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 どうやら僕は、気が狂っているらしい。
 ときどき、自分の母親を殺したくて、たまらなくなる。
 母さんは綺麗で、母さんは優しくて、母さんはいつも僕の事だけを考えてくれている。
 母さんがいなければ僕は、この部屋から出る事さえ出来ないのに。
 それなのにときどき僕は、自分の母親を殺したくてたまらなくなる。
 やっぱりそれは、僕が狂っているからだろう。

 目覚めると僕はベッドの上で膝を抱えて、一日の始まりを待つ。
 しばらくそのまま待っていると、パタパタと母さんが階段を上り、廊下を歩く音が聞こえる。
 僕はもう一度布団に潜り込み、母さんがやって来るのを待っている。
 ガチャガチャ、ガチャ。
 ドアが開き、母さんが僕の枕元に立って、そっと肩を揺すった。
「時間よ、起きなさい」
 僕は、いま目覚めたように瞼をこすりながら、寝惚けた声で答える。母さんが心配しないように、きちんと眠れていたように。
「おはよう、母さん」
「おはよう、ゆっくり眠れたみたいね」

 母さんに手を引かれてキッチンへ行くと、もう朝食の支度が調えられていて、僕が座ると母さんがご飯と味噌汁をよそってくれた。
 今日は早く帰るから、昼食は用意してあるから。
 何気ない会話を交わしながら、なんでもない朝食を食べる。
 いつもの朝の風景。
「もう行かなくちゃ」
 母さんが言った。
 僕はまた母さんに手を引かれて部屋に戻った。
「今日は絶対に早く帰ってくるからね、大切な記念日だもの」
 そう言って母さんは軽く僕を抱き締めると、部屋を出て行った。
 ガチャ、ガチャガチャ。
 ドアが閉まり、母さんの足音が遠ざかってゆく。

 母さんのいない昼間、僕は本を読んだりゲームをしたりしてすごす。
 本やゲームは母さんが買ってきてくれるから、僕がこの部屋を出る必要はない。必要な物は母さんが与えてくれる。必要な事は母さんが教えてくれる。

 ピンポン。
 いつものようにすごしていると玄関のチャイムが鳴った。僕はテレビの電源を消して息を潜めた。
 大丈夫、よくあることだ。こうやって静かにしていれば、すぐにどこかへ行ってしまう。
 ピンポン、ピンポン。
 だけどしつこくチャイムは鳴り続けた。
 大丈夫、大丈夫、この部屋にいれば安全だ。この部屋に僕がいる事は誰にもわからない。
 ピンポン、ピンポン。
 なのにチャイムは鳴らされつづける。
 大丈夫、大丈夫……
 心の中で呪文のようにつぶやきながら、ぶるぶると震える体を抱えて身を竦ませていた。
 早くどこかへ行ってくれ、もう僕に構わないでくれ。僕を、そっとしておいてくれ。
 ピンポン、ピンポン……
 頭の中にチャイムが鳴り響く。
 僕は不安に駆られて叫びそうな自分を押し殺して、じっと息を潜めていた。この部屋にいれば安全だ、見つかるわけがない、母さんがそう教えてくれたのだから。
 それなのにあいつは僕を捜そうとしている。誰かが、僕を見つけ出そうとしている。
 もし見つかれば僕は、この部屋にいる事が出来なくなってしまうのに。
 母さん助けて、このままでは見つかってしまう。この部屋は安全だと、この部屋にいれば大丈夫だと、母さんがそう言ったのに。
 バタン、玄関の扉が開いた。
 パタパタと、誰かが階段を上がって来る。
 誰かがこの部屋に向かっている。
 僕は小さくなって部屋の隅に蹲った。でもこの部屋から逃げる場所なんて、どこにもない。
 パタパタ、廊下を歩く音。
 ガチャガチャ、ガチャ、ドアが開かれる。
 僕はきつく目を閉じてその音を聞いた。
 母さん、どうして助けてくれないんだ。このままでは僕は、どこかに連れ去られてしまう。
「そんな所で何をしているの?」
「母さん!」
 僕は這うようにして母さんの足元に縋りつくと、起こった出来事を必死で話した。
 母さん、誰かが僕を攫おうとしたんだ!
「もう大丈夫よ」
 母さんは僕を抱き締めて優しく言った。
「もう大丈夫、母さんが帰ってきたんだから。あなたのことは、母さんが守ってあげるから」
「母さん、母さん!」
 ほとんど半狂乱になっていた僕を抱いて、背中を撫でながら、母さんがあやすように言った。
「大丈夫、大丈夫よ、母さんがついているからね」
 母さんは僕が落ち着くまで背中を撫で続けて、涙を拭ってくれた。
「さあ、気分を変えてお風呂にでも入ってらっしゃい、せっかくの記念日なんだから」
 母さんは僕の手を取って立ち上がらせ、僕は母さんに手を引かれてこの部屋を出た。

