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蚊柱考

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 髭の密度が薄まっている。こうして人は老いていくのか、と思う。そんなことあるはずはないと同僚の大倉が言い、老いも苦楽もなくただ自身の密度が薄まっているようだと思い知らされる。髭だけではなく、黒目も小さくなり、爪も柔らかくなっている。
 あなたはきっと死んでしまうのではなく消えていくのでしょうね。とはかつての恋人が言ったことだが、それが何年前のことだったかは忘れてしまっている。記憶も薄れてしまい、昔懐かしのメロディを口ずさめば、サビに辿り着けずに終わってしまう。

 大量の蚊柱に包まれ、そのまま蚊柱の一部となって消えてしまった人がいてな、と大倉が話す。いや、俺が昔書いた物語の中なんだが、と続く。短編映画のシナリオだったそうだ。大学サークルの時に書いたそのシナリオは結局採用されず、あまり美しくない役者を主人公にした淡い恋愛映画の小道具係を手伝ったという。
  裏口に蚊柱となり立つ父よ
 大倉の好きな俳句で、小林恭二作だそうだ。彼の小説なら何作か読んだことがあった。大倉は小林の小説の仕事の方は知らぬという。
 蚊柱にも亡き父にもなる予定はないが、人の言葉は霊性を持つ。帰り道の河原沿いを歩いて蚊柱が近づいてくれば、必要以上に恐れて逃げてしまう。あれもこれも元は人の形をしていたのかもしれぬ、とまでは思わぬ。強く否定すればするほど意味は肯定に近くなっていく。

 会社がいくらか傾く程度の金を持って大倉が消えた。社の防犯カメラに大倉の姿は捕らえられていたし、警察は簡単に大倉を捕まえてくれた。半分は借金の返済にあて、残りは一夜限りの女に全て渡したという。大倉の私物の中には大量の書きかけの原稿があったと聞かされた。いつまでも撮影の始まらない、短編映画のなりそこない。盗んだ金で撮影機材を揃えることをしなかった大倉は、自分の作品の本当の出来を知るのが怖かったのだろうか。
 後日、防犯カメラにも映っていた大倉の鞄を持って、一人の小柄な女が会社を訪ねてきた。ほんの少し使ってしまいましたけど、と言いつつ差し出されたそれを総務の人間が受け取った。何回も断ったんです、と震えながら女は言っていたという。

 拘留中の大倉に手紙でも書こうかと机に向かっていたが、言葉が浮かんでこなかった。そもそも恭二の俳句の件以外でまともに口をきいたこともなかった。
 髭はもう薄くもない。爪も固くなり、黒目も以前と変わらない。一時の変容だったか、何かの見間違いか。そもそも鏡や自分の目が毎日毎秒正しく機能し続けるわけでもあるまい。
 蚊柱の立つ道は通らなくなった。

(了)
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