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ヨーグルに寄せて

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 ヨーグルはヘラで食べるのが一番良い。もしもそのヘラが子供らの飛ばす泥で汚れてしまったら、祈りなさい。
ヘラのために祈る者こそ幸い。(南仏のことば)



 柔軟剤を買いに、近所のスーパーアークスへ出掛けた。東西に長く伸びる通りには、アークスの他に専門学校や小学校があり、午後四時ともなると人通りが激しい。私は黒いピーコートに、差し色として赤いマフラーを首に巻き付けて、早足で歩いていた。氷が細かな粒になっていて、砂丘を歩くようだった。向かいからは小学校を出てきた子供が、二人やら三人やらで横に広がって、前を行く老人たちや私の行く手を楽しそうに阻んでいる。楽しそうだから、それならそれで宜しい。
 専門学校を過ぎ、アークスの前まで来ると、横断歩道の向こう側からアベックが手をつないでこちらを見ている。差し色の赤に目を奪われているのか、私が良い年して一人でいるのを同情しているのだろうか、どちらにしても良い迷惑である。悪い迷惑でないだけまだましと言うべきか。

 長いポーチには、段ボールやら牛乳パックやらのリサイクルコーナーが作られていて、その前で毛糸の帽子の老婦人が立ち止まっている。ピンクの上着にピンクの帽子。おまけに買い物袋にもピンクのパッケージが透けて見える。ああ、柔軟剤。
 ピンクが如何にも我ここに有りといった風に、私に向かって一所懸命に威張っていた。私はピンクの訴えかけに耳を傾けようと必死で、何を買いにきたのか一瞬忘れてしまっていたのだ。
 ああ、柔軟剤。

 私は店内に入り、迷わずにツルハドラッグへと向かい、ピンクの小粒、コーラック……ではなかった、あれは買ったことないや……ピンクの柔軟剤を見つけ、レジへと向かった。
 レジのお姉ちゃんのグラマラスなボディに目を奪われていた間に、レジ袋にユーキャンの通信講座のパンフレットを突っ込まれていた。モヤモヤしながらレジを抜けると、目の前に駄菓子屋さんがあった。巡回しながら売っているのだろう、簾に「今日最後です」と素っ気なく書いた紙がセロハンテープで貼られている。私は締めたばかりの小銭入れを開ける。四十七円入っていた。

 簾は周囲いちめんに掛かっていて、中のおじちゃんかおばちゃんかには真っ正面からでないと顔を合わせられない。確かに普段は人と顔を合わせることさえものぐさで、周囲からはものぐさ太郎、略して太郎、太郎、と本名関係無しに呼ばれて続けている私だが、さすがに駄菓子屋では店主と会話する程度の風流はわきまえている。
「どうも。ソーダ餅、あるかな」
「あいどうも。ソーダ餅なら、ほら、あそこに」
「本当だ。そういや、良くやったなぁ」
「うん?」
「おじさんもやったでしょう、これに付いてる爪楊枝で、いくつソーダ餅を刺せるか」
「ああ、やったやった。途中で楊枝の先っぽが曲がってくんだよな」
「それに最初のほうに刺した餅が割れてきたりして」
「あれ一気に食おうとしたら、なかなか餅が抜けねえんだ」
「僕なんて力づくで引き抜いたら、反動で手が当たって向かいにいた子を泣かしたことがありますよ。あれ以来、会わなくなったなぁ」
ソーダ餅を陳列している木の棚にそっと人差し指を滑らせると、細かな塵がついた。私は傍のドアを少しだけ開けて、指にふうっと息を吹きかけた。木々も凍り付く寒さの中、塵はキラキラ光って店先を舞った。
 舞うだけ舞って、あとは落ちるだけ。

「もしも……もしもよ? お前に、その気があるんだったらの、話だけどよ」
おじちゃんは不意を突いてきた。私は後ろを振り返りかけて、すぐ斜め後ろにいるおじちゃんを視界に捉えた。
「店よ。店……年金で暮らしていくのも、静かに生きてくんならまだしもよ」
「何言ってるの」
「駄菓子なんか売ってもよ、もう……なあ」
「そんな」
「だからよ。だから、お前に。お前に継いでもらえねえかって……話で」
「唐突な」
「唐突も何も、無えよ。お前に……継いで欲しいんだ」



 柔軟剤は贅沢品だと思う。少なくとも貧乏学生の時分には、あんなものは買えなかった。ただ生きるために洗濯していた。ざっくり言うと、そんな感じだ。
 貧乏学生に「店を継がないか」なんて阿呆なことを言った老人のことを、今思い出す。「あんたが死んだら継いでやるよ」と言ってから、あの人は未だ元気にしている。



 簾の向こうのおじちゃんの顔が見たくて、ヨーグルグレープと黒糖麩菓子を手に、おじちゃんの正面に立った。おじちゃんはおじちゃんではなく、おばちゃんだった。
「二十円と三十二円で、五十二円になります」
しまった。
「これ、やめてください」
私は麩菓子を指差して言った。
「じゃあ二十円ね。ヘラ、要るかい?」
おばちゃんは袋からヘラを一つ取り、私の手の上に乗せた。

 すぐ横のベンチに腰掛けて、ヨーグルを食す。
 甘くない。だがそれが、良い。私はゆっくり、ゆっくりとヘラで細やかにすくって食べた。ほのかな酸味が、舌先に広がる。口の中へと向かううち、酸味は消えてしまう。
「おいしい」

 ヘラを斜めに倒して底についたヨーグルまでこそげとるように食べたあと、ふたの裏に何か書いてあることに気がついた。
「あたり」

 なあんだ、当たってるじゃない。人生、捨てたもんじゃない。



 ヨーグルにあってヨーグレットに無いもの――それは刹那性である。ヨーグレットはその刹那性の欠如によって、ハイレモンと同等かそれに劣る菓子へと変貌した。ヨーグルの罪は深い。(ノルウェーの哲学者のことば)
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