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箱庭

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箱庭



「ねえ。何を、見てたの?」
白く、静かな僕の箱庭に、遠慮がちな彼女の声が響く。
「……別に」
僕は、ベッドの上で起こしている上半身だけを彼女に向けて、できる限り無愛想に――構うな、と言わずとも判ってもらえるよう態度に出して返事をする。
 けれども僕の隣の彼女、鳴はいつも通り静かに、困ったように微笑んで、僕の顔を眺める。
「また、空? 今日は天気も良くないのに」
 微笑んだまま、呆れたような口調だけれど、鳴のその声に力はあまりなくて、今の空模様……雨の落ちる音と共に消えていく。
 

 僕は、この箱庭――病室から出られない。
 そもそも、ベッドから立ち上がることすら出来やしない。
 そんな僕からすれば、雨ですら、変わり映えのない、この部屋に不規則ながらにリズムを与えてくれる存在であり、窓から覗く普段とはガラリとかわった景色を見せてくれるものであり。
 つまり僕は嫌われやすい天気の類であるソレを、存外を気に入っているのだ。
「……日課で趣味だよ。空を見ることと読書以外は他にやる事がないだけ。……鳴と喋るよりかは面白いからね」
 そうして零れる本心半分、真実半分の言葉。
 二年近く前の事。ちょっとした事故がちょっとした騒ぎになって、それなりの結果から下半身が大分動かなくなった、それだけの話。
 それだけの話、だったはずなのだけれど、僕一人の人生にそのちょっとした出来事は酷く影響を及ぼしてくれた。
 相当なリハビリをして、やっと日常生活に回帰できるかもしれない、という程の大怪我。続けてはいるが、結果が伴わないリハビリは体力だけでなく、精神的にも、更に別のとある事情にも悪循環を招いてしまうようになった。
「もう、またそれ? 誰も来ない春人の病室に、私が来なくなるわけにもいかないじゃない……」
 今回は本当に呆れているのであろう、鳴の溜息が耳についた。
 この怪我は中々に厄介なものらしく、地元の小さな病院では諸々の設備が整わないという。そこで紹介された病院――今入院しているここは、僕が通っていた学校の近場にあり、自宅からはそれなりに遠い。
 命に関わるような病気でもないし、交通の不便さもあった。
 高校生にもなって……とかくだらない意地も手伝って両親を遠ざけたのはいいのだけれど……。
 僕の家族と昔から仲の良い鳴が、僕の見舞いを、僕自身の預かり知らぬ所で頼まれていやがってくれたことが問題。
 ある日突然、やっ! と元気良く現れた鳴を見たのはそういえば、僕が病院に担ぎ込まれたあの日以来の事だった。朦朧としていた意識の中の記憶だけれど、あの日、鳴は僕に謝り続けていた気がする。
 それから、一年半以上も顔を見せなかったというのに、ここ数週間は学校がない日でも、鳴は僕の箱庭に足を運ぶ。
 微妙にすれ違ったままの、気心の知れた相手ほど気まずい相手もいないものだ、なんて真面目に悩み始めたのが、ここのところの心労の種で、悪循環を招く思考。
 だから、僕は今日もこう接する。
「僕は鳴を呼んでないから、本当に。正直、邪魔かな。リハビリはできない、眠れない、読書にも集中できない、……帰ってほしい」
 わざとらしい溜息をまじえて、感情的にならない程度に語尾を強める。そうして淡々と、それでもきっと意味の無い拒絶をする。
 鳴が此処に通い続けているのも、きっとあの事故の責任とか罪悪感とか、そのあたりの事情だろうと思う。しかし、鳴が怪我の原因だとしても、事故は鳴の責任ではないのだ。
 僕が鳴を勝手に庇った末の負傷、それは誇りこそすれ、恨むような話ではない。一生歩けない、とも言われてはいないし、医者からはリハビリさえ克服できれば最低限の生活は約束されているのだ。
「嫌だよ。そもそもなんで春人は私がいるとリハビリしないの? なんでも手伝うって言ってるのに……」
「邪魔なんだよ、だから。生まれたてのヤギ見るような目で見られけたらやる気も無くなる。だから本当、帰ってください」
 鳴の言葉に間を置かずに、嫌味な言葉に加えて、拒絶を続ける。

