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どんよりとした曇り空が、山奥の小さな村に蓋をしていた。
 レンガ造りの民家がほんの数棟。それがこの集落にある全ての人工物である。本当に人が住んでいるのか疑いたくなるようなそれらの民家は、廃屋といったほうが正確な表現かもしれない。
 そんな廃屋のうちの一件の扉が、重い音を立てながら開いた。
 中からおそるおそる顔を出したのは、これまたみすぼらしいボロボロの服を着た男だった。元は高級な旅人用の服だったのかも知れないが、その襟の装飾は土にまみれていて、マントは派手に引き裂かれていた。手には錆びついて真っ赤になった鎌を持っているのが、ドアの隙間から見て取れる。
 顔を出したのにも関わらず、彼の身体はなかなかドアの外には踏み出そうとしなかった。
 何かをひどく恐れているかのように、くぼんだ眼窩で辺りを静かに見渡している。
 少しの間そうしていた彼だったが、ようやく家の外に出る決心がついたようだ。すり足のようなおぼつかない足取りでドアの外へ踏み出した。
 彼はひどく痩せていた。もう何日もろくな食事を取っていないようだ。
 細かく身体を震わせながら、彼は集落の真ん中を貫く道を山を下る方向に歩いて行った。向かう先には小さな畑がある。すっかり荒れ果てていて、植わっているのは幾らかの葉野菜らしき作物だけだった。
 彼は歩きながら何度も辺りをキョロキョロと見渡していた。ひどく警戒している様子の彼だったが、今のところその寒村に彼以外の気配はない。
 畑にたどり着くと、彼はにわかに行動を早めて、てきぱきと朽ち果てた葉野菜を鎌で刈り取っていく。どうやらこの野菜を収穫することが目的だったようだ。
 仕事は効率よくてきぱきとやるのが一番良いのには違いない。違いないのだが、彼のその仕事ぶりからは、仕事を早く終わらせようとする以上の焦りがにじみ出ていた。
 程なくして片腕でようやく抱えきれる程度の葉野菜を収穫した彼は、先ほど自分が通ってきた道を急ぎ足で引き返して行く。来た時よりも明らかに彼は焦っていた。
 あと数百歩で出てきた民家にたどり着く。そんな場所まで来たとき、ふと彼の頭上の天空でキラリと何かが光った。
 一瞬前までなんの物音もしなかった集落に、稲妻が落ちたかのような轟音が鳴り響く。
 辺りにもうもうと立ち込める土煙がゆっくりと晴れて、腰を抜かした男の目の前の地面に大きく穴が開いているのに気がつかされる。
 天空から何かが落ちてきたのだ。
 その何かは穴の中央にうずくまるようにしていて、微動だにしなかった。
 姿形のベースは人間に近いようにも思える。だが、腰から生えた尻尾や、暗灰色の肌、そして何よりも背中に生えている大きな翼がそれが絶対に人間ではないことを教えてくれる。
 それはいわゆる悪魔の姿に似ていた。
 生物というよりは、怪物というべき存在であるように思える。
 男の方はといえば、彼もまた微動だにしなかった。というよりも動きたくても動けない、といった様子だ。歯はまともに噛み合わずガチガチと音を鳴らしており、目からは大粒の涙が絶え間なくこぼれ続けている。
 有り体に言えば、彼はこれ以上無いくらい恐怖していた。
 ふと、うずくまっていた怪物の妙に尖った耳がぴくりと揺れる。次いで耳以外の部分もぴくぴくと動き出し、それが全身に広がっていった。そして、それがピークに達したように思えた瞬間、その怪物は爆発するかのように両腕を上げて一気に立ち上がった。
 落下してきたときと同じくらいの音量の爆発音が、その身体から発せられた。同時に溢れ出した爆風がそこらじゅうの木の枝や石を吹き飛ばした。
 そして当然、男もその猛烈な風に吹き飛ばされていた。直線的に飛んでいった彼は大木に背中をしたたかに打ち付けることでようやく停止する。地面にドサリと落ちた彼の片腕から、大事に抱えていた葉野菜がこぼれた。
 彼が背中に痛みを感じたときには、例の怪物はもう彼の目の前にいた。いったいどのような手段を用いたのかわからないが、この一瞬で彼との間の距離を移動したらしい。
 怪物は男の首を掴むと、そのまま片手の力だけでその身体を持ち上げた。
 男は自分の置かれている状況を理解することすらできないほどに取り乱していた。あるいは理解したくなかったのかもしれない。