 浴槽に張られた湯に浸かって体を伸ばしていると、母さんが戸を開けて声を掛けてきた。
「湯加減はどう?」
 頷いた僕の緊張がほぐれているのを確認すると母さんはいったん戸を閉めて、摺りガラスの向こう側で服を脱いだ。
 もう一度戸を開いた母さんは浴室に入り、シャワーの栓を捻った。
「洗ってあげるから、こっちにいらっしゃい」
 僕はもう一度頷いて湯を上がり、浴室の椅子に座った。
 母さんは僕の髪をシャワーで湿らせるとシャンプーを手に取り、頭皮から髪の先までを繊細な手つきで洗った。泡を流してもう一度洗い、リンスを馴染ませてまた流した。
 洗髪を済ませると石鹸を泡立てて足を洗った。太腿から指の間まで。タオルや垢擦りは使わない。僕の肌が傷つくから、母さんがそう言っていた。
 足を洗い終えた母さんが僕の尻を浮かせるようにしたので、僕は腰を上げた。
 母さんはもう一度石鹸を泡立て、背後から抱きつくようにして首から背中、背中から腕、尻と洗った。それからもう一度石鹸を泡立て直して胸を洗う。胸から腹部、下腹部へ。
 母さんは滑らかな手つきで僕の下腹を洗った。母さんの胸の膨らみと柔らかな腹部の暖かみを感じながら洗われていると、僕はすぐに大きくなってしまう。
 母さんは僕を手に包み込み、滑らかに動かした。
「我慢できなくなっちゃったのね」
 そう言って母さんは石鹸を流して、僕の前に回り込み、しゃがみ込んだ。
 滑らかで繊細な手の動きは止めないまま、唇が先端に触れる。舌先が先端を舐め、周囲を這い、全体を口に含む。
 母さんは僕を見つめながら、添えられた手の動きに合わせて顔を前後に動かし、腰に手を廻して顔を前後に動かした。
 僕の足が震えだし、腰が震えた。
「母さん」
 母さんが目線で頷いた。
 僕はたまらなくなって母さんに吐き出した。
 僕が口中に吐き出すと、母さんは腰の震えに合わせるように何度か顔を動かし、吸い付くようにしながら口を離した。
 母さんはしばらく僕を見つめながら微笑むと、ごくりと咽喉を鳴らした。
「ゆっくり暖まるのよ」
 そう言って母さんは、手早く自分の体を洗った。
 僕は母さんに言われた通り湯に浸かり、ぼんやりとその様子を眺めていた。
 やがて体を洗い終えた母さんが浴室を出て行き、僕は窓に嵌められた格子越しに、ぼんやりと月を眺めていた。

「用意が出来たわよ」
 母さんが呼びに来て、僕は風呂を出た。
 母さんに体を拭いてもらい、母さんに髪を乾かしてもらい、母さんに髪を整えてもらい、母さんの準備した服を着せてもらう。
 今日は特別な日なのでいつもの部屋着ではなく、スーツとワイシャツ、ネクタイも締めてもらう。母さんも、いつもとは違う鮮やかな色使いのスーツを着ていた。
 リビングに行くと蛍光灯が消されていて、間接照明とキャンドルが室内を淡く照らし出していた。
 テーブルにはクロスが敷かれ、赤い薔薇が飾られている。もちろん、夕食の用意も。
「どうかしら」
「おいしそうだね」
 少し得意気な母さんにそう答えると、母さんは嬉しそうに笑った。
「さあ、ディナーを始めましょう」
 母さんは僕のために椅子を引いて、僕のグラスにワインを注いでくれた。
「大切な記念日だから、今日だけは特別よ」
 母さんはテーブルの反対側に座って、ワインを掲げた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう、母さん」
 ワインをひと口飲んで、もう一度グラスを掲げる。
「それから、あなたがこの家に来た記念日に」
 グラスを合わせてもうひと口飲み、食事を始めた。
 年に一度、この日にしか使わない食器に盛りつけられた料理。パンとワイン、スープやサラダ。まわりをソースで飾られ、皿の真ん中に小さく置かれた、名前もわからない料理の数々。
「すごくおいしいよ、母さん」
 母さんは僕の食べている姿をにこにこと眺めながら、ゆっくりと食事をしていた。
「あなたがこの家に来て、もう十年になるのね」
 しみじみとした口調で母さんが言った。
「そうだね、そうかもしれない」
「この家に来た日の事を憶えている?」
「もちろん」
 忘れるはずもない。あの日、僕は本当の両親に捨てられたのだから。
 そしてこの家の子供になった。