 
 ――本当は、そんな理由じゃないのに。

 
 ただ僕が、鳴に情けない姿を見られたくないだけ。そんなつまらない意地一つのために、僕は鳴を拒絶する。しかしこんな事があったのも一度や二度ではなく、鳴は慣れた様子で、険悪な空気が漂うこともなく……ないはずなのだ。
 しかし今日、何故だか今日。この先の空気がいつもと違った。
 険悪なソレは確かにないのだけれど、新たに、何か良くないモノが充満する。それは、とても息苦しくて、凄く気まずい雰囲気。
 果たして僕の記憶の中の何かとデジャヴするそれは――。
「……やっぱり、さ」
「ん」
 鳴の静かな声。僕の無愛想な返事。そう振舞った時、僕にこの後返ってくるのは呆れた口調の鳴の言葉。ここ一月どころではなく、それは小さな頃から繰り返したはずの僕らの日常。
 そのはずだったのだけれど、やはり何故だか今日に限って破られた。
「ねぇ、春人。やっぱり私、さ。まだ……嫌われてるよね?」
 息詰まるように、怯えるように、許しを請うように。それでもそんな素振りを僕に悟られまいと隠すように、鳴は言った。
「あー……あ?」
 理解が追いつかず、いつも通りに流そうとして、ふと気付く。

 
 僕が病院に運ばれた時にも、僕に謝罪した時にも、親の代わりに自分がくると告げた時にも、僕のこの下半身不随もどきを伝えた時ですらも流さなかった涙が、今。鳴の頬を伝っていた。
 長い髪が邪魔をして、表情は良く見えなかったけれど、真っ白な肌は確かに赤みが差していて、嗚咽と同時に震える肩が、膝元を濡らす雫を見るだけで、その感情は容易に読み取れる。
 デジャヴしていたのはきっと、僕が覚えてもいないぐらい昔の記憶の中の、鳴が泣き出す、この感覚だったのだろう。
「……なんで、泣いてるんだよ。僕は気に、してないって、言ってる……だろう」
 これは良くない。この空気は、僕の冷静さをいとも簡単に奪い去る。言葉をどれだけ選ぼうとしても、選んだ言葉を口に出せず、しかも出した言葉はうまく音とならない。
 しかしそんな僕の狼狽を気にした様子もなく、小さく鼻を啜る音と同時に、鳴はでも、と言葉を紡いだ。
「気にしてない、って言うのは、きっと春人自身の感情を殺した上での言葉でしょう? 春人が、たとえ私の事を嫌いだとしても、春人はその言葉を言えるんだよ、きっと。春人は相手がどれだけ嫌いだとしても……許せちゃうから」
 ――その言葉は、酷く、手痛く僕の心を貫いた。
 それが確実に、単に図星であるから。
 けれど、だ。それを踏まえても僕はやはり、鳴の事を恨んでも、憎んでもなかったし、本心から気になんてしてなかった。
 鳴はそれをずっと、きっと一年半前のあの日から、僕の言葉のその意味に気付いていて、その言葉に裏があるはずと思い込んでいた。
 本当に何もない本心を、意識し続けていたのだろう。
 鳴がここにいるのは、間違いなく鳴自身による罪の意識。
 同情なんて安っぽいものではなくて、僕が守ったはずの彼女は、僕に許してほしいと、ただそれだけを望んでいた。
「春人にとって私は邪魔で、嫌いで、憎い人間だろうけどね。それでも! 私はずっと……春人の傍に居たいんだよ……!」
 真っ赤になった瞳から流れる涙を拭うことすらやめて、鳴は、僕の目を見据えて、そう言い放った。
 それほどまでに強い思いを、僕が拒絶なんてするものか。