 怪物の手に徐々に力が込められていく。尖った爪が男の首筋に喰い込み、耐え切れなくなった皮膚が破れて鮮血が滲み出る。
 男の顔は赤黒く膨れ上がり、目には血管が浮かび上がっていた。男は声にならない声を上げ、必死で首にかけられた手をかきむしるが、込められた力が弱まることは無かった。
 ふと、男の口から意味のある言葉が漏れているのが聞こえる。変形した喉からひねり出されるその声は聞き取ることが困難だったが、どうにか分かる範囲では次のように言っているようだった。
「力をっ……力を貸せっ……早く……」
 誰に訴えかけているのかは定かではなかったが、男のその言葉に呼応するかのように男の首と怪物の手の間にブスブスと煙が立ち、やがて炎が舞い上がった。
 燃えた首が熱くはないのか、男は怪物をちらりと見て「どうだ」とばかりにニヤリと笑う。
 自分の手の異変に怪物は無い眉をしかめる。少しの間手に力を込めるのを中断したようで、男の顔にも多少の安堵が灯った。
 だが、怪物は馬鹿にした微笑のような表情を作ると息を大きく吸い込んだ。
 次の瞬間、怪物の口から吹き出た台風のような風が、怪物の手と男の首の周りにくすぶっていた炎をすべて消し去った。
 その風は、男の希望をも同じように消し去ってしまったらしい。男は戦慄と絶望の入り交じったような、なんの救いもない表情で怪物を見つめていた。
 怪物は再び手に力を込め始める。
 やがて怪物の手が男の首の筋肉を完全に引きちぎり、男の頚椎に暗灰色の指が触れる。その頃には男は完全にこと切れて、まだ機能している神経が反射だけで身体をびくびくと震わせていた。
 怪物はしばらく男の首を持ったままその体をゆらゆらと揺らしていたが、やがて興味を失ったかのように近くの地面にその死体を無造作に放り投げた。
 その死体は一回地面で跳ねて、少しずつ広がる血溜まりを作った。
 怪物はそれに一瞥もせずに、地面に散らばった葉野菜を集めている。
 やがて集め終わると、意外にも神経質そうに表面についた泥を落として、かぱっと開いた自分の大口にそれをねじ込んでいった。
 無理やり口を閉じて、無理やり咀嚼するその様子は、人間の骨格では絶対にありえない動きで顔の筋肉を歪ませていた。もしもこれを目撃した人間がいたならば、それだけでとてつもない恐怖に襲われることになっただろう。
 ごくりと喉を鳴らして、怪物はそれを飲み込んだ。そしてそのまま余韻を感じるかのようにきつく目を閉じる。
 すると、気がつかない程度にその怪物の身体が輝きはじめた。その光はどんどんと力強さを増し、曇の空から覗く太陽に匹敵するくらいにあたりを照らし始める。
 そして輝きは増したのと同じくらいの早さで徐々に減っていき、怪物は最終的にもとの暗灰色の肌に戻った。
 黒目のない目の端が下がる。牙の生えた口の端が上がる。
 怪物は醜悪に笑う。
 そして満足そうに背中の翼を大きく広げると、そのまま羽ばたいて天空へと飛び立ち、どこへとも知れず消えて行ったのだった。

 ***


 私は山奥のその村を、フワフワと漂いながら見渡した。その横を私と同じくらいの大きさの小鳥が飛んでいった。
 集落には数軒の建物と、小さな畑と、それから血溜まりがあった。
 私はため息をついて、ついさっきまで勇者候補生だった死体を見下ろす。首と胴体はかろうじてつながっていたが、もう息を吹き返すことはないだろう。
 また、駄目だった。
 しばらくを一緒に過ごしたこの勇者候補生の死に様を見ながら、私は暗澹とした気持ちを隠し切れなかった。
 威勢が良かったのは故郷の城下町を出発するときだけだった。一歩町を出てからは、ただひたすら悪魔から逃げ続け、路銀を使いきり、這々の体でこの寒村に逃げ込んだ。
 結局食べ物にも困り、ようやく外にナッパ草を取りに行ったと思えば、この有様だ。
 最後の抵抗で一応力を貸してあげた私に感謝の一つもして死んだのだろうか、この男は。
 私は死体に背を向けると身体から燐光を放ちながら姿を消していく。また次に召喚されるまで人間の世界に来ることもあるまい。
 さようなら。2110番目の勇者。次に生まれ変わったら、もう少し勇気ある男になっていてください。
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