 貰われて来てすぐの僕は上手く母さんに馴染めない、難しい子供だった。最初の頃は家に帰りたいと駄々を捏ねて、母さんを困らせてばかりいた。
 捨てられた両親を思い出して泣いてばかりいた僕を、母さんは根気強く慰めてくれた。
「あなたの母親になりたいのよ」
 僕の肩に手を置き、穏やかに微笑みながら、そう言ってくれた。
 それでも元の家に帰りたかった僕は、ある日家出をした。

 けれど僕はすぐに母さんに見つかって、母さんは荒々しく僕の手を引きながら家に連れ戻した。家に帰る間中、母さんは泣いていた。家に入ってからも泣き続け、泣きながら僕を部屋に押し込むと、泣きながら僕を殴った。
 おかあさん、おかあさん。
 そう言って泣く僕を殴り、自分も泣いた。
「どうして、どうしてわからないの、あなたの家はここにしかないの、あなたの母親は私しかいないの!」
 母さんは泣きながら僕を殴り、泣きながら僕を抱いた。いつか聞いた言葉を、その日とは違う切迫した口調で言った。
「あなたの母親になりたいのよ!」
 そんな事を繰り返しているうちに、僕の口から自然と言葉が零れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、母さん」
 その言葉を聞いた母さんは一瞬体を硬直させて、それから僕を痛いぐらいに強く抱き締めた。
「あなたが大切なの、あなたの母親になりたいの」
 たぶん僕達は、あの日から本当の親子になったのだ。

「なにをぼんやりしているの?」
 母さんの問いかけで、ふっと我に返った。いつの間にか思い出にふけってしまっていたみたいだ。
「あのときの事を思い出していたんだ」
 そう答えると母さんが不安そうに聞いてきた。
「まだ、前の両親の事が気になる?」
「まさか、僕を捨てた人達だよ」
 それでも母さんの表情に陰が残っていたので、僕は言葉を続けた。
「家出したときの事を思い出していたんだ」
「そのことはもう言わないで」
 母さんが照れたように言った。
「母さんがあんなにも怒っているところを見たのは、後にも先にも、あの一度きりだったね」
 母さんは表情を和らげ、恥ずかしそうに頬を染めて、困ったように笑った。

 食事の後、僕がコーヒーを飲んでいる間に、母さんは洗い物をしていた。
 記念日の夕食は終わり、後はベッドに入るのを待つだけとなった。
「今日は一緒に寝ましょうか」
 洗い物を済ませた母さんが言った。
 僕は頷いて、また母さんに手を引かれて部屋に向かった。