 ――けれどそれでも、鳴だからこそ、僕にはそれが許容できない。


 僕はゆっくりと鳴の頭に手を乗せる。二年ぶりに、いつもだった僕と鳴の関係に戻ろうと試みて。
「鳴、僕は本当に気にしてないんだ。だから、さ? 罪の意識なんてのは、もうお終いだよ。僕の相手は今日までにして、明日から鳴は鳴の日常に戻ろ……」
 鳴が鳴であるために、今の僕がいてはいけない。うまく伝わるかわからなかったそれは、どうやら伝えきる前に遮られたようで。
 突如、視界に黒い影が映り込む。女の子の拳大くらいの何かが、僕の頬目掛けて中々の鋭さで接近してくる。というか、病院生活で訛っている僕の感覚から早すぎるそれはまんま、鳴の拳だった。
「バカ春人! 空気も読めないの? 私がここにいるのは、罪の意識なんかじゃないの! 私の……告白を! なんだと思ってるのよ!」
 痛みによって咄嗟に膝元の布団に顔を埋めて唸る僕の頭上に、ありえない言葉が聞こえた。
 私の、告白……?
 はっとして、即座に顔を上げたが、次は頭に落ちた拳によって僕の頭は再び布団へと沈められた。
「こっち見ないで! ああ、もう……取り敢えず返事だけでもして? 私は、昔からずっと、ずっと、好きだったの。……春人が」
 そう言った鳴の声は少し元気になって、良かったと思える反面。
 なんなのだろう、この状況。と思っている僕もいるわけで。泣かせてしまったと思ったら告白されていて、おまけに顔面と頭を殴られているときた。顔は上げちゃいけないというが、息がし難い上に座った体制で膝上の布団に頭を埋めてるので中々に腰が痛い。
 有り得ない、とまでは思わないにしても想定外すぎる事態が受け入れるのに時間がかかって一番大事なことを最後に考える。
 だけれど、冷静になれば、結果は一番早くに出せてしまう。返事なんて、そんなものは告白されるずっと、ずっと昔から決まってる。
「ありがとう」
 布団に顔は埋めたままで、なんとも格好はつかないけれど、迷うはずなんてない。これが僕の答え。
 僕はそれ以上の言葉を発さなかったし、鳴もそうだった。
 それから一分、何故だか完全に凍り付いてた場を、鳴が破った。
「……それで?」
 少しだけ不安そうな、先を諭すような言葉。それで? と言われても困ってしまう。意味を聞きたくとも、また空気が読めないと殴られる恐怖が背筋に走る。
 そもそも鳴に殴られるなんて事態を想定することも、告白と同じぐらいに異様な状況だなんて、少しだけ可笑しくて。
 どうしたものかと考えていると、鳴のほうが続けてくれた。
「んと、だから……春人は私が好きなの? 嫌いなの? 春人ならきっと誰にでもまずは、ありがとう。でしょう?」
 これも……僕を見抜いている、ということだろう。
 こんなに僕を、きっと僕自身よりも僕を知っている癖に、はっきり言わないとわからない、なんて凄くずるい。
 僕が鳴をどう思っているかなんて、そんなことは何よりも簡単なはずなのに――。


「顔、上げるよ」
 え? と、慌てる鳴を無視して、上半身を起こして即座に抱き寄せる。ずっと一緒にいたはずなのに、初めて抱き寄せた体は思っていたよりもずっと細かった。
 涙で頬に張り付いた髪を手で梳いて、僕の唇を、鳴の唇に寄せる。
 けれどそれは、触れ合う……ほんの数センチ手前で、彼女の人指し指が僕の唇に触れることによって阻止された。
「待って。……まずは行動より、言葉で示してほしい時って、ない?」
 あるさ。凄くよくある。だなんて、今は口に出すべきではない言葉を全て飲み込む。
 唇にあたっている指をそっと離して、唇を耳元へ近付ける。
 今は行動と言葉、両方で示すべき時だろう。
 明日からは笑ってリハビリできそうだな。なんて思いながら。
 

 ――愛の言葉を、囁いた。


「鳴。愛しているよ。誰よりも」
「あははっ。ねぇ、春人。全然似合ってないよ?」
「っせーよ……」
 照れ隠しに、少し乱暴な言葉で。今度は人指し指に邪魔をされずに、唇を重ね合わせた。
 窓の外ではいつのまに雨は上がって空は晴れ渡り、青空の向こうには虹が架かっていた。
 そして春の終わりと共に、空白を重ねた、僕らのお話が始まる。
 箱庭の中は少しだけ狭くて、息苦しいけれど、四季が終わってまた春が来るときに、笑って手を繋いでいたいから。
「夏、始まるね」
 言葉で示す必要はもうなくて、互いに熱くなった指先を絡めあうように手を握る。
 静かに笑いあって、惜しむべく春が終わりを告げて、近づいている夏が祝うように、僕らの真上で太陽を輝かせてくれた。
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