激しく悔いた。後悔した。妻の気持ちを汲んでやれなかった自分をな』
何故生きているのか分からない、と……そう打ち明けたんだ。
『自ら命を絶ってしまうほどにあいつを追い詰めていたのにも関わらず、のんきに問題は解決したと思い込んでいた自分を、殴ってでもあいつを止めなかった自分を、俺は殺してやりたかった』
教授は、またそう思うのだろうか。
『こうしてお前にこのことを話したのは、お前のためじゃなく、自分自身を満足させたかっただけなのかも知れないな』
そう言って教授は、照れたように片頬だけで微笑んだのだ。
それが、私は嬉しかった。
堅物だと思っていた教授が、私に身の上を話してくれた。
自分の弱い部分を晒してまで、私を元気づけようとしてくれた。
その行為の根底にあったのが、おそらく『こいつまで妻と同じようにいなくなってしまうのではないか』という意志だったのだろう。
そうだ。
私はその意思に報いたくてここに来た。
それが今、私のやろうとしていることは何だ。
教授の心に、深い大きな傷を新しく刻もうとしている。
それはなんだ。私はそんなことだしたくてここに来たのか。
違う。……違う。
……違うっ!
私は気がつけば泣いていた。仰向けに落ちていく私の目元から、大粒の涙がまるで重力に逆らったように上昇していく。
私は心の中で静かに念じる。
『自分の細胞が点滅するような感覚を持って。少し前と、少し後を行き来して点滅しているような感覚を持って。そうしたらその点滅の感覚を広げていくような感覚を持って。あんまり過去に行くと面倒だから、一分前くらいにいくつもりで』
かつて京都で、私に時間遡行術初級を教えた、私(2)自身の言葉だ。
そう。跳ぶのは一分前で十分なのだ。
涙を拭いながら、私の全身がふわりと浮いたような感覚に覆われる。
気がつけば、私はついさっき自分が身を投げ出した屋上にいた。先ほどとは全く違った気持ちでそこに立っていた。
私は自分がここにいる理由を取り戻す。
林田教授のため。
奥さんの死の真相を知るため。
できることなら止めるため。
そのために私は、時をかけたのだ。……止める、という目的は果たせそうに無いが。
京子さんの自殺の理由を知ることが出来れば、それを何らかの形で教授に伝えることが出来るかもしれない。
自分を責め続けたあの人に、僅かな赦しを与えることが出来るかもしれない。
知りたい。……知ろう。
戻らなくてはいけない。私が元いた、あの世界へ。京子さんが自殺してしまうあの世界へ。
再び、時をかけて。