 部屋に入ると母さんは、果物の皮を剥くように手際良く僕の衣服を剥いだ。ネクタイを緩め、シャツのボタンを外し、ベルトに手を掛けた。つるりと剥いた僕の裸を一通り眺めて、首筋に唇を寄せて来た。
 母さんの舌と唇が首筋を這い、耳を擽り、胸元を舐め回し、乳頭を甘く噛んだ。
 母さんは執拗に僕の突起を弄んだ。唇で挟み、歯先で喰い付き、舌先でねぶり、強く吸い付いた。
 僕の息遣いが乱れ、母さんも荒い息を吐いた。
「もう、こんなにも感じてしまったのね」
 そう言うと母さんは僕の唇を塞ぎ、舌を挿し入れながら、自分の服に手を掛けた。
 母さんは、荒々しく舌を絡ませながらボタンを外してゆく。
 母さんの服が床に落ちるパサリという音と、唇から漏れるぴちゃぴちゃという音が室内に響いた。
 透かしの入った下着だけを残した姿になった母さんは、自由になった両手で僕の頭を掴み、一層激しく舌を動かした。
「母さんが欲しくなったのね。でもまだ駄目よ、もう少し我慢しなさい」
 母さんは、いつものように僕をベッドに押し倒し、僕の上に馬乗りに跨った。
 下着の上を外し、僕の頭を片手で寄せて、母さんが胸を押し付けてくる。
 僕は子供のように胸を口に含み、教えられた通りに胸を愛撫した。
 母さんは胸を僕に押し付け、僕の顔を胸に押し付けた。
 母さんが切なそうな声を上げ始め、抱えていた僕の頭を放し、胸を離した。僕の体を上を移動して、僕の顔の上に跨った。
 僕はまた、教えられた通りに母さんを愛撫した。
 下着の上から唾液を擦り付け、僕の唾液と母さんの体内から溢れ出る液体でぴったりと貼り付いた下着の向こう側に母さんの形が透けて見えるまで、舌全体を使って丹念に外周をほぐしていく。教えられた通りに。
 母さんが充分にほぐれてきたら下着をずらし、直接母さんに触れる。ぬめった襞を一枚いちまい丁寧に舐め上げ、唇で挟み、吸いながら引っ張る。中心の包みの上から舌で捏ね、包みを解いて舐め、尖らせた舌先でつつく。教えられた通りの順番で。
 母さんから漏れる声が高まり、腰が浮かされるのに合わせて、下着を脱がす。下着を脱がされた母さんが押し付ける、母さんの内部に舌を挿し込む。指先で母さんの核を撫で、摘み、擦る。子供の頃から教えられてきた通りの順番に。
 母さんは僕の頭を両腕で抱え、更に強く押し付けてくる。僕の顔を両腿で締め付けて、途切れ途切れに甲高い声を上げる。
 僕は、舌と指の役割を入れ替えながら愛撫を続けた。
 母さんに教えられた通りに。
 不意に母さんが僕の頭を離し、両脚の力を緩めた。体を仰け反らせて、長い呻き声を上げ、そのままびくびくと体を震わせたかと思ったら、ぐったりと僕の上に持たれ掛かってきた。
 それでも僕は愛撫を続けた。柔らかで控え目な愛撫を。
 だんだんと母さんの体に力が戻り始める。体を裏返し、僕の体に寝そべるようにしながら下腹に向かう。
 母さんの唇が僕を包み込み、僕は母さんを愛撫し続ける。高みを目指すためではなく、昂ぶりを持続させるための愛撫を続ける。母さんも僕を激しく愛撫し、母さんの下腹から漏れる音と僕の下腹から漏れる音が奇妙に重なる。
「母さんが欲しくなったのね」
 母さんが言った。
「母さんが欲しくて、たまらなくなってしまったのね」
 母さんは僕の上に跨り、内部へ僕を呑み込んだ。
「母さんがしてあげるから」
 母さんは前後に体を動かし、腰をくねらせた。
「ぜんぶ母さんがしてあげるから」
 母さんは僕の上で動き続けた。
 両脚で僕の体を挟み込み、覆い被さるように浅く、速く。仰け反りながら深く、強く。ときおり、ゆっくりと円を描くように、器用に腰だけを動かして。荒々しく激しく、体の全体を使って。
「……母さん」
 僕の声を合図にしたように母さんが膝を立て、体を上下に動かした。先端から最奥まで、引き抜いて呑み込んだ。
「いいのよ、母さんが受け止めてあげる。母さんがぜんぶ受け止めてあげる!」
 限界に達した僕は母さんの腰を引き寄せた。
 母さんは引き寄せられた部分をぐりぐりと僕に擦り付けて、その動きで僕は限界を越えた。
「母さん……」
 僕は母さんの内部に吐き出し、母さんは吐き出された僕を受け止めながら大きく喘いだ。
 僕の体が震え、母さんの体が震えた。母さんの体が崩れ落ち、僕の体の上に圧し掛かる。
 それでもう僕は疲れてしまっていた。微かに頭が痛み、体が重く感じた。全身が気怠く、喉がからからに渇いた。
 水が飲みたいと思った。でも僕はまだ母さんと繋がったままで、母さんは僕に体を預けている。母さんを払い除けることなんて出来ない。
 のそのそと母さんが動き出した。呑み込んでいた僕を抜き、僕の体に触れ始める。
 僕はもう、ゆっくりと休みたかった。でも母さんに触れられたり、舐められたり、指を入れられたりすると、僕はまたすぐに大きくなってしまう。
「まだ母さんが足りないのね、もっと母さんが欲しいのね」
 母さんは僕をもう一度呑み込み、もう一度僕の上で動き出した。

 三度目の後で母さんは、僕にもたれたまま眠ってしまった。
 自然に繋がりが解けると僕から離れ、ごろりとベッドに横たわった。
 僕はその寝顔を眺め、白く細い首筋を眺めていた。
 母さんの華奢な首を眺めていると、いつもの衝動がやって来た。その繊細な首筋はまるでガラス細工のようで、本当に脆く壊れ易そうに見えた。この首筋に手を掛けて、ほんの少し力を込めれば……
 そんな事を考えてはいけない。
 そう思っても、考えを止める事は出来ない。
 いつもの衝動をいつものように抑えていると、いつもの疑問が脳裏に浮かんできた。
 考えても仕方のない疑問。
 あの日、元の両親は、なぜ僕を捨てたんだろうか。

 あの日、僕と元の両親は、僕の誕生日のお祝いに遊園地に行っていた。
 休日の遊園地は混み合っていて、どの乗り物にも長い列がついていた。
 それでも僕は元気にはしゃいでいたけれど、並び疲れた元の両親が少し休もうと言った。
 元の母親がトイレに行った。トイレの前にも列が並んでいた。
 退屈そうにベンチに座っている僕に、元の父親がジュースを買ってきてやると言った。
「ここで待っているんだぞ」
 そう言って元の父親は売店の列に並んだ。
「こんにちは」
 しばらくすると、知らないお姉さんが声を掛けてきた。綺麗で優しそうなお姉さんだった。
「こんにちは」
 僕も挨拶を返した。
「あなたのお父さんとお母さんに頼まれて来たのよ」
「おとうさんと、おかあさんに?」
 僕は売店とトイレの列を眺めてみたけれど、元の両親の姿は見つからなかった。
「実はあなたのお母さんが、急に具合が悪くなってしまったの。ああ、心配しないで。病気にかかったわけじゃなくて、ただ少し疲れてしまっただけだから」
「そうなんですか?」
「ちゃんと敬語が使えるのね、偉いわ」
 お姉さんは僕の頭を撫でて、僕を誉めてくれた。それから腰を屈め、僕に視線を合わせて言った。
「だからね、あなたのお父さんとお母さんに、あなたを連れて来てほしいって頼まれたのよ」
「でも」
 僕はどうすればいいのか迷った。ここで待っているように言われていたし、知らない人について行ってはいけないと、いつも言われていた。
 でもお姉さんは元の両親の名前も知っていたし、僕の名前も知っていた。なにより、お母さんの具合が悪いなら緊急事態なんだ、と思った。
「さあ、急がないとお母さんの具合が、もっと悪くなってしまうわ」
 だから僕はお姉さんの言葉に頷いて、お姉さんに手を引かれて歩き出した。
 歩きながらお姉さんは僕にプレゼントをくれた。マスコットキャラクターを形取った耳付きの帽子と、顔の半分が隠れるような大きなサングラス。
「せっかく遊園地に来たのにこんな事になっちゃったから、せめてお土産くらいはね」
 お姉さんはそう言って僕に帽子とサングラスを着けてくれた。ちょっとだけがっかりしていた僕は、少しだけ嬉しくなって、繋いだ手を大きく振りながら歩いた。
「お父さんとお母さんは駐車場で待っているからね」
 お姉さんはそう言っていたのに、駐車場に着いても元の両親は居なかった。
「きっと先に病院へ行ったんだわ。大丈夫、行き先はわかっているから」
「でもおかあさんは、びょうきじゃないんじゃないんですか?」
 不安そうな僕を安心させるように、お姉さんが微笑んだ。
「そうね、病気じゃないわ。でも、疲れて具合が悪いままで放っておいたら、本当に病気になってしまうかもしれないでしょう」
 僕はお姉さんの車に乗り込んで病院へ向かった。
 車の中でお姉さんは、色々な事を話し掛けてきた。好きな食べ物は? 嫌いな食べ物は? いつもはどんな事をして遊んでいるの? 好きなテレビは、好きなゲームは、好きな本は?
 僕が質問に答えながら、だんだんと会話が楽しくなってきた頃に車が止まった。
「さあ、着いたわよ」
 だけど到着した先は病院ではなく、山の中にぽつんと建った一軒家だった。
「びょういんにいくんじゃなかったんですか?」
「大丈夫よ、お医者さんが終ったらお父さんとお母さんが迎えに来るから、大丈夫なのよ」
 お姉さんが車から降りて僕の手を引いた。僕はお姉さんに手を引かれて、家の中に入って行った。
 お姉さんの家の中には沢山のゲームやおもちゃがあって、それで遊びながら元の両親を待っていた。お姉さんはジュースやお菓子を出してくれて、ときどき話し掛けながら、にこにこと僕を眺めていた。
 だけど元の両親は、いつまでたっても迎えに来なかった。
「おとうさんとおかあさんは、まだですか?」
「大丈夫、きっともうすぐよ」
 だけど元の両親は、いつまでたっても迎えに来なかった。
 外はもう暗くなっていて、お姉さんは夕食の準備を始めていた。
 僕は、もう一度お姉さんに訊ねた。
「おとうさんとおかあさんは、まだこないんですか?」
「今日はお泊りしてもらうかもしれないわね」
 僕はだんだんと不安になり、心細くなってしまった。その頃の僕はまだ一人では眠れなかったし、知らない家では上手く眠れない子供だった。
「もう、おうちにかえりたいです」
 僕がそう洩らすと、お姉さんは料理の手を止めて僕の前に膝を着き、優しく微笑んで僕の肩に手を置いた。
「寂しくなっちゃったのね。大丈夫よ、お姉さんがいるでしょう」
 お姉さんの声は、穏やかで優しかった。だけど、一度湧き出してしまった不安は、消える事はなかった。
「ぼくはもう、おうちにかえりたいんです」
 自分の言葉に更に不安を煽られた僕は、とうとう泣き出してしまった。
 泣き出して、呟いた。
「おかあさん……」
 そう呟いた瞬間にお姉さんの顔色が変わった。眉根が寄せられ、目尻が吊り上がり、噛み締めた唇がわなわなと震えた。僕の肩に置かれた手に力が込められ、強く握り締められた。
「お姉さんがいるから大丈夫だって言っているでしょう」
 お姉さんは元通りの笑顔を作りながら言った。お姉さんの表情が、ぎりぎりと音を立てるようにして形作られた。
 お姉さんの顔は元の微笑に戻った。けれどさっきまでの優しい微笑みとは、どこかが違っているような気がした。そして肩に置かれた手は、強く握られたままだった。
「おねえさん、いたいです」
 そう言った僕の声なんか聞こえていないみたいに、お姉さんが微笑んで言った。
「今日からここが、あなたの家なの。今日から私が、あなたの母親なの」
 手に込められた力がますます強くなり、僕は思わず叫んでいた。
「おねえさん、いたい!」 
 それでもお姉さんは、僕の声なんか聞こえていないみたいに話し続けた。穏やかに微笑んだままで。
「あなたの母親になりたいの」
 痛みと不安で怖くなってしまった僕は、繰り返し元の母親を呼んだ。
「おかあさん、おかあさん……」
 お姉さんは、貼り付いた微笑を崩さずに言った。
「あなたの母さんは私なの、あなたの家はここにしかないの」
 穏やかに微笑んで、僕に教えてくれた。
「あなたは捨てられたのよ」

 ベッドの上、僕の隣で母さんが眠っている。シーツの隙間から白く細い首筋を覗かせて。
 そんな事を考えてはいけない。
 わかってはいるのに、母さんを殺したいという衝動を止める事が出来ない。
 この細い首筋に手をかけ、ほんの少し力を込めるだけ。それだけで母さんは……
 僕の手が、ほとんど意志とは無関係に母さんの首筋へと吸い込まれてゆき、その肌に触れた。滑らかな感触に怯えながら力を込めようとした。母さんの首がぴくりと震え、瞼が震えた。
「いつの間にか、うとうとしてしまったみたいね」
 母さんが目を覚まし、僕の手を両手で包み込んだ。
「起こしてくれたのね。ありがとう、優しい子ね」
 そう言って僕にくちづけて、時計に目を留めた。
「もうこんな時間、そろそろ眠らなくちゃ」
 母さんは散乱していた衣服を集めると、この部屋を出て行った。
「おやすみなさい、母さん」
「おやすみ、いつもあなたの事だけを考えているわ」
 ガチャ、ドアが開く。
 バタン、ドアが閉められる。
 ガチャガチャと、ドアの向こうで錠前が下ろされる。
 母さんがいなければ僕は、この部屋から出る事さえ出来ない。
 僕はベッドの上でぼんやりと膝を抱えて、格子越しに、閉ざされた鎧戸を眺めていた。

 母さんは綺麗で、母さんは優しくて、母さんはいつも、僕の事だけを考えてくれている。
 それなのに僕はときどき、母さんを殺したくて、たまらなくなる。
 やっぱりそれは、僕が狂っているからだろう。

 どうやら僕は、くるっている。


     終

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七篠尾津夫 